第四章 呼ばれ方を返してほしい
人間は、名前だけで呼ばれているわけではない。
紙屋敷弔一は、そのことを仕事の中で何度も思い知らされてきた。
戸籍に記された名。学校の名簿に並ぶ名。診察券に印字された名。契約書に署名する名。そうした名前は、人を社会の中に置くための標識のようなものだ。
だが、それだけでは足りない。
母親が子を呼ぶときの、少し伸びた語尾。
友人がふざけて呼ぶ、本人だけが嫌がっていないあだ名。
恋人が人前では絶対に使わない、二人だけの呼び方。
亡くなった祖母だけが使っていた幼名。
仕事場で役職として呼ばれる「先生」や「店長」や「先輩」。
それらは正式な名前ではない。書類には残らない。印鑑も押せない。検索しても出てこない。
けれど、人間が自分の輪郭を確かめるとき、最後に縋るのは、案外そういう呼ばれ方なのかもしれない。
その青年が遺書代筆所に現れたのは、青い石の一件から三日後の夜だった。
その日は雨ではなかった。
雨ではないのに、水の匂いがした。
弔一は帳場の机で、榊原家に残されていた祭りの記録の写しを整理していた。机の端には、白い紙片が置かれている。
――失われた神名、一字回収済。
――残り六字。
名前を売る店から届いたものだ。
ミズハはその紙片を嫌って、できるだけ視界に入らない場所にいた。いつもの棚の上ではなく、奥の書庫の入口に腰を下ろし、何かの古い本を読んでいるふりをしている。ページは一向に進んでいなかった。
「見なくても気になるなら、見た方が早い」
弔一が言うと、ミズハは本から顔を上げずに答えた。
「見たら腹が立つ」
「見なくても立っている」
「余計なお世話だねえ」
「それはこっちの台詞だ」
ミズハはようやく顔を上げた。
「何が」
「お前は三日前から、僕が茶を淹れるたびに水差しを見張っている」
「毒でも入れられたら困るだろう」
「誰に」
「あの店に」
「茶に毒を入れるような相手ではない」
「じゃあ名前でも入れるかもね」
弔一は返事をしなかった。
ミズハの冗談は、冗談に聞こえないときがある。名前を売る店に関しては特にそうだった。あの店なら、茶に名を溶かすことくらいはやりかねない。呼び名を飲ませ、記憶を書き換え、誰かを誰かの中に混ぜる。そんな想像が、冗談で済まないところにあの店の不気味さがある。
そのとき、扉が三回叩かれた。
弔一は顔を上げた。
遺書代筆所の扉を叩く者は、たいてい迷う。一度叩きかけてやめる者も多い。だが今のノックには迷いがなかった。
正確に三回。
強くも弱くもない。礼儀正しいというより、礼儀の型だけをどこかで覚えてきたような叩き方だった。
「開いている」
弔一が言うと、扉が静かに開いた。
入ってきたのは青年だった。
二十代半ばくらいに見える。背は高くも低くもない。痩せているが、不健康というほどではない。髪は黒く、服装は白いシャツに紺のカーディガン、ベージュのチノパン。どこにでもいそうな若者だった。
けれど、一目で分かった。
彼は、どこにもいない人間だった。
印象が薄いのではない。むしろ顔立ちは整っている。だが、見たそばから記憶の輪郭がぼやけていく。こちらを見ている目の色を確認したはずなのに、次の瞬間には黒だったか茶色だったか分からなくなる。声を聞く前から、声を忘れる予感があった。
ミズハが本を閉じた。
「また、厄介なのが来たね」
青年はミズハの方を見たが、驚かなかった。裸足の女が店内にいることを、不自然に思わないらしい。あるいは、不自然だと感じるだけの自分の基準を失っているのかもしれない。
「こちらで、言葉を残せると聞きました」
青年は言った。
声は穏やかだった。
「誰から聞いた」
弔一は訊いた。
「分かりません」
前にも聞いた答えだった。
名前を売った少年も、そう言っていた。誰かに聞いた気がする。だが、その誰かを思い出せない。
名前を失った者たちは、弔一の店へ導かれる。
誰が導いているのかは分からない。弔一自身か、ミズハか、あるいは名前を売る店なのか。
「座れ」
弔一は客用の椅子を指した。
青年は丁寧に会釈し、腰を下ろした。
弔一は受付用紙を出さなかった。どうせ役に立たないことが分かっていたからだ。
「名前は」
青年は少し困ったように笑った。
「ありません」
「思い出せないのか」
「思い出せない、というより、たぶん持っていません」
「持っていない?」
「はい。僕には、名前がないようです」
青年は淡々と言った。
嘆いているようでも、諦めているようでもない。長い間、その事実と一緒に暮らしてきた人間の声だった。
「いつからだ」
「分かりません」
「年齢は」
「分かりません」
「住所は」
「分かりません」
「家族は」
「分かりません」
弔一は青年を見た。
「では、何が分かる」
青年は少し考えた。
「誰かに、呼ばれていたことです」
ミズハが目を細めた。
「誰か?」
「はい」
「その誰かが誰なのかは」
「分かりません」
「どう呼ばれていたかは」
青年は首を横に振った。
「分かりません」
「それを探しに来たのか」
弔一が訊くと、青年は初めて表情を変えた。
ほんのわずかに、目の奥が揺れた。
「名前はいりません」
彼は言った。
「本名も、戸籍も、過去も、もういらないんです。ただ、あの呼ばれ方だけ返してほしいんです」
「なぜ」
「それだけが、僕を呼んでいたからです」
弔一は万年筆を手に取った。
「詳しく話せ」
青年は頷いた。
「僕は、気づいたらこの町にいました。最初に覚えているのは、駅前のベンチです。朝でした。通勤する人たちがたくさんいて、誰も僕を見ていませんでした。財布も携帯も持っていません。ポケットには、古いレシートが一枚だけ入っていました」
「レシート?」
「はい」
青年はカーディガンのポケットから、透明な袋に入れた紙片を取り出した。
レシートはかなり劣化していた。日付は読めない。店名も途中でかすれている。ただ、商品名の一つだけがかろうじて読めた。
ミルクキャラメル。
「これだけです」
青年は言った。
「警察には行ったのか」
「行きました。でも、身元不明者として扱われました。指紋も照合できず、行方不明者の情報にも一致しなかったそうです。しばらく保護施設にいました。でも、そこでも僕はうまく存在できませんでした」
「存在できない?」
「名前をつけてもらっても、定着しないんです」
青年は自分の胸元を指した。
「施設の人が仮の名前をつけてくれました。田中とか、佐藤とか、番号でもいいから呼び名が必要だと言われて。でも、翌日にはみんな忘れる。書類に書いても、字が薄くなる。名札をつけても、気づいたら白紙になっている」
「名前が拒絶されるのか」
「たぶん」
ミズハがぼそりと言った。
「売り切れた器に、別の水は入らない」
青年はその言葉を聞いて、彼女を見た。
「僕は、何かを売ったんでしょうか」
「可能性は高い」
弔一が言った。
「名前を売る店に心当たりは」
青年は首を横に振った。
「ありません。でも、時々夢に見ます。引き出しがたくさんある店です。そこで誰かが、僕の名前を手に持っている。僕はそれを見ているのに、取り返そうとしない。むしろ、お願いしますと言っている気がする」
「誰に」
「店主に」
「何をお願いした」
青年は唇を結んだ。
「誰かを、助けてください、と」
店の中が静かになった。
ミズハが弔一を見た。
前の少年と似ている。
誰かを助けるために、自分の名を売る。名前を売る店は、そういう弱さと優しさの隙間に現れる。
「その誰かを探す必要がある」
弔一は言った。
「はい」
「手掛かりは、レシートだけか」
「もう一つあります」
青年は胸の奥から声を取り出すように言った。
「僕は、雨の日になると、誰かの声を思い出しそうになります」
「声?」
「女性の声です。若い人だと思います。僕を呼んでいる。でも、肝心の呼び方だけが聞こえないんです。水の中で声を聞いているみたいに」
「何と言っているかは」
「最後だけ、少し」
青年は目を閉じた。
「……また傘、忘れたの?」
弔一はその言葉を書き留めた。
「傘」
「はい。僕はたぶん、よく傘を忘れる人間だったんだと思います」
「他には」
「その人は、笑っていました。呆れたみたいに。でも、怒ってはいない。僕はその声を聞くと、とても安心します」
「恋人か」
青年は困ったように笑った。
「それも分かりません」
「だが、その声の人に呼ばれていた呼び方を探している」
「はい」
弔一は万年筆を置いた。
「依頼内容は理解した」
「受けていただけますか」
「受ける。ただし、約束はできない」
「分かっています」
「探すのは名前ではなく、呼ばれ方だ。記録には残りにくい。しかも、名前を売る店が関わっているなら、痕跡は意図的に削られている可能性がある」
「それでも」
青年はまっすぐ弔一を見た。
「それでも、お願いします。僕は、自分が誰だったかより、誰かにどう呼ばれていたかを知りたいんです」
弔一は頷いた。
「まず、このレシートの店を探す」
レシートの店名は、ほとんど読めなかった。
かろうじて判別できるのは、末尾の「堂」だけだった。
弔一は町の古い店舗情報を調べた。商店街の資料、電話帳、ネットに残った口コミ、閉店した店舗の記録。ミルクキャラメルを扱っていて、店名の末尾が「堂」。絞り込むのに時間はかからなかった。
駅から少し離れた住宅街に、かつて「松月堂」という小さな菓子店があった。
五年前に閉店している。
しかし、店主だった老人はまだ近くに住んでいた。
翌日、弔一は青年とミズハを連れて、松月堂の跡地へ向かった。
店はもうなかった。
シャッターにはテナント募集の貼り紙があり、看板も外されている。ただ、入口横のタイルに、菓子店だった頃の名残がわずかに残っていた。古いガラスケースを置いていた跡、軒先に吊るされていた風鈴の金具、壁に薄く残る「松」の一文字。
青年は店の前で足を止めた。
「ここを知っている気がします」
「入ったことがあるのか」
「分かりません。でも、匂いが」
「匂い?」
「甘い匂いがした気がします。砂糖と、紙袋と、雨の日の湿った床の匂い」
ミズハが店先の軒を見上げた。
「雨宿りには良さそうだね」
「傘を忘れる人間なら、寄るかもしれない」
弔一は近所の人に聞き込みをした。
松月堂の元店主、松岡清治は、店の裏手にある小さな家で暮らしていた。八十を越えているが、記憶はしっかりしているという。
呼び鈴を押すと、しばらくして老人が出てきた。
小柄で、背中が少し曲がっている。白髪をきちんと撫でつけ、古いセーターを着ていた。弔一が事情を説明すると、老人は青年をじっと見た。
「どこかで見た顔だな」
青年の肩が揺れた。
「本当ですか」
「うん。うちの店に来てたかもしれん」
「名前は」
青年が思わず訊いた。
老人は眉を寄せた。
「名前は……いや、知らんな。うちは近所の子でも名前まで聞かんことが多かったから」
青年の顔に落胆が広がった。
弔一は訊いた。
「この方は、何を買っていましたか」
「さてねえ」
老人は腕を組んだ。
「昔のことだからな」
弔一はレシートを見せた。
「ミルクキャラメルです」
老人は目を細め、レシートを見た。
「ああ、これはうちのだ。懐かしいな。まだ手書きのレジだった頃のやつだ」
「この方に覚えは」
老人は青年の顔を見つめた。
「雨の日に来る子がいた」
「雨の日」
「傘を忘れて、うちの軒先で雨宿りしてた。毎回じゃないが、雨が降るとふらっと来る。キャラメルを一箱買って、店先でひと粒だけ食べて帰る」
青年の目が見開かれた。
「一人で?」
「いや」
老人は少し考えた。
「最初は一人だったが、そのうち女の子と来るようになった」
「女の子」
「近くの病院に入院していた子だったと思う」
弔一はメモを取った。
「病院の名前は」
「今は移転したが、昔は桜坂記念病院というのがあった。あの子はそこの患者だったんじゃないかな。細い子でね。髪が長くて、いつも薄い色のカーディガンを着ていた」
青年はかすかに息を震わせた。
「その人は、僕を何と呼んでいましたか」
老人は首を傾げた。
「呼び名?」
「はい。僕を、どう呼んでいましたか」
「うーん」
老人はしばらく考えた。
「何か、変な呼び方をしていた気はするな。名前ではなかったと思う。からかうような、親しげな……」
「思い出せませんか」
「すまんな」
青年は俯いた。
老人は申し訳なさそうに言った。
「ただ、あの子がよく言っていた言葉は覚えてる」
「何ですか」
「また傘忘れたの、って」
青年は目を閉じた。
その言葉だけは、彼の記憶と一致した。
弔一は老人にさらに訊いた。
「その女性について、他に覚えていることは」
「病気だった。詳しくは知らん。でも、顔色が悪かった。男の子の方が、いつも付き添うように歩いていたよ。いや、付き添っていたというより、付き添われていたのは男の子の方かもしれんな。あの子の方がしっかりしていたから」
「二人は恋人に見えましたか」
老人は笑った。
「若い子のことは分からんよ。でも、キャラメルを一箱買って、二人で一粒ずつ食べるくらいには仲が良かった」
青年は小さく呟いた。
「キャラメル」
ミズハが彼を見た。
「食べてみる?」
「え?」
「同じもの、今も売ってるかもしれない」
青年は戸惑ったように弔一を見た。
弔一は頷いた。
「味は記憶を残すことがある」
近くのスーパーで似たミルクキャラメルを買った。
青年は店先のベンチに座り、包みを一つ開いた。口に入れる。
しばらく何も起こらなかった。
それから、彼の表情が変わった。
「甘い」
「キャラメルだからね」
ミズハが言った。
「そうじゃなくて」
青年は目を伏せた。
「思ったより、硬い」
弔一は黙っていた。
「口の中で、少しずつ溶ける。焦ると歯につく。だから、ゆっくり食べなさいって、誰かが言った気がします」
「女性か」
「はい」
「他には」
「僕は、いつも先に噛んでしまって怒られた。もったいないって」
青年の声が震えた。
「その人は、最後までゆっくり溶かしていました」
記憶は戻らない。
しかし、味が、欠けた記憶の縁を濡らしている。
弔一は桜坂記念病院について調べることにした。
病院は三年前に移転していた。旧病院の建物は取り壊され、現在はマンション建設予定地になっている。だが、当時の関係者は残っていた。
調査は難航した。
個人情報の壁がある。患者の名前も病歴も、簡単には分からない。ましてや青年は自分の名前を持っていない。彼と関わりのあった女性を特定することは、雲の中から一粒の雨を探すようなものだった。
それでも、痕跡はあった。
松月堂の老人が覚えていた「薄い色のカーディガン」「長い髪」「入院患者」「キャラメル」という断片。それに青年の記憶にある「また傘忘れたの」という声。
弔一は旧病院の近くにある喫茶店を訪ねた。
病院の見舞い客や職員がよく利用していた店だという。店主の女性は、最初は怪訝そうだったが、青年の顔を見ると首を傾げた。
「あなた、見覚えがあるわ」
青年は息を呑んだ。
「僕を、知っていますか」
「名前は知らないけど。よく病院の前にいた子じゃない?」
「誰かと一緒に?」
「ええ。女の子と。たぶん患者さんね。二人で窓際の席に座って、ホットミルクを頼んでいた」
「ホットミルク」
「女の子の方が、コーヒーは苦いから嫌だって言って」
店主は懐かしむように笑った。
「男の子の方は、黙ってそれに付き合ってた。優しそうな子だったわ。あ、そうそう」
「何か」
「あの子、よく傘を忘れてたのよ」
同じ証言だった。
青年の輪郭が、ほんの少し濃くなった気がした。
「その女の子の名前は分かりますか」
弔一が訊くと、店主は考え込んだ。
「名前……たしか、病院のボランティアの人が呼んでいた気がする。小春ちゃん、だったかな」
「小春」
「違うかもしれないけど。春がつく名前だったと思う」
弔一はその名をメモした。
その日の夕方、旧病院で看護師をしていた女性に会うことができた。
彼女は現在、移転先の病院に勤務している。弔一が話を切り出すと、最初は警戒していたが、「小春」という名を出した瞬間、表情が変わった。
「瀬尾小春さんのことですか」
名前が出た。
青年は椅子の上で固まった。
看護師は続けた。
「五年前に亡くなりました。長く入院していた方です」
「その方に、見舞いに来ていた男性がいましたか」
弔一は青年を示した。
看護師は青年を見た。
少しだけ眉を寄せる。
「見覚えはあります。でも……不思議ですね。どうして忘れていたんでしょう。毎日のように来ていたはずなのに」
青年の指が震えた。
「僕は、その人とどういう関係でしたか」
看護師は困ったように言った。
「ごめんなさい。正確には分かりません。ご家族ではなかったと思います。でも、とても親しい方でした。小春さんは、あなたが来ると明らかに元気になった」
「僕は、彼女を助けようとしましたか」
看護師はその問いに驚いたようだった。
「助けようと?」
「お金が必要だったとか、治療費が」
看護師はしばらく黙った。
「当時、小春さんは未承認の治療を受けるかどうかで悩んでいました。高額でした。ご家族は反対していたと思います。効果が確実ではなかったから」
「その費用は」
「最終的には用意されたと聞いています。誰が払ったのかまでは知りません。でも、小春さんは泣いていました」
「なぜ」
「自分のために、誰かが大事なものを失った気がすると」
青年の顔から血の気が引いた。
弔一は静かに訊いた。
「小春さんは、彼を何と呼んでいましたか」
看護師は首を傾げた。
「名前では呼んでいなかったと思います」
「では、何と」
「それが……」
看護師は額に手を当てた。
「出てこない。おかしいですね。よく聞いていたはずなのに。小春さんの声まで覚えているのに、そこだけ抜けている」
名前を売る店だ。
弔一は確信した。
青年の本名だけではない。小春が彼を呼んだ呼び方まで、店は奪っている。
「何か残っていませんか。小春さんの手紙、録音、動画、日記など」
「ご家族に確認しないと」
看護師は躊躇した。
「ただ、病院に残っているものではありません。亡くなる前、小春さんは古いボイスレコーダーを使っていました。声が出にくくなる前に、家族や大事な人へメッセージを残していたんです」
「その中に彼宛てのものがある可能性は」
「あると思います」
「ご家族に連絡を取れますか」
看護師は少し迷ったが、頷いた。
「聞いてみます」
返事が来たのは、翌日の昼だった。
小春の母親が、会ってもいいと言っているらしい。
瀬尾家は、町の西側にある小さな一軒家だった。
庭には鉢植えが並び、玄関脇には古びた傘立てが置かれていた。傘立ての中に、一本だけ淡い黄色の傘がある。布は少し色褪せていたが、大切に保管されていることが分かった。
出迎えた瀬尾千枝は、五十代の女性だった。
小春の母。
彼女は青年を見るなり、口元を押さえた。
「あなた」
青年は息を止めた。
「僕を知っていますか」
千枝は目に涙を浮かべた。
「知っているはずなのに、名前が出てこないんです。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「謝らないでください」
青年はすぐに言った。
「僕は、名前を持っていませんから」
千枝はその言葉に、さらに顔を歪めた。
居間に通されると、仏壇の横に小春の写真が飾られていた。
長い髪の少女だった。
笑っている。病室で撮られた写真らしく、背景には白いカーテンが写っている。顔色は悪いが、目だけは明るい。薄いピンクのカーディガンを着ていた。
青年は写真の前で立ち尽くした。
「この人です」
彼は言った。
「分かるのか」
弔一が訊く。
「はい。分かります」
「名前は」
「小春さん」
「呼び方は」
青年は首を横に振った。
「そこだけ、分かりません」
千枝は押し入れから小さな箱を持ってきた。
「娘の遺品です。看護師さんから、あなたが探していると聞いて」
箱の中には、手帳、写真、古い携帯電話、ボイスレコーダー、色褪せたキャラメルの包み紙が入っていた。
青年が包み紙を見て、そっと触れた。
「一緒に食べた」
弔一はボイスレコーダーを手に取った。
「再生しても」
千枝は頷いた。
「娘は、いくつかメッセージを残していました。家族宛てのものは聞きました。でも、ひとつだけ、聞けないものがあったんです」
「聞けない?」
「再生すると、途中でノイズになるんです。修理にも出しましたが、データが破損していると言われました」
弔一はレコーダーの電源を入れた。
古い液晶に、ファイル名が表示される。
家族へ。
お母さんへ。
病院の皆さんへ。
それから――
最後のファイル名だけが文字化けしていた。
青年は画面を見つめた。
「これです」
「分かるのか」
「はい」
弔一は再生ボタンを押した。
しばらく無音が続いた。
やがて、かすかな呼吸音が聞こえた。
『これ、ちゃんと録れてるのかな』
若い女性の声だった。
小春だ。
千枝が口元を押さえた。
『えっと、これを聞いているということは、私はもう、あなたに直接文句を言えない状態なんだと思います。だから先に言っておきます。また傘を忘れたら、ちゃんと買いなさい。人の傘を借りっぱなしにしないこと』
青年の目から涙がこぼれた。
『あと、キャラメルは噛まない。あれは溶かすものです。何回言えば分かるんだろうね、あなたは』
声は明るかった。
けれど、その明るさの奥に、死を覚悟した人間だけが持つ静けさがあった。
『私の治療費のこと、知っています。誰が払ったのかも、たぶん分かっています。あなたは絶対に言わないだろうけど。私のために、何か大事なものを売ったんでしょう』
青年は両手で顔を覆った。
『怒っています。すごく怒っています。私のために自分をなくすなんて、そんなの嬉しくない。嬉しくないけど』
そこで、小春の声が少し震えた。
『ありがとう。生きたいと思わせてくれて、ありがとう』
ノイズが入った。
弔一は息を詰めた。
ここからだ。
『ねえ、――』
呼び方の部分だけ、激しいノイズに潰れた。
青年が身を乗り出した。
小春の声は続く。
『私はね、あなたに呼ばれる自分が好きでした。小春って名前、嫌いじゃなかったけど、病院ではずっと患者さんだった。家では病気の子だった。でも、あなたの前では、ちゃんと私だった』
ノイズ。
『だから、あなたにも、私が呼んだ名前を持っていてほしい。たとえ本当の名前を忘れても、私はあなたを――』
激しい雑音。
弔一はレコーダーを止めた。
部屋の中は静まり返っていた。
千枝は泣いていた。
青年は言葉を失っていた。
ミズハは窓の外を見ている。だが、その目も濡れていた。
「もう一度」
青年が言った。
「もう一度、聞かせてください」
弔一は再生した。
同じだった。
呼び方の部分だけが消されている。
三度再生しても、四度再生しても変わらない。そこだけ、世界から削られているようだった。
青年は項垂れた。
「やっぱり、駄目なんですね」
「まだだ」
弔一はレコーダーを机に置いた。
「呼び方そのものは奪われている。だが、小春さんがなぜその呼び方をしたのかは残っている」
「なぜ?」
「傘を忘れる。キャラメルを噛む。借りた傘を返さない。だが、毎日病院に来る。治療費のために何かを売る。彼女はそういうお前を呼んでいた」
青年は弔一を見た。
「それで、呼び方が分かるんですか」
「分からない」
弔一は正直に言った。
「だが、遺書は書ける」
「名前がないのに?」
「名前を書くとは限らない」
弔一は千枝に向き直った。
「小春さんの遺品を、少しお借りできますか。今日中にお返しします」
「何に使うんですか」
「彼のための文を書きます」
千枝は青年を見た。
青年は何も言えないでいた。
やがて千枝は頷いた。
「お願いします。娘が大切にしていた人なんだと思います。なのに、私も忘れてしまった。せめて、残せるなら」
弔一はキャラメルの包み紙、黄色い傘の写真、小春の手帳のコピー、ボイスレコーダーの音声を借りた。
遺書代筆所に戻る頃、空は曇っていた。
雨が降りそうな重い雲だった。
青年は店に入るなり、客用の椅子に座った。疲れ切っているようだった。名前のない体で過去に近づくことは、普通の人間が記憶を辿るよりずっと消耗するのだろう。
ミズハは棚の上に座った。
「弔一」
「何だ」
「書けるの?」
「書く」
「呼び方は分からない」
「分からないものを、分からないまま書く」
「それで届く?」
「届かせる」
弔一は机に便箋を置いた。
万年筆にインクを吸わせる。
青年が不安そうに訊いた。
「僕は、何を言えばいいんでしょう」
「言えることを言えばいい」
「小春さんに?」
「自分に」
「自分に?」
「これは遺書ではない。お前が、自分の不在に宛てて書く文だ」
青年は理解できない顔をした。
弔一は書き始めた。
名前のないあなたへ。
あなたには、本名がありません。
生年月日も、住所も、家族も、過去もありません。
役所の書類に書けることは、ほとんどありません。
けれど、あなたは雨の日に傘を忘れる人でした。
ミルクキャラメルを噛んでしまう人でした。
人から借りた傘を返し忘れ、それでも毎日病院へ通う人でした。
誰かの治療費のために、自分の大事なものを差し出す人でした。
青年はじっと手元を見つめていた。
弔一は続けた。
あなたを覚えている人は、少しずつ忘れていました。
菓子店の老人は、雨の日に来る子として覚えていました。
喫茶店の店主は、ホットミルクを頼む二人として覚えていました。
看護師は、彼女が元気になる相手として覚えていました。
母親は、娘が大切にしていた人として覚えていました。
誰も、あなたの名前を言えませんでした。
けれど、誰も、あなたがいなかったとは言いませんでした。
青年の頬を涙が伝った。
ミズハは何も言わなかった。
弔一の万年筆は止まらない。
あなたは、誰かに呼ばれていました。
その呼び方は、今はもう聞こえません。
奪われたのかもしれません。
売ってしまったのかもしれません。
それでも、その呼び方が生まれた理由は残っています。
傘を忘れるから。
キャラメルを噛むから。
黙って優しいから。
自分を失ってでも、誰かに生きてほしかったから。
小春さんは、あなたの本名を呼んでいたのではありません。
あなたのそういうところを、呼んでいたのです。
青年が声を漏らした。
「僕は」
弔一はペンを止めた。
「何だ」
「僕は、彼女に生きてほしかったんです」
「書く」
「でも、小春さんは死んだ」
「ああ」
「僕は、何のために名前を売ったんでしょう」
その問いは、部屋の中に重く落ちた。
名前を売った少年は、母親を救った。ミズハは、神名を売って人の形と時間を得た。だが、この青年はどうなのか。名前を売って治療費を用意した。小春はそれでも亡くなった。
では、彼の犠牲には意味がなかったのか。
弔一は青年を見た。
「意味は、結果だけで決まらない」
「でも」
「小春さんは、生きたいと思ったと言っていた」
青年の目が揺れた。
「あなたのおかげで、生きたいと思った。そう言っていた」
「それだけで」
「それだけでは足りないかもしれない。だが、ゼロではない」
青年は両手を握りしめた。
「僕は、小春さんに怒られたいです」
「書く」
「キャラメルを噛むなって。傘を忘れるなって。あなたは本当にしょうがないって。そう言ってほしい」
弔一は頷き、書いた。
あなたは、もう一度怒られたいと思っています。
傘を忘れるなと。
キャラメルを噛むなと。
人の傘を借りっぱなしにするなと。
本当にしょうがない人だと。
その「しょうがない」に、あなたはきっと救われていました。
正式な名前ではなくても。
世界中の誰にも通じなくても。
その呼ばれ方だけが、あなたの居場所でした。
弔一は最後の一文を前に、しばらく手を止めた。
呼び方は分からない。
書けば嘘になる。
だが、空白のままでは届かない。
どうするべきか。
そのとき、外で雨が降り始めた。
ぽつり、ぽつりと路地に落ちる音。やがて雨脚が強まり、店の看板を叩いた。
青年が顔を上げた。
「雨」
ミズハが窓辺に降りた。
雨音の中に、かすかなノイズが混じっている。
弔一はボイスレコーダーを再生した。
『ねえ、――』
ノイズ。
雨音。
『私はね、あなたに呼ばれる自分が好きでした』
弔一はもう一度、最初から再生した。
『また傘を忘れたら、ちゃんと買いなさい』
雨音が重なる。
『キャラメルは噛まない』
ノイズ。
『ねえ、――』
その瞬間、雨音がわずかに変わった。
ミズハが窓に手を当てた。
「弔一」
「何だ」
「雨が、拾ってる」
「何を」
「声の欠片」
ミズハの指先から、水が窓硝子を伝った。外側の雨と内側の水が、硝子一枚を挟んで同じ形に流れていく。
ボイスレコーダーのノイズが、少しだけ薄くなった。
『ねえ、――』
まだ聞こえない。
青年は立ち上がった。
「小春さん」
その名を呼んだ瞬間、レコーダーの音が乱れた。
店の灯りが一度、明滅した。
机の上に、黒い紙片が現れた。
名前を売る店からのものだ。
弔一はそれを開いた。
――商品化済みの呼称につき、無断復元を禁じます。
ミズハが舌打ちした。
「来たね」
「都合が悪いらしい」
「どうする」
「続ける」
弔一は黒い紙片を伏せた。
青年は震えていた。
「僕のせいで」
「違う」
「僕が売ったから」
「売らせた店の問題だ」
弔一は便箋に向き直った。
呼び方が分からないなら、その呼び方を入れる場所を書く。
それしかない。
彼は最後の部分を書き始めた。
だから、ここに空白を残します。
小春さんがあなたを呼んだ、その音のために。
あなたが思い出せない呼び方のために。
奪われても、売られても、まだ誰かの声の中に残っているはずの、あなたの居場所のために。
ねえ、 。
また傘、忘れたの?
弔一はその空白を、あえて広く取った。
名前ではない。
呼び方が入る場所。
青年はその空白を見た。
雨音が強くなる。
ボイスレコーダーが勝手に再生された。
『ねえ、――』
ノイズ。
だが今度は、完全には潰れなかった。
ほんの一瞬。
水の中で、小さな鈴が鳴るように。
呼び方が聞こえた。
青年の顔が変わった。
弔一には聞こえなかった。
ミズハにも聞こえなかったようだった。
だが、青年には届いた。
彼は両手で口元を覆い、泣き崩れた。
「そうだ」
彼は言った。
「そう呼ばれてた」
弔一は訊かなかった。
それは弔一が知るべき名前ではない。ミズハが聞くべき音でもない。小春と青年だけのものだった。
青年は便箋の空白に手を伸ばした。
「書いてもいいですか」
「書けるのか」
「たぶん」
弔一は万年筆を渡した。
青年は震える手で、空白に何かを書いた。
弔一には読めなかった。
文字ではある。けれど、視線を合わせると意味がほどける。名前を売る店の帳簿と同じではない。これは意図的に隠されているのではなく、他人には読めないように守られているのだ。
青年は書き終えると、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
「まだ終わっていない」
弔一は便箋を整えた。
「最後に署名を」
「名前はありません」
「なら、こう書け」
弔一は別紙に手本を書いた。
――傘を忘れる人より。
青年は笑った。
涙を流しながら、少しだけ本当に笑った。
「小春さんに怒られます」
「そのための署名だ」
青年は便箋の最後に書いた。
傘を忘れる人より。
その瞬間、店の中の雨音が遠ざかった。
青年の輪郭が薄くなっていく。
前章の少年と同じだった。ただし、少年よりも穏やかだ。彼は消えることを怖がっていない。自分がいた場所を、最後に一つ見つけた人間の顔をしている。
「僕は、死ぬんでしょうか」
「分からない」
弔一は答えた。
「でも、あなたはいつもそう答える気がします」
「嘘をつくよりはいい」
「はい」
青年は小春の写真を見た。
千枝から借りた写真だ。薄いピンクのカーディガンを着た少女が、病室で笑っている。
「小春さんに会えると思いますか」
「それも分からない」
「そうですか」
青年は少し残念そうにし、それから微笑んだ。
「でも、怒られる準備はできました」
ミズハが窓辺で小さく笑った。
「傘、持っていきなよ」
青年は自分の手元を見た。
そこには、いつの間にか淡い黄色の傘があった。
瀬尾家の玄関にあった傘と同じ色だった。
「借りてもいいんでしょうか」
「返す相手がいるならね」
ミズハが言った。
青年は傘を抱えた。
そして、薄れていった。
最後に残ったのは、ミルクキャラメルの包み紙だった。
弔一はそれを拾い、便箋と一緒に封筒へ入れた。宛名は、瀬尾小春の母親ではない。彼女に渡すべきものではあるが、この文はもっと別の場所にも届く気がした。
封筒には、こう書いた。
雨の日に傘を忘れた人と、その人を叱ってくれた人へ。
ミズハは机の黒い紙片を見た。
そこには新しい文字が浮かんでいた。
――呼称一件、回収不能。
その下に、さらに一文。
――紙屋敷弔一様の査定額を更新しました。
弔一は紙片を見つめた。
ミズハが言った。
「また値段が上がったってこと?」
「おそらく」
「喜ばしいねえ。高値の男だ」
「売る予定はない」
「向こうは買う気満々だけど」
弔一は紙片を引き出しにしまった。
外の雨はまだ降っていた。
その雨音の中に、かすかに少女の声が混じった気がした。
また傘、忘れたの?
弔一は窓の外を見た。
雨に濡れた路地の向こうに、二つの影が見えた気がした。
一つは淡い黄色の傘を差している。
もう一つは、その傘に入りきれずに少し肩を濡らしている。
次の瞬間、影は消えた。
ミズハがぽつりと言った。
「聞こえた?」
「何が」
「いや。いい」
彼女は棚の上に戻った。
けれど、いつものように足を揺らすことはなかった。
弔一は机の上に残ったボイスレコーダーを止めようとした。
そのとき、再生済みのはずの音声が、もう一度流れた。
『私はね、あなたに呼ばれる自分が好きでした』
ノイズはもうなかった。
続けて、聞こえるはずのない声が入った。
『だから、あなたにも、誰かに呼ばれる自分を嫌いにならないでほしい』
弔一は手を止めた。
それは小春の声だった。
だが、録音に残っていたものとは違う。
もっと近い。もっと現在に近い。
ミズハが棚の上で身を起こした。
「弔一」
「ああ」
録音はそこで終わった。
店の中に沈黙が落ちた。
弔一は、自分の胸の奥に奇妙な痛みを覚えていた。
青年の恋人の声。
小春の声。
その響きが、どこか別の記憶と重なった。
雨。
破れた遺書。
誰かの名前を呼ぶ自分。
看板のない店の前。
水の中で見た、白い手。
弔一はその記憶を掴もうとした。
だが、掴む前に消えた。
ミズハが彼を見ていた。
「今、何か思い出した?」
弔一はしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「分からない」
「嘘」
「嘘ではない」
「じゃあ、言い方を変える。何か、忘れていることに気づいた?」
弔一は机の上の便箋を見た。
空白に書かれた、他人には読めない呼び方。
小春が青年に残した居場所。
それを見た瞬間、弔一は確かに何かを思い出しかけた。
自分にも、かつて誰かを呼んだ声があったのではないか。
そしてその名を、もう思い出せないのではないか。
弔一は万年筆を握った。
「ミズハ」
「何」
「僕は昔、誰の遺書を書けなかった」
ミズハの表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、弔一には分かった。
彼女は知っている。
だが、言わない。
「まだ、言えない」
ミズハは静かに言った。
「言ったら?」
「お前の名前が、もっと早く売られる」
弔一は引き出しの中の黒い紙片を思い出した。
査定額更新。
名前を売る店は、弔一が誰かの終わりを代筆するたびに、彼の名前の価値を測っている。
そして、彼自身の過去に近づくたびに、買い取りの準備を進めている。
弔一は窓の外を見た。
雨は、いつの間にか上がっていた。
路地には水たまりが残っている。
その一つに、見知らぬ少女の影が映った気がした。
振り返っても、誰もいない。
弔一は静かに言った。
「次は、僕の番かもしれないな」
ミズハは答えなかった。
ただ、水差しの水面だけが、小さく震えていた。




