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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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3-10) まだ名前のない違和感

SIDE七瀬澪


期末テストが近づくと、放課後の教室には妙な空気が流れる。普段なら部活や遊びに向かう生徒たちも、さすがに机の上に教科書を広げ始める。とはいえ、本気で勉強している者ばかりではない。


「やばい」


「終わった」


「今回こそ無理」


そんな言葉を言い合うことで、少しだけ安心しようとしているだけの者も多かった。


柚葉も、その一人だった。


「澪、お願い。数学だけちょっと見て」


放課後、帰り支度をしていた私に、柚葉が両手を合わせて拝むように言った。


「ちょっとだけ?」


「ちょっとだけ。ほんとにちょっと。たぶんに二、三時間時間くらい」


「それは、ちょっとなの?」


困ったように笑うと、柚葉は真剣な顔で頷いた。


「私にとってはちょっと。赤点回避のための、尊い時間」


「大げさ」


ひかりが横から笑った。


「じゃあ、どこか寄ってく? 教室だと集中できないし」


「ファミレス行こ。ドリンクバーあるし」


柚葉の提案で、私達は桜並木通りのファミレスへ向かうことになった。


私は特に反対しなかった。家に帰ってからでも勉強はできる。柚葉に教えるのも嫌いではない。


ただ、少しだけ疲れていた。期末前の空気や教室のざわめき。


男子から向けられる視線、笑顔で受け流すことには慣れているはずだった。けれど最近は、その慣れているはずのことが、少しだけ息苦しい。


だから、ファミレスで二、三時間くらい過ごすのも悪くないと思った。


ファミレスは、放課後の高校生や買い物帰りの客でほどほどに賑わっていた。明るい照明。食器の音。注文を知らせる電子音。少しざわざわしているけれど、勉強できないほどではない。


三人は窓際の四人席に案内された。


私は奥の席に座り、鞄からノートとペンケースを取り出す。柚葉はさっそく数学の問題集を開き、ページの端に貼った付箋を見せてきた。


「ここ。まずここ。これ、何をどうしたらこうなるの?」


「これは公式をそのまま使うんじゃなくて、先に形を変えるの」


「その“先に形を変える”がもう分からない」


「じゃあ、そこからやろうか」


シャーペンを持ち、柚葉のノートに途中式を書いた。


ひかりは隣で英単語帳を開いていたが、半分くらいは二人のやり取りを聞いて笑っている。


「澪って教え方上手いよね」


「そうかな」


「うん。怒らないし」


「怒る理由ないもの」


「私だったら柚葉に三回同じこと聞かれたら怒る」


「ひかり、ひどい!」


柚葉が抗議すると、ひかりは悪びれずに笑った。私も小さく笑う、いつもの笑顔。


穏やかで、角のない、誰から見ても綺麗な笑顔を心がける。


その時だった。


「いらっしゃいませ」


近くで聞こえた声に、私の手が一瞬だけ止まった。


聞き覚えがあった。


学校で何度も聞いている。けれど、ここで聞くとは思っていなかった声。


顔を上げると、そこに神代君がいた。


学校の制服ではなく、店の制服を着ている。髪型も表情も、いつもと大きく変わるわけではない。


けれど、店員として立っている神代君は、教室で見る彼とは少し違って見えた。


手には水の入ったグラスを三つ乗せたトレー。


動きは思っていたより慣れている。無駄に愛想がいいわけではないけれど、仕事として必要な声はきちんと出している。


神代君も私達に気が付いた。


一瞬だけ目が合うと神代君の表情が、ほんの少し固まった。


「・・・七瀬」


小さな声だった。客に向ける声ではなく、学校で話す時の声。私はすぐに笑顔を作った。


「神代君、ここでバイトしてたんだね」


「うん。まあ」


彼は短く答えて、三人の前にグラスを置いた。


「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」


それだけ言って、彼は仕事に戻ろうとした。柚葉が感心したように、その背中を見る。


「へえ、神代君ってバイトしてるんだ。意外」


「意外?」


ひかりが聞く。


「なんか、一人で仙人みたいに弁当食べてるイメージだったから」


「それは分かる」


ひかりが笑う。


私は二人の会話を聞きながら、グラスの水面を見ていた。


神代君がバイトをしている。それ自体は、別に不思議なことではない。高校生が放課後に働いている。ただそれだけだ。


それなのに、学校の外で見る神代君は、少しだけ距離が違って見えた。


教室では、どこか周囲から一歩引いている。


体育館裏のベンチで一人、お弁当を食べている。柏木君といる時以外は、あまり人と深く関わらない。そんな印象だった。けれど、ここでは普通に働いている。


客に水を出して、注文を取り、片付けをしている。当たり前のことなのに、私にはそれが少し新鮮だった。


「澪、ここ?」


柚葉にノートを指されて、私ははっとする。


「うん。そこはね」


私は再びノートに視線を戻した。けれど、少しだけ集中が戻らない。店内を動く神代君の気配が、視界の端に入る。トレーを持つ手、客に頭を下げる姿、厨房へ向かう背中。


特別なことは何もしていない。ただ働いているだけ。なのに、妙に目で追ってしまう。


自分でそれに気づき、私は静かに視線を下げた。別に、見る必要なんてない。


神代くんがどこでバイトをしていようと、私には関係ない。そう思った時だった。


「先輩」


明るい声が聞こえた。手が、また止まる。声の方を見るつもりはなかったが自然と視線が動いた。


神代くんの近くに、一人の女性の店員が立っていた。小柄で、表情がよく動く子だった。


大きな目、柔らかい雰囲気。少し幼さも残っているけれど、それがむしろ可愛らしさになっている。


小坂日菜。


一年生で一番可愛いと噂されている後輩だった。


廊下ですれ違ったこともある。男子たちが名前を出しているのを聞いたこともある。


普段なら、そういう噂に興味はない。自分自身も似たような噂の中にいるから、余計に距離を置いていた。


けれど、今は違った。小坂さんが、神代君に話しかけている。


「先輩、五番テーブルの片付け、私やります」


「もう終わった」


「えっ、早いです」


「普通」


「先輩って、何でも普通って言いますよね」


「事実だから。仕事戻れ」


神代君の返事はそっけない。いつもの神代君らしいと言えば、そうだった。


でも、小坂さんはそれを嫌がっていなかった。むしろ嬉しそうに笑っている。その笑顔は、真っ直ぐだった。




相手にどう見られるかを考えて作った笑顔ではない。場を壊さないための笑顔でもない。


誰かに綺麗だと思われるための笑顔でもない。ただ、嬉しいから笑っている。


私はそれを見て、胸の奥に小さな違和感を覚えた。何だろう?不快ではない、怒りでもない。でも、何かが少し引っかかる。


神代君のバイト先に、小坂さんがいる。それだけの事実が、なぜか頭の中で何度も繰り返された。一年生で一番人気の子、明るくて、素直そうで、可愛い後輩。


その子が、神代くんを「先輩」と呼ぶ。しかも、ただの先輩後輩より少し近い。小坂さんの距離感は近い。神代君の返事はそっけない。それなのに、二人の間には、それを許す空気がある。


私はシャーペンを持ったまま、ノートを見ていた。見ているだけで、文字は頭に入ってこなかった。




SIDE黒田ひかり


私は、その時の澪の横顔を見た。


澪は笑っている。


いつも通りに見える。柚葉に説明する時も、神代君に声をかけられた時も、何も変わらない。


でも、私には分かった。ほんの少しだけ違う。澪の笑顔は綺麗すぎる。


だから、逆に小さな変化が見える時がある。


さっき、小坂さんが「先輩」と呼んだ瞬間。


澪の目元が、ほんのわずかに止まった。


驚いたというほどではない。動揺したというほどでもない。けれど、確かに反応した。


私は単語帳を閉じるふりをして、神代君と小坂さんの方をちらりと見た。


小坂さんは、神代君の横で何かを確認している。


神代君は伝票を見ながら短く指示を出している。小坂さんは真剣に頷いている。


その目が、彼を見る時だけ少し輝く。


あー……なるほど。


私は心の中で呟いた。これは、分かりやすい。


小坂さんは、神代君が好きだ。


本人が隠しているつもりなのか、隠すつもりがないのかは分からない。でも、見れば分かる。


少なくとも、私には分かる。そして澪も、たぶん気づいている。


ただ、澪はその意味をまだ自分に結びつけていない。


澪はまた柚葉に説明を始めた。


「ここで二乗を展開して、同じ項をまとめるの」


「待って、展開で迷子」


「じゃあ、そこだけもう一回やろうか」


声は落ち着いている。手元も乱れていない。でも、私は見逃さなかった。


澪のシャーペンの先が、さっきから同じ場所を何度もなぞっている。


普段の澪なら、こんな無駄な動きはしない。




SIDE小坂日菜


小坂日菜もまた、七瀬澪を意識していた。


七瀬澪。


学校で一番綺麗な人。


私は以前から知っていた。同じ学校にいれば、知らない方が難しい。


廊下を歩くだけで空気が変わる人。男子たちが遠巻きに見て、女子たちも少し憧れる人。大人っぽくて、成績も良くて、誰にでも穏やかで、でも簡単には近づけない人。


私にとって、七瀬先輩は少し遠い存在だった。でも今、その人が店にいる。


しかも、先輩の前で笑っていた。先輩は、いつも通りに見えた。


ぶっきらぼうで、淡々としていて、必要以上に愛想はない。


でも、私には分かる。


さっき七瀬先輩を見た時、先輩は少しだけ固まった。


ほんの少し。他の人なら気づかないくらい。


でも、私は気づいた。だって、いつも先輩を見ているから。


バイト中、先輩が疲れている時。少し機嫌が悪い時。


逆に、ほんの少し優しい時。口ではそっけなくても、困っている人にはちゃんと手を貸す時。


そういう小さな変化を、私は全部見てしまう。


だから、分かってしまった。この人なんだ。


先輩が、たぶん特別に思っている人。胸の奥が、きゅっと痛んだ。


七瀬先輩は綺麗だった。本当に綺麗だった。


自分が元気で明るいと言われるなら、七瀬先輩は静かで、遠くて、触れたら消えてしまいそうな綺麗さがある。


勝てるとか、勝てないとか。そう考えるのも失礼なくらいだった。


それでも、私は冬真先輩を見た。


聞けるわけがない。先輩は、あの人が好きなんですか?


そんなこと、聞けるわけがない。


聞いたところで、先輩はきっと困る。もしかしたら「別に」と言うかもしれない。


でも、その「別に」が本当じゃないことくらい、分かってしまう気がした。


私は伝票を握り直した。仕事中だ。今は、ちゃんと仕事をしないといけない。


「小坂」


先輩に呼ばれて、私は顔を上げた。


「はい」


「七番、ドリンクバーの説明。初めてっぽい」


「あ、はい。行きます」


「焦らなくていい」


「はい」


短い言葉だった。それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。


先輩は優しい。


分かりにくいけど、ちゃんと見てくれている。その事実だけで、また頑張れる。


でも、七瀬先輩の存在は消えなかった。


店内の奥の席。


窓際でノートを広げている綺麗な人。先輩が、少しだけ特別な顔をした人。


私は笑顔でお客さんに説明しながら、心の奥で小さく息を吐いた。


負けたくない。


その言葉が浮かんで、すぐに自分で驚いた。誰かを敵だと思いたいわけじゃない。


七瀬先輩に悪いところなんて一つもない。


むしろ、先輩が好きになるなら、きっと素敵な人なのだと思う。


でも、それでも。先輩を好きな気持ちは、消せない。消したくない。


「ありがとうございました」


説明を終えて頭を下げる。顔を上げた時、視界の端に七瀬先輩が映った。


七瀬先輩は、私を見ていた。


目が合ったわけではない。


ほんの一瞬だけ、視線が触れたような気がしただけ。


それでも私は、背筋を伸ばした。逃げたくなかった。


何から逃げたくないのか、自分でもまだ分からなかったけれど。




SIDE黒田ひかり


澪は、柚葉に説明を続けていた。


「ここは、先にこっちを移項して」


「移項って、どっちに?」


「右辺。こっち」


「右辺ってどっち?」


「柚葉、それはさすがに怒られるよ」


私が言うと、柚葉が情けない顔をした。


「ひかりまで敵になった」


「私は味方だよ。赤点回避軍の参謀」


「参謀ならもっと優しくして」


そんなやり取りに、澪は小さく笑った。


いつもの澪だった。綺麗で、穏やかで、誰も傷つけない笑い方。


けれど、私はもう見てしまっていた。


澪の視線が、何度も店内の同じ場所へ戻ることを。


小坂さんが「先輩」と呼ぶたびに、ほんの少しだけ間が生まれることを。


小坂さんが神代君の言葉に嬉しそうに頷くたびに、澪のシャーペンが紙の上で止まることを。


たぶん、澪はまだ知らない。その違和感の名前を。


小坂さんも、まだ整理できていないのだと思う。


憧れと不安と、好きという気持ちが混ざって、胸の中で小さく暴れている。


そして神代君だけが、何も知らずに働いていた。


澪が自分を見ていたことも。小坂さんが胸を痛めていたことも。


私が全部を観察していたことも。


何一つ気づいていない。


「小坂、次これ運んで」


「はい、先輩」


「熱いから気をつけろ」


「はい」


神代君はそれだけ言って、別のテーブルへ向かった。


小坂さんは嬉しそうに頷く。


澪はその声を聞きながら、ノートに目を落とした。


シャーペンの芯が、紙の上で止まる。胸の奥に残った小さな違和感は、まだ名前を持たない。


けれど、確かにそこにあった。


私はそれを横目で見て、そっと単語帳を開き直した。


これはたぶん、まだ誰も口にしない方がいい。


でも、始まっている。


たぶん、私たちが気づくより、少し前から。


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