10:イルカの思い出
今回は三人称視点による母親たちのお話です。前回のラストからの続きは、少々お待ちください。
――少し刻は戻り、ヴィリアーチェをはじめとする子供たちが遊び場へ放たれ、その母親たちが屋内庭園の中央に設けられたテーブルで歓談を始めた頃――
「王妃殿下、このたびは急なお願いにも関わらず、このような場を整えていただいたこと、心より感謝を申し上げます 」
「そんなに畏まらないでちょうだいオリアンヌ。他でもない親友の頼みだもの。それにこうして友人たちとお茶の席を囲んでいると、学生時代に戻ったようで懐かしいわ。どうぞ、あの頃のようにコルネリアと呼んでちょうだい。積もる話もあるのでしょう?」
「はい、コルネリア様。この前のお手紙に書けなかったことがたくさんございますの。じっくりお話しいたしましょう」
オリアンヌ・ラングシュタイン夫人の改まった言葉に対して、王妃コルネリア・モンブランはくだけた調子で返し、柔らかな笑みを湛えた口元を扇子の端から覗かせる。それが合図とばかりに、オリアンヌもまた相好を崩す。
「どうぞ皆さんも、ここでは格式を気にせず、気楽にお茶とおしゃべりを楽しんでくださいね」
その場にいた何人かの夫人たちは、最初は緊張の面持ちで二人のやり取りを見守っていたのだが、コルネリアに屈託のない笑顔を向けられて、どこか拍子抜けしたような様子だ。
それを確認したコルネリアたちは、互いにそっと目配せする。
コルネリアとオリアンヌは同じ時期に学園生活を過ごした友人だ。共に伯爵家の令嬢という身分もあって、学園の内外を問わず交流する機会も少なくなかった。交流を重ねるうち、二人が親友と呼べる仲になるのにさほど時間はかからなかった。
先ほどのやり取りは特に示し合わせたわけではないが、互いに相手の意図を汲んだ阿吽の呼吸だった。あえて堅苦しい姿勢から入り、それを崩すことで、この集まりが貴族のしきたりにとらわれない私的なものであることを印象づける。このような集まりに慣れていない参加者が萎縮しないようにという配慮であった。
だが、そのような配慮があってもまだ、この場に馴染めないものもいた。
ミレイユ・バートリー子爵夫人は、他の夫人たちの会話に入るきっかけが掴めず、遊び場スペースに留め置かれた我が子を不安げな面持ちで見つめていた。
(あの子を連れてきて良かったのだろうか。他所のお坊ちゃま、お嬢ちゃまたちと一緒に遊ばせて大丈夫なのだろうか……)
息子トマスは、与えられたおもちゃを珍しそうに触っている。初対面の子供たちの近くにあっても、特に気にする風でもなく落ち着いた様子だ。遊び場の近くに待機する使用人の姿もあり、ひとまず心配はなさそうである。
(あの子は立派に貴族の子として育っている。それに比べて私はどうだろう)
ミレイユには、自分の存在がこの空間に場違いであるという印象を拭いきれなかった。
この場で知り合いと呼べる者は、ミレイユをこの集まりへと連れ出したアルトマン伯爵夫人だけだ。他の貴族夫人たちとは何人かと顔を合わせたことがある程度で、交流があるとは言えなかった。というのも、ミレイユが貴族の社会に足を踏み入れてから、それほど年月が経っていないからである。
ミレイユは今でこそ子爵夫人の肩書きを持つが、結婚する前は貴族ですらない、とある船乗りの娘だった。
◇◇◇
ミレイユの父親は貿易船の船長だった。一度航海に出ればひと月は家に帰らず、また海の上で命を落とす危険とも隣り合わせの職業だ。そのためミレイユの母は両親に結婚を反対され、半ば絶縁するようにして家を出たという。
ミレイユの父が海に出ている間、彼女は王都の家で母と二人きりだった。ミレイユの母は婦人会の仕事の傍ら、ときおり幼い娘を連れ出し、見晴らしの良い丘を訪れた。ここからなら父の船が帰って来るときに真っ先に見つけることが出来るのだという。そして、ここが父と結婚の約束をした場所なのだとも。
そんな生活が何年か続き、ミレイユの父が航海に出ている中、母が病に倒れた。そして愛する夫に看取られることもなく、その短い生涯を終えた。父は妻子を陸に残したことを後悔し、残された娘を自分の手で育てることに決めた。
そうしてミレイユは幼少期の数年間を船の上で過ごしたのだ。
ミレイユの船の上での記憶はそれほど多くはない。どこにいても海は海であったし、立ち寄る港の様子がそれぞれ違うことに興味は引かれたが、陸を離れると短い滞在の記憶は次第に薄れていった。
それでもただひとつ、鮮烈に残っている記憶がある。
その日に立ち寄った港は、多くの船が停泊する巨大な入り江だった。興味を引かれたミレイユは大人の目のない時に一人下船し、方々を見て回った。その結果、父の船がわからなくなり、途方に暮れることとなったのだった。
日は傾き、歩くのに疲れた幼いミレイユは入り江の片隅の小さな桟橋の前で膝を抱えて座り込む。もしかすると、自分がいないことに気づかず、すでに船が出航してしまったのかもしれない。そんな不安が徐々にこみ上げ、ついには頬を濡らすのだった。そうしてしばらくの後、しゃくり上げているミレイユの耳に、なにやら不思議な音が聞こえてきた。
『キュッキュッキュッキュッ!』
ミレイユが顔を上げると、一頭の白い生き物が桟橋の向こうから顔を覗かせているのが見えた。細く突き出た口を開け、笑うような声を発している。それがイルカという生き物だということを、ミレイユは後から知った。
ミレイユは不思議な生き物に興味を引かれ、涙を拭って桟橋へ近づく。イルカはミレイユが近くへ来たことを喜ぶように立ち泳ぎを披露して見せた。
『あなたはだぁれ? わたしをなぐさめてくれるの?』
イルカはミレイユの言葉に応えるようにまた『キュッキュッ!』と声を発する。
『わかった。あなたの名前はキュッキュね』
イルカは『そうだ』というように笑う。
『キュッキュ、わたし、ひとりぼっちになっちゃった。お母さんもお父さんも、どこかへ行ってしまったの』
『キュゥ……』
ミレイユが肩を落とすと、イルカもまた寄り添うように声のトーンを落とす。そして沖へ向かって泳ぎはじめた。
『キュッキュ、あなたも行ってしまうの?』
ミレイユがつかの間の友達との別れを覚悟したその時、水柱と共に姿を現したものがあった。イルカの巨体が放物線を描くように高く宙に舞ったのだ。砕けた水柱の欠片が夕日の光を受けてキラキラと輝く。
激しい水音を響かせた後、イルカは再び桟橋へと戻ってきた。そしてミレイユを安心させるように笑いかけたのだった。
『大丈夫、ボクがついてるよ』
ミレイユの耳には、イルカの発する声がそのような意味を持って届いた。
その後ほどなくして、着水の水音を耳にして駆けつけた父親にミレイユは抱き上げられることとなった。ミレイユ同様に別れを惜しんでなのか、イルカはその間も桟橋にとどまっていた。
ミレイユの父が娘を元気づけてくれたことの感謝をイルカに伝えると、どこか納得したように沖へと泳ぎ去って行った。
それがミレイユとイルカとの思い出だった。
ブックマークありがとうございます!




