4-7)蓮とひかりの作戦会議?
校舎は、夏休み中とは思えないほど賑やかだった。
遠くから部活の声が聞こえる。体育館の方からは、ボールの跳ねる音。グラウンドからは、掛け声。補習帰りなのか、廊下を歩く生徒の姿もちらほらあった。
廊下の端、自動販売機の前で、柏木蓮は缶コーヒーを買った。
ボタンを押す。落ちてきた缶を取り出す。そのままプルタブに指をかけた時だった。
「蓮君」
声をかけられて、蓮は振り返った。ひかりが立っていた。
「ひかりか。どうした?」
蓮の声は柔らかかった。女子に対して、無駄に角を立てない。それが柏木蓮という男子だった。ひかりも、それは知っている。
「少しだけ、いい?」
「いいよ」
蓮は缶を開けず、ひかりの方へ身体を向けた。ひかりは一瞬だけ迷ったように見えた。
けれど、すぐに言った。
「澪のことで」
蓮の表情が、少しだけ変わった。柔らかさが消えたわけではない。
ただ、いつもの軽さが少し引いた。
「……七瀬か」
「うん」
ひかりは、蓮のその変化を見逃さなかった。
「嫌そうな顔しないでよ」
「してない。面倒そうだと思っただけだ」
蓮はそう言って、缶コーヒーを開けた。乾いた音が、短く廊下に響いた。
「伊豆の話?」
「うん。澪が話してくれた」
「冬真も話した」
それだけで、二人の間に大体の事情は落ちた。ひかりは少しだけ視線を伏せる。
「澪、話をしてる時、なんか声が違った」
蓮は缶に口をつける直前で止まる。
「冬真も似たようなもんだな」
「やっぱり?」
「伊豆の話をする時だけ、妙に落ち着かない顔してた」
「神代君らしいね」
「らしいな」
蓮は短く答えて、缶コーヒーを一口飲んだ。
「で?」
「神代君、最近どう?」
「変」
即答だった。ひかりは少し笑う。
「早いね」
「ひかりから見て、七瀬も変なんだろ」
「うん。かなり」
「なら確認するまでもないだろ」
「一応、確認」
「よく見てるな」
「蓮君ほどじゃないよ」
「褒めても何も出ない」
「褒めてない」
二人の会話は短かった。けれど、噛み合っていた。余計な説明はいらなかった。
ひかりは廊下の窓の外を一度だけ見る。夕方の光が、校舎の床に細く伸びている。
「澪ね」
「うん」
「伊豆、楽しかったって言ってた。神代君と三国志の話をしたことも、海を歩いたことも、夜中に偶然会ったことも」
「へえ」
「でも、最後には必ず言うの」
蓮は小さく息を吐いた。聞く前から、答えが分かっている顔だった。
ひかりは少し困ったように続ける。
「別に、そういうのじゃない、って」
蓮は缶コーヒーを見下ろした。
「……まあ、七瀬らしいな」
「蓮君、澪のこと、どう見えてるの?」
「見えてるっていうか」
蓮は少し考えた。軽口で済ませるには、話題が少しだけ重かった。
「七瀬は、たぶん悪い奴じゃない」
「うん」
「冬真から聞いてても、それは分かる」
ひかりは黙って聞いた。
蓮は続ける。
「ただ、面倒くさそうな性格だなとは思う」
「面倒くさそう?」
「悪口じゃない」
「少し悪口だよ」
「少しな」
蓮は素直に認めた。その言い方に、ひかりは少しだけ笑った。
蓮君は澪を嫌っているわけではない。けれど、信頼しているわけでもない。それが分かった。
「蓮君、澪の味方ではないよね」
「冬真の味方だからな」
即答だった。けれど、その声に棘はなかった。ひかりは少しだけ頷く。
「そっか」
「だからって、七瀬の敵になる気もない」
「ただ、冬真が本気で何かを言うなら、それを適当に扱われるのは嫌だ」
「うん」
「七瀬がそういうことをするとは思ってないけど」
蓮はそこで一度、言葉を切った。
「でも、七瀬自身が自分の気持ちを分かってないなら、結果的に冬真は傷つくかもしれない」
ひかりはすぐには答えなかった。澪は優しい。澪は弱いだけの子ではない。
でも、自分の気持ちになると、驚くほど逃げる。それは、ひかりにも分かっていた。
「……それは、否定できないかな」
「だろうな」
蓮は静かに言った。責めているというより、心配している声だった。
「冬真は単純だから」
「単純?」
「単純だから面倒」
ひかりは少し考えてから頷いた。
「分かる気がする」
「分かるんだ」
「神代君って、嘘が下手そう」
「下手だな」
「澪は、嘘と言うより隠すのが上手」
その言葉に、蓮はひかりを見た。ひかりは柔らかく笑っていた。でも、目は笑っていなかった。
「分かってるんだな」
「一応、友達だから」
「友達なら、七瀬の味方してやれば?」
「するよ」
ひかりは迷わず言った。
「私は澪の味方」
「なら、俺とは立場が違うな」
「そうかな」
ひかりは少しだけ笑った。
「でも、澪の味方をすることと、澪の全部を正しいことにするのは違うと思ってる」
蓮は何も言わなかった。ひかりは続ける。
「澪が怖がるなら、そばにいる。でも、澪が自分で選ばなきゃいけないことまで、代わりには選べない」
「ひかり、意外と冷静だな」
「優しいつもりだったんだけど」
「十分冷静」
「蓮君に言われたくないな」
ひかりが小さく笑う。蓮も、少しだけ口元を動かした。ひかりと話している分には、蓮は柔らかい。
けれど、七瀬澪の名前が出るたびに、蓮は少しだけ考え込む。それは嫌悪ではなく、警戒に近かった。冬真の親友としての、慎重さだった。
「で、ひかりは何を確認したかったわけ」
蓮が聞く。
「神代君が、澪をどう見てるのか」
「本人に聞けば」
「聞けないから蓮君に聞いてる」
「俺が言うと思う?」
「思わない」
「じゃあ聞くなよ」
「でも、今ので分かった」
蓮は嫌そうな顔をした。
「何が」
「蓮君、言う気はないけど隠すつもりはないんだなって」
蓮は黙った。
ひかりはそれ以上踏み込まなかった。
十分だった。
「勘がいいな」
「褒めてる?」
「ああ」
「ありがとう」
ひかりは笑った。蓮も軽く笑う。けれど、すぐに表情を戻した。
「冬真のことを勝手に話す気はない」
「うん。それでいいと思う」
「七瀬のことも、俺は詳しく知らない」
「私も、澪の全部は分からないよ」
二人は少しだけ黙った。遠くで、バスケットボールの跳ねる音がした。夏の校舎に、その音だけが妙にはっきり響く。
「ただ」
蓮が言った。ひかりが顔を上げる。
「冬真が変な顔してたのは確か」
「どんな?」
「死ぬほど分かりやすく、隠してる顔」
ひかりは少し笑った。
「澪も同じ」
「七瀬も?」
「うん。死ぬほど分かりやすく、分かってないふりをしてる顔」
蓮は短く笑った。
「似た者同士かよ」
「少しだけね」
「冬真は分かってる。七瀬は分かってないふりをしてる。そこは違う」
「うん。そこは違うかも」
ひかりは素直に頷いた。
蓮は缶コーヒーをもう一口飲む。
「まあ、俺が言えることじゃないけどな」
「どうして?」
「七瀬には七瀬の事情があるんだろ」
ひかりは少しだけ目を丸くした。蓮は続ける。
「冬真から少し聞いた。家のこととか、おばあさんのこととか」
「・・・うん」
「だから、簡単にどうこう言う気はない」
蓮は缶を握る手に少しだけ力を込めた。
「でも、冬真が傷つくのを黙って見るほど、俺は物分かりはよくない」
ひかりは蓮を見た。その言い方は、強かった。
でも、澪への敵意ではなかった。冬真への友情だった。
「蓮君、本当に神代君のこと大事なんだね」
「そこで真顔で言うな」
「ごめん」
「気持ち悪い」
「ひどい」
ひかりは少し笑った。蓮も、今度は少しだけ素直に笑った。
そこで、ひかりのスマホが震えた。
画面を見る。澪からだった。
『今日、公園で神代君に会うことになった』
ひかりの表情が、ほんの少しだけ変わる。蓮は画面を見なかった。
けれど、その変化だけで察した。
「七瀬?」
「うん」
「何て?」
「今日、公園で神代君に会うって」
蓮は少しだけ目を伏せた。
「そう」
それだけだった。ひかりは短く返信する。
『分かった。会う前に少し話せる?』
少し迷ってから、もう一文だけ足した。
『近くにはいるね』
送信。
蓮は空き缶をゴミ箱に入れた。
「過保護」
「うん。そうかも」
ひかりは否定しなかった。
「でも澪、助けてって言えないから」
蓮は少しだけ黙った。
「冬真も言わない」
「似てるね」
「似てない」
「少しだけ」
「似てない」
蓮が不機嫌そうに言うと、ひかりは少し笑った。その笑いは柔らかかった。
「じゃあ、そういうことで」
蓮が言った。
「うん」
「俺は冬真を見る」
「私は澪を見る」
「作戦会議みたいだな」
「作戦じゃないよ」
「何」
ひかりは少し考えてから、穏やかに言った。
「確認、かな」
「何の?」
「二人の友達が、ちゃんと近くにいるっていう確認」
蓮は一瞬だけ黙った。それから、短く言う。
「甘いな」
「そう?」
「でも、悪くない」
ひかりは少しだけ目を丸くする。
「蓮君に褒められた?」
「褒めてない」
「そっか」
ひかりは笑った。蓮は廊下の反対側へ歩き出す。その声は、ひかりに向けるものとしては優しかった。
そして、七瀬澪の名前が出た時の顔は、最後まで少しだけ硬かった。
でもそれは、澪を嫌っているからではない。冬真が本気になることを、蓮が知っているからだった。
蓮はそのまま歩いていく。
ひかりはスマホを握ったまま、窓の外を見た。
夏の夕方の光が、校舎の床に長く伸びている。
「大丈夫」そう言いかけて、ひかりはやめた。大丈夫かどうかは、まだ分からない。だからせめて、近くにいよう。澪が平気なふりをしなくてもいいように。
ひかりはスマホを鞄にしまい、静かに歩き出した。
澪と待ち合わせたのは、校門の少し外だった。
夏休み中の学校は、校内こそ部活で賑やかだったが、門を出ると急に空気が変わる。
夕方の光はまだ明るい。けれど、昼間の強さは少しだけ弱まっていた。
澪は校門の脇に立っていた。白いブラウスに、淡い色のスカート。
いつも通り綺麗に整っている。けれど、ひかりには分かった。平気な顔をしている時ほど、澪は平気ではない。
「澪」
ひかりが声をかけると、澪は少しだけ振り向いた。
「ひかり」
声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。ひかりは隣に並ぶ。
「神代君に会うんだよね」
「うん」
「公園?」
「うん」
澪は短く答えた。それ以上、自分からは何も言わない。ひかりは少しだけ息を吐いた。
「澪」
「何?」
「たぶん、告白だと思う」
澪の指が、ほんの少しだけ動いた。
でも、表情は変わらなかった。
「・・・そうとは限らないよ」
「うん。違うかもしれない」
ひかりはすぐに頷いた。
「でも、澪も少しはそう思ってるでしょ」
澪は答えなかった。沈黙が、答えの代わりだった。
ひかりは、責めるようには言わなかった。ただ、隣に立ったまま続ける。
「断るつもりなら、会わないって選択肢もあるよ」
澪がひかりを見る。
「どういう意味?」
「そのままの意味」
ひかりは柔らかく言った。
「おばあちゃん同士も仲いいし、神代君の家とも関わりあるでしょ。曖昧にして於いた方がいいこともあるよ」
「・・・・・」
「会わない方が、傷つけないこともあると思う」
その言葉に、澪は少しだけ眉を寄せた。
「それは、違う」
声は小さかった。でも、はっきりしていた。ひかりは澪を見る。
「違う?」
「もし、そうなら」
澪は一度、言葉を止めた。それから、ゆっくり言う。
「もし、神代君がそういうつもりで呼んでいるなら、ちゃんと断らないといけない」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
澪は少しだけ困ったように視線を落とした。
「逃げるのは、失礼だから」
「神代君に?」
「うん」
即答だった。その即答に、ひかりは少しだけ胸が痛くなった。澪は、本当に冬真を軽く扱ってはいない。むしろ、軽く扱えないから苦しんでいる。
けれど、軽く扱えないことと、向き合えることは別だった。
「澪は、断るんだ」
ひかりは静かに聞いた。澪は少しだけ目を伏せる。
「告白とは限らない」
「うん」
「でも、もしそうなら」
「うん」
「ちゃんと、断る」
澪の声は落ち着いていた。落ち着いて聞こえるように、整えられていた。
ひかりはその横顔を見る。綺麗だった。いつも通り。だから余計に、怖かった。
「理由は?」
ひかりが聞く。澪は少しだけ黙る。
「私は、神代君をそういうふうには見ていない」
「本当に?」
澪の顔が少しだけ揺れた。ひかりはすぐに、言い方を柔らかくする。
「ごめん。責めたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、伊豆から帰ってきてからの澪、少し変だったから」
「変?」
「うん」
ひかりは小さく笑う。
「すごく楽しそうに話すのに、最後に必ず否定するところとか」
澪は視線を逸らした。
「別に、否定してるわけじゃない」
「うん」
「ただ、本当にそういうのじゃないから」
「うん」
ひかりは否定しなかった。否定すれば、澪はもっと閉じる。それが分かっていた。
「神代君といると、安心する?」
澪はすぐには答えなかった。その沈黙は、さっきより長かった。
「・・・安心は、する」
やがて、澪は小さく言った。
「でも、それは恋とかじゃない」
「うん」
「神代君は、八重さんのお孫さんで。優しい人で。三国志の話も合って。だから、一緒にいると楽なだけ」
「うん」
「それだけ」
澪は言い切った。言い切ることで、自分に言い聞かせているようにも見えた。ひかりは少しだけ笑った。
「それだけって、けっこう大事だと思うけどね」
澪は何も言わなかった。ひかりはそれ以上踏み込まない。
今ここで、好きなんでしょ、と言ったところで、澪は絶対に認めない。認められない。
だから、別の言い方を選んだ。
「澪」
「何?」
「会うなら、ちゃんと会ってきな」
澪がひかりを見る。
「うん」
「断るなら、ちゃんと断ってきな」
「・・・うん」
「でも、自分の気持ちまで、急いで決めなくていいと思う」
澪は少しだけ眉を寄せた。
「断ることと、何も感じていないことは、同じじゃないかもしれないから」
「どういう意味?」
澪の声には、純粋な戸惑いがあった。ひかりは一度だけ息を吸った。
「もし神代君がそういうつもりで来たとして、澪が断ったとしても、それだけで『澪は神代君のことを何とも思ってない』って決めつけなくてもいいと思う」
澪は息を止めた。ほんの一瞬だけ。
「私は……」
「うん」
ひかりは遮らなかった。
澪は何かを言おうとして、結局言えなかった。代わりに、静かに首を横に振る。
「分からない」
その言葉は、とても小さかった。ひかりは頷いた。
「うん。分からないなら、分からないでいいと思う」
ひかりは穏やかに言った。
「分からないままでも、今日の返事はしなきゃいけないのかもしれない。でも、返事をした後で、自分の気持ちまで全部決めたことにしなくていい」
澪は少しだけ目を伏せる。
「うん」
「ひかり」
「うん」
「私、ちゃんと断ってくる」
「うん」
「神代君に、変な期待をさせたらいけないから」
「うん」
「おばあちゃん同士も仲がいいし、八重さんにもよくしてもらってるし。だから、余計にちゃんとしないと」
「うん」
澪の言葉は正しかった。正しすぎるくらい、正しかった。
でも、ひかりには分かる。澪は今、正しさで自分を守ろうとしている。
「澪」
「何?」
「神代君に会う前に、もう一つだけ」
「うん」
ひかりは少しだけ迷った。強く言いすぎれば、澪は傷つく。優しくしすぎれば、澪は逃げる。
だから、できるだけ柔らかく、でも誤魔化さずに言った。
「神代君がもし本気で言ってきたら、神代君のことだけじゃなくて、自分の心もちゃんと見てね」
澪は何も言わなかった。
「断るなら、それでいい。澪が決めることだから」
「・・・・・」
「でも、何もなかったことにはしないで」
夕方の風が、二人の間を通り抜けた。部活の声が、遠くで響いている。澪はしばらく黙っていた。それから、小さく頷く。
「分かった」
その声は、少しだけ震えていた。
ひかりはそれ以上何も言わなかった。
「私、近くにいるね」
「来なくていいよ」
「うん。そう言うと思った」
「本当に」
「分かってる。邪魔はしない」
ひかりは少し笑う。
「でも、終わったら連絡して。何もなくても」
澪は少しだけ困ったように笑った。その笑顔は、いつもの完璧なものより、少しだけ幼かった。
「分かった」
「約束」
「うん。約束」
澪はそう言って、公園の方へ歩き出した。夕方の光の中を、背筋を伸ばして歩いていく。
いつも通り綺麗で、いつも通り落ち着いていて、いつも通り完璧に見える。
でも、ひかりには分かっていた。あの背中は、少しだけ怖がっている。
それでも、逃げなかった。ひかりはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
頑張れ、澪。
声には出さなかった。言えば、届いてしまいそうだったから。
澪が角を曲がって見えなくなる。ひかりはスマホを握り直した。
近くにいる。邪魔はしない。
でも、澪が平気なふりをして戻ってきたら、きっと分かる。
その時は、ちゃんと聞こう。澪が自分の心から目を逸らさないように。
ひかりは少し遅れて、静かに歩き出した。




