3-14)水色のビキニ
伊豆旅行の日程が決まってから、七瀬澪は少しだけ忙しそうだった。
志乃さんの薬。日焼け止め。羽織るもの。歩きやすい靴。念のための保険証。
教室でそんな話を聞いた時、ひかりは、澪らしいなと思った。
自分の旅行の準備というより、志乃さんの付き添いの準備。
伊豆の海に行くと聞けば、普通はもっと浮かれてもいい。
水着だとか、写真だとか、海辺のカフェだとか、そういう話になってもおかしくない。
けれど澪の口から最初に出てくるのは、志乃さんの薬と体調のことだった。
翌日の放課後。
ひかりは澪と一緒に、駅前のショッピングモールへ向かっていた。
「おばあちゃん達が、伊豆の海に行こうって盛り上がって」
歩きながら、澪が少し嬉しそうに話す。
「へえ、いいじゃん。夏っぽい」
「うん。八重さんとおばあちゃんが、砂浜でのんびりしたいって」
「八重さんって、神代君のおばあちゃん?」
「うん」
澪は素直に頷いた。その表情は穏やかだった。
いつもの、誰かに合わせるための笑顔ではない。
志乃さんのことを考えている時の、少し柔らかい顔。
ひかりはそれを見て、少し安心した。
「だから、私もおばあちゃんの付き添いで行くことになって」
「なるほどね」
ひかりは自然に相槌を打った。
それから、澪は少しだけ間を置いた。本当に、少しだけ。
気にしなければ流してしまうくらいの沈黙だった。
「神代君も来る」
その一言を聞いた瞬間、ひかりは表情を変えなかった。
変えなかったけれど、心の中では、「ああ」と思った。
なるほど、それで水着か。
「そっか。神代君も一緒なんだ」
「うん。八重さんの付き添いで」
「おばあちゃん同士の旅行に、孫二人が付き添いって感じ?」
「そう。そんな感じ」
澪の声は普通だった。
けれど、ひかりには少しだけ違って聞こえた。
神代君も来る。
その言葉だけ、澪の声がわずかに硬かった。
まるで、自分でも余計な意味を持たせないようにしているみたいだった。
ひかりは何も言わずに微笑んだ。
ここで「だから水着を買うんだ?」なんて聞いたら、澪はきっと困る。
下手をすれば、その場で気持ちを閉じてしまう。
あるいは、急に無難なものを選び始める。
それは少し、もったいない。
だから、ひかりはあくまで普通に言った。
「じゃあ、ちゃんと可愛いの選ばないとね」
「可愛いのじゃなくてもいいよ。おばあちゃんの付き添いだし」
「はいはい。付き添いね」
「本当にそうだから」
「分かってるって」
ひかりは笑った。分かっている。
澪が本気で志乃さんの付き添いとして行くつもりなのは本当だ。
志乃さんを大切にしているのも本当。
伊豆旅行を楽しみにしているのも本当。
でも、その中に神代君がいることも、たぶん本当だった。
ショッピングモールの水着売り場は、夏の色で満ちていた。
白、黒、ピンク、ネイビー、花柄、淡いグリーン、水色。
ワンピース型もあれば、ビキニもある。
棚に並んだ色とりどりの水着を見て、ひかりは素直に楽しくなった。
「澪の水着選び、普通に楽しいんだけど」
「そんなに楽しい?」
「楽しいよ。素材がいいから」
「素材って言わないで」
澪が少し困ったように言う。
その困り方も、いつもの澪より少し柔らかかった。
ひかりは笑いながら、まず澪が何を選ぶのか見守ることにした。
澪が最初に手に取ったのは、ネイビーのワンピース型だった。
落ち着いて上品ではあり、澪には似合うと思う。
けれど、ひかりはすぐに首を横に振った。
「落ち着きすぎ」
「そう?」
「澪には似合うよ。でも去年も似たようなの着てそう」
「……着てた」
「ほら」
澪は少しだけ気まずそうにして、その水着を棚に戻した。
次に手に取ったのは、白いビキニだった。
清潔感があって、形も綺麗だった。
鏡の前で身体に当てる澪を見て、ひかりは普通に似合うと思った。
けれど、澪はすぐに首を横に振った。
「これはちょっと目立つ」
「目立つけど似合うよ」
「似合うのと着られるのは別」
「それは分かる」
ひかりは素直に頷いた。
澪は慎重に水着を選んでいた。
黒は大人っぽすぎる。ピンクは甘すぎる。花柄は可愛いけれど、自分には華やかすぎる気がする。
そうやって、何着か手に取っては戻していく。
ひかりは横で見ながら、少しずつ澪の迷い方を観察していた。
似合うかどうかだけで迷っているわけではない。
派手すぎないか。子供っぽくないか。八重さんや志乃さんの前で変ではないか。
そして、ほんの一瞬だけ、別の何かを考えている顔をする。
たぶん、神代君のことだ。
いや、そこまで言い切るのは早いかもしれない。けれど少なくとも、澪はその名前を意識している。
ひかりには、そう見えた。
今ここで「神代君に見せるんでしょ」なんて言えば、澪は絶対に否定する。
そして、否定するために、いちばん無難なものを選んでしまう。
それは違う気がした。
「これ、どう?」
ひかりは一着の水着を手に取った。
淡い水色のビキニだった。
派手ではない。
でも、地味でもない。
胸元に小さなリボンがついていて、可愛らしいけれど甘すぎない。
色は明るいが、澪の雰囲気から浮くほどではなかった。
「水色?」
澪は少し意外そうに見た。
「うん。澪っぽい」
「私っぽいかな」
「澪っぽい。清楚だけど、ちゃんと夏っぽい。あと、海に合う」
澪は水色の水着を受け取った。
手の中で広げてみる。
その表情を見た時、ひかりは少しだけ手応えを感じた。
嫌がっている顔ではない。
困っている顔でもない。
迷っている。
けれど、それは似合わないと思っている迷いではなかった。
「でも、ビキニか……」
「そこ気にする?」
「少し」
「大丈夫。これは変に派手じゃないし、澪なら上品に見えるよ」
澪はもう一度、水着を見た。
白ほど目立たない、ネイビーほど重くない、ピンクほど甘くない。
海辺で着たら、きっと綺麗に映える。
ひかりは、あえて軽く言った。
「試着してみたら? 嫌なら戻せばいいし」
「……うん」
澪は水色の水着を持って試着室に入った。
カーテンが閉まる。
ひかりはその前で、他の水着を眺めるふりをした。
少しして、カーテンの向こうから小さな声がした。
「ひかり」
「どう?」
「……変じゃない?」
その声は、いつもの澪より少しだけ頼りなかった。
教室で男子に向ける完璧な笑顔の澪ではない。
柚葉の隣で穏やかに笑っている澪でもない。ほんの少し、不安そうな澪。
ひかりはカーテン越しに答えた。
「変だったら変って言うよ」
少し間があった。
それから、カーテンがほんの少しだけ開いた。
水色のビキニを着た澪が、恥ずかしそうに立っていた。
ひかりは一瞬、素直に見とれた。
綺麗だった。
けれど、ただ綺麗なだけではなかった。
淡い水色が澪の白い肌に合っていて、いつもの落ち着いた雰囲気を残したまま、少しだけ柔らかく見せている。
大人っぽすぎず、子供っぽすぎない。清楚で、夏らしくて、ちゃんと可愛い。
「似合う」
ひかりは即答した。澪は少し眉を下げた。
「本当に?」
「本当に。これが一番いい」
「派手じゃない?」
「派手じゃないよ。むしろちょうどいい」
「……そうかな」
澪は試着室の鏡を見た。
その横顔を見て、ひかりは何となく分かった。
澪自身も、悪くないと思っている。
むしろ、少しだけ気に入っている。
でも、それを素直に認めるのが恥ずかしいのだ。
澪は鏡の中の自分を見つめていた。
その時間が、ほんの少し長い。
澪はたぶん、想像している。
伊豆の海。
砂浜。
八重さんと志乃さん。
そして、神代君。
見せたいから選んだわけではない。
ひかりが似合うと言ったから。ひかりが選んでくれたから。
だから、これにする。
澪はきっと、そんなふうに自分に今、理由をつけている。
ひかりは、それでいいと思った。
澪自身は分からないままでいい。
外から先に名前をつけてしまえば、澪はきっと逃げる。
「じゃあ、これにしようかな」
「うん。それがいい」
ひかりは笑って頷いた。
試着室のカーテンが閉まる。
澪が着替えている間、ひかりは水着売り場の明るい照明をぼんやり見上げた。
澪は綺麗だ。学校でも、そう思っている人はたくさんいる。
けれど、今日の澪は、ただ綺麗なだけではなかった。
少し迷って。少し恥ずかしがって。
誰かを意識していることに、自分で気づかないふりをしている。
その不器用さが、ひかりには可愛く見えた。
澪は着替えを終えて、水着を持って試着室から出てきた。
「本当にこれでいいかな」
「いい」
「即答だね」
「即答できるくらい似合ってたから」
「……ありがとう」
澪は少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、ひかりは胸の中で小さく頷いた。
これでいい。
無難なネイビーに逃げなくてよかった。
白みたいに目立ちすぎるものでもなく、ピンクみたいに甘すぎるものでもない。
澪が澪のままで、少しだけ夏らしくなれる水着。
それを選べた気がした。
レジで会計を済ませ、紙袋を受け取る。
店を出る頃には、夕方の光がショッピングモールの床に長く伸びていた。
「伊豆、楽しみだね」
ひかりは何気なく言った。
「うん。おばあちゃんも楽しみにしてる」
「神代君も?」
澪は一瞬だけ黙った。
本当に一瞬だけだった。
けれど、ひかりには分かった。
「……たぶん。八重さんの付き添いで来るって言ってたから」
「そっか」
ひかりはそれ以上、何も言わなかった。
言えば、澪はまた自分の気持ちに蓋をしてしまう。
澪も、それ以上は続けなかった。
ただ、紙袋を少しだけ持ち直した。
淡い水色の水着。ひかりが選んでくれた水着。
だから、これにした。澪はきっと、そう思っている。
そう思うことで、胸の奥の落ち着かなさに、ちゃんと理由をつけている。
隣を歩く澪を横目で見ながら、ひかりは静かに微笑んだ。
言わなくても分かることがある。言わない方がいいこともある。
今の澪には、たぶんその両方だった。
だから、ひかりは何も言わない。ただ、友達として隣を歩いた。
紙袋の中で、淡い水色が小さく揺れている。
それが伊豆の海で、誰の目にどう映るのか。
ひかりは少しだけ楽しみにしながら、澪の隣を歩き続けた。
澪はまだ、自分が何を楽しみにしているのか、きっと分かっていない。




