第五章 帳簿に載った遺書代筆人
最初に消えたのは、郵便物の宛名だった。
その朝、紙屋敷弔一が遺書代筆所の郵便受けを開けると、封筒が三通入っていた。
一通は文房具店からの請求書。
一通は古書店からの目録。
もう一通は差出人のない白い封筒だった。
白い封筒には触れず、弔一はまず請求書を見た。
宛名の欄には、こう印字されていた。
紙屋敷 様
弔一、という名だけが抜けている。
珍しいことではあるが、ありえないことではない。業者が略したのかもしれない。弔一はそう考え、次の古書店からの封筒を見た。
そこには、もっと奇妙な文字があった。
紙屋敷 様
苗字の後ろに、不自然な空白が空いている。
まるで、そこにあった二文字を誰かが丁寧に剥がしたようだった。
弔一は封筒の表面を指でなぞった。インクのかすれではない。印字そのものが、初めから存在していなかったように消えている。
「どうしたの」
奥からミズハの声がした。
彼女は昨夜から機嫌が悪かった。
理由は分かっている。以前の青年が残した件で、名前を売る店から「査定額を更新しました」という紙片が届いたからだ。弔一の名前が値踏みされている。その事実が、彼女の中にある何かをひどく苛立たせているらしい。
ミズハは帳場に出てきて、封筒を覗き込んだ。
「名前、削れてるね」
「削れたのではない。抜けた」
「言い方の問題?」
「現象の問題だ」
「そういうところ、ほんと面倒だねえ」
そう言いながらも、ミズハの顔は笑っていなかった。
弔一は三通目の白い封筒を手に取った。
差出人はない。宛名もない。ただ、封筒の中央に黒い縦線が一本だけ引かれている。
名前を書き始める一画目のような線。
弔一は封を切った。
中には、黒い紙片が入っていた。
白い文字が、ゆっくり浮かび上がる。
――紙屋敷弔一様。
――正式査定を開始いたしました。
――現在の所有率、五割。
ミズハが息を呑んだ。
「五割って何」
「僕に訊くな」
「訊いてる場合じゃない」
紙片の文字は続いた。
――なお、所有者不明部分につきましては、過去契約に基づき当店管理下にございます。
――買取完了後、商品名「遺書代筆人」として登録予定。
弔一は紙片を机に置いた。
妙に冷静だった。
冷静でいられること自体が、おかしいとも思った。自分の名前の半分が、すでに店の管理下にある。常識的に考えれば、恐怖して当然だ。だが、弔一の中に湧いたのは、恐怖より先に疑問だった。
過去契約。
その言葉だけが、喉に刺さった骨のように残った。
「お前、契約した覚えは?」
ミズハが訊いた。
「ない」
「本当に?」
「少なくとも、覚えていない」
「それが一番まずいんだよ」
ミズハは紙片を睨んだ。
「覚えていない契約ほど、効く」
「経験談か」
「そうだよ」
彼女は苛立ったように言った。
その瞬間、店の電話が鳴った。
黒電話の音は、いつも唐突だ。けれど、今日はいつにも増して不快に響いた。誰かが古い墓石を叩いているような音だった。
弔一が受話器を取ると、聞き慣れた男の声がした。
『紙屋敷さんのお店ですか』
「そうです」
『ああ、よかった。ええと、紙屋敷……さん、ですよね』
古書店の店主、相馬だった。
弔一は月に一度ほど彼の店で古い文書や便箋を買っている。相馬は記憶力のいい男で、一度仕入れた本の値段を十年後でも覚えているような人物だった。
「弔一です」
弔一はあえて自分で名乗った。
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『すみません。下のお名前、何でしたっけ』
ミズハが弔一を見た。
弔一は受話器を握ったまま、視線だけを伏せた。
「弔一です」
『ああ、そうでした。申し訳ない。どうも今朝から変でして。目録をお送りしたんですが、宛名を印字した時に、下の名前がどうしても出てこなくて』
「変換の問題では」
『いえ、違うんです。紙に書こうとしても手が止まる。頭では分かっているつもりなのに、いざ書こうとすると抜ける。いや、今も……』
相馬は言葉を止めた。
『すみません。今聞いたばかりなのに、もう曖昧です』
「構いません」
『構いますよ。こちらは商売でお付き合いしているんです。失礼ですから』
相馬は本気で困っていた。
弔一は短く礼を言い、電話を切った。
ミズハが言った。
「広がってる」
「ああ」
「郵便物だけじゃない。人の記憶からも」
弔一は机の引き出しを開け、過去の契約書を取り出した。
遺書代筆の依頼を受けるとき、弔一は必ず簡単な契約書を交わす。依頼内容、代筆対象、宛先、報酬、守秘義務。それから署名欄。弔一はそこに、自分の名を書いてきた。
ファイルを開いた。
一枚目。
署名欄に、紙屋敷、とだけ書かれている。
二枚目も同じ。
三枚目も。
弔一の筆跡で書かれたはずの「弔一」が、すべて消えていた。
いや、完全に消えたわけではない。光の角度によって、紙の繊維にかすかな窪みが見える。そこに文字があった痕跡だけが残っている。墨でもインクでもなく、名前という意味だけが抜き取られたようだった。
ミズハはファイルを覗き込んで、低く言った。
「半分って、こういうことか」
「僕の名前が、苗字だけになりつつある」
「苗字はまだ残っている。下の名前から先に取ってるんだ」
「なぜだ」
「人間の名前は、家の名より個の名の方が柔らかい。呼び方に近い。奪いやすいのかもしれない」
弔一はファイルを閉じた。
胸の奥に、鈍い違和感があった。
不安ではない。喪失の痛みでもない。もっと奇妙な感覚だった。自分の内側にある部屋の一つが、初めから空室だったと気づいたような感覚。
「確認する」
「どこで」
「役所」
「正攻法だね」
「名前がどこまで残っているか知る必要がある」
「行くなら私も」
「分かっている」
「止めても行くからね」
「分かっている」
ミズハは少しだけ意外そうな顔をした。
「今日は素直だ」
「時間がない」
弔一は身支度を整えた。
遺書代筆所を出る直前、机の上に置いていた白い封筒が目に入った。青年の件で、瀬尾小春の母親へ返す遺品の控えを入れていた封筒だ。
そこに書いた弔一の署名も、やはり消えていた。
紙屋敷。
その二文字だけが残り、下の名が抜けている。
弔一は無言で封筒を鞄に入れた。
役所は午前中から混んでいた。
住民票の窓口、戸籍の窓口、保険、税金、介護。人々が整理券を持って椅子に座り、自分の番号が呼ばれるのを待っている。ここには、名前が溢れている。番号で呼ばれ、苗字で呼ばれ、書類に記され、本人確認される。
名前とは、社会の鍵だ。
その鍵が少しずつ削られている。
弔一は戸籍謄本と住民票の写しを請求した。
窓口の職員は、申請書を見て首を傾げた。
「紙屋敷……様」
「はい」
「下のお名前が、こちら」
職員は申請書を指した。
弔一が自分で書いたはずの名前欄。
そこには、紙屋敷、とだけ書かれていた。
「失礼しました」
弔一はペンを借り、下の名前を書き足そうとした。
弔。
一画目を書いた瞬間、ペン先が紙から滑った。
インクが出ないのではない。手が止まる。次の線がどこへ向かうのか分からない。子供の頃から何万回も書いてきた字のはずなのに、頭の中に形が浮かばない。
弔一はペンを握り直した。
今度は「一」を書こうとした。
横線一本。
誰でも書ける字だ。
だが、書いた線は、紙の上で薄く滲み、数秒で消えた。
職員が目を瞬かせた。
「あれ?」
ミズハが弔一の腕を掴んだ。
「もういい」
「まだ」
「ここで粘っても目立つだけ」
弔一は申請書を破棄し、窓口を離れた。
役所の外に出ると、ミズハが険しい顔で言った。
「五割って言ってたけど、体感はもっと進んでる」
「名前を書く動作に干渉している」
「呼ぶ方にもね」
ミズハは弔一を見た。
「私も、さっき役所でお前の名前を呼ぼうとして、一瞬つっかえた」
弔一は彼女を見返した。
「呼べなかったのか」
「呼べた。でも、ほんの少しだけ。舌が水に沈むみたいになった」
ミズハの顔には、隠しきれない恐怖があった。
「弔一。あの店、もう始めてる」
「だろうな」
「冷静に言わないでよ」
「慌てても、名前は戻らない」
「冷静すぎるのも問題だよ」
「では、どうしろと」
「怖がりなよ」
弔一は黙った。
ミズハの言葉は、思いのほか鋭く刺さった。
怖がる。
自分の名前が消えかけているのだから、怖がるべきなのだろう。だが、弔一の中にはやはり恐怖がうまく湧かない。代わりに、空白がある。白い紙のような空白。そこに何かを書かなければならないとだけ思っている。
ミズハは小さく息を吐いた。
「ほら。そういうところなんだよ」
「何が」
「お前は、自分のことになると遺体みたいになる」
それは妙な表現だったが、的確でもあった。
弔一は何も言い返せなかった。
午後、二人は遺書代筆所へ戻った。
店の前に、一人の女が立っていた。
中年の女性だった。上質なコートを着て、手には黒い革のバッグを持っている。以前、夫の遺書の整理を依頼してきた客だ。名前は確か、倉科美津子。
彼女は弔一を見ると、ほっとした顔をした。
「あの、紙屋敷さん」
「倉科さん」
「よかった。お留守かと思って」
「何かありましたか」
「以前書いていただいた文書のことで、少し確認したいことがあって」
弔一は鍵を開け、彼女を店内へ招いた。
倉科は椅子に座ると、バッグから封筒を取り出した。夫の死後に親族へ送った挨拶状の控えだった。弔一が文面を整えたものだ。
「この署名なのですが」
倉科は控えの最後を指した。
弔一は見た。
そこにあるはずの担当者名が、やはり消えている。
紙屋敷。
それだけが残っていた。
「これ、最初からこうでしたかしら」
倉科は困惑していた。
「失礼ですが、紙屋敷さんの下のお名前、何でしたっけ」
ミズハが奥で息を止めた。
弔一は答えようとした。
だが、声が出なかった。
喉が塞がれたわけではない。発音の仕方が分からない。自分の名前の音が、舌の上で崩れる。
とむらいち。
そう言えばいい。
頭では分かっている。
けれど、声にしようとすると、音が白くなる。
倉科が不安そうに見ている。
「紙屋敷さん?」
その呼び方には応えられる。
だが、下の名前では呼ばれない。
弔一は静かに言った。
「失礼。少し喉を痛めています」
「あら、大丈夫ですか」
「はい」
ミズハが奥から出てきた。
「お茶を淹れます」
倉科は彼女を見て、曖昧に会釈した。ミズハは人間相手には見え方が安定しない。相手によっては、若い女性に見える。相手によっては、従業員に見える。相手によっては、最初からそこにいた水槽のように認識される。
倉科の用件は大したものではなかった。
親族に送る追加の文面を少し整えてほしいという依頼だった。弔一は口頭で助言し、簡単な修正案を紙に書いた。ただし、最後の署名は入れなかった。
倉科が帰ったあと、ミズハはすぐに扉の鍵を閉めた。
「もう今日は客を入れない」
「勝手に決めるな」
「決めるよ。店主代理として」
「いつから代理になった」
「今から」
ミズハは弔一の前に立った。
「名前、言ってみて」
「何を」
「自分の名前」
弔一は彼女を見た。
ミズハの目は真剣だった。
「言え」
彼は口を開いた。
紙屋敷。
そこまでは出る。
だが、その先が出ない。
舌が止まる。喉が動かない。音の道が見つからない。
ミズハの顔が強張った。
「書いて」
弔一は紙を出した。
万年筆を握る。
紙屋敷。
そこまでは書ける。
次の二文字は、書けなかった。
字の形を忘れたわけではない。いや、忘れたのかもしれない。弔という字の構造を頭の中で分解しようとすると、霧がかかる。上に何があり、下に何があるのか。右には何を書くのか。一という字でさえ、彼の名前の一部として書こうとすると消える。
ミズハは紙を奪い取った。
「弔一」
彼女ははっきり言った。
その音は届いた。
弔一は顔を上げた。
ミズハはもう一度言った。
「弔一」
今度は、少し苦しそうだった。
三度目を言おうとして、彼女は喉を押さえた。
「やめろ」
弔一が言うと、ミズハは睨んだ。
「やめない」
「無理をするな」
「お前の名前だろう」
「だからこそだ」
「私が呼ばなくなったら、誰が呼ぶの」
弔一は答えられなかった。
ミズハは目を伏せた。
「呼ばれない名がどうなるか、私は知ってる」
その声は静かだった。
だが、底に水のような重さがあった。
「弔一。あの店へ行こう」
「今度は止めないのか」
「止めても無駄だから。それに、今回は私が行きたい」
「理由は」
「あの帳簿を見る。お前の名前がどうなってるか確かめる」
「危険だ」
「今さらだねえ」
ミズハは少し笑った。
「危険じゃない日なんて、お前といるとあまりない」
二人は夜を待った。
名前を売る店は、昼間でも現れる。前回は昼に行った。だが、正式査定という言葉が出ている以上、向こうから何かを仕掛けてくる可能性が高い。弔一は、遺書代筆所の帳場に過去の契約書、黒い紙片、ミズハの神名に関する白い紙、そして青年の呼び方を取り戻したときの便箋の写しを並べた。
共通するものを探す。
名前を売る店は、名前そのものだけを扱うのではない。呼ばれ方、記憶、痛み、役割、願い。人が名前に込めたものを分解し、保管し、売買する。
では、弔一の名前に込められているものは何か。
遺書代筆人。
店の紙片には、商品名としてそう登録予定とあった。
つまり店は、「紙屋敷弔一」という個人名ではなく、「終わりを代筆する者」という役割を商品化しようとしている。
問題は、なぜその役割が名前と結びついたのかだった。
「過去契約」
弔一は呟いた。
ミズハが顔を上げる。
「思い出した?」
「いや。ただ、契約という以上、何かを得ているはずだ」
「お前が?」
「そうだ」
「得たものは」
「遺書を書く力」
ミズハは黙った。
その沈黙が答えだった。
弔一は彼女を見た。
「知っているな」
「知らない」
「ミズハ」
「知ってるけど、言えない」
「なぜ」
「言えば、契約が動く」
彼女の声は硬かった。
「お前が自分で思い出すのと、私が教えるのでは違う。名前も記憶も、外から乱暴に戻すと壊れる」
「お前の神名と同じか」
「似てる」
弔一は考え込んだ。
自分で思い出す必要がある。
ならば、店に行くしかない。
夜十時を過ぎ、二人は商店街の裏手へ向かった。
薬局と写真館の間の壁。
前回と同じ場所に立つ。
今回は、扉はすぐに見えた。
こちらが探す前から、そこにあった。古い木の扉。看板はない。取っ手もないように見えるが、触れようとすると指の位置に取っ手が生じる。
「歓迎されてるね」
ミズハが低く言った。
「されているのは僕か、僕の名前か」
「どっちも嫌な答えだ」
弔一は扉を開けた。
店内は前回よりも明るかった。
壁一面の引き出し。中央のカウンター。古い紙の匂い。整然と並んだ白い札。文字はやはり読めない。だが今日は、引き出しの奥から声のようなものが聞こえた。
誰かが名を呼んでいる。
あるいは、呼ばれるのを待っている。
店主はカウンターの向こうに立っていた。
「いらっしゃいませ。紙屋敷様」
今度は、下の名前を呼ばなかった。
弔一はそれを聞き逃さなかった。
「弔一とは呼ばないのか」
店主は微笑んだ。
「お客様がお持ちの部分については、尊重しております」
「僕が持っていない部分は」
「当店管理下にございます」
「五割とは、下の名前のことか」
「おおむね、その認識で差し支えありません」
ミズハが一歩前に出た。
「返せ」
店主は彼女に向かって、丁寧に頭を下げた。
「返却には、手続きが必要です」
「盗んだものに手続きも何もあるか」
「盗んではおりません。契約に基づく保管です」
「本人が覚えていない契約なんて、契約じゃない」
「忘却は、契約の解除理由にはなりません」
店主の声は穏やかだった。
その穏やかさが、かえって不気味だった。
弔一はカウンターに近づいた。
「帳簿を見せろ」
「もちろんです」
店主は黒い帳簿を取り出した。
前回と同じ表紙。だが今日は、帳簿そのものが弔一を待っていたように見えた。店主がページを開くと、すぐに弔一の名が現れた。
紙屋敷弔一。
ただし、前回とは違っていた。
弔一、の二文字が薄くなっている。完全には消えていないが、紙の下に沈みかけているようだった。購入者の欄は、相変わらず黒く塗りつぶされている。だが、その黒塗りの端がわずかに剥がれていた。
そこに、一文字だけ見えた。
遺。
弔一は目を細めた。
「購入者欄に、遺という字がある」
「見えましたか」
「これは何だ」
「お答えできません」
「遺書か」
店主は微笑んだままだった。
ミズハが小さく息を呑んだ。
弔一は続けた。
「僕の名前を買おうとしているのは、遺書なのか」
「近いですが、正確ではありません」
「では、誰だ」
「購入者情報は守秘義務の対象です」
「僕自身でもか」
店主の目が、わずかに細くなった。
弔一はその反応を見た。
「僕自身なのか」
店内の空気が変わった。
引き出しの奥の声が遠ざかる。
ミズハが弔一の袖を掴んだ。
「まだ早い」
「何が」
「そこに行くのは、まだ」
店主は静かに帳簿のページを撫でた。
「紙屋敷様は、たいへん勘がよろしい」
「僕が自分の名前を売ったのか」
「半分だけ」
ミズハが目を閉じた。
弔一は思ったよりも驚かなかった。
むしろ、どこかで納得していた。
自分の名前が店の帳簿にある。購入者欄には遺の文字。過去契約。遺書を書く力。ミズハが語ろうとしない過去。
答えは、初めから自分の足元にあった。
「なぜ」
弔一は訊いた。
「僕はなぜ、自分の名前を売った」
「お忘れですか」
「忘れたから訊いている」
「では、思い出す権利をお売りしましょうか」
店主はカウンターの下から、小さな箱を出した。
黒い箱だった。
「こちらは、紙屋敷弔一様が過去にお預けになった記憶の一部です。現在、割引価格でご提供できます」
ミズハが叫んだ。
「聞くな!」
弔一は箱を見つめた。
「代価は」
「残りの名前」
店主はさらりと言った。
「残り五割をお売りいただければ、失った記憶を完全な形でお返しします」
「つまり、名前を全部失えば、記憶が戻る」
「はい」
「戻った記憶を持つ僕は、まだ僕なのか」
「それは哲学的なご質問ですね」
「商売人なら答えろ」
店主は微笑んだ。
「名前を失っても、記憶があれば自分だと考える方もいます。記憶を失っても、名前があれば自分だと考える方もいます。どちらも失ってなお自分であると信じる方もいます」
「お前の考えは」
「当店では、すべて商品価値で判断いたします」
弔一は箱から目を離した。
「買わない」
「残念です」
「ただし、話は聞く」
「無料で?」
「僕の名前を勝手に査定している迷惑料だ」
店主は初めて、少しだけ声を立てて笑った。
「紙屋敷様は、やはり面白い」
「僕が過去に何を売ったか言え」
「記憶の一部と、名前の半分」
「代わりに得たものは」
「終わりを書き届ける力」
弔一の胸の奥が、また軋んだ。
「それは、どういう力だ」
「死ねない者を終わらせる。消えかけた者を文に残す。届かないはずの言葉を、宛先へ届ける。あなたが遺書代筆人として行っている仕事の核心です」
「僕は、もともとそれができなかったのか」
「ええ」
「なぜ欲しがった」
店主は帳簿を閉じた。
「ひとりの少女のためです」
ミズハが弔一の袖を強く引いた。
「もういい」
「よくない」
「弔一」
「知る必要がある」
「知れば、お前はまた同じことをする」
「同じこと?」
ミズハは答えなかった。
店主が代わりに言った。
「あなたは昔、ある少女の遺書を書けませんでした」
その言葉が、店の空気を裂いた。
弔一の視界の端が白くなる。
雨。
夜。
破れた便箋。
小さな手。
声にならない名前。
断片が、頭の中で浮かんでは消える。
「少女は、名前を売っていたのか」
「はい」
「誰のために」
「それは、あなたが思い出すべきことです」
「またそれか」
「記憶は、他人が説明すると値崩れします」
店主は静かに言った。
「あなたは少女の名を取り戻そうとした。しかし間に合わなかった。彼女は消えた。あなたは、その最後の言葉を書けなかった」
弔一は万年筆を握る手の感触を思い出した。
書こうとしても書けない。
名前がない。
宛先がない。
言葉が届かない。
少女が泣いている。
顔は見えない。
だが、声だけがある。
――先生、私、いなかったことになるの?
先生。
弔一は胸を押さえた。
自分は、彼女に先生と呼ばれていたのか。
いや、違う。
違う気がする。
もっと別の呼び方だったのかもしれない。
ミズハが彼の肩に手を置いた。
「戻ろう」
「まだだ」
「今のお前は、受け止めきれない」
「受け止める」
「その言い方がもう危ないんだよ」
ミズハの声には怒りがあった。
だが、それ以上に恐怖があった。
店主は黒い箱をカウンターの上でそっと押し出した。
「いかがですか。今ならすべて思い出せます」
弔一は箱を見た。
自分が失った記憶。
少女。
書けなかった遺書。
自分の能力の由来。
なぜミズハがそばにいるのか。
なぜ名前を売る店と関わったのか。
知りたい。
知るべきだ。
そう思った瞬間、口が勝手に動きそうになった。
買う、と。
だが、その直前に、ミズハが彼の名前を呼んだ。
「弔一」
苦しそうな声だった。
それでも、はっきりとした声だった。
弔一は我に返った。
箱から目を離す。
「買わない」
店主は残念そうに眉を下げた。
「そうですか」
「思い出す。だが、お前からは買わない」
「では、残りの名前はどうされますか」
「売らない」
「すでに半分は売却済みです」
「買い戻す」
「代価が必要です」
「その代価も、お前からは買わない」
店主は笑った。
「紙屋敷様。商売とは、売買で成り立つものです。買わず、売らず、返せと言われても困ります」
「なら商売をやめろ」
「それはできません」
「なぜ」
「私も、名前を失った者ですので」
店主の声が、初めて少しだけ低くなった。
その言葉に、弔一は反応した。
店主自身も、かつて名前を売った者。
プロットの中で予感していた事実が、ここで輪郭を持つ。
店主はすぐに笑みを戻した。
「本日はここまでにいたしましょう。正式なお見積りは後日、遺書代筆所へお届けします」
「勝手に終わらせるな」
「店の営業時間でございます」
周囲の引き出しが一斉に閉まる音がした。
次の瞬間、弔一とミズハは路地に立っていた。
薬局と写真館の間の壁。
扉はない。
夜風が吹き、ミズハの髪の先から水滴が落ちた。
弔一はしばらく動けなかった。
ミズハも黙っていた。
やがて彼女が言った。
「怒ってる?」
「誰に」
「私に」
「なぜ」
「知っていたから」
弔一は彼女を見た。
「どこまで」
ミズハは答えなかった。
「僕が少女の遺書を書けなかったことか。自分の名を売ったことか。代わりに力を得たことか」
「全部じゃない」
「一部は知っていた」
「うん」
「なぜ黙っていた」
「言えば、お前が壊れると思った」
「今は壊れていない」
「そう見えるだけだよ」
ミズハはそう言って、弔一の胸元を指した。
「お前、自分の名前を言える?」
弔一は口を開いた。
紙屋敷。
その先が、やはり出ない。
ミズハは目を伏せた。
「壊れてるんだよ。もう」
遺書代筆所へ戻るまで、二人はほとんど話さなかった。
店に入ると、机の上に一枚の便箋が置かれていた。
出る前にはなかったものだ。
弔一は手に取った。
そこには、彼自身の筆跡で文字が書かれていた。
――自分宛ての遺書。
タイトルのように、そう書かれている。
ミズハが背後から覗き込み、息を止めた。
「いつ書いたの」
「覚えていない」
便箋の下には、古いインクの染みがあった。最近書かれたものではない。何年も前に書かれ、今この机の上に戻ってきたような紙だった。
弔一は読み始めた。
私へ。
もしこの文を読む日が来たなら、あなたはまた、自分の名前を手放しかけているのだと思う。
そのときは、思い出してほしい。
名前を売っても、罪は消えない。
記憶を売っても、後悔は消えない。
終わりを書く力を得ても、書けなかった遺書は戻らない。
弔一の指が震えた。
自分の名前は書けないのに、この過去の自分は「私へ」と書いている。
続きには、こうあった。
彼女の名前を忘れるな。
だが、その次の行は黒く塗り潰されていた。
少女の名前だったのだろう。
さらに次の行。
あの子は、最後にこう言った。
その後も黒く塗り潰されている。
読めない。
名前を売る店が奪ったのか。
過去の弔一自身が消したのか。
分からない。
最後の方に、かろうじて読める一文があった。
他人の終わりばかり書くな。
自分がなぜ生きているのかを、一度くらい書け。
弔一は便箋を机に置いた。
ミズハは何も言わなかった。
店の中が重かった。
弔一は椅子に座り、白い便箋を新しく一枚取り出した。
「何する気」
ミズハが訊いた。
「自分の遺書を書く」
ミズハの顔色が変わった。
「やめろ」
「名前を取り戻すには、自分の輪郭を文にする必要がある」
「それは理屈でしょ」
「理屈は必要だ」
「今は必要ない!」
ミズハが声を荒らげた。
店の水差しが倒れ、水が机の上に広がった。
弔一は彼女を見た。
ミズハは本気で怒っていた。
「他人の遺書を書くみたいに、自分を処理するな」
「処理ではない」
「同じだよ。お前はいつも、言葉にすれば終われると思ってる。きれいに並べれば、納得できると思ってる。でも違う。書けないものもある。終われないものもある。抱えて生きるしかないものだってある」
弔一は静かに言った。
「では、どうすればいい」
「生き方を書け」
「何?」
「死ぬための文じゃない。消えるための文じゃない。自分がまだここにいるっていう文を書け」
ミズハは机を叩いた。
「他人の終わりばかり書いて、自分の生き方を一度も書いていないからだ」
その言葉は、過去の自分宛ての遺書に書かれていた一文と重なった。
自分がなぜ生きているのかを、一度くらい書け。
弔一は便箋を見た。
上部には何も書かれていない。
遺書には、冒頭が必要だ。
誰から、誰へ。
だが、自分の名前が書けない。
紙屋敷。
そこまでしか書けない。
弔一は万年筆を持ち、便箋の最初に書こうとした。
紙屋敷。
その後ろが空白になる。
手が止まった。
インクがペン先に溜まり、小さな黒い滴になって紙に落ちた。
ミズハは、その空白を見つめていた。
弔一は初めて、はっきりと恐怖を感じた。
自分の名前が書けない。
自分の遺書が書けない。
他人の終わりをいくつも代筆してきた自分が、自分の最初の一行すら書けない。
それは死よりもずっと具体的な恐怖だった。
弔一は万年筆を置いた。
水差しからこぼれた水が、便箋の端を濡らしている。
ミズハは低い声で言った。
「今夜はもう書くな」
「だが」
「書くな」
弔一は彼女を見た。
彼女の顔には、怒りだけでなく、祈りのようなものがあった。
弔一は頷いた。
「分かった」
その瞬間、店の外でノックの音がした。
三回。
礼儀正しく、迷いのない音。
ミズハが扉を振り返った。
「こんな時間に?」
弔一は立ち上がった。
「開いている」
扉は開かなかった。
代わりに、扉の下から黒い封筒が差し込まれた。
弔一はそれを拾った。
封筒には、白い文字で宛名が書かれている。
紙屋敷 様。
やはり下の名前はない。
中には、正式見積書と題された紙が入っていた。
商品名:遺書代筆人。
対象名:紙屋敷弔一。
現所有率:五割。
残所有率:五割。
買取予定日:近日。
購入者:――
購入者欄の黒塗りが、前よりも少しだけ剥がれていた。
見えた文字は二つ。
遺書。
弔一は紙を握りしめた。
僕の名前を買おうとしているのは、遺書。
いや、違う。
過去の自分が書いた、あるいは書けなかった遺書だ。
ミズハが、かすれた声で言った。
「弔一」
今度は呼べた。
だが、その声はひどく苦しそうだった。
弔一は、自分の名前を呼ぶ彼女の声を聞きながら、机の上の空白を見た。
紙屋敷――
そこから先がない。
遺書代筆人は、ついに自分の遺書を書けなくなっていた。




