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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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4)夏休み  4-1)あんまり見ないで

(伊豆旅行1)


朝七時。

父、恒一の運転するアルファードは、まだ少し涼しさの残る街を抜けて、静岡県の土肥海岸へ向かっていた。運転席には父さん。助手席には母さん。二列目には八重ばあちゃんと志乃さん。そして三列目には、俺と七瀬が並んで座っている。正直、乗り込んだ直後はかなり気まずかった。


隣に七瀬がいる。


それだけで、どういう顔をして座っていればいいのか分からなくなる。近すぎるわけじゃない。むしろアルファードの三列目はそれなりに広い。でも、近い。教室で同じ空間にいるのとは違う。家で会うのとも違う。旅行先へ向かう車の中で、隣に座っている。その事実だけで、妙に落ち着かなかった。七瀬も少しぎこちなかった。


窓の外を見るふりをしているけれど、たぶん何を話せばいいのか分からないのだと思う。「……暑くなりそうだな」


「うん」


「……渋滞、ないといいな」


「そうだね」


全然、会話が続かない。終わった。俺は開始十分で詰んだ。


そう思った時だった。


前の席で、ばあちゃんと志乃さんが、楽しそうに伊豆の話をしている。海が綺麗だとか、昔行った時はどうだったとか、そういう話だ。


俺は窓の外を見ながら、何となく口にした。


「……こういう出発の感じ、劉備が蜀に入る時っぽいな」


ぼそっと言ってから、後悔した。


何を言っているんだ俺は。


朝七時の家族旅行を、なぜ劉備の蜀入りに例えた。


普通に考えて意味が分からない。


しかも隣にいるのは七瀬だ。


旅行の出発で、いきなり劉備の蜀入り。


会話の切り出し方としては、たぶん最悪に近い。


俺は慌てて取り消そうとした。


「いや、今のは――」


「赤壁じゃなくて?」


七瀬が言った。


俺は思わず七瀬を見る。拾うのか。


しかも、そこを赤壁で返すのか。


「……赤壁?」


「うん。これから海に向かうんだし。風もあるし」


七瀬は、当たり前みたいにそう言った。


「いや、赤壁はこれから大戦争だろ」


「神代君の蜀入りも、だいたい領地取りだよ」


「……それはそう」


「旅行の始まりに領地取りは、ちょっと物騒かも」


七瀬はそう言って、少しだけ笑った。


いつもの、綺麗すぎる笑顔ではなかった。


もっと自然で、少しだけ呆れたような笑い方だった。


その顔を見た瞬間、胸のあたりがふっと軽くなった。


「じゃあ、何ならいいんだ?」


「うーん、やっぱ、赤壁前夜とか?」


「だから、それはこれから大戦争じゃん」


「でも、盛り上がりはあるよ」


「旅行に戦争の盛り上がりはいらないだろ」


「神代君が先に劉備の蜀入りって言ったんだよ」


「それはそう」


気づけば、普通に話していた。


そこからは止まらなかった。


趙雲の話。


荀彧の話。


曹操の話。


諸葛亮の話。


八重ばあちゃんの誕生日会でも話したはずなのに、車の中で改めて話すと、少し違って聞こえた。


前の席では八重ばあちゃんと志乃さんが伊豆の話で盛り上がっている。父さんは運転に集中していて、母さんは時々相づちを打っている。


その少し後ろで、俺と七瀬だけが、三国志の話をしていた。


「七瀬、やっぱり荀彧好きなんだよな」


「うん。好き」


「分かる。曹操陣営なら荀彧は外せない」


「神代君は趙雲でしょ?」


「趙雲は別格」


「分かりやすいね」


「悪いか」


「悪くないよ。神代君っぽい」


それがどういう意味なのか、少し気になった。


でも、七瀬の声がやわらかかったから、悪い意味ではない気がした。


それがどういう意味なのか、少し気になった。でも、七瀬の声がやわらかかったから、悪い意味ではない気がした。


俺は、誰かとこんなに話したことがあっただろうか。


蓮とはもちろん話す。でも蓮との会話は、もっと雑で、もっと適当だ。釣りの話をして、くだらないことを言って、缶コーヒーを飲んで終わる。


それはそれで居心地がいい。でも七瀬との会話は、少し違った。言葉を選んでいるのに、疲れない。相手に嫌われないように気を遣っているはずなのに、苦しくない。むしろ、次に何を話そうかと考えるのが楽しかった。


七瀬も、楽しそうだった。


少なくとも、俺にはそう見えた。


二列目のばあちゃんと志乃さんが、何度か振り返っていたことには気づいていた。


親父もバックミラー越しにこっちを見ていた。母さんは何も言わず、前を向いたまま少し笑っていた。


多分、大人たちは気づいている。俺と七瀬が、時間を忘れて話していることを。


でも誰も邪魔はされなかった。その気遣いが、恥ずかしかった。


三時間後の午前十時頃、車は土肥海岸のホテルに着いた。


ホテルは海のすぐ目の前だった。


ロビーの大きな窓から、青い海が見える。夏の日差しを受けて、波がきらきら光っていた。「わあ……」


七瀬が小さく声を漏らした。その横顔を、俺は思わず見てしまった。海を見ている七瀬は、いつもの教室の七瀬とは少し違っていた。ほんの少しだけ、子供みたいだった。


「すごいな」


俺が言うと、七瀬は頷いた。「うん。すごい」


部屋からそのまま水着で海へ行けるらしい。それを聞いた瞬間、俺と七瀬のテンションは分かりやすく上がった。


車の中で散々話していたせいか、もう最初のぎこちなさはなかった。


「神代君、泳ぐ?」


「泳ぐ。七瀬は?」


「私も泳ぐ」


「じゃあ、行くか」


「うん」


そこまでは自然だった。


本当に、何も考えていなかった。


ただ海に来たから泳ぐ。それだけだった。けれど部屋に入って、荷物を置いて、着替える段階になって、俺はようやく気づいた。


水着になる。七瀬も、水着になる。その事実に気づいた瞬間、さっきまでの勢いが一気に消えた。いや、海に来ているのだから当たり前だ。


当たり前なのに、全然当たり前じゃなかった。俺は、海パンに着替え、シャツを羽織った。


鏡の前で一度、自分を見る。別に変ではない。たぶん普通だ。普通だが、七瀬に見られると思うと急に落ち着かなくなる。


いや、何を意識しているんだ。ただの海だ。ただ泳ぐだけだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は先に外へ出た。


ホテルのすぐ前には、青い海が広がっている。砂浜は白く、空は高く、波の音が近い。


俺は海の方を見ながら、七瀬を待った。しばらくして、背後から足音がした。


「……待たせた?」


七瀬の声だった。振り向いた。その瞬間、呼吸の仕方を忘れた。


水色のビキニ。白い肌。細い肩。麦わら帽子の影に隠れた、少し赤い頬。


普段の制服姿とはまるで違う。教室で見る七瀬でもない。神代家で見る七瀬でもない。車の中で三国志の話をしていた七瀬でもない。


夏の光の中に立っている、一人の女の子だった。


眩しかった。


本当に、目を逸らさないといけないくらい眩しかった。


「……神代君」


七瀬が小さく呼んだ。その声で、ようやく我に返る。俺は慌てて視線を海の方へ逃がす努力をした。


「いや、その……」


でも、似合ってるとか、綺麗だとか、可愛いとか。そんな言葉を正面から言えるほど、俺に勇気はなかった。


七瀬は何か言おうとして、言えなかったように見えた。代わりに、頭に乗せていた麦わら帽子のつばを、そっと指で下ろす。顔が見えなくなるくらい、深く。


「……あんまり、見ないで」


その声が、波音に混じって届いた。少しだけ震えていた。


俺はますます困った。


見ない方がいい。絶対に見ない方がいい。それは分かっている。分かっているのに。帽子の影に隠れた赤い頬が、どうしようもなく可愛かった。


「……変じゃない?」


帽子の影から、七瀬が小さく聞いた。俺は言葉に詰まった。変じゃない。そんな言葉では足りない。


水色のビキニも。白い肌も。細い肩も。麦わら帽子の影に隠れた赤い頬も。全部、見てはいけないくらい眩しかった。でも、それを全部言えるわけがない。言ったらたぶん、俺はその場で死ぬ。


「……似合ってる」


それだけ言うのが限界だった。七瀬は帽子のつばを掴んだまま、少しだけ俯いた。


「……そっか、ありがと」


その声は、波音に溶けそうなくらい小さかった。でも、俺にはちゃんと聞こえた。さっきまで、あんなに普通に話せていたのに。


曹操がどうとか、荀彧がどうとか、趙雲がどうとか、時間を忘れるくらい話せていたのに。今は隣に立っているだけで、何を言えばいいのか分からない。


夏の海の前で、俺達はどうしようもなく不器用だった。


「……行くか」


何とかそれだけ言った。


「うん」


七瀬が頷く。二人で並んで砂浜へ歩き出した。


砂は熱くて、波は眩しくて、空はどこまでも青かった。


七瀬の麦わら帽子が、潮風に揺れる。俺は前を向いたまま歩いた。


見ないように。いいや、なるべく見ないように。でも、隣にいる気配だけで心臓がうるさい。波打ち際まで来ると、七瀬が足先でそっと海水に触れた。


「冷たい」


「夏なのに?」


「最初だけ」


七瀬は少し笑った。その笑顔は、車の中で三国志の話をしていた時のものに似ていた。それを見て、俺はようやく少し息ができた。


「じゃあ、行くぞ」


ぎこちなさは、まだ残っている。けれど、それも少しずつ波音に溶けていくようだった。


次の波が足元をさらった瞬間、七瀬が少しだけバランスを崩した。


俺は反射的に手を伸ばす。七瀬の手が、俺の手を掴んだ。


ほんの一瞬だった。


でも、その一瞬でまた言葉が消えた。


「……大丈夫?」


「うん。大丈夫」


七瀬はそう言って、すぐに手を離した。それなのに、手の感触だけがしばらく残った。


海は青くて、空は高くて、波音は絶え間なく続いている。


俺と七瀬が、まだ近いようで遠いこと。遠いようで、少しだけ近づいていること。俺は隣を歩く七瀬を、ほんの少しだけ横目で見た。水色のビキニ。麦わら帽子。夏の光。そして、少しだけ赤い頬。たぶん俺は、この日の七瀬を忘れられないだろう。そんな気がした。

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