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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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25/61

4-5)今は、そうなのね

(伊豆旅行5)


午前三時を少し過ぎた頃、目が覚めた。


喉が渇いたわけではない。暑かったわけでもない。


隣で眠るおばあちゃんの寝息は穏やかで、八重さんも千春さんも静かに眠っていた。


部屋の中は暗く、旅館の夜特有の、しんとした空気に包まれている。


それなのに、私は眠れなかった。胸の奥に、昼間の海が残っていた。


水色のビキニを着た時の恥ずかしさ。


神代君が、慌てて視線を逸らした顔。


夕方の海岸。


白地に淡い水色の小花柄のワンピース。


隣を歩く神代君の沈黙。


夕食の温かい食卓。


八重さんの笑い声。


おばあちゃんの優しい目。


恒一さんと千春さんの、自然なやり取り。


そして、神代君がどこか上の空だったこと。


その全部が、眠ろうとすると胸の奥で静かに揺れた。


どうしてこんなに落ち着かないのか、自分でも分からなかった。


私は、そっと布団を抜け出した。


音を立てないように立ち上がる。


寝る前に着ていた旅館の浴衣は、少しだけ帯が緩んでいた。


普段なら、こんな姿で部屋の外へ出るなんて考えられない。


でも、今は部屋にいることの方が、少しだけ苦しかった。


私は羽織を肩にかけ、髪を軽く整えた。


でも毛先が少しだけ波打っている。


部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。


おばあちゃんは眠っている。八重さんも千春さんも、静かに眠っている。


起こさないように、そっと襖を閉めた。


廊下は暗かった。


旅館の明かりは落とされていて、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。


外へ出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。


昼間の熱は、もうどこにもない。


浴衣の袖口から入ってくる風が、肌にひやりと触れる。


私は羽織の前を、少しだけ握った。


土肥海岸は、昼間とはまるで違っていた。


あんなに青くて、明るくて、賑やかだった海が、今は黒く沈んでいる。


波の形も見えない。


ただ、音だけがある。


寄せて、返して。


寄せて、返して。


低く、静かに、ずっと続いている。


空を見上げると、信じられないくらい星があった。


東京の空では、こんなに星を見たことがない。


まるで、夜が本当はこんなにも深かったのだと、初めて知ったみたいだった。


その浜辺に、先に誰かが立っていた。


暗がりの中でも、すぐに分かった。


神代君だった。


「……七瀬?」


彼が振り返る。


驚いた顔をしていた。


たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。神代君は、浴衣ではなかった。


たぶん眠れなくて、そのまま外に出てきたのだろう。


Tシャツの上に薄いブルゾンを羽織って、海の方を見ていた。


「神代君」


名前を呼んでから、どうしてか少しだけ安心した。


「眠れなかったの?」


私が聞くと、神代君は少し困ったように笑った。


「まあ、そんな感じ」


「私も」


それだけで、会話は途切れた。


でも、不思議と気まずくはなかった。


昼間なら、きっと何か話さないといけないと思った。車の中みたいに、三国志の話を探したかもしれない。夕食の時みたいに、気を遣って笑ったかもしれない。


でも今は、何も言わなくてもよかった。夜の海が、沈黙を許してくれている気がした。神代君が私の姿を見て、少しだけ眉を寄せた。


「七瀬」


「何?」


「寒いだろ」


「……少しだけ」


本当は、少しどころではなかった。


海から吹く風は冷たくて、浴衣と羽織だけでは心もとなかった。


でも、すぐ部屋に戻るつもりだったし、そんなに大げさに言うのも変な気がした。


神代君は少し黙った後、自分の着ていたブルゾンを脱いだ。


「着てろ」


「え?」


「その格好、寒いだろ」


「でも、神代君が寒くなるよ」


「俺は平気」


「平気じゃないでしょ」


「七瀬よりは平気」


そう言って、神代君は少しぎこちない手つきで、私の肩にブルゾンを羽織らせた。


一瞬、息が止まった。近かった。神代君の手が、私の肩のすぐ近くにある。ブルゾンが肩にかかる。少し重くて、温かい。


神代君の体温が残っているような気がした。


「……ありがとう」


声が、思ったより小さくなった。


「別に」


神代君はすぐに視線を海の方へ逸らした。


私も、顔を伏せた。嬉しかった。そう思ってしまったことが、恥ずかしかった。


寒かったから。親切にしてくれたから。それだけ。


そう思おうとした。


でも、肩にかかったブルゾンの温かさが、どうしても胸の奥まで届いてしまう。


私は羽織の上から、そっとブルゾンの前を掴んだ。


大きい。


私には少し大きくて、袖も長い。それがなぜか、余計に照れくさかった。


「……変じゃない?」


思わず聞いてしまった。


神代君がちらりとこちらを見る。そして、すぐに目を逸らした。


「変じゃない」


「またそれ?」


昼間のことを思い出して、私は少しだけ笑った。


神代君も、気まずそうに口元を動かした。


「……悪い」


「ううん」


変じゃない。


たぶん、神代君はそれ以上の言葉を言わない。


でも今は、それでよかった。


二人で並んで、砂浜に座った。少しだけ距離を空けて。けれど、昼間よりは近い距離で。砂は少し冷たかった。


私は神代君のブルゾンを羽織ったまま、膝の上で手を重ねた。


波の音がした。


寄せて、返して。


寄せて、返して。


同じことを繰り返しているだけなのに、なぜか飽きなかった。


ただ聞いているだけで、胸の奥にあったざわめきが少しずつ静かになっていく。


空を見上げる。


星が、本当にたくさんあった。


「すごいね」


私が小さく言うと、神代君も空を見上げた。


「うん」


「こんなに見えるんだ」


「東京じゃ無理だな」


「うん」


会話はそれだけだった。けれど、その短さが心地よかった。何かを説明しなくても、同じものを見ている。


それだけで、なぜか十分だった。


しばらくして、空の色が少しだけ変わり始めた。


最初は深い紺色だった。


その紺に、ほんの少しだけ青が混じる。


私たちは海の方を見ていた。


黒く沈んだ、西の海。


その向こうから太陽が昇るわけではない。


土肥の海は、西を向いている。


朝日は、私たちの背中側。


東の山の向こうから来る。


けれど、それでも夜が終わっていくのは分かった。


背後の空が、少しずつ白み始める。


見ている海そのものはまだ暗いのに、世界の端から少しずつ輪郭が戻ってくる。


黒が紺になり、紺が藍になり、藍に青が混じる。


星が、一つずつ見えなくなっていく。


暁。


それから、曙。


私は、夜が終わっていくところを初めてちゃんと見た気がした。


朝は、いつも気づけば来ているものだった。


カーテンの隙間から光が入って、目覚ましが鳴って、学校へ行く準備をする。


そういうものだと思っていた。


でも本当は、夜はこんなふうに少しずつ終わっていくのだ。


見えない場所から光が来て、気づかないうちに世界の色を変えていく。


「星、消えていくね」


私がそう言うと、神代君は空を見上げたまま答えた。


「消えてるんじゃなくて、見えなくなってるだけだろ」


「……そういう言い方するんだ」


「変か?」


「ううん」


私は小さく笑った。


変ではなかった。


神代君らしいと思った。


消えたわけじゃない。見えなくなっただけ。


その言葉が、なぜか胸の奥に残った。


たぶん、私の中にも、そういうものがある。


なくなったわけではない。最初からなかったわけでもない。


ただ、見ないようにしているだけのもの。


名前をつけないようにしているもの。


認めてしまったら、もう戻れない気がするもの。


私は隣にいる神代君の横顔を、少しだけ見た。


まだ太陽は見えない。


けれど、背中側から届き始めた淡い光が、彼の輪郭を少しずつ浮かび上がらせている。


神代君は、海を見ていた。


何も言わない。私に近づくわけでもない。手を握るわけでもない。


特別な言葉をくれるわけでもない。


ただ、隣にいるだけ。それだけだった。


でも、私は神代君のブルゾンを羽織っている。


その温かさが、肩から胸の奥にまでゆっくり染みている。


どうしてだろう。


神代君は何もしていない。


ただ、寒いだろうと言って、上着を貸してくれただけ。


それだけなのに。胸が苦しくなった。


この時間が、終わらなければいいと思ってしまった。


そう思った瞬間、少し怖くなった。私は何を考えているのだろう。どうして、そんなことを思うのだろう。


神代君は、八重さんのお孫さんだ。優しい人だ。一緒にいると安心する。三国志の話が合う。寒い時に、上着を貸してくれた。


それだけ。それだけのはずだった。そう思いたかった。


でも、波の音を聞きながら、見えなくなっていく星を見ていると、その言い訳が少しずつ薄くなっていく気がした。


「七瀬」


神代君が小さく呼んだ。


「何?」


「まだ寒いか?」


「……もう、大丈夫」


私はブルゾンの前を少しだけ握った。


「温かい」


そう言ってから、急に恥ずかしくなった。神代君は一瞬だけこちらを見た。


それから、少し照れたように目を逸らす。


「そうか」


「うん」


それだけの会話なのに、胸の奥がうるさかった。


私は海を見るふりをして、顔を隠した。たぶん、少し笑っていたと思う。


照れくさくて。嬉しくて。


でも、その理由を認めるのが怖くて。私は、ただブルゾンの前を握っていた。


東の山の向こうが、さらに明るくなっていく。私たちの背中側から、朝が来る。太陽そのものは見えない。


でも、光は確かに届いていた。


黒かった海が、その光を受けて少しずつ色を取り戻していく。


波の先だけが、かすかに白く光り始める。


砂浜の輪郭が浮かび上がる。


神代君の横顔も、さっきよりはっきり見える。


星はもう、ほとんど見えなかった。


「朝、来たね」


私が言うと、神代君は海を見たまま小さく頷いた。


「うん」


太陽は見えない。


でも、朝は確かに来ていた。


そのことが、なぜか少しだけ胸に残った。


見えなくても、あるもの。見えなくても、届いているもの。


気づかないふりをしていても、少しずつ世界を変えてしまうもの。


そういうものが、この世にはあるのかもしれない。


私は、そんなことを思った。


「戻るか」


神代君が言った。


「……うん」


私は頷いた。立ち上がる前に、もう一度だけ海を見た。この景色を、きっと忘れないと思った。


理由は、まだ分からなかった。分かってはいけない気もした。


けれど、何年経っても、たぶん私は思い出す。


土肥海岸の、午前三時過ぎ。


冷たい砂。


波の音。


見えなくなっていく星。


暁と曙。


海ではなく、背中側から来た朝の光。


その光を受けて、少しずつ色を取り戻していく西の海。


浴衣の上から羽織った、少し大きなブルゾン。


隣にいた神代君。


そして、朝が来るまでの、短い永遠みたいな時間を。


旅館に戻る廊下は、出てきた時より少し明るかった。


誰かが起き出すにはまだ早い。


けれど夜はもう終わっている。


部屋の前まで来て、神代君が小さく言った。


「じゃあ」


「うん」


私は肩にかかったブルゾンに気づいて、慌てて脱ごうとした。


「これ、返すね」


「いい」


「でも」


「部屋まで着てろ。寒いだろ」


「……もう中だよ」


「廊下も寒い」


少し強引な言い方だった。でも、嫌ではなかった。むしろ、もう少しだけ羽織っていていいと言われた気がして、胸が小さく跳ねた。


「じゃあ……あとで返す」


「うん」


「ありがとう」


「別に」


神代君はそう言って、少しだけ視線を逸らした。私も、少しだけ俯いた。


またあとで、と言うだけなのに、なぜか声が出にくかった。


「また、あとで」


神代君が言った。


「うん。またあとで」


それだけ言って、私たちは別れた。襖をそっと開ける。


部屋の中はまだ静かだった。八重さんと千春さんは眠っている。


でも、おばあちゃんだけが起きていた。


布団の上に身体を起こして、こちらを見ている。


私は一瞬、息を止めた。


「おかえり」


おばあちゃんは、何も責めなかった。ただ、そう言った。


「……起きてたの?」


「年を取ると、眠りが浅くなるの」


「ごめん。勝手に出て」


「いいのよ」


おばあちゃんは穏やかに微笑んだ。


その視線が、私の肩にかかったブルゾンに向く。


私は慌てて前を押さえた。


別に、悪いことをしたわけではない。


でも、なぜか見られるのが恥ずかしかった。


「海、綺麗だった?」


「うん」


私は小さく頷いた。


「すごく、綺麗だった」


「そう」


おばあちゃんは、それ以上すぐには聞かなかった。その沈黙が、少しだけ怖かった。


何かを見抜かれているような気がしたから。布団に戻ろうとした時、おばあちゃんが静かに言った。


「冬真君も一緒だったのね」


私は固まった。


「……偶然だよ」


少し早口になった。自分でも分かるくらい、焦っていた。


「私が外に出たら、たまたま神代君がいて。それだけ」


「そう」


おばあちゃんは微笑んだ。


信じたのか、信じていないのか分からない笑みだった。


「本当に偶然だよ」


「ええ」


「変な意味じゃないから」


「私は何も言っていないわ」


「……そうだけど」


言えば言うほど、何かを隠しているみたいになる。私は口を閉じた。


おばあちゃんは、そんな私を責めることなく、ただ静かに見ていた。


「それ、冬真君の?」


心臓が跳ねた。


「寒いだろうって、貸してくれただけ」


「そう」


「本当に、それだけ」


「ええ」


「だから、別に……」


「澪」


おばあちゃんの声は優しかった。それなのに、私はそれ以上言えなくなった。


「澪は、冬真君といる時、少しだけ子どもみたいな顔をするのね」


心臓が、変なふうに跳ねた。


「そんなことない」


反射的に否定していた。


「そう?」


「ないよ」


「そうかしら」


「ない。神代君は……八重さんのお孫さんだし」


私は言葉を探した。


「優しい人だから、安心するだけ」


「安心するのね」


「……うん」


それは本当だった。嘘ではない。


神代君といると、安心する。


三国志の話をしていても。


黙って海を見ていても。


寒いだろうと、何も聞かずにブルゾンを貸してくれた時も。


何かを求められない。


完璧な笑顔を作らなくてもいい気がする。


だから、安心する。


それだけ。それだけのはずだった。


おばあちゃんは、しばらく何も言わなかった。


そして、静かに言った。


「安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ」


胸の奥に、何かが落ちた。小さな音を立てて。


でも私は、それをすぐに拾い上げることができなかった。


「好きとか、そういうのじゃない」


少し強い声になった。


自分でも驚くくらい、はっきり否定していた。


「神代君は、そういうのじゃない」


「そう」


おばあちゃんは穏やかに頷いた。


「今は、そうなのね」


その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。


今は。


まるで、いつか変わると言われているみたいだった。


「変わらないよ」


私は小さく言った。


おばあちゃんは、困ったように、優しく笑った。


「澪がそう思うなら、それでいいの」


「……うん」


「でもね、澪」


「何?」


「自分の心を、あまりいじめてはいけないわ」


私は返事ができなかった。おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。


ただ布団に戻るように、私の方へ少し視線を向ける。


私は黙って布団に入った。


けれど、神代君のブルゾンはすぐに脱げなかった。


返さなきゃいけない。分かっている。


でも、あと少しだけ。本当に、あと少しだけ。


そう思って、私は浴衣の上からブルゾンを羽織ったまま、布団の端に座った。


身体は少し冷えていたはずなのに、胸の奥だけが熱かった。


安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ。


好きとか、そういうのじゃない。


今は、そうなのね。


おばあちゃんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


違う。


そういうのじゃない。


神代君は、八重さんのお孫さんで。


優しくて。


一緒にいると安心するだけ。


寒いだろうって、上着を貸してくれただけ。


ただ、それだけ。私は目を閉じた。


けれど、まぶたの裏には夜明けの海が浮かんでいた。


見えなくなっていく星。


背中側から届く朝の光。


少しずつ色を取り戻していく海。


隣にいた神代君。


肩に残る、ブルゾンの温かさ。


短い永遠みたいな時間。


私はその景色を忘れないと思った。


まだ理由は分からなかった。分かりたくもなかった。


けれど、胸の奥のどこかではもう、何かが静かに変わっていた。


太陽は見えなかった。


でも、光は確かに届いていた。



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