4-5)伊豆旅行5(今は、そうなのね)
午前三時を少し過ぎた頃、目が覚めた。
喉が渇いたわけではない。暑かったわけでもない。
隣で眠るおばあちゃんの寝息は穏やかで、八重さんも千春さんも静かに眠っていた。
部屋の中は暗く、旅館の夜特有の、しんとした空気に包まれている。
それなのに、私は眠れなかった。胸の奥に、昼間の海が残っていた。
水色のビキニを着た時の恥ずかしさ。
神代君が、慌てて視線を逸らした顔。
夕方の海岸。
白地に淡い水色の小花柄のワンピース。
隣を歩く神代君の沈黙。
夕食の温かい食卓。
八重さんの笑い声。
おばあちゃんの優しい目。
恒一さんと千春さんの、自然なやり取り。
そして、神代君がどこか上の空だったこと。
その全部が、眠ろうとすると胸の奥で静かに揺れた。
どうしてこんなに落ち着かないのか、自分でも分からなかった。
私は、そっと布団を抜け出した。
音を立てないように立ち上がる。
寝る前に着ていた旅館の浴衣は、少しだけ帯が緩んでいた。
普段なら、こんな姿で部屋の外へ出るなんて考えられない。
でも、今は部屋にいることの方が、少しだけ苦しかった。
私は羽織を肩にかけ、髪を軽く整えた。
でも毛先が少しだけ波打っている。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
おばあちゃんは眠っている。八重さんも千春さんも、静かに眠っている。
起こさないように、そっと襖を閉めた。
廊下は暗かった。
旅館の明かりは落とされていて、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。
外へ出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。
昼間の熱は、もうどこにもない。
浴衣の袖口から入ってくる風が、肌にひやりと触れる。
私は羽織の前を、少しだけ握った。
土肥海岸は、昼間とはまるで違っていた。
あんなに青くて、明るくて、賑やかだった海が、今は黒く沈んでいる。
波の形も見えない。
ただ、音だけがある。
寄せて、返して。
寄せて、返して。
低く、静かに、ずっと続いている。
空を見上げると、信じられないくらい星があった。
東京の空では、こんなに星を見たことがない。
まるで、夜が本当はこんなにも深かったのだと、初めて知ったみたいだった。
その浜辺に、先に誰かが立っていた。
暗がりの中でも、すぐに分かった。
神代君だった。
「……七瀬?」
彼が振り返る。
驚いた顔をしていた。
たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。神代君は、浴衣ではなかった。
たぶん眠れなくて、そのまま外に出てきたのだろう。
Tシャツの上に薄いブルゾンを羽織って、海の方を見ていた。
「神代君」
名前を呼んでから、どうしてか少しだけ安心した。
「眠れなかったの?」
私が聞くと、神代君は少し困ったように笑った。
「まあ、そんな感じ」
「私も」
それだけで、会話は途切れた。
でも、不思議と気まずくはなかった。
昼間なら、きっと何か話さないといけないと思った。車の中みたいに、三国志の話を探したかもしれない。夕食の時みたいに、気を遣って笑ったかもしれない。
でも今は、何も言わなくてもよかった。夜の海が、沈黙を許してくれている気がした。神代君が私の姿を見て、少しだけ眉を寄せた。
「七瀬」
「何?」
「寒いだろ」
「……少しだけ」
本当は、少しどころではなかった。
海から吹く風は冷たくて、浴衣と羽織だけでは心もとなかった。
でも、すぐ部屋に戻るつもりだったし、そんなに大げさに言うのも変な気がした。
神代君は少し黙った後、自分の着ていたブルゾンを脱いだ。
「着てろ」
「え?」
「その格好、寒いだろ」
「でも、神代君が寒くなるよ」
「俺は平気」
「平気じゃないでしょ」
「七瀬よりは平気」
そう言って、神代君は少しぎこちない手つきで、私の肩にブルゾンを羽織らせた。
一瞬、息が止まった。近かった。神代君の手が、私の肩のすぐ近くにある。ブルゾンが肩にかかる。少し重くて、温かい。
神代君の体温が残っているような気がした。
「……ありがとう」
声が、思ったより小さくなった。
「別に」
神代君はすぐに視線を海の方へ逸らした。
私も、顔を伏せた。嬉しかった。そう思ってしまったことが、恥ずかしかった。
寒かったから。親切にしてくれたから。それだけ。
そう思おうとした。
でも、肩にかかったブルゾンの温かさが、どうしても胸の奥まで届いてしまう。
私は羽織の上から、そっとブルゾンの前を掴んだ。
大きい。
私には少し大きくて、袖も長い。それがなぜか、余計に照れくさかった。
「……変じゃない?」
思わず聞いてしまった。
神代君がちらりとこちらを見る。そして、すぐに目を逸らした。
「変じゃない」
「またそれ?」
昼間のことを思い出して、私は少しだけ笑った。
神代君も、気まずそうに口元を動かした。
「……悪い」
「ううん」
変じゃない。
たぶん、神代君はそれ以上の言葉を言わない。
でも今は、それでよかった。
二人で並んで、砂浜に座った。少しだけ距離を空けて。けれど、昼間よりは近い距離で。砂は少し冷たかった。
私は神代君のブルゾンを羽織ったまま、膝の上で手を重ねた。
波の音がした。
寄せて、返して。
寄せて、返して。
同じことを繰り返しているだけなのに、なぜか飽きなかった。
ただ聞いているだけで、胸の奥にあったざわめきが少しずつ静かになっていく。
空を見上げる。
星が、本当にたくさんあった。
「すごいね」
私が小さく言うと、神代君も空を見上げた。
「うん」
「こんなに見えるんだ」
「東京じゃ無理だな」
「うん」
会話はそれだけだった。けれど、その短さが心地よかった。何かを説明しなくても、同じものを見ている。
それだけで、なぜか十分だった。
しばらくして、空の色が少しだけ変わり始めた。
最初は深い紺色だった。
その紺に、ほんの少しだけ青が混じる。
私たちは海の方を見ていた。
黒く沈んだ、西の海。
その向こうから太陽が昇るわけではない。
土肥の海は、西を向いている。
朝日は、私たちの背中側。
東の山の向こうから来る。
けれど、それでも夜が終わっていくのは分かった。
背後の空が、少しずつ白み始める。
見ている海そのものはまだ暗いのに、世界の端から少しずつ輪郭が戻ってくる。
黒が紺になり、紺が藍になり、藍に青が混じる。
星が、一つずつ見えなくなっていく。
暁。
それから、曙。
私は、夜が終わっていくところを初めてちゃんと見た気がした。
朝は、いつも気づけば来ているものだった。
カーテンの隙間から光が入って、目覚ましが鳴って、学校へ行く準備をする。
そういうものだと思っていた。
でも本当は、夜はこんなふうに少しずつ終わっていくのだ。
見えない場所から光が来て、気づかないうちに世界の色を変えていく。
「星、消えていくね」
私がそう言うと、神代君は空を見上げたまま答えた。
「消えてるんじゃなくて、見えなくなってるだけだろ」
「……そういう言い方するんだ」
「変か?」
「ううん」
私は小さく笑った。
変ではなかった。
神代君らしいと思った。
消えたわけじゃない。見えなくなっただけ。
その言葉が、なぜか胸の奥に残った。
たぶん、私の中にも、そういうものがある。
なくなったわけではない。最初からなかったわけでもない。
ただ、見ないようにしているだけのもの。
名前をつけないようにしているもの。
認めてしまったら、もう戻れない気がするもの。
私は隣にいる神代君の横顔を、少しだけ見た。
まだ太陽は見えない。
けれど、背中側から届き始めた淡い光が、彼の輪郭を少しずつ浮かび上がらせている。
神代君は、海を見ていた。
何も言わない。私に近づくわけでもない。手を握るわけでもない。
特別な言葉をくれるわけでもない。
ただ、隣にいるだけ。それだけだった。
でも、私は神代君のブルゾンを羽織っている。
その温かさが、肩から胸の奥にまでゆっくり染みている。
どうしてだろう。
神代君は何もしていない。
ただ、寒いだろうと言って、上着を貸してくれただけ。
それだけなのに。胸が苦しくなった。
この時間が、終わらなければいいと思ってしまった。
そう思った瞬間、少し怖くなった。私は何を考えているのだろう。どうして、そんなことを思うのだろう。
神代君は、八重さんのお孫さんだ。優しい人だ。一緒にいると安心する。三国志の話が合う。寒い時に、上着を貸してくれた。
それだけ。それだけのはずだった。そう思いたかった。
でも、波の音を聞きながら、見えなくなっていく星を見ていると、その言い訳が少しずつ薄くなっていく気がした。
「七瀬」
神代君が小さく呼んだ。
「何?」
「まだ寒いか?」
「……もう、大丈夫」
私はブルゾンの前を少しだけ握った。
「温かい」
そう言ってから、急に恥ずかしくなった。神代君は一瞬だけこちらを見た。
それから、少し照れたように目を逸らす。
「そうか」
「うん」
それだけの会話なのに、胸の奥がうるさかった。
私は海を見るふりをして、顔を隠した。たぶん、少し笑っていたと思う。
照れくさくて。嬉しくて。
でも、その理由を認めるのが怖くて。私は、ただブルゾンの前を握っていた。
東の山の向こうが、さらに明るくなっていく。私たちの背中側から、朝が来る。太陽そのものは見えない。
でも、光は確かに届いていた。
黒かった海が、その光を受けて少しずつ色を取り戻していく。
波の先だけが、かすかに白く光り始める。
砂浜の輪郭が浮かび上がる。
神代君の横顔も、さっきよりはっきり見える。
星はもう、ほとんど見えなかった。
「朝、来たね」
私が言うと、神代君は海を見たまま小さく頷いた。
「うん」
太陽は見えない。
でも、朝は確かに来ていた。
そのことが、なぜか少しだけ胸に残った。
見えなくても、あるもの。見えなくても、届いているもの。
気づかないふりをしていても、少しずつ世界を変えてしまうもの。
そういうものが、この世にはあるのかもしれない。
私は、そんなことを思った。
「戻るか」
神代君が言った。
「……うん」
私は頷いた。立ち上がる前に、もう一度だけ海を見た。この景色を、きっと忘れないと思った。
理由は、まだ分からなかった。分かってはいけない気もした。
けれど、何年経っても、たぶん私は思い出す。
土肥海岸の、午前三時過ぎ。
冷たい砂。
波の音。
見えなくなっていく星。
暁と曙。
海ではなく、背中側から来た朝の光。
その光を受けて、少しずつ色を取り戻していく西の海。
浴衣の上から羽織った、少し大きなブルゾン。
隣にいた神代君。
そして、朝が来るまでの、短い永遠みたいな時間を。
旅館に戻る廊下は、出てきた時より少し明るかった。
誰かが起き出すにはまだ早い。
けれど夜はもう終わっている。
部屋の前まで来て、神代君が小さく言った。
「じゃあ」
「うん」
私は肩にかかったブルゾンに気づいて、慌てて脱ごうとした。
「これ、返すね」
「いい」
「でも」
「部屋まで着てろ。寒いだろ」
「……もう中だよ」
「廊下も寒い」
少し強引な言い方だった。でも、嫌ではなかった。むしろ、もう少しだけ羽織っていていいと言われた気がして、胸が小さく跳ねた。
「じゃあ……あとで返す」
「うん」
「ありがとう」
「別に」
神代君はそう言って、少しだけ視線を逸らした。私も、少しだけ俯いた。
またあとで、と言うだけなのに、なぜか声が出にくかった。
「また、あとで」
神代君が言った。
「うん。またあとで」
それだけ言って、私たちは別れた。襖をそっと開ける。
部屋の中はまだ静かだった。八重さんと千春さんは眠っている。
でも、おばあちゃんだけが起きていた。
布団の上に身体を起こして、こちらを見ている。
私は一瞬、息を止めた。
「おかえり」
おばあちゃんは、何も責めなかった。ただ、そう言った。
「……起きてたの?」
「年を取ると、眠りが浅くなるの」
「ごめん。勝手に出て」
「いいのよ」
おばあちゃんは穏やかに微笑んだ。
その視線が、私の肩にかかったブルゾンに向く。
私は慌てて前を押さえた。
別に、悪いことをしたわけではない。
でも、なぜか見られるのが恥ずかしかった。
「海、綺麗だった?」
「うん」
私は小さく頷いた。
「すごく、綺麗だった」
「そう」
おばあちゃんは、それ以上すぐには聞かなかった。その沈黙が、少しだけ怖かった。
何かを見抜かれているような気がしたから。布団に戻ろうとした時、おばあちゃんが静かに言った。
「冬真君も一緒だったのね」
私は固まった。
「……偶然だよ」
少し早口になった。自分でも分かるくらい、焦っていた。
「私が外に出たら、たまたま神代君がいて。それだけ」
「そう」
おばあちゃんは微笑んだ。
信じたのか、信じていないのか分からない笑みだった。
「本当に偶然だよ」
「ええ」
「変な意味じゃないから」
「私は何も言っていないわ」
「……そうだけど」
言えば言うほど、何かを隠しているみたいになる。私は口を閉じた。
おばあちゃんは、そんな私を責めることなく、ただ静かに見ていた。
「それ、冬真君の?」
心臓が跳ねた。
「寒いだろうって、貸してくれただけ」
「そう」
「本当に、それだけ」
「ええ」
「だから、別に……」
「澪」
おばあちゃんの声は優しかった。それなのに、私はそれ以上言えなくなった。
「澪は、冬真君といる時、少しだけ子どもみたいな顔をするのね」
心臓が、変なふうに跳ねた。
「そんなことない」
反射的に否定していた。
「そう?」
「ないよ」
「そうかしら」
「ない。神代君は……八重さんのお孫さんだし」
私は言葉を探した。
「優しい人だから、安心するだけ」
「安心するのね」
「……うん」
それは本当だった。嘘ではない。
神代君といると、安心する。
三国志の話をしていても。
黙って海を見ていても。
寒いだろうと、何も聞かずにブルゾンを貸してくれた時も。
何かを求められない。
完璧な笑顔を作らなくてもいい気がする。
だから、安心する。
それだけ。それだけのはずだった。
おばあちゃんは、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに言った。
「安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ」
胸の奥に、何かが落ちた。小さな音を立てて。
でも私は、それをすぐに拾い上げることができなかった。
「好きとか、そういうのじゃない」
少し強い声になった。
自分でも驚くくらい、はっきり否定していた。
「神代君は、そういうのじゃない」
「そう」
おばあちゃんは穏やかに頷いた。
「今は、そうなのね」
その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。
今は。
まるで、いつか変わると言われているみたいだった。
「変わらないよ」
私は小さく言った。
おばあちゃんは、困ったように、優しく笑った。
「澪がそう思うなら、それでいいの」
「……うん」
「でもね、澪」
「何?」
「自分の心を、あまりいじめてはいけないわ」
私は返事ができなかった。おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
ただ布団に戻るように、私の方へ少し視線を向ける。
私は黙って布団に入った。
けれど、神代君のブルゾンはすぐに脱げなかった。
返さなきゃいけない。分かっている。
でも、あと少しだけ。本当に、あと少しだけ。
そう思って、私は浴衣の上からブルゾンを羽織ったまま、布団の端に座った。
身体は少し冷えていたはずなのに、胸の奥だけが熱かった。
安心できる人を好きになることは、悪いことじゃないわ。
好きとか、そういうのじゃない。
今は、そうなのね。
おばあちゃんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
違う。
そういうのじゃない。
神代君は、八重さんのお孫さんで。
優しくて。
一緒にいると安心するだけ。
寒いだろうって、上着を貸してくれただけ。
ただ、それだけ。私は目を閉じた。
けれど、まぶたの裏には夜明けの海が浮かんでいた。
見えなくなっていく星。
背中側から届く朝の光。
少しずつ色を取り戻していく海。
隣にいた神代君。
肩に残る、ブルゾンの温かさ。
短い永遠みたいな時間。
私はその景色を忘れないと思った。
まだ理由は分からなかった。分かりたくもなかった。
けれど、胸の奥のどこかではもう、何かが静かに変わっていた。
太陽は見えなかった。
でも、光は確かに届いていた。




