4-6)伊豆旅行6(ブルゾンのお礼)
帰りの車内は、行きよりもずっと静かだった。朝七時に出発した時の、あの少し浮ついた空気はもうない。
海で泳いで、夕方の海岸を歩いて、夜中に起きて、朝が来るまで海を見た。
一泊二日とは思えないほど、いろいろなことがあった。
運転席では恒一さんがハンドルを握っている。助手席の千春さんは、時折小さな声で道を確認していた。二列目では八重さんとおばあちゃんが、旅の疲れに身を任せるように目を閉じている。
そして三列目には、神代君と私が並んで座っていた。
行きの車内とは、少し違う。
あの時は、隣にいるだけでぎこちなかった。
何を話せばいいのか分からなくて、窓の外を見るふりをしていた。
それなのに今は、沈黙が苦しくなかった。
話さなければいけないとは思わない。
何かを探して言葉にしなくても、隣にいることが不自然ではなくなっていた。
私は窓の外を見ていた。流れていく伊豆の景色。遠ざかっていく海。
昼間はあんなに近かった波の音が、今はもう記憶の中にしかない。
それでも胸の奥には、まだ残っていた。
夜明け前の土肥海岸。
黒い海。
星の多い空。
暁と曙。
背中側から届いた朝の光。
そして、隣にいた神代君。
「眠い?」
隣から、神代君の声がした。私は少しだけ振り向く。神代君も眠そうだった。目元に、わずかに疲れが残っている。昨日の夜、眠れなかったのだから当然だった。
「……少しだけ」
私が答えると、神代君は小さく頷いた。
「寝ていいんじゃないか」
「神代君は?」
「俺もたぶん寝る」
「たぶん?」
「起きてる自信がない」
その言い方が少しだけ可笑しくて、私は小さく笑った。
「じゃあ、寝れば?」
「七瀬こそ」
「うん」
そこで会話は途切れた。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
車の揺れが、ゆっくり身体に染みていく。朝の海を見ていた時の眠気が、今になって戻ってきたようだった。
私は何度か瞬きをした。窓の外の景色が、少しずつぼやけていく。
起きていたい気持ちもあった。この旅行が終わっていくのを、ちゃんと見届けたい気がした。
でも身体は正直だった。まぶたが重い。隣にいる神代君の気配が、妙に安心できる。
そう思ったところで、私の意識はゆっくり沈んでいった。
最初にそれに気づいたのは、千春だった。バックミラー越しに三列目を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「……どうした?」
恒一が小声で聞いた。
「いいえ。何でもないわ」
千春はそう答えて、静かに微笑んだ。恒一もちらりとミラーを見る。
三列目では、澪が冬真の肩にもたれるように眠っていた。
冬真も眠っている。最初は澪の方に傾いていたのかもしれない。
けれど、車の揺れに合わせるように、いつの間にか二人の距離は近づいていた。
澪の頭は、冬真の肩にそっと預けられている。冬真は少しだけ窮屈そうな姿勢のまま、それでも動かずに眠っていた。まるで、無意識にその重さを受け止めているみたいだった。
恒一は何か言いかけて、やめた。代わりに、前を向いたまま小さく息を吐く。
「……若いな」
「そうね」
千春は楽しそうに、それだけ答えた。
二列目の八重も、うっすら目を開けて後ろを見た。
そして、すぐに口元を緩める。
「おやまあ」
小さく声に出しかけたところで、隣の志乃がそっと袖を引いた。
志乃は何も言わず、ただ穏やかに首を横に振る。
八重はそれを見て、口元だけで笑った。
「分かってるよ」
声にならないくらい小さく呟いて、八重はまた目を閉じた。
誰もからかわない。誰も声をかけない。車内には、穏やかな沈黙だけが流れていた。
窓の外の景色が変わっていく。海が遠ざかり、山道を抜け、少しずつ見慣れた街へ近づいていく。
しばらくして、私は目を覚ました。
最初に感じたのは、車の揺れだった。
次に、誰かの体温。
「……」
ぼんやりしていた意識が、少しずつ戻ってくる。
頬に触れている布の感触。耳元に近い、静かな寝息。
そして、自分の頭が、神代君の肩に乗っていること。
気づいた瞬間、顔が一気に熱くなった。
いつから。どれくらい。まさか、ずっと。大人たちに見られていたのだろうか。
私は慌てて身を起こそうとした。
けれど、その動きに合わせるように、眠っていた神代君の身体がゆっくり傾いた。
「あ」
小さく声が漏れる。
反射的に支えようとした時には、神代君の頭は、そっと私の膝の上に落ちていた。
私は固まった。三列目のシート。の静かな揺れ。
膝の上にある、神代君の頭。
起こさなきゃ。
最初にそう思った。当然だった。こんなの、普通ではない。学校の男子相手に絶対にありえない。すぐに起こすべきだった。
けれど、手が動かなかった。神代君は深く眠っていた。少し疲れたような顔で、安心しきったように目を閉じている。
昨日の夜、眠れなかったのだから。自分と同じように。
午前三時過ぎの土肥海岸が、胸の奥によみがえる。
黒い海。
波の音。
薄れていく星。
背中側から来た朝の光。
寒いだろうと言って、ブルゾンを羽織らせてくれたこと。その温かさ。
何も言わなくても、隣にいられた沈黙。朝が来るまでの、短い永遠みたいな時間。
私はそっと息を吐いた。嫌ではなかった。その事実に気づいて、少しだけ怖くなる。
でも、嫌ではなかった。むしろ、起こしたくないと思ってしまった。
もう少しだけ、このままでもいいと思ってしまった。眠っていただけ。疲れていたから。車が揺れたから。たまたま、隣に神代君がいたから。そう思おうとした。
思おうとしたのに、膝の上にある温かさだけは、なかなか言い訳になってくれなかった。
私はゆっくりと手を伸ばした。
神代君の髪に触れそうになる。
けれど、触れる直前で止まった。
触れてしまったら、何かを認めてしまいそうだった。
だから、触れなかった。
ただ、起こさなかった。
膝の上で眠る神代君を見下ろしながら、私は自分でも気づかないほど優しい顔をしていたと思う。
助手席の千春さんが、バックミラー越しにそれを見ていた。何も言わない。
ただ、静かに微笑む。
恒一さんも気づいていたのかもしれない。でも、何も言わずにハンドルを握っている。
八重さんもおばあちゃんも、目を閉じたまま何も言わなかった。
誰もからかわない。誰も茶化さない。その沈黙が、ありがたかった。
車内には、穏やかな空気だけが流れていた。
私は窓の外を見る。遠ざかっていく伊豆の景色。昼間の海の青さ。夕方の斜陽。夜中の星。朝の光。
全部が、もう少しずつ遠くなっていく。
でも、胸の中からは消えなかった。
消えたわけではない。見えなくなっただけ。
神代君が言った言葉が、また胸の奥で静かに響く。
もしかしたら、自分の中にもそういうものがあるのかもしれない。
ずっとなかったことにしてきたもの。
名前をつけないようにしてきたもの。
見ないふりをしてきたもの。
でも、今はまだ分からない。分かってはいけない気もする。
だから私は、膝の上で眠る神代君を見下ろして、ただ静かに息をした。
神代君は、何も知らずに眠っている。少しずるいと思った。
こんなふうに人の膝で眠っているくせに。自分だけ、何も知らない顔で。
でも、それも嫌ではなかった。
本当に小さく、笑ってしまう。誰にも聞こえないくらい。
楽しかった。温かかった。眩しかった。少し怖かった。
でも、来てよかった。この旅行に来て、本当によかった。
何が変わったのかは、まだ分からない。分かりたくないのかもしれない。けれど、確かに何かが変わった。
土肥海岸の海。夕陽。星。朝の光。神代君のブルゾン。膝の上で眠る、神代君の重さ。その全部が、私の中に静かに残っていく。
車は東京へ向かって走り続ける。
伊豆の海は、もう見えない。けれど胸の中には、まだ波の音が残っていた。
寄せて、返して。
寄せて、返して。
まるで、あの夜明けの海が、まだ続いているみたいに。
やがて、車は家の前に着いた。見慣れた街並み。見慣れた道路。伊豆の海は、もうどこにも見えない。
車が止まっても、神代君はまだ眠っていた。三列目のシートで、私の膝を枕にしたまま。
外では、恒一さんが運転席から降りる音がした。助手席のドアが開いて、千春さんが小さく息をつく。二列目でも、八重さんとおばあちゃんがゆっくり身体を起こしている気配がした。
大人たちが荷物を下ろし始めている。このままではいられない。分かっている。起こさなきゃ。そう思うのに、すぐには声をかけられなかった。
膝の上の神代君は、深く眠っている。普段より少し幼く見える寝顔だった。私はしばらく、その顔を見下ろしていた。嫌ではなかったから。
むしろ、もう少しだけこのままでいたいと思ってしまったから。私は自分のその気持ちに少しだけ戸惑いながら、ゆっくり手を伸ばした。
今度は、途中で止めなかった。神代君の髪に、そっと触れる。柔らかい。思っていたより、少しだけ癖のある髪だった。
「神代君」
小さく呼ぶ。
神代君は起きない。私は困ったように、でも少しだけ笑ってしまった。
「神代君、着いたよ」
もう一度、今度は少しだけ近くで呼ぶ。
指先で、神代君の髪をそっと撫でる。強くはない。起こすためというより、眠りから少しずつ戻してあげるような、そんな触れ方だった。
「……ん」
神代君が小さく声を漏らした。眉が少し動く。それでも、まだ完全には目を覚まさない。私はまた、そっと撫でた。
「神代君」
神代君の意識は、ゆっくり浮上していった。
車の揺れはもうない。さっきまで聞こえていたはずのエンジン音も、遠い。
頭の下に、何か柔らかい感触がある。温かくて、落ち着く。何だろう。
枕。いや、違う。旅館の布団でもない。家でもない。それに、誰かの声がする。
「神代君」
聞き慣れた声だった。俺はゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、七瀬の顔だった。自分を見下ろしている。驚くほど近い。
そして、ひどく優しい顔をしていた。昼間の海で見た眩しさとも違う。夕方の斜陽の中で見た綺麗さとも違う。夜明け前の浜辺で見た静けさとも違う。もっと近くて、もっと柔らかい。そんな顔だった。
俺は、しばらく状況を理解できなかった。
なぜ七瀬が上にいる。なぜ俺は見上げている。なぜ頭の下がこんなに柔らかい。なぜ七瀬の手が、俺の髪に触れている。数秒。いや、もっと短かったかもしれない。
でも俺には、妙に長く感じる時間だった。
そして、ようやく理解した。俺は、七瀬の膝の上で寝ている。
膝枕。
その単語が俺の頭に浮かんだ。
次の瞬間、俺の顔が一気に熱を持つ。
「……っ!」
慌てて起き上がろうとして、勢いがありすぎたのか、シートに肩をぶつけそうになった。
「ご、ごめん!」
声が裏返っていた。
七瀬は少し驚いた顔をした後、小さく笑った。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃなくて、いや、大丈夫だけど、違う。俺が悪い」
「そんなに慌てなくても」
「いや、慌てるだろ」
俺は顔が熱くなったまま、視線が泳いだ。
七瀬を見れない。
大人たちも見れない。
というか、誰が見ていたのか考えたくもない。
そんな顔だった。
「本当にごめん。重かっただろ」
「ううん」
七瀬は静かに首を横に振る。
「平気だったよ」
「いや、でも」
「いいよ」
七瀬の声がいつもより柔らかい気がした。
俺はそこで、ようやく七瀬を見る。
まだ少し恥ずかしかった。
七瀬は言った
「ブルゾンのお礼」
俺は言葉に詰まった。
夜明け前の土肥海岸。
寒いだろうと言って、神代君が私にブルゾンを羽織らせてくれたこと。
星が見えなくなるまで、二人で海を見ていたこと。その全部が、きっと神代君の中にもよみがえったのだと思う。
「……あれは、別に」
「うん」
私は小さく頷いた。
「でも、嬉しかったから」
その一言で、神代君は完全に黙った。
何も返せない。返せるわけがない。そんな顔をしていた。
私も少しだけ目を伏せる。自分で言ってから、恥ずかしくなった。
けれど、取り消しはしなかった。
車の外から、八重さんの声が聞こえた。
「冬真、起きたかい?」
神代君は反射的に背筋を伸ばす。
「起きた!」
声が少し大きかった。八重さんの笑い声が、外から聞こえた。
「そうかい。なら荷物持ちな」
「分かってるよ!」
神代君は慌ててドアに手をかける。けれど降りる前に、もう一度だけ私を見た。
「……本当に、ごめん」
私は首を横に振った。
「だから、いいよ」
そして、少しだけ微笑む。
「神代君、疲れてたんでしょ」
「……まあ」
「私も疲れてたから」
「うん」
「楽しかったね」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
でも、言いたかった。
この旅行が楽しかったことを。
神代君と一緒にいた時間が、嫌ではなかったことを。
少しだけでも、伝えたかった。
神代君は一瞬だけ固まる。それから、小さく頷いた。
「……うん。楽しかった」
それを聞いて、私は安心したように笑ってしまった。
その笑顔を見て、神代君はまた少しだけ目を逸らす。
やっぱり、まともに見てくれない。
でも、もう嫌ではなかった。伊豆の海はもう見えない。車は家の前に着いている。
旅行は終わった。
それなのに、胸の奥ではまだ波の音が続いていた。
終わってしまった。でも、消えたわけではない。見えなくなっただけ。
土肥海岸の夜明け。
神代君のブルゾン。
帰りの車の膝枕。
そして、今の「楽しかったね」。
その全部が、私の中に静かに残っていた。
車を降りる前に、私は膝の上をそっと見た。もうそこに神代君の頭はない。
でも、温かさだけが少し残っている気がした。
誰にも見えないように、ほんの少しだけ膝に手を置く。
それから顔を上げて、いつものように微笑む。
けれどその笑顔は、来る前のものとは少しだけ違っていた。
伊豆旅行は終わった。海はもうどこにも見えない。




