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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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25/32

4-5)伊豆旅行5(今は、そうなのね)

午前三時を少し過ぎた頃、目が覚めた。


喉が渇いたわけではない。暑かったわけでもない。


隣で眠るおばあちゃんの寝息は穏やかで、八重さんも千春さんも静かに眠っていた。


部屋の中は暗く、旅館の夜特有の、しんとした空気に包まれている。


それなのに、私は眠れなかった。胸の奥に、昼間の海が残っていた。


水色のビキニを着た時の恥ずかしさ。


神代君が、慌てて視線を逸らした顔。


夕方の海岸。


白地に淡い水色の小花柄のワンピース。


隣を歩く神代君の沈黙。


夕食の温かい食卓。


八重さんの笑い声。


おばあちゃんの優しい目。


恒一さんと千春さんの、自然なやり取り。


そして、神代君がどこか上の空だったこと。


その全部が、眠ろうとすると胸の奥で静かに揺れた。


どうしてこんなに落ち着かないのか、自分でも分からなかった。


私は、そっと布団を抜け出した。


音を立てないように立ち上がる。


寝る前に着ていた旅館の浴衣は、少しだけ帯が緩んでいた。


普段なら、こんな姿で部屋の外へ出るなんて考えられない。


でも、今は部屋にいることの方が、少しだけ苦しかった。


私は羽織を肩にかけ、髪を軽く整えた。


でも毛先が少しだけ波打っている。


部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。


おばあちゃんは眠っている。八重さんも千春さんも、静かに眠っている。


起こさないように、そっと襖を閉めた。


廊下は暗かった。


旅館の明かりは落とされていて、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。


外へ出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。


昼間の熱は、もうどこにもない。


浴衣の袖口から入ってくる風が、肌にひやりと触れる。


私は羽織の前を、少しだけ握った。


土肥海岸は、昼間とはまるで違っていた。


あんなに青くて、明るくて、賑やかだった海が、今は黒く沈んでいる。


波の形も見えない。


ただ、音だけがある。


寄せて、返して。


寄せて、返して。


低く、静かに、ずっと続いている。


空を見上げると、信じられないくらい星があった。


東京の空では、こんなに星を見たことがない。


まるで、夜が本当はこんなにも深かったのだと、初めて知ったみたいだった。


その浜辺に、先に誰かが立っていた。


暗がりの中でも、すぐに分かった。


神代君だった。


「……七瀬?」


彼が振り返る。


驚いた顔をしていた。


たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。神代君は、浴衣ではなかった。


たぶん眠れなくて、そのまま外に出てきたのだろう。


Tシャツの上に薄いブルゾンを羽織って、海の方を見ていた。


「神代君」


名前を呼んでから、どうしてか少しだけ安心した。


「眠れなかったの?」


私が聞くと、神代君は少し困ったように笑った。


「まあ、そんな感じ」


「私も」


それだけで、会話は途切れた。


でも、不思議と気まずくはなかった。


昼間なら、きっと何か話さないといけないと思った。車の中みたいに、三国志の話を探したかもしれない。夕食の時みたいに、気を遣って笑ったかもしれない。


でも今は、何も言わなくてもよかった。夜の海が、沈黙を許してくれている気がした。神代君が私の姿を見て、少しだけ眉を寄せた。


「七瀬」


「何?」


「寒いだろ」


「……少しだけ」


本当は、少しどころではなかった。


海から吹く風は冷たくて、浴衣と羽織だけでは心もとなかった。


でも、すぐ部屋に戻るつもりだったし、そんなに大げさに言うのも変な気がした。


神代君は少し黙った後、自分の着ていたブルゾンを脱いだ。


「着てろ」


「え?」


「その格好、寒いだろ」


「でも、神代君が寒くなるよ」


「俺は平気」


「平気じゃないでしょ」


「七瀬よりは平気」


そう言って、神代君は少しぎこちない手つきで、私の肩にブルゾンを羽織らせた。


一瞬、息が止まった。近かった。神代君の手が、私の肩のすぐ近くにある。ブルゾンが肩にかかる。少し重くて、温かい。


神代君の体温が残っているような気がした。


「……ありがとう」


声が、思ったより小さくなった。


「別に」


神代君はすぐに視線を海の方へ逸らした。


私も、顔を伏せた。嬉しかった。そう思ってしまったことが、恥ずかしかった。


寒かったから。親切にしてくれたから。それだけ。


そう思おうとした。


でも、肩にかかったブルゾンの温かさが、どうしても胸の奥まで届いてしまう。


私は羽織の上から、そっとブルゾンの前を掴んだ。


大きい。


私には少し大きくて、袖も長い。それがなぜか、余計に照れくさかった。


「……変じゃない?」


思わず聞いてしまった。


神代君がちらりとこちらを見る。そして、すぐに目を逸らした。


「変じゃない」


「またそれ?」


昼間のことを思い出して、私は少しだけ笑った。


神代君も、気まずそうに口元を動かした。


「……悪い」


「ううん」


変じゃない。


たぶん、神代君はそれ以上の言葉を言わない。


でも今は、それでよかった。


二人で並んで、砂浜に座った。少しだけ距離を空けて。けれど、昼間よりは近い距離で。砂は少し冷たかった。


私は神代君のブルゾンを羽織ったまま、膝の上で手を重ねた。


波の音がした。


寄せて、返して。


寄せて、返して。


同じことを繰り返しているだけなのに、なぜか飽きなかった。


ただ聞いているだけで、胸の奥にあったざわめきが少しずつ静かになっていく。


空を見上げる。


星が、本当にたくさんあった。


「すごいね」


私が小さく言うと、神代君も空を見上げた。


「うん」


「こんなに見えるんだ」


「東京じゃ無理だな」


「うん」


会話はそれだけだった。けれど、その短さが心地よかった。何かを説明しなくても、同じものを見ている。


それだけで、なぜか十分だった。


しばらくして、空の色が少しだけ変わり始めた。


最初は深い紺色だった。


その紺に、ほんの少しだけ青が混じる。


私たちは海の方を見ていた。


黒く沈んだ、西の海。


その向こうから太陽が昇るわけではない。


土肥の海は、西を向いている。


朝日は、私たちの背中側。


東の山の向こうから来る。


けれど、それでも夜が終わっていくのは分かった。


背後の空が、少しずつ白み始める。


見ている海そのものはまだ暗いのに、世界の端から少しずつ輪郭が戻ってくる。


黒が紺になり、紺が藍になり、藍に青が混じる。


星が、一つずつ見えなくなっていく。


暁。


それから、曙。


私は、夜が終わっていくところを初めてちゃんと見た気がした。


朝は、いつも気づけば来ているものだった。


カーテンの隙間から光が入って、目覚ましが鳴って、学校へ行く準備をする。


そういうものだと思っていた。


でも本当は、夜はこんなふうに少しずつ終わっていくのだ。


見えない場所から光が来て、気づかないうちに世界の色を変えていく。


「星、消えていくね」


私がそう言うと、神代君は空を見上げたまま答えた。


「消えてるんじゃなくて、見えなくなってるだけだろ」


「……そういう言い方するんだ」


「変か?」


「ううん」


私は小さく笑った。


変ではなかった。


神代君らしいと思った。


消えたわけじゃない。見えなくなっただけ。


その言葉が、なぜか胸の奥に残った。


たぶん、私の中にも、そういうものがある。


なくなったわけではない。最初からなかったわけでもない。


ただ、見ないようにしているだけのもの。


名前をつけないようにしているもの。


認めてしまったら、もう戻れない気がするもの。


私は隣にいる神代君の横顔を、少しだけ見た。


まだ太陽は見えない。


けれど、背中側から届き始めた淡い光が、彼の輪郭を少しずつ浮かび上がらせている。


神代君は、海を見ていた。


何も言わない。私に近づくわけでもない。手を握るわけでもない。


特別な言葉をくれるわけでもない。


ただ、隣にいるだけ。それだけだった。


でも、私は神代君のブルゾンを羽織っている。


その温かさが、肩から胸の奥にまでゆっくり染みている。


どうしてだろう。


神代君は何もしていない。


ただ、寒いだろうと言って、上着を貸してくれただけ。


それだけなのに。胸が苦しくなった。


この時間が、終わらなければいいと思ってしまった。


そう思った瞬間、少し怖くなった。私は何を考えているのだろう。どうして、そんなことを思うのだろう。


神代君は、八重さんのお孫さんだ。優しい人だ。一緒にいると安心する。三国志の話が合う。寒い時に、上着を貸してくれた。


それだけ。それだけのはずだった。そう思いたかった。


でも、波の音を聞きながら、見えなくなっていく星を見ていると、その言い訳が少しずつ薄くなっていく気がした。


「七瀬」


神代君が小さく呼んだ。


「何?」


「まだ寒いか?」


「……もう、大丈夫」


私はブルゾンの前を少しだけ握った。


「温かい」


そう言ってから、急に恥ずかしくなった。神代君は一瞬だけこちらを見た。


それから、少し照れたように目を逸らす。


「そうか」


「うん」


それだけの会話なのに、胸の奥がうるさかった。


私は海を見るふりをして、顔を隠した。たぶん、少し笑っていたと思う。


照れくさくて。嬉しくて。


でも、その理由を認めるのが怖くて。私は、ただブルゾンの前を握っていた。


東の山の向こうが、さらに明るくなっていく。私たちの背中側から、朝が来る。太陽そのものは見えない。


でも、光は確かに届いていた。


黒かった海が、その光を受けて少しずつ色を取り戻していく。


波の先だけが、かすかに白く光り始める。


砂浜の輪郭が浮かび上がる。


神代君の横顔も、さっきよりはっきり見える。


星はもう、ほとんど見えなかった。


「朝、来たね」


私が言うと、神代君は海を見たまま小さく頷いた。


「うん」


太陽は見えない。


でも、朝は確かに来ていた。


そのことが、なぜか少しだけ胸に残った。


見えなくても、あるもの。見えなくても、届いているもの。


気づかないふりをしていても、少しずつ世界を変えてしまうもの。


そういうものが、この世にはあるのかもしれない。


私は、そんなことを思った。


「戻るか」


神代君が言った。


「……うん」


私は頷いた。立ち上がる前に、もう一度だけ海を見た。この景色を、きっと忘れないと思った。


理由は、まだ分からなかった。分かってはいけない気もした。


けれど、何年経っても、たぶん私は思い出す。


土肥海岸の、午前三時過ぎ。


冷たい砂。


波の音。


見えなくなっていく星。


暁と曙。


海ではなく、背中側から来た朝の光。


その光を受けて、少しずつ色を取り戻していく西の海。


浴衣の上から羽織った、少し大きなブルゾン。


隣にいた神代君。


そして、朝が来るまでの、短い永遠みたいな時間を。


旅館に戻る廊下は、出てきた時より少し明るかった。


誰かが起き出すにはまだ早い。


けれど夜はもう終わっている。


部屋の前まで来て、神代君が小さく言った。


「じゃあ」


「うん」


私は肩にかかったブルゾンに気づいて、慌てて脱ごうとした。


「これ、返すね」


「いい」


「でも」


「部屋まで着てろ。寒いだろ」


「……もう中だよ」


「廊下も寒い」


少し強引な言い方だった。でも、嫌ではなかった。むしろ、もう少しだけ羽織っていていいと言われた気がして、胸が小さく跳ねた。


「じゃあ……あとで返す」


「うん」


「ありがとう」


「別に」


神代君はそう言って、少しだけ視線を逸らした。私も、少しだけ俯いた。


またあとで、と言うだけなのに、なぜか声が出にくかった。


「また、あとで」


神代君が言った。


「うん。またあとで」


それだけ言って、私たちは別れた。襖をそっと開ける。


部屋の中はまだ静かだった。八重さんと千春さんは眠っている。


でも、おばあちゃんだけが起きていた。


布団の上に身体を起こして、こちらを見ている。


私は一瞬、息を止めた。


「おかえり」


おばあちゃんは、何も責めなかった。ただ、そう言った。


「……起きてたの?」


「年を取ると、眠りが浅くなるの」


「ごめん。勝手に出て」


「いいのよ」


おばあちゃんは穏やかに微笑んだ。


その視線が、私の肩にかかったブルゾンに向く。


私は慌てて前を押さえた。


別に、悪いことをしたわけではない。


でも、なぜか見られるのが恥ずかしかった。


「海、綺麗だった?」


「うん」


私は小さく頷いた。


「すごく、綺麗だった」


「そう」


おばあちゃんは、それ以上すぐには聞かなかった。その沈黙が、少しだけ怖かった。


何かを見抜かれているような気がしたから。布団に戻ろうとした時、おばあちゃんが静かに言った。


「冬真君も一緒だったのね」


私は固まった。


「……偶然だよ」


少し早口になった。自分でも分かるくらい、焦っていた。


「私が外に出たら、たまたま神代君がいて。それだけ」


「そう」


おばあちゃんは微笑んだ。


信じたのか、信じていないのか分からない笑みだった。


「本当に偶然だよ」


「ええ」


「変な意味じゃないから」


「私は何も言っていないわ」


「……そうだけど」


言えば言うほど、何かを隠しているみたいになる。私は口を閉じた。


おばあちゃんは、そんな私を責めることなく、ただ静かに見ていた。


「それ、冬真君の?」


心臓が跳ねた。


「寒いだろうって、貸してくれただけ」


「そう」


「本当に、それだけ」


「ええ」


「だから、別に……」


「澪」


おばあちゃんの声は優しかった。それなのに、私はそれ以上言えなくなった。


「澪は、冬真君といる時、少しだけ子どもみたいな顔をするのね」


心臓が、変なふうに跳ねた。


「そんなことない」


反射的に否定していた。


「そう?」


「ないよ」


「そうかしら」


「ない。神代君は……八重さんのお孫さんだし」


私は言葉を探した。


「優しい人だから、安心するだけ」


「安心するのね」


「……うん」


それは本当だった。嘘ではない。


神代君といると、安心する。


三国志の話をしていても。


黙って海を見ていても。


寒いだろうと、何も聞かずにブルゾンを貸してくれた時も。


何かを求められない。


完璧な笑顔を作らなくてもいい気がする。


だから、安心する。


それだけ。それだけのはずだった。


おばあちゃんは、しばらく何も言わなかった。


そして、静かに言った。


「安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ」


胸の奥に、何かが落ちた。小さな音を立てて。


でも私は、それをすぐに拾い上げることができなかった。


「好きとか、そういうのじゃない」


少し強い声になった。


自分でも驚くくらい、はっきり否定していた。


「神代君は、そういうのじゃない」


「そう」


おばあちゃんは穏やかに頷いた。


「今は、そうなのね」


その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。


今は。


まるで、いつか変わると言われているみたいだった。


「変わらないよ」


私は小さく言った。


おばあちゃんは、困ったように、優しく笑った。


「澪がそう思うなら、それでいいの」


「……うん」


「でもね、澪」


「何?」


「自分の心を、あまりいじめてはいけないわ」


私は返事ができなかった。おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。


ただ布団に戻るように、私の方へ少し視線を向ける。


私は黙って布団に入った。


けれど、神代君のブルゾンはすぐに脱げなかった。


返さなきゃいけない。分かっている。


でも、あと少しだけ。本当に、あと少しだけ。


そう思って、私は浴衣の上からブルゾンを羽織ったまま、布団の端に座った。


身体は少し冷えていたはずなのに、胸の奥だけが熱かった。


安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ。


好きとか、そういうのじゃない。


今は、そうなのね。


おばあちゃんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


違う。


そういうのじゃない。


神代君は、八重さんのお孫さんで。


優しくて。


一緒にいると安心するだけ。


寒いだろうって、上着を貸してくれただけ。


ただ、それだけ。私は目を閉じた。


けれど、まぶたの裏には夜明けの海が浮かんでいた。


見えなくなっていく星。


背中側から届く朝の光。


少しずつ色を取り戻していく海。


隣にいた神代君。


肩に残る、ブルゾンの温かさ。


短い永遠みたいな時間。


私はその景色を忘れないと思った。


まだ理由は分からなかった。分かりたくもなかった。


けれど、胸の奥のどこかではもう、何かが静かに変わっていた。


太陽は見えなかった。


でも、光は確かに届いていた。



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