4-2)伊豆旅行2(夕陽に染まる君)
夕方。
海で泳いだ後の身体には、まだ少しだけ疲れが残っていた。昼間の熱は少しずつ引いて、砂浜を吹く風も、さっきよりずっと涼しくなっている。部屋に戻って着替えた後、俺と七瀬は少しだけ海岸を歩くことになった。特に何か目的があったわけじゃない。ただ、夕陽が綺麗だったから。たぶん、それだけだった。隣を歩く七瀬の髪は、まだ完全には乾ききっていなかった。昼間に海で濡れたせいで、毛先が少しだけ波打っている。普段のまっすぐ整った髪とは違う。それだけで、妙に目が行った。
七瀬は白地に淡い水色の小花柄のワンピースを着ていた。膝の少し下くらいまである裾が、海風に揺れる。袖は短めで、足元は白いサンダル。昼間の水着姿とは、まるで違っていた。あの時は正直、目のやり場に困った。
見てはいけないものを見てしまった気がして、どうしていいか分からなかった。でも、今は違う。目のやり場に困っているわけじゃない。目を逸らしたいわけでもない。ただ、逸らせなかった。隣を歩く七瀬から、目が離せない。
白地のワンピース。淡い水色の小さな花。夕陽を受けて、ほんの少し赤く見える頬。海風に揺れる髪。それら全部が、昼間よりずっと静かに、俺の中に入り込んでくる。昼間の浮ついた空気は、もう消えていた。海で騒いだ声も、はしゃいだ気持ちも、少しずつ遠くなっている。今あるのは、波音と夕陽だけだった。それから、隣を歩く七瀬の気配。
「……綺麗だね」
七瀬が海を見ながら言った。
俺は一瞬、何が綺麗なのか分からなかった。
夕陽のことだ。海のことだ。分かっている。
分かっているのに、俺は返事に詰まった。
「……そうだな」
何とかそれだけ返す。
七瀬は俺の方を見なかった。
ただ、夕陽に染まる海を見ていた。
その横顔が、あまりにも静かで。あまりにも綺麗で。俺は、何も言えなかった。
西に傾いた陽が、視界を赤く染めていく。眩しくて、少し目を閉じた。斜陽が眩しくて目が開けられないのか。七瀬が眩しくて目が開けられないのか。俺には、もうよく分からなかった。ただ、一つだけ分かることがある。この気持ちに気づかない振りをするには、少しだけ遅すぎた。
俺は七瀬澪が好きだ。ずっと前から。桜の下で見た時から。同じクラスになった時から。三国志の話で笑った時から。昼間、水色の水着姿に息を忘れた時から。
いや、どこからなのかなんて、どうでもいい。
今、隣を歩く七瀬を見て、はっきりと思った。
俺は七瀬澪が好きだ。
「神代君?」
黙り込んだ俺に気づいたのか、七瀬がこちらを見る。
その表情は眩しかった。
「どうしたの?」
「……いや」
俺は慌てて視線を海に戻した。言えるわけがない。今ここで、そんなことを言ったら、たぶん全部が変わってしまう。
この波音も、この夕陽も、隣を歩くこの距離も。全部、今のままではいられなくなる。
「何でもない」
そう言うと、七瀬は少しだけ不思議そうに俺を見た。けれど、深くは聞かなかった。
「そっか」
七瀬はそう言って、また海の方を向く。
その声が、やけに優しかった。俺は隣を歩きながら、拳を小さく握った。
でも、まだ言えない。言えるほど、俺は強くない。
この人の隣に立って、ちゃんと目を見て、好きだと言えるほどの勇気はまだない。それでも。もう、気づかない振りはできない。
夕陽に染まる海岸を、俺たちは並んで歩いた。少し近いようで、まだ遠い距離のまま。
波音だけが、ずっと続いていた。




