4-3伊豆旅行3(優しい食卓)
夕食の前、旅館のロビーの休憩スペースで、冬真が一人で座っている。
外はもう暗く、海の音だけが遠くに聞こえる。
八重が隣に来る。
「冬真」
「……ばあちゃん」
「澪ちゃんと、海を歩いてきたんだって?」
「うん」
「楽しかったかい?」
冬真は少し黙る。
「……楽しかった」
「そうかい」
八重はそれ以上すぐには聞かない。少し間を置いて、穏やかに言う。
「冬真。あんた、澪ちゃんの事が好きなんだね」
冬真は否定しない。
「……うん」
八重は笑うけど、からかわない。
「そうかい。なら、大事にしな」
「大事にって……付き合えるかどうかも分からない」
「それでもだよ」
冬真は顔を上げる。八重は海の方を見る。
「好きになった人に、好きになってもらえるとは限らないのよ。でもね、好きになった事まで、雑に扱っちゃいけないよ」
「澪ちゃんは、少し難しい子だね」
「……分かるの?」
「年寄りをなめるんじゃないよ」
八重は少し笑う。
「でも、悪い子じゃない。優しい子だよ。優しすぎて、自分の気持ちまで疑っちまう子だ」
冬真は黙る。
「だから、もし伝えるなら、急かしちゃいけない。返事を欲しがりすぎてもいけない。でも、伝えないで逃げるのも違う」
「……難しいな」
「恋ってのは、大体そういうもんだよ」
八重はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
「さ、そろそろ夕飯だよ」
「……うん」
俺も立ち上がる。
好きになった事まで、雑に扱っちゃいけない。ばあちゃんの言葉が、胸の奥に残っていた。
SIDE澪
夕食の席は、旅館の食事処に用意されていた。大きな窓の向こうには、もう薄暗い海が広がっている。昼間の青さはどこにもなく、遠くから波の音だけが聞こえていた。
席に着くと、目の前には海の旅館らしい料理が並んでいた。大きな舟盛り、艶のある刺身、焼き魚、煮付け、小さな鍋、茶碗蒸し、天ぷら。正直、すごく豪華だった。
「おお、これはすごいねえ」
八重さんが嬉しそうに声を上げる。その声が、本当に嬉しそうで、私は思わず口元を緩めた。
「八重さん、顔が子供みたいですよ」
隣でおばあちゃんが笑う。
「仕方ないだろ。美味しそうなんだから」
「食べすぎないでくださいね」
「旅行先でそんなこと言うのは野暮ってもんだよ」
「お義母さん、前もそれで苦しくなってたじゃないですか」
千春さんが苦笑しながら言う。
「覚えてないねえ」
「絶対覚えてるだろ」
恒一さんが呆れたように突っ込む。そのやり取りがあまりにも自然で、私はまた少し笑ってしまった。誰かが大げさに喜んで、誰かがたしなめて、誰かが呆れて、誰かが笑う。それだけのことなのに。胸の奥が、少しだけ温かくなった。こういう食卓を、私はあまり知らない。
おばあちゃんとの食事は好きだった。静かで、優しくて、落ち着いていて、私にとって大切な時間だった。
でも、今ここにある空気は、それとは少し違う。賑やかで少し騒がしくて、遠慮がなくて。それでも、誰も誰かを傷つけようとしていない。言いたいことを言っても、ちゃんと受け止めてもらえる。呆れられても、笑って返してもらえる。黙っていても、置いていかれない。そういう場所だった。
「澪ちゃん、これ食べな。新鮮だよ」
八重さんが刺身を勧めてくれる。
「ありがとうございます」
私は丁寧に箸を伸ばした。
刺身は綺麗だった。透き通るような白身に、艶のある赤身。口に入れると、甘くて、柔らかくて、とても美味しい。
なのに、私は味だけに集中できなかった。向かいに、神代君が座っている。昼間、海で一緒に泳いだ。夕方、海岸を一緒に歩いた。車の中では三国志の話をして、気がついたらたくさん話していた。
向かいにいる神代君が、なぜかずっと料理ばかり見ている。私の方を、あまり見ない。
昼間も、少しそうだった。水着だったから、目のやり場に困っているのだろうと思った。それは、分かる。私だって、少し恥ずかしかった。でも今は違う。浴衣でもない。水着でもない。ただ食卓に座っているだけの私だ。それなのに、神代君はあまり顔を上げない。
「冬真も食べな」
八重さんが言う。
「食べてる」
「さっきから箸が止まってるよ」
「止まってない」
「止まってるねえ」
八重さんは楽しそうに笑っている。神代君は少し嫌そうな顔をした。
その顔が、いつもの神代君らしくて、私はまた笑いそうになる。でも、同時に少しだけ気になった。
神代君は、どうしてそんなに落ち着かないのだろう。
疲れたのだろうか、海で泳いだから。それとも、夕方に歩きすぎたから。
「冬真、海で疲れたか?」
恒一さんが聞いた。
「別に」
「昼間、七瀬さんとずいぶん泳いでただろ」
「普通に泳いだだけ」
「そうか?」
「そうだよ」
千春さんが横から笑う。
「車の中も楽しそうだったわよね。ずっと話してたし」
その瞬間、神代君の箸が止まった。私も、ほんの少しだけ動きを止めてしまった。
なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。ただ、車の中のことを言われた瞬間、胸の奥に小さな音がした。
楽しかった。確かに、楽しかった。
三国志の話をしているだけなのに、なぜか楽しくて。
神代君が少し早口になったり、変なところで真剣になったり、趙雲の話になると妙に熱が入ったり。
その全部が、少し可笑しくて少し嬉しかった。
「三国志の話でしょう?」
おばあちゃんが穏やかに言った。
「澪も、あんなに楽しそうに話すのは珍しいわ」
「おばあちゃん」
私は困って、おばあちゃんを見る。そんなふうに言わなくてもいいのに。でも、おばあちゃんはただ優しく笑っているだけだった。からかっているわけではない。だから、余計に困る。
「神代君も楽しそうだったよ」
気づけば、私はそう言っていた。神代君が少し固まる。
「……そうか?」
「うん。趙雲の話の時、特に」
「それは仕方ない」
「仕方ないんだ」
「趙雲だからな」
あまりにも真面目に言うから、私は小さく笑ってしまった。すると、神代君はまた視線を落とした。
見てくれない。
さっきから、目が合いそうになると逸らされる。嫌われているわけではないと思う。少なくとも、夕方までの神代君は普通だった。少し不器用で、少しぶっきらぼうで、でも優しくて。いつもの神代君だった。なのに今は、どこか違う。私の方を見ないくせに、私が話すと反応する。私が笑うと、ほんの少し動きが止まる。そのたびに、こちらまで落ち着かなくなる。どうして。そう思ったけれど、聞けなかった。
食卓は、ずっと賑やかだった。
八重さんが料理に大げさに喜んで、おばあちゃんがそれをたしなめる。恒一さんが呆れて、千春さんが自然に取り分ける。神代君が適当に返すと、八重さんがさらに余計なことを言う。そのたびに、みんなが笑う。
特別なことは何も起きていない。
ただ、みんなで夕飯を食べているだけ。それなのに、その空気がとても優しかった。
私は、何度もその光景を見ていた。八重さんが笑う顔。おばあちゃんが穏やかに頷く顔。恒一さんが呆れながらも楽しそうにしている顔。千春さんが自然に料理を取り分ける手元。そして、向かいで少し落ち着かない神代君。
この中に、私も座っている。それが、少し不思議だった。
私がここにいていいのだろうか。そう思うのに、誰も私を外側に置かない。八重さんは当たり前のように料理を勧めてくれる。
千春さんは
「熱いから気をつけてね」
と小鍋のことを教えてくれる。恒一さんは神代君をからかいながら、私にも自然に話を振ってくれる。神代君は、あまり私を見ない。でも、私が困るようなことは言わない。その距離が、なぜか心地よかった。近すぎない、遠くもない。
私は、その場所に少しずつ馴染んでいく自分に気づいていた。それが嬉しくて同時に、少し怖かった。
「澪ちゃん」
八重さんが呼んだ。
「はい」
「楽しいかい?」
急な問いだった。
私は少し驚いて、瞬きをした。「楽しいか」そんなことを、真正面から聞かれるとは思わなかった。けれど、答えはすぐに出た。
「……はい。すごく」
声は静かだった。でも、嘘ではなかった。
本当に、楽しかった。
この食卓も海の音も料理の匂いも、おばあちゃんが笑っていることも、神代君が向かいにいることも。全部が、今の私には少し眩しかった。
「そうかい。それならよかった」
八重さんは満足そうに笑った。おばあちゃんは何も言わず、私を見ていた。その目が、とても優しかった。
私は少しだけ視線を落とす。見透かされている気がした。ただ、胸の奥にあるものを、おばあちゃんだけは知っているような気がした。
「冬真」
今度は八重さんが神代君を呼ぶ。
「何?」
「ちゃんと食べな」
「食べてる」
「食べてないよ」
「食べてるって」
「若いんだから、もっと食べな」
「さっき俺の茶碗蒸しを七瀬に渡そうとしてただろ」
私は笑ってしまった。
すると、神代君がついに顔を上げた。一瞬だけ、目が合いそうになる。でも、すぐに逸らされた。
「神代君?」
思わず呼んでいた。
「……何でもない」
「そう?」
「うん」
やっぱり少し変だ。でも、その変さが嫌ではなかった。むしろ、なぜか胸の奥がくすぐったくなる。私はそれを、海で疲れているせいだと思うことにした。旅行で気分が浮かれているから。おばあちゃんが楽しそうだから。八重さん達の食卓が優しいから。きっと、それだけだ。夕食は賑やかに進んだ。
海鮮料理はどれも美味しかった。八重さんは本当によく食べた。おばあちゃんはそんな八重さんに呆れながらも、ずっと楽しそうだった。恒一さんと千春さんも穏やかだった。神代君は、時々ぶっきらぼうに返事をしながら、結局ちゃんと食べていた。私はその光景を、何度も見ていた。忘れたくないと思った。そう思った自分に、少し驚いた。ただの夕食なのに。旅館で、みんなで料理を食べているだけなのに。それでも、私にとっては大切なものに見えた。優しい食卓。笑ってもいい場所。黙っていてもいい場所。無理に完璧な笑顔を作らなくても、そこにいていい場所。私は、そういうものを欲しがっていたのかもしれない。ずっと、自分でも気づかないふりをしながら。
「美味しいね、澪」
おばあちゃんが言った。
「うん。すごく美味しい」
私は頷く。本当に美味しかった。でも、料理だけではなかった。この空気が。この時間が。この場所が。たまらなく、優しかった。向かいの神代君は、また視線を料理に落としている。どうしてそんなに私を見ないのか、やっぱり分からない。分からないけれど。不思議と、寂しくはなかった。神代君がそこにいる。
同じ食卓にいる。私が笑えば、少しだけ反応する。それだけで、十分な気がした。十分だと思いたかった。遠くから、海の音が聞こえる。昼間とは違う、暗い海の音。でも怖くはなかった。
この食卓の明かりの中にいると、夜の海さえ優しく聞こえた。私は箸を握り直し、小さく息を吐いた。楽しい、本当に、楽しい。
こんなふうに思える夜があるなんて、知らなかった。私はそっと顔を上げる。向かいの神代君は、やっぱり私を見ていない。その横顔を見て、胸の奥がまた小さく揺れた。理由は分からない。分からないままでいい。今はまだ。ただ、この時間を大事にしたいと思った。
おばあちゃんが笑っているこの夜を。八重さん達が楽しそうにしているこの食卓を。遠くから聞こえる海の音を。そして、向かいに神代君が座っていることを。私は、忘れたくないと思った。




