3-8)良い後輩、ね
梅雨に入る少し前の六月。空は曇っていたが、雨は降っていない。水面はいつもより少し濁っていて、浮きの赤白だけがやけにはっきり見えた。冬真は餌を小さく丸めながら、隣を見る蓮は、相変わらず無表情で竿を構えていた。
「……今日、渋いな」
冬真が言うと、蓮は水面から目を離さずに答えた。
「お前の腕が渋い」
「うるさい」
「前回負けたの根に持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ顔に出すな」
冬真は黙って餌を針につけ直した。
ここに来ると、余計なことを考えなくて済む。学校のことも。七瀬のことも。自分でもよく分からない感情も。ただ浮きを見ていればいい。だから、釣堀は嫌いじゃなかった。しばらく沈黙が続いた。水面に小さな波紋が広がる。遠くで子供がはしゃぐ声が聞こえた。その時、蓮がふと思い出したように言った。
「そういや、バイトどうなった?」
「どうって?」
「新人入るって言ってなかった?」
「ああ」
冬真は少しだけ手を止める。
小坂日菜。
ファミレスの新人。五月の終わりに入ってきた一年生。
そして、夜の駐輪場で百円玉を渡した相手。
「入ったよ」
「使える?」
「かなり」
「へぇ」
蓮が少しだけ興味を持ったように横目で見る。
「珍しいな。お前が人を褒めるの」
「別に褒めてない。事実を言ってるだけ」
「それを褒めてるって言うんだよ」
冬真は少し眉をひそめた。
「飲み込み早いし、真面目だし、手抜かないし、分からないことはちゃんと聞く。新人にしてはかなり助かる」
「めちゃくちゃ褒めてんじゃん」
「だから事実だって」
蓮は小さく笑った。
冬真は餌をつけ終えると、竿を振った。
ぽちゃん、と小さな音を立てて仕掛けが水面に落ちる。
浮きが揺れる。
「でも、最初から妙に懐かれてる」
「ふーん」
蓮の声が少しだけ面白がっている。冬真はそれに気づいて、先に釘を刺した。
「変な意味じゃないぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「俺の顔そんなに喋る?」
「うるさい」
蓮は軽く肩を揺らして笑った。冬真は少し迷ってから続けた。
「前に話しただろ。光が丘の駐輪場で、精算機の前で困ってた一年生」
「ああ。百円玉の子?」
「そう。その子だった」
蓮が初めて少しだけ目を丸くした。
「へぇ。再会イベントじゃん」
「イベントって言うな」
「相手、覚えてた?」
「覚えてた。むしろ俺より覚えてた」
「そりゃそうだろ」
「何で」
「困ってた時に、先輩が百円くれて助けてくれたんだろ。女子からしたら普通に印象残る」
「ただ百円あげただけだぞ」
「お前、その認識がもう駄目」
冬真は意味が分からず、蓮を見る。
蓮は呆れたようにため息をついた。
「金額じゃないんだよ」
「じゃあ何だよ」
「タイミング」
「タイミング?」
「困ってる時に助けられたら残るだろ。しかもお前、余計なこと言ったんじゃないの?」
冬真は少し考える。
確かに、何か特別なことを言った覚えはない。
ただ百円玉を渡して、同じように困ってる人がいたら助ければいい、くらいのことを言っただけだ。
「……別に」
「ほら」
「ほらって何だよ」
「まあいいや。それで?」
「それでって?」
「その一年の子、小坂日菜だっけ。すげー可愛いって噂の。どんな感じ?」
冬真は浮きを見ながら答えた。
「元気」
「雑」
「あと真面目。素直。よく働く。褒めるとすぐ嬉しそうにする」
「犬?」
冬真は少しだけ黙った。
蓮がその沈黙を拾う。
「お前も今、そう思っただろ」
「……言ってない」
「顔に出てる」
「俺の顔も喋るのかよ」
「お前のは割と喋る」
冬真は小さく息を吐いた。
浮きが少し沈みかけるが、すぐに戻った。食いが浅い。
「小型犬みたいだとは思った」
「最低」
「本人には言ってない」
「当たり前だろ」
「でも、悪い意味じゃない」
冬真は水面を見たまま言った。
「放っておくと勝手に頑張るし、褒めると分かりやすく喜ぶし、こっちの言うこと素直に聞く。あと、妙に懐いてる」
「完全に犬じゃん」
「だから本人には言わないって」
蓮は今度こそ声を出して笑った。
「でも、いい後輩なんだな」
「そうだな」
冬真は素直に頷いた。
「良い後輩だと思う」
その言葉は、思ったより自然に出た。小坂はよく働く失敗しても誤魔化さないし注意すると素直に聞く。そして少し褒めるだけで、本当に嬉しそうに笑う。
冬真は人に教えるのが得意ではない。むしろ苦手だ。
出来れば遠慮したいくらいだった。けれど小坂相手なら、それほど嫌ではなかった。
「お前にしては珍しいな」
蓮が言った。
「何が」
「人のこと、そういうふうに言うの」
「そうか?」
「そうだよ。お前、基本的に人と関わるの面倒くさがるじゃん」
「面倒だろ」
「うん。面倒だけど」
蓮は水面を見たまま続けた。
「その子のことは面倒じゃないんだな」
冬真は少し返事に詰まった。教育係にされたのは面倒だった。忙しい時間帯に質問されるのも、正直大変な時はある。でも、小坂が「先輩」と呼んで走ってくるのは、嫌ではなかった。褒めた時にぱっと笑うのも、悪くなかった。今日もシフトが一緒ですね、と嬉しそうに言われるのも、困りはするけど不快ではない。
「……まあ」
冬真は曖昧に答えた。
「良い後輩だからな」
「それ何回言うんだよ」
「事実だから」
「はいはい」
蓮は少し笑って、それ以上は追及しなかった。こういうところが、蓮は上手い。
余計なところまで踏み込んでこない。踏み込んできたとしても、こっちが本当に嫌がる手前で止まる。だから話せるのかもしれない。
冬真は浮きを見ながら、ふと思い出す。
『先輩、見てください』
『今日まだ一回も間違えてません』
『頑張りました』
あの得意げな顔。褒めた時の、ぱっと明るくなる表情。
「……何か」
「ん?」
「小坂見てると、分かりやすくて楽だなって思う」
「分かりやすい?」
「うん。嬉しい時は嬉しそうだし、悔しい時は悔しそうだし、褒めてほしい時は褒めてほしそうに来る」
「それは楽だな」
「だろ」
冬真はそこで一度言葉を切った。七瀬とは違う。
そう思いかけて、やめた。
七瀬の笑顔は綺麗だ。綺麗すぎて、何を考えているのか分からない。優しく見えるのに、遠い。
近くにいても、触れてはいけない場所にいるみたいな気がする。
小坂は違う嬉しければ笑う、頑張ったら褒めてほしそうにする。
距離の取り方も、感情の出し方も、何もかも分かりやすい。
だから、楽だ。
「今、七瀬のこと考えた?」
蓮が急に言った。
冬真は思わず浮きから目を離した。
「何で分かるんだよ」
「顔」
「お前、俺の顔読みすぎだろ」
「分かりやすいから」
冬真は否定しようとして、やめた。蓮の前で誤魔化しても仕方がない。
「別に、比べた訳じゃない」
「ああ」
「ただ、小坂は分かりやすいなって思っただけ」
「ああ」
「七瀬は……分かりにくい」
言ってから、自分でも少し情けなくなった。
何を考えているのか分からない。どこまで近づいていいのかも分からない。笑ってくれているのに、本当に笑っているのか分からない時がある。
それでも目で追ってしまう。
馬鹿だと思う。蓮はしばらく黙っていた。それから、竿先を少しだけ上げる。
「でも、お前は七瀬が好きなんだろ」
冬真はすぐには答えなかった。
浮きが沈む。今度ははっきりと。
冬真は反射的に竿を上げた。軽い手応え、水面が揺れ小さな魚が跳ねる。
「釣れた」
「逃げたな」
「逃げてない」
冬真は魚を外しながら言った。
「好きだ」
「相手が悪い」
「うるさい」
「まあいいけど」
蓮はそれ以上言わなかった。
冬真は魚をビクに入れる小さな魚がビクの中で静かに泳ぎ出す。
「小坂は良い子だよ」
冬真はぽつりと言った。
「でも、そういうのじゃない」
「分かってるよ」
蓮はあっさり答えた。
「今のお前は、そういう目で見てないだろうな」
「当たり前だ」
「でも相手は分からないぞ」
「は?」
冬真が見ると、蓮は平然と浮きを見ていた。
「小坂は、お前に懐いてるんだろ」
「懐いてるだけだろ」
「だから、その“だけ”が危ないんだよ」
「何が」
「まあ、今はいいんじゃない」
蓮は竿を少し動かした。
「良い後輩なら、大事にしてやれば」
冬真は少し黙る『大事に』その言葉が、妙に残った。
恋愛とか、そういう話ではない。
小坂は後輩だ。よく働いて、真面目で、素直で、少し騒がしい後輩。
でも、確かに、大事にしてやりたいとは思う。
「……そうだな」
冬真は小さく頷いた。
「大事にはする」
「お前、それ本人に言うなよ」
「言わないよ」
「言ったら多分、勘違いする」
「しないだろ」
「するだろ」
「何で」
「お前、本当にそういうとこだぞ」
蓮は呆れたように言った。冬真にはよく分からなかった。
ただ、釣り堀の水面を見ながら、小坂の笑顔を思い出す。
『先輩』
『頑張りました』
『今日もシフト一緒ですね』
百円玉を渡しただけの相手。偶然、同じバイト先に入ってきた後輩。最初は面倒だと思った教育係。それなのに今では、シフト表に小坂の名前があると、少し安心する自分がいる。仕事が回るから。そういう理由だ。たぶん。
「冬真」
「何?」
「浮き沈んでる」
「えっ」
慌てて竿を上げる。
しかし、針には何もついていなかった。蓮が静かに笑う。
「小坂の話してるからだな」
「関係ない」
「あるだろ」
「ない」
冬真は餌をつけ直しながら、少しだけ顔をしかめた。
蓮は楽しそうだった。
「今日、俺の勝ちだな」
「まだ終わってない」
「集中できてないやつに負ける気しない」
「うるさい」
水面に仕掛けを落とす。ぽちゃん、と音がした。
曇った六月の空の下。
いつもの釣り堀で、いつもの親友と並んでいる。何かが大きく変わった訳ではない。
ただ、冬真の日常の中に小坂日菜という後輩が、少しずつ入り始めていた。
それを恋とは呼ばない。少なくとも、冬真はまだそう思っていない。
けれど蓮は、隣で浮きを見ながら小さく笑った。
「良い後輩、ね」
「何だよ」
「いや、別に」
蓮はそう言って、竿を軽く上げた。今度は蓮の浮きが沈んでいた。




