4-8)本当に、いいの?
SIDE神代冬真
光公園の夕方は、静かだった。昼間の熱だけが、まだ少し地面に残っている。西に傾いた陽が、木々の隙間から差し込んで、園内の道に長い影を落としていた。
俺は、待ち合わせ場所に先に来ていた。池の近くのベンチ。座ることもできず、ただ立っていた。手のひらに、少し汗をかいている。心臓がうるさい。何度も深呼吸をした。何度も、やめようと思った。今でも。
けれど、そのたびに土肥海岸の夕陽が浮かんだ。白地に淡い水色の小花柄のワンピース。
海風に揺れる髪。夕陽に染まる横顔。その隣を歩きながら、俺は気づいてしまった。
七瀬澪が好きだ。
ずっと憧れていた。桜の下で見た時から。
でも、憧れのままなら、黙っていられたかもしれない。
遠くから見ているだけでよかったかもしれない。
けれど、もう無理だった。車の中で三国志の話をして笑った顔。水色の水着で、麦わら帽子を深くかぶった顔。夜明け前の海で、俺のブルゾンを羽織っていた姿。
その全部を、なかったことにはできなかった。好きになったことまで、雑に扱っちゃいけない。ばあちゃんの言葉が、胸の奥に残っている。
相手がどうであっても、お前は誠実でいろ。父さんの言葉も、残っている。
難しい。本当に難しい。でも、逃げるのは違う気がした。
「神代君」
声がして、顔を上げた。七瀬が立っていた。
白いブラウスに、淡い水色のスカート。いつも通り綺麗に整っている。夕方の光の中で、その姿はやっぱり眩しかった。
「ごめん。待った?」
「いや」
声が少し固くなった。七瀬はそれに気づいたのか、少しだけ首を傾げる。
それでも、いつものように明るく笑った。
「伊豆以来だね」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。伊豆以来。たったそれだけの言葉で、土肥海岸の景色が一気に戻ってくる。海。夕陽。夜明け。七瀬の声。
「うん」
短く答えた。七瀬は少しだけ笑う。
「楽しかったね」
「・・・うん。楽しかった」
本当に、楽しかった。楽しかったから、今日ここに呼んだ。楽しかっただけで終わらせられなくなった。拳を軽く握った。
「七瀬」
「うん?」
「呼び出して、ごめん」
七瀬の表情が、ほんの少しだけ変わった。たぶん、気づいている。これから何を言われるのか。それでも、逃げなかった。
「ううん」
静かにそう言った。
一度、息を吸う。喉が渇いていた。言葉が出てこない。でも、言わなければいけない。ここで逃げたら、きっと自分を嫌いになる。
「俺さ」
声が震えそうになる。
「七瀬に、ずっと憧れてた」
七瀬は何も言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
「桜の下で初めて見た時から。二年で同じクラスになってからも。ずっと、遠い人だと思ってた」
自分で言いながら、少し情けなくなる。遠い人、本当にそうだった。
自分程度が届くわけがない。
そう思うことで、何もしない理由にしていた。
「でも、伊豆に行って」
「海で一緒に泳いで。夕方、土肥海岸を歩いて」
夕陽の中の横顔が浮かぶ。胸が苦しくなる。
「その時、分かった」
七瀬の指が、わずかに動いた。
「俺は、七瀬が好きだ」
七瀬は動かなかった。表情も、ほとんど変わらない。
でも、目だけが揺れていた。俺はその揺れを見て、胸の奥が痛くなる。
迷惑かもしれない。困らせているのかもしれない。たぶん、そうだ。
それでも、言うと決めた。
「憧れじゃなくて」
俺は七瀬を見る。逃げたくなる。視線を逸らしたくなる。でも、逸らさなかった。
「好きなんだって、気づいた」
七瀬は何も言わない。俺は続ける。
「俺程度じゃ、七瀬に届かないのかもしれない」
声は静かだった。
「釣り合わないって言われたら、そうなのかもしれない。俺は格好いいわけでもないし、特別すごいわけでもない。七瀬みたいに、何でも綺麗にできる人間でもない」
七瀬が何か言いかけた。
でも、声にはならなかった。「でも、それを言い訳にして、黙っているのは違うと思った」夕方の光が、二人の間に落ちている。もう一度息を吸った。
そして、はっきりと言った。
「神代冬真は、七瀬澪さんが好きです」
七瀬の目が見開かれる。
「俺と、付き合ってください」
時間が止まったような気がした。七瀬は何も言わなかった。
SIDE七瀬澪
今まで、私は何度も告白を受けてきた。廊下で、体育館裏で、教室の前で、駅の近くで。そのたびに、きちんと断ってきた。
相手を傷つけすぎないように。でも、期待を残さないように。ちゃんと笑って。ちゃんと距離を取って。ちゃんと終わらせてきた。
だから、今日もそうするはずだった。ひかりにも言った。
もし告白なら、ちゃんと断る。逃げるのは失礼だから。曖昧にするのは、神代君に失礼だから。そう思っていた。思っていたのに。声が出なかった。
神代君の告白は、今まで受けてきたどの告白とも違って感じた。
甘い言葉ではなかった。綺麗な言葉でもなかった。不器用で、真面目で、少しだけ自分を低く見ていて、それでも逃げなかった。その真っ直ぐさが、胸の奥に刺さった。痛い。どうして痛いのか分からない。違う神代君だから?
断ると決めていた。そういうふうには見ていない。
神代君は、八重さんのお孫さんで。優しくて。一緒にいると安心する人で。三国志の話が合って。それだけ、それだけのはずだった。
なのに。こんなに苦しい。
「七瀬」
神代君が小さく呼んだ。その声で、私はようやく息をした。答えなければいけない。ちゃんと断らなければいけない。唇を開いた。でも、声が出ない。喉が詰まる。胸が苦しい。泣いているわけではない。泣いてなんかいない。私は、泣かない。
ただ、断るだけ。今まで何度もしてきたこと。
いつも通りにすればいい。いつも通り、綺麗に笑って。いつも通り、丁寧に。
いつも通り、相手を傷つけすぎないように。でも、期待は残さないように。それだけ、それだけなのに。
「・・・ごめんなさい」
ようやく出た声は、驚くほど小さかった。絞り出すような声だった。
神代君は、少しだけ目を伏せた。ほんの少し。
でも、その一瞬で、胸が強く痛んだ。傷つけた。そう思った。自分で言ったのに。神代君を傷つけたことが、どうしようもなく苦しかった。
神代君はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。責めない。理由を聞かない。どうして、とも言わない。その優しさが、余計に痛かった。
神代君は少しだけ顔を上げる。表情は、思ったより落ち着いているように見えた。でも、目だけは少しだけ苦しそうに見えた。
「言ってくれて、ありがとう」
何も返せなかった。違う。ありがとうなんて言われることじゃない。そう思うのに、声が出なかった。
神代君は、少しだけ口元を動かした。笑おうとしたのかもしれない。でも、上手く笑えていなかった。
「あと、ごめん」
「・・・え?」
「ごめん。すぐには、七瀬のこと諦められない」
胸が、また跳ねた。神代君は言葉を探すように、少しだけ視線を落とす。それから、もう一度私を見る。
「諦めなきゃいけないのは、分かってる」
声は静かだった。
「七瀬が断ったのに、俺が勝手に好きでいるのは、迷惑かもしれない」
「・・・・・」
「でも、今すぐには無理だ」
「だから、少しの間だけ」
私は息を止めた。
「俺が七瀬を好きでいることを、許してほしい」
その言葉は、告白よりも苦しかった。
付き合ってほしいと言われた時より、胸の奥を強く掴まれた。好きでいることを、許してほしい。そんなことを言われると思っていなかった。
好きでいていいかなんて。そんなこと、私に聞かないで。そう思った。
でも、言えなかった。言えるはずがなかった。拒むことも頷くことも、どちらも怖かった。
それでも、神代君は待っていた。急かさずに。責めずに。
ただ、私の答えを待っていた。私は、ようやく小さく頷いた。
「・・・うん」
それしか言えなかった。神代君は、一瞬だけ目を閉じた。そして、静かに言った。
「ありがとう」
また、ありがとう。胸の奥が痛くなる。神代君は一歩下がった。
「呼び出して、ごめん」
「・・・ううん」
「じゃあ」
それだけ言って、神代君は背を向けた。背中が、夕方の光の中を遠ざかっていく。
私はその背中を見ていた。見えなくなるまで。見えなくなっても、しばらくその場に立っていた。
公園は静かだった。
世界が、急に遠くなったようだった。変わったのは、きっと自分の中だけだった。
息を吸おうとした。
うまく吸えなかった。
胸が痛い。
喉が苦しい。
手が震えている。
どうして。
ちゃんと断ったはずだ。
これでよかったはずだ。
よかったはずなのに。
足に力が入らなかった。
私は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
地面に膝をつくわけではない。でも、立っていられなかった。
視線を落とす。息が浅い。
泣いてはいない。泣く資格など私にはない。
泣いてはいないのに、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
SIDE黒田ひかり
私は、少し離れた場所にいた。
邪魔をするつもりはなかった。
澪が神代君と向き合うなら、それは澪自身がしなきゃいけないことだと思ったから。
だから、声が届かないくらいの距離で待っていた。
神代君が先に歩いていくのが見えた。背筋は伸びていた。歩き方も、変に乱れてはいなかった。
でも、遠目にも分かった。あれは、かなり無理をしている。
それでも神代君は振り返らなかった。真っ直ぐ歩いて、公園の道の向こうへ消えていった。私はその背中を見送ってから、澪の方を見た。
澪は、まだ動いていなかった。夕方の光の中で、ただ立っている。白いブラウスに、淡い水色のスカート。いつも通り綺麗だった。いつも通り、隙がないように見えた。
けれど、違った。明らかに違った。澪の肩が、ほんの少しだけ落ちている。
手が、スカートの横で固まっている。
顔は見えない。でも、分かった。
大丈夫じゃない。私は駆け出していた。
「澪」
近づく途中で、澪の身体が少し揺れた。次の瞬間、澪はゆっくりとしゃがみ込んだ。崩れる、というほど大きな動きではない。
でも、立っていられなくなったのは明らかだった。
私は澪のそばにしゃがむ。
「澪」
もう一度、名前を呼んだ。澪は答えようとしたのだと思う。
唇が少しだけ動いた。でも、声は出なかった。顔も上げない。いつもの澪なら、ここで笑う。「大丈夫」と言う。
何もなかったみたいな顔をする。綺麗に整えた笑顔で、私を安心させようとする。でも、今の澪にはそれすらできていなかった。
私の目には、澪が告白を断った側には見えなかった。
むしろ、振られた側みたいだった。
大切なものを失って、それでも失ったことを認められない人みたいに見えた。
胸が痛くなった。
澪、あなた、断ったんだよね。なのに、どうしてそんな顔をしてるの。そう聞きたくなった。だけど私は、隣にしゃがんだまま、少しだけ待った。
「・・・告白されたんだね」
澪は小さく頷いた。
「断った?」
また、小さく頷く。
「そっか」
責めるつもりはなかった。
澪が断ることは、分かっていた。たぶん、神代君も分かっていた。それでも言ったのだと思う。
でも、それでも、澪の顔を見ていると、胸の奥がざわついた。
澪は震える手を握りしめていた。
「ちゃんと・・・断った」
「うん」
「ちゃんと・・・」
そこで、澪の声が止まった。私は澪を見つめる。その顔は、いつもの澪ではなかった。
完璧に整えられた笑顔もない。涼しげな目元もない。
ただ、傷ついたような、迷子みたいな顔をしていた。
どう見ても、大丈夫ではなかった。
どう見ても、断った側の顔ではなかった。
私は、そっと息を吐いた。
そして、静かに言った。
「本当に、いいの?」
澪の肩が、ほんの少しだけ震えた。
私はそれ以上、何も言わなかった。
澪は何かを言おうとした。口を開く。でも、声が出ない。
きっと、よかったと言おうとしたのだと思う。
これでよかった。ちゃんと断った。間違っていない。
そう言おうとしたのだと思う。でも、言えなかった。
私は、その沈黙だけで十分に見えた。澪は、何も感じていないわけじゃない。多分、何も無かった事にもできない。
何もなかったことにできるわけでもない。
ただ、まだ自分の中にあるものを、名前で呼べないだけだ。
澪は俯いたままだった。
冬真君の背中は、もう見えない。
それなのに、澪はまだ、その場から動けない。私は、澪の隣にただ座っていた。何も言わずに。
夕方の光が、少しずつ弱くなっていく。公園の影が、ゆっくりと長く伸びていた。
私はその隣で、澪が顔を上げるのを、ただ静かに待っていた。




