3-13)楽しみだね
七月の終わり。
期末テストの結果が出て、夏休みが近づいてきた頃だった。
その日の夕方、俺は駅から少し離れた住宅街を、ばあちゃんと並んで歩いていた。
「冬真、ちゃんとした服で来たわね」
「ちゃんとした服って何だよ」
「この前みたいな黒いTシャツ一枚じゃなくて安心したってこと」
「……あれはあれで普通だろ」
少し不満そうに言うと、ばあちゃんは楽しそうに笑った。
今日は、ばあちゃんと一緒に食事に行く日だった。
相手は七瀬志乃さんと、その孫の七瀬澪。
場所は、近所で美味しいと評判のイタリアンレストラン――
近所のイタリアン。祖母同士の食事会。
そこまではいい。いや、別にいい。問題は、そこに七瀬が来ることだった。
それだけで、普通の夕食ではなくなる。ただの外食じゃない。
俺にとっては、ほとんど試験みたいなものだった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
ばあちゃんが横から言う。
「してない」
「してるわよ」
「してないって」
「じゃあ、さっきから歩く速度が少しずつ速くなってるのは何?」
「……」
言い返せなかった。自覚は、少しだけあった。
駅から離れた住宅街に入ると、人通りは少なくなった。
夕方の空気はまだ少し暑く、アスファルトに昼間の熱が残っている。
それでも、日が落ち始めたせいか、風はほんの少しだけ涼しかった。
店に着くと、窓の外まで柔らかい黄色の灯りが漏れていた。白い壁に、木目の扉。
大きすぎず、かしこまりすぎず、それでいて少しだけ特別感がある店だった。
こういう店は、慣れていない。
入った瞬間に浮くんじゃないかと思った。いや、別に浮かないだろ。
普通にすればいい。普通に。
そう自分に言い聞かせながら、扉を開ける。
チーズとオリーブオイルの香りが、ふわりと漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
店員に案内され、奥のテーブルへ向かう。
そこに、志乃さんと七瀬はすでに座っていた。
「八重さん、冬真君」
志乃さんが穏やかに微笑む。
「こんばんは」
七瀬も椅子から少し立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
白い半袖のブラウスに、淡い水色のプリーツミニスカート。
薄いベージュのサマーカーディガン。
白いショートソックス。派手ではない。
けれど、店の柔らかい灯りの中で、七瀬はやはり目を引いた。
学校で見る時より、少しだけ柔らかい雰囲気に見えた。
たぶん、照明のせいだ。たぶん。
そういうことにしておかないと、まともに見られない。
「こんばんは」
俺は慌てて頭を下げた。声が少し硬かった。自分でも分かった。
七瀬はそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「神代君、こんばんは」
ただ、それだけだった。名前を呼ばれただけ。挨拶されただけ。
なのに、胸の奥が変にうるさくなった。
学校では、七瀬は誰に対しても丁寧で、綺麗で、遠い存在だった。
男子とはほとんど話さない。告白されても、笑顔のまま、相手を近づけない。
そんな彼女が、自分の名前を呼んで、普通に話してくれる。
それがまだ、俺には信じられなかった。
まるで、何かの手違いで、自分だけ特別な席に座らされているような気分だった。
四人が席につくと、ばあちゃんと志乃さんはすぐに楽しそうに話し始めた。
「このお店、前から来てみたかったのよ」
「私も。近所の人が美味しいって言っていて」
「今日はたくさん頼みましょうね」
「ええ。若い子達もいるし」
その“若い子たち”に分類された俺と七瀬は、向かい合うように座っていた。
正確には、ばあちゃんの隣に俺。志乃さんの隣に七瀬。
つまり、俺の正面が七瀬だった。逃げ場がない。
メニューを開く。文字を読む。読んでいるふりをする。いや、読んでいる。
でも、内容が頭に入らない。目の前に七瀬がいる。
メニューに視線を落としている横顔は静かで、店の灯りのせいか、いつもより少し柔らかく見えた。
その時、七瀬が一度、志乃さんの方を見た。それから、少しだけ迷ったように俺へ視線を戻す。
「神代君、辛いの平気?」
「え?」
変な声が出かけた。七瀬はメニューの一つを指先で示した。
「ペペロンチーノ。少し辛いかもしれないから」
「あ、うん。平気」
「そう」
七瀬は小さく頷いた。それだけの会話だった。
でも、俺の中では、会話として成立しただけで事件だった。
七瀬が。俺に。普通に。話しかけてくれた。心の中で、妙に細かく確認してしまう。
まともに話したことなんて、ほとんどない。
ばあちゃんの誕生日会の時くらいだ。
あの時だって、ばあちゃん達がいて、志乃さんがいて、三国志の話があって。
だから、たまたま言葉が続いただけだと思っていた。
それなのに。今、七瀬は俺に向かって、普通に言葉を投げている。普通に。
まるで、それが当たり前みたいに。
慣れない。慣れてしまったら、罰が当たりそうだった。
最初に運ばれてきたのは、シーザーサラダだった。
大きめにちぎられたレタスに、チーズがたっぷりとかかっている。
クルトンの香ばしい匂いがした。
「澪ちゃん、取り分け上手ね」
ばあちゃんが感心したように言う。
「そんなことないです」
七瀬はそう言いながら、志乃さんの皿に先に取り分けた。
その手つきは自然だった。
志乃さんの分を少し小さめに。ばあちゃんの分は野菜を多めに。俺の皿には、クルトンが少し多めに入っていた。
偶然かもしれない。いや、偶然だろう。
でも、そういう細かいところに気づいてしまう自分が嫌だった。
期待するな。勝手に意味を作るな。そう思うのに、胸の奥が少しだけ詰まる。
「神代君、チーズ大丈夫?」
七瀬が、少し控えめに尋ねた。
たぶん、取り分ける前に確認してくれただけだ。
それだけだ。
「ああ。大丈夫。好き」
「よかった」
七瀬がそう言って、ほんの少し笑った。
フォークを持つ手に、少し力が入った。
普通に話している。普通に食事している。向かいに七瀬がいる。
それだけで、何かがおかしかった。
サラダの次に、パスタが運ばれてきた。
ソーセージと夏野菜のペペロンチーノ。
それから、ベーコンとキャベツとジャガイモのクリームパスタ。
ペペロンチーノはにんにくの香りが強く、ソーセージの塩気と夏野菜の甘さが合っていた。
クリームパスタは、ジャガイモが入っているせいか、少し優しい味がした。
「こっち、美味しいわね」
志乃さんがクリームパスタを口にして微笑む。
「ジャガイモが入ってるの、珍しいですね」
七瀬が言う。
「冬真はどっちが好き?」
ばあちゃんが尋ねた。
「俺はペペロンチーノかな」
「若いわねえ」
「それ関係ある?」
「あるわよ。男の子はにんにくとソーセージが好きでしょう?」
「雑だな、その分類」
小さく突っ込むと、ばあちゃんと志乃さんが笑った。
七瀬も、口元に手を添えて笑った。
その笑い方を見て、俺は少しだけ息を止めた。
学校で見る七瀬の笑顔とは、少し違う気がした。
うまく言えない。完璧ではない。整いすぎていない。
でも、だからこそ、目が離せなかった。
やがて、ピッツァが二枚運ばれてきた。
マルゲリータと、クアトロフォルマッジ。
焼きたての生地の匂いと、溶けたチーズの香りがテーブルに広がる。
「クアトロフォルマッジには、はちみつをかけるんですって」
志乃さんが小さな器を手に取る。
「甘いピザってどうなんだろ」
つい呟くと、七瀬が少しだけ楽しそうに俺を見た。
「神代君、苦手そう」
「いや、食べる前から負けたくない」
「何に?」
「未知の食べ物に」
七瀬が小さく笑った。
「大げさ」
その声が、やけに優しく聞こえた。
クアトロフォルマッジにはちみつを少しかけて食べると、思っていたより美味しかった。
チーズの塩気と、はちみつの甘さが合っている。
「……美味い」
素直に言うと、ばあちゃんが満足げに笑った。
「ほらね。食わず嫌いは駄目よ」
「別に嫌ってたわけじゃない」
「顔が警戒してたわよ」
「ピザに警戒って何だよ」
また、七瀬が笑った。その笑顔を見て、少しだけ安心する。
今日は、前より話せている気がした。
言葉の数は多くない。でも、沈黙が苦しくない。それだけで十分だった。
食事が進むうちに、ばあちゃんと志乃さんの話題は自然と夏の旅行に移っていった。
「どこか行きたいわねえ」
ばあちゃんが言う。
「そうね。暑すぎないところがいいわ」
「海はどう?」
「海、いいわね」
志乃さんの目元が柔らかくなる。
「でも、人が多いところは疲れるかしら」
「じゃあ、伊豆なんてどう? 少し静かなところを選んで」
「いいわね。伊豆の海」
二人の間で、話はあっという間に膨らんでいった。
俺は、パスタを食べながら黙って聞いていた。
伊豆。海。旅行。その単語だけなら、別に珍しくもない。
だが、そこに七瀬がいる可能性が混ざった瞬間、思考が急に不安定になった。
「澪も来てくれるでしょう?」
志乃さんが当然のように言った。
七瀬はすぐに頷いた。
「うん。おばあちゃんの付き添いで行くよ」
その答えに、志乃さんは嬉しそうに微笑む。
「付き添いなんて言い方しなくてもいいのに」
「でも、心配だから」
「ありがとう」
七瀬の声は穏やかだった。迷いはないように見えた。
志乃さんが行くなら、自分も行く。
それが七瀬にとって当然のことなのだと分かる。
少し、羨ましいと思った。そういうふうに誰かを大事にできる七瀬が。
そして、そういう七瀬に大事にされている志乃さんが。
「冬真も来るわよね?」
ばあちゃんがこちらを見る。
一瞬、返事に詰まった。
行きたい。ものすごく行きたい。
七瀬と旅行。同じ場所に泊まる。一緒に海を見る。考えただけで心臓に悪かった。
けれど、その気持ちをそのまま顔に出すわけにはいかない。
俺はできるだけ平静を装って、水を一口飲んだ。
「まあ、ばあちゃんが行くなら」
「何よ、その仕方なくみたいな言い方」
「いや、遠出するなら一応付き添いは必要だろ」
「はいはい。そういうことにしておきましょう」
ばあちゃんは完全に見透かしたように笑った。
俺は視線を逸らす。
すると、正面の七瀬と目が合った。七瀬は何かを言うわけではなかった。
ただ、少しだけ目を細めていた。からかうほどではない。
けれど、俺の動揺を少しだけ見ているような顔だった。
余計に落ち着かなくなった。
「海なら、若い子達は砂浜を歩くだけでも楽しいでしょうね」
志乃さんが楽しそうに言う。
「そうねえ。冬真なんて、海に行くの久しぶりじゃない?」
ばあちゃんがこちらを見る。
「まあ、久しぶりだけど」
「変なところ見せないようにしなさいよ」
「変なところって何だよ」
「泳ぐにしても、はしゃぎすぎないようにってこと」
「子供扱いするなよ」
そう言いながらも、頭の中では勝手に余計なことが浮かんでいた。
海。砂浜。夏。七瀬。つまり、水着。
考えるな。いや無理だろ。考えるなって言われても無理だろ。必死に表情を保とうとした。
でも、耳のあたりが熱くなるのが自分でも分かった。
その瞬間、ばあちゃんがにやりと笑った。
「何を想像したのかしらねえ」
「は?」
声が裏返った。完全に裏返った。ばあちゃんは楽しそうに笑っている。
志乃さんも穏やかに微笑んでいる。
七瀬は一瞬だけ目を丸くして、それから俺を見た。俺は顔を伏せた。
「いや、別に、何も」
「まだ何も言ってないわよ」
「今、完全に言っただろ」
「想像したのは冬真でしょう?」
「……」
黙るしかなかった。違う、と言えば嘘になる。
でも、そうです、と言えるわけがない。
答えのない問いだった。
俺は水のグラスを手に取る。慌てて持ったせいで、氷がからんと鳴った。
情けない。本当に情けない。
七瀬は、その様子を見ていた。怒っているようには見えなかった。引いているようにも見えなかった。
むしろ、少しだけ困ったように、けれどどこか柔らかく見えた。
その表情が余計に恥ずかしい。
「冬真君は可愛いわね」
志乃さんが穏やかに言った。俺はさらに固まった。
「いや、可愛くはないです」
「そう?」
志乃さんは微笑んだまま、七瀬を見る。
「澪もそう思わない?」
七瀬は、一瞬だけ迷ったように見えた。
すぐには答えなかった。困らせている。そう思った。
けれど、七瀬は志乃さんを見て、それから俺を見ると、小さく頷いた。
「……うん」
俺はゆっくり顔を上げた。目が合う。七瀬は少しだけ視線を揺らした。
俺の顔は、たぶん赤かった。自分でも分かるくらい熱い。
「……七瀬まで」
低く呟くと、七瀬は少しだけ視線を逸らした。
「ごめん。でも、少しだけ」
「少しだけって何だよ」
「少しだけ、可愛いと思った」
その言葉が、まっすぐ胸に刺さった。
可愛い。七瀬が。俺を。可愛いと。
いや、男子としてはたぶん褒め言葉じゃない。
少なくとも格好いいではない。
でも、嫌じゃなかった。むしろ、嬉しかった。ものすごく嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分が、さらに恥ずかしかった。
「よかったわね、冬真」
ばあちゃんが楽しそうに言う。
「何がだよ」
「澪ちゃんに可愛いって言ってもらえて」
「別に、よくは」
そこまで言って、言葉を止めた。
よくないわけがなかった。
嬉しい。
でも、それを認めたら終わる気がした。
俺は苦し紛れに、残っていたマルゲリータを口に運んだ。
味はほとんど分からなかった。
食事の最後には、ティラミスが出てきた。
ココアパウダーの苦みと、マスカルポーネの甘さ。
少し落ち着きを取り戻していたはずなのに、まだ正面の七瀬をまともに見られなかった。
七瀬はスプーンでティラミスを少しすくい、口に運んでいる。
その仕草がやけに静かで、綺麗で、また余計なことを考えそうになる。
七瀬が普通に話してくれる。同じテーブルで食事をしている。旅行の予定まで出ている。
本当に、何がどうなっているんだろう。
春の教室で、同じクラスだと知った時には、話せるだけで奇跡だと思っていた。
いや、話すどころか、同じ空間にいるだけで十分だった。
それなのに今は、祖母同士が伊豆旅行の話で盛り上がり、七瀬は当然のようにその場にいて、自分にも普通に声をかけてくれる。
奇跡が長続きしすぎている。それが少し怖かった。
いつか急に終わるのではないか。
自分が勘違いして、踏み外して、全部壊すのではないか。
そんな不安が、甘いティラミスの後味に混ざった。
「神代君」
七瀬の声がした。顔を上げる。七瀬は少しだけ俺の皿を見ていた。
「ティラミス、好き?」
「うん。美味い」
「よかった」
七瀬はそう言って、少しだけ笑った。それだけだった。
でも、その笑顔は、俺の不安を少しだけ溶かした。
ばあちゃんと志乃さんは、もうすっかり伊豆旅行に行くつもりで話を進めていた。
「海が見える宿がいいわね」
「でも階段が多いところは避けましょう」
「そうね。砂浜まで近いところがいいわ」
「若い二人には、朝の海でも散歩してもらって」
「いいわねえ」
思わず咳払いした。
「勝手に予定を増やすなよ」
「いいじゃない。朝の海、綺麗よ」
八重が笑う。
「澪ちゃん、冬真のことよろしくね」
「はい」
七瀬は自然に頷いた。また固まった。よろしく、とは何を。いや、たぶん深い意味はない。祖母の軽口だ。
七瀬も付き合ってくれただけだ。
分かっている。分かっているのに、心臓が勝手に騒ぐ。
七瀬はそんな俺を見て、また少しだけ笑いそうになっているように見えた。
からかわれているのかもしれない。
でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、少し安心した。
学校で見る七瀬は、遠い。綺麗で、丁寧で、誰に対しても隙がない。
けれど、今日の七瀬は少し違った。
志乃さんの隣に座って、自然に料理を取り分けて、時々小さく笑って、俺のくだらない言葉にもちゃんと返してくれる。
それは、誰にでも見せる七瀬なのかもしれない。
ばあちゃん達がいるから、そうしてくれているだけなのかもしれない。
分かっている。それでも、嬉しかった。同時に、怖かった。
俺はたぶん、もうかなり危ないところまで来ている。
気づかないふりをしているだけで。
食事会が終わり、店を出る頃には、外の空気は少しだけ涼しくなっていた。
店の灯りが背中に残る。
ばあちゃんと志乃さんはまだ伊豆の話をしている。
「楽しみね」
「ええ、本当に」
その後ろを、俺と七瀬が少し遅れて歩いた。会話はなかった。
けれど、気まずくはなかった。
何か言おうとした。何でもいい。
今日は楽しかった、とか。伊豆、よろしく、とか。さっきは変な反応して悪かった、とか。
いくらでも言えることはあるはずだった。でも、言えなかった。
言葉にした瞬間、何かが形になってしまいそうで怖かった。
先に口を開いたのは、七瀬だった。
「神代君」
「何?」
「伊豆、楽しみだね」
一瞬だけ、黙った。胸の奥が、また少しうるさくなる。七瀬の声は、いつも通り落ち着いていた。
でも、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
気のせいかもしれない。
俺の願望かもしれない。それでも、そう聞こえた。
できるだけ普通に答える。
「うん」
普通に。なるべく普通に。
けれど、声は少しだけ柔らかくなってしまった。
「楽しみだな」
七瀬はその声を聞いて、静かに頷いた。夜風が、二人の間を通り抜ける。
まだ、何も始まっていない。そう思うことにした。
でも、夏の予定がひとつ増えた。七瀬と一緒に、伊豆へ行く。海を見る。
夕方の空を見て、朝の浜辺を歩くのかもしれない。
そんなことを考えただけで、胸の奥が少しだけ明るくなる。
その明るさの名前を、俺はとっくに知っている。
それでも今は、まだ知らないふりをしていた。




