4-4)伊豆旅行4(青春はつらい)
夕食の後、俺は父さんと一緒に温泉へ向かった。旅館の大浴場は、思っていたより広かった。
脱衣所から浴場へ入ると、湯気が白く立ちのぼっている。岩風呂の向こうには、夜の海が少しだけ見えた。昼間の青い海とは違う。夕方の赤い海とも違う。暗い海は静かで、遠くから波の音だけが聞こえていた。
「いい風呂だな」
父さんが湯に浸かりながら言った。
「うん」
俺も隣に腰を下ろす。湯が肩まで沈む。昼間、海で泳いだせいか、思ったより身体が疲れていた。
でも、本当に疲れているのは身体じゃない気もした。
朝から、七瀬とずっと一緒だった。
車の中で三国志の話をして。
昼間、海で水着姿を見てしまって、夕方七瀬と海岸を歩いて、夕食では七瀬があの食卓の中で笑っていた。
その全部が、まだ頭の中に残っている。
目を閉じても、七瀬の姿が浮かんでしまう。
水色のビキニ。
麦わら帽子の影に隠れた赤い頬。
夕陽に染まる横顔。
食卓の灯りの中で、少し柔らかく笑った顔。
まずい。本当にまずい。
「冬真」
父さんに呼ばれて、俺は目を開けた。
「何?」
「のぼせるぞ」
「まだ入ったばっかりだろ」
「顔がのぼせてる」
「湯気だよ」
「そうか」
父さんはそれ以上追及しなかった。
でも、何となく見透かされている気がした。俺は湯面を見ながら、少し黙った。聞くつもりなんてなかった。
こんなことを父さんに聞く日が来るとも思っていなかった。
でも、気づいたら口が動いていた。
「父さん」
「うん?」
「父さんってさ」
「何だ」
「若い時……母さんのこと、どうやって好きになったの?」
言った瞬間、俺は自分で固まった。
何を聞いているんだ。温泉で。父さんに。恋愛の話を。終わった。父さんも一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「急にどうした」
「いや……別に」
「別に、で聞く質問じゃないだろ」
「忘れて」
「忘れるには、なかなか面白い質問だったな」
「忘れろって」
俺は湯面に視線を落とした。顔が熱い。温泉のせいだ。絶対に温泉のせいだ。
父さんは少し笑ってから、夜の海の方を見た。
「どうやって、か。難しいな」
「難しいのか」
「難しいだろ。気づいたら好きになってた、なんて言ったら雑だしな」
その言葉に、少しだけ胸が引っかかった。
雑。
さっき、ばあちゃんにも似たようなことを言われた。
好きになった事まで、雑に扱っちゃいけない。
「母さんとは、最初から上手くいったの?」
俺が聞くと、父さんは苦笑した。
「そんなわけないだろ」
「そうなの?」
「そうだよ。お前は俺たちを何だと思ってるんだ」
「いや、普通に結婚してるから」
「結婚してる人間が、最初から何でも上手くいったと思うな」
父さんはそう言って、肩まで湯に沈んだ。
「若い頃の恋愛なんて、だいたい格好悪いもんだ」
「父さんも?」
「もちろん」
「想像つかない」
「想像しなくていい」
「はぐらかした」
「親父にも守るべき尊厳がある」
「何だそれ」
父さんは真面目な顔でそんなことを言う。少しだけ笑ってしまった。
でも、すぐに沈黙が戻った。
湯の音。遠くの波音。どこかで誰かが桶を置く音。
そういうものだけが聞こえる。
父さんは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「冬真」
「何」
「好きな子がいるのか」
心臓が、変な跳ね方をした。俺は反射的に否定しようとした。
けれど、言葉が出なかった。否定したら、嘘になる。
昼間、七瀬を見た。
夕方、七瀬を見た。
夕食で、七瀬の笑う声を聞いた。
ばあちゃんには、もう認めた。
ここで嘘をついても、たぶん意味がない。
「……何で」
「普段、恋愛の話なんてしないお前が、急にそんなことを聞くからだ」
「たまたまだよ」
「たまたま父親に若い頃の恋愛を聞く高校生男子は、あまりいない」
「……そうかよ」
「それに」
父さんは少しだけ俺を見た。
「今日のお前、ずっと上の空だったからな」
「そんなに?」
「かなり」
「……マジか」
「マジだ」
父さんはからかわなかった。笑いもしなかった。
ただ、いつもの低い声でそう言った。だから、余計に逃げられなかった。
「七瀬さんか」
俺は何も言わなかった。
でも、何も言わなかった時点で答えだった。
父さんは、小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。からかわない。驚きもしない。反対もしない。
その反応に、少しだけ救われた。
「別に、どうこうなるわけじゃない」
俺は湯面を見たまま言った。
「向こうが俺をどう思ってるかも分からないし。たぶん、そういうのじゃない。俺だけが勝手に……」
言いながら、自分で情けなくなる。声が小さくなる。
「勝手に好きになっただけだ」
父さんはすぐには答えなかった。
しばらくしてから、ゆっくり言った。
「勝手に好きになるのは、べつに悪いことじゃない」
俺は父さんを見た。
「ただ、勝手に好きになったからこそ、相手に押しつけるな」
「……分かってる」
「分かってるならいい」
父さんは夜の海に視線を戻した。
「年を取ってから青春時代を思い出すと、妙に綺麗に見えるんだ」
「綺麗?」
「キラキラしていて、馬鹿みたいに眩しくて、いい思い出だった気がする」
父さんの声は、少しだけ遠くを見ているようだった。
「でもな、その時代を生きている本人にとっては、悩みだらけだ」
俺は黙って聞いた。
「好きな人にどう思われているのか分からない。自分が何をしたいのかも分からない。言ったら壊れるかもしれない。言わなくても苦しい。相手の一言で勝手に浮かれて、相手の表情一つで勝手に落ち込む」
父さんは少し笑った。
「今思えば、そんなことまで含めて青春だったと思える。でも、その時は余裕なんてない」
「……ないな」
「ないだろうな」
今日一日だけで、俺は何度浮かれて、何度落ち込んだか分からない。
車の中では楽しかった。昼間は動揺した。夕方は気づいてしまった。夕食ではまともに顔も見られなかった。自分でも面倒くさいと思う。
「だから、いっぱい悩め」
父さんが言った。
「え?」
「悩んでいい。格好悪くてもいい。答えがすぐ出なくてもいい。若い時の恋愛で、最初から正解だけ選べる奴なんてほとんどいない」
「父さんも?」
「俺はかなり間違えた」
「何を?」
「それは言わない」
「またはぐらかした」
「父親の尊厳だ」
父さんはまた同じことを言った。でも、今度は俺も少し笑えた。
「ただな、冬真」
父さんの声が、少し真面目になる。
「はい」
「相手がどうであっても、お前は誠実でいろ」
「……誠実」
「ああ」
父さんは俺を見る。
「たとえ相手が迷っていても。たとえ相手が曖昧でも。たとえ、極端な話、相手が不誠実だったとしても。だからといって、お前まで不誠実になっていい理由にはならない」
その言葉は、思っていたより重かった。湯気の中で聞いているのに、やけにはっきり胸に入ってきた。
「好きなら、大事にしろ。相手のことも、自分の気持ちも」
ばあちゃんと同じことを言われた気がした。言い方は違う。でも、根っこの部分は同じだった。好きになったことを、雑に扱うな。
「でも、誠実でいるって難しくない?」
俺が言うと、父さんはすぐ頷いた。
「難しい」
「即答かよ」
「簡単なら、わざわざ言わない」
「……それもそうか」
「誠実っていうのは、ただ優しくすることじゃない。相手の望むことを何でも聞くことでもない。自分が傷つかないように逃げることでもない」
父さんは少し間を置く。
「相手に向き合うことだ。自分にも向き合うことだ。都合の悪いことから目を逸らさないことだ」
俺は何も言えなかった。七瀬の顔が浮かぶ。夕方の海岸で、夕陽を見ていた横顔。
夕食で、家族の食卓みたいな空気の中で笑っていた顔。
その全部に、ちゃんと向き合えるのか。
俺にできるのか。正直、分からない。
「父さん」
「何だ」
「もし、駄目だったら?」
聞いてしまってから、少し後悔した。
でも、父さんは普通に答えた。
「駄目だったら、傷つくだろうな」
「そこは慰めろよ」
「嘘をついても仕方ない」
「ひどい」
「でも、傷ついても終わりじゃない」
父さんは静かに言った。
「ちゃんと好きになって、ちゃんと悩んで、ちゃんと向き合ったなら、たとえ上手くいかなくても残るものはある」
「残るもの?」
「自分がどういう人間でいたいか、少し分かる」
その言葉は、少し難しかった。
でも、何となく分かる気もした。
「逆に、逃げたり、誤魔化したり、相手を試したり、自分を守るために誰かを傷つけたりすると、上手くいっても変なものが残る」
「変なもの?」
「後悔とか、情けなさとか、そういうものだ」
父さんは淡々と言った。
たぶん、父さんにも何かあったのだろう。母さんとのことかもしれない。
それ以前のことかもしれない。
でも、そこまでは聞けなかった。聞かない方がいい気がした。
「いっぱい悩め」
父さんはもう一度言った。
「でも、雑になるな」
「……うん」
「それから、相手を急かすな」
「ばあちゃんにも言われた」
「母さんも同じようなことを言うと思うぞ」
「みんな同じこと言うじゃん」
「大事なことだからな」
父さんは少し笑った。
「ただし、悩みすぎて飯を食わなくなるな。夕飯、ほとんど上の空だっただろ」
「見てたのかよ」
「見えるだろ。向かいの七瀬さんを見るたびに、刺身を凝視してた」
「最悪だ」
「かなり分かりやすかった」
「最悪だ……」
俺は湯に顔の半分まで沈みたくなった。
本当に、そんなに分かりやすかったのか。
七瀬にも変に思われたかもしれない。
いや、思われている。
絶対に思われている。
「まあ、七瀬さんは心配していたぞ」
「……そうなの?」
「ああ。お前が疲れてると思ったんだろう」
「それは……悪いことしたな」
「なら、後で普通にしておけ」
「普通に、ってのが一番難しい」
「それも青春だな」
「便利に使うなよ、青春」
父さんは声を出して笑った。その笑い方が、少しだけ普段より若く見えた。
俺は湯面を見ながら、小さく息を吐いた。
好きになった。認めた。大事にしろと言われた。誠実でいろと言われた。いっぱい悩めと言われた。たぶん、これから本当に悩むのだと思う。
七瀬の言葉一つで浮かれて、表情一つで沈む。
そんな自分を何度も嫌になるのだと思う。
でも、それでも。逃げない方がいいのだろう。少なくとも、今の俺はそう思った。
「父さん」
「うん?」
「ありがとう」
俺がそう言うと、父さんは少しだけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに鼻で笑った。
「のぼせたか」
「何でだよ」
「冬真が素直だから」
「最悪だな、この親」
「親に向かって最悪はないだろ」
父さんが笑う。俺も少しだけ笑った。夜の海から、波の音が聞こえる。湯気の向こうで、父さんは何も聞かなかった。
誰が好きなのかも。どうするつもりなのかも。これ以上、何も。
ただ隣で、同じ湯に浸かっている。それがありがたかった。
俺は目を閉じる。
まぶたの裏に、また七瀬の顔が浮かんだ。
夕陽の中の横顔。
食卓の灯りの中で笑った顔。
眩しくて、まともに見られなかった顔。
好きになったことまで、雑に扱っちゃいけない。
たとえ相手が不誠実でも、お前は誠実でいろ。
ばあちゃんと父さんの言葉が、胸の奥で重なる。
難しい。本当に、難しい。
でもたぶん、難しいからこそ、ちゃんと悩まなきゃいけない。
俺は湯の中で、小さく息を吐いた。
この気持ちから逃げるには、もう少しだけ遅すぎた。




