第三章 神の名を売った女
名前を失うということは、消えることではない。
紙屋敷弔一は、そう考えていた。
消えるだけなら、まだ分かりやすい。いなくなった者はいなくなった者として扱われる。死者なら弔われ、失踪者なら捜される。捜されない者であっても、いないという事実だけは残る。
だが、名前を失った者は違う。
そこにいるのに、呼ばれない。
見えているのに、数えられない。
生きているのに、生者の中に置かれず、死んでいるのに、死者の中にも入れない。
それは、存在の置き場をなくすことだった。
前夜、名前を売る店で見た帳簿のことが、弔一の頭から離れなかった。
紙屋敷弔一。
自分の名前が、あの黒い帳簿に載っていた。しかも購入者の欄は黒く塗りつぶされていた。誰かが自分の名前を買おうとしている。あるいは、もう買い始めている。
だが、弔一にとって、それ以上に気になることがあった。
――同伴者様の旧名につきましても、現在保管中です。
黒い紙片に浮かんだ一文。
同伴者とは、ミズハのことだ。
旧名。
つまり、今の「ミズハ」は本当の名前ではない。
それは弔一も薄々分かっていた。彼女自身が何度も、それを冗談めかして示していたからだ。元神様。水の気配。呼ばれることへの怯え。名前を売る店に対する過剰な恐怖。
だが、分かっていることと、突きつけられることは違う。
名前を売る店は、ミズハの名を持っている。
それが何を意味するのか、弔一はまだ知らない。
遺書代筆所に戻ると、ミズハはいつもの棚の上に座らなかった。
彼女は窓辺に立ち、外の路地を見ていた。雨は降っていない。それなのに、窓硝子の外側には細かな水滴がついている。まるで窓のこちら側ではなく、向こう側の空気だけが湿っているようだった。
弔一は湯を沸かし、急須に茶葉を入れた。
茶を淹れる音だけが、店の中に響いた。
「飲むか」
声をかけると、ミズハは振り向かずに答えた。
「水なら足りてる」
「茶は水ではない」
「水だよ。少し色がついて、苦くなっただけ」
「それを茶と言う」
「人間は名前をつけるのが好きだねえ」
いつもの調子に戻そうとしているのが分かった。
だが、声の奥が固い。
弔一は湯呑みを二つ置いた。ひとつは自分の前、もうひとつは窓辺の小さな卓の上。ミズハはしばらくそれを見つめていたが、手を伸ばさなかった。
「訊きたいことがある」
弔一が言うと、ミズハは笑った。
「ない日があるの?」
「お前の旧名についてだ」
湯呑みの表面が、小さく波立った。
ミズハが触れたわけではない。彼女の感情に、水だけが反応した。
「やっぱり訊くんだ」
「訊く」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあ答えない」
ミズハは振り返った。
その目は笑っていなかった。
「答えない自由くらい、名前を売った女にも残しておくれよ」
「売ったのか」
弔一は一歩踏み込んだ。
「自分の名を」
ミズハの唇がわずかに動いた。
だが、返事はなかった。
弔一は待った。沈黙を急かしてはいけない。人が秘密を話すとき、実際に話すまでの時間よりも、話さないでいる時間の方が本質を含んでいることがある。
やがて、ミズハは窓から離れた。
「昔の話だよ」
「昔とは」
「人間の数え方では分からない。百年か、二百年か、もっとか。神様だった頃の時間は、だいたい曖昧なんだ。祭りの回数で覚えていたからね」
彼女は湯呑みを持ち上げた。
飲むのではなく、両手で包むように持った。
「私には名前があった」
「どんな名だ」
「それを言えたら苦労しない」
ミズハは苦笑した。
「川の名でもあり、土地の名でもあり、雨乞いの祝詞に入る名でもあった。子供たちは短く呼んだ。年寄りは長く呼んだ。祭司は間違えないように慎重に呼んだ。泣いている母親は、すがるように呼んだ」
弔一は黙って聞いていた。
「私は小さな神だった。大きな川じゃない。山から町へ流れる細い川の、水の神。田畑に水を引き、洪水を鎮め、井戸を守る。たいした力はなかったけれど、名前を呼ばれるたびに、私はそこにいた」
「呼ばれることで存在していた」
「神様なんて、だいたいそんなものだよ」
ミズハは湯呑みの中を見た。
「人間が呼ぶから、神になる。祈るから、神でいられる。忘れられれば、ただの水になる」
外で風が鳴った。
商店街の古い看板が、ぎい、と軋む音がした。
「時代が変わった」
ミズハは続けた。
「川はコンクリートで固められた。田んぼは駐車場になった。祠は道路拡張の邪魔だと言われて壊された。祭りは観光イベントになった。誰も本当の祝詞を覚えていない。みんな、私の名前を短くした。短くして、間違えて、やがて呼ばなくなった」
その声は淡々としていた。
恨みを語る声ではない。あまりに長く抱えてきたため、怒りの形を失った声だった。
「最初は平気だった。神は、人間より長く待てる。十年くらい呼ばれなくても、そのうち誰かが思い出すだろうと思っていた。雨が降りすぎれば祈る。日照りが続けば祈る。子供が川で溺れれば、助けてくれと呼ぶ。そういうものだったから」
ミズハは自嘲気味に笑った。
「でも、人間は賢くなった。堤防を作り、排水路を作り、天気予報を見て、保険に入った。誰かが溺れれば救急車を呼ぶ。私の名を呼ぶ必要はなくなった」
「それで、消えかけたのか」
「うん」
ミズハは短く答えた。
「最初に指先が透けた。次に、声が届かなくなった。雨に触れても、雨が私を覚えていない。川に足を入れても、川が道を開けない。ああ、これは終わるんだなと思った」
弔一は、遺書を書いてきた者たちの顔を思い出した。
死を怖がる者は多い。
だが、本当に怖いのは、死ぬことではない場合がある。
自分がいたことを、誰にも証明できなくなること。
それは、死よりも静かで、死よりも深い恐怖なのかもしれない。
「そのとき、店が現れた」
弔一が言うと、ミズハは頷いた。
「看板のない店。あの店主が、私の祠の跡地に立っていた。白い傘を差してね。雨も降っていないのに」
「何と言われた」
「呼ばれない名など、持っていても痛むだけでしょう」
ミズハの声は、店主の言葉をなぞるときだけ、少し低くなった。
「神名を売れば、人の姿と時間を差し上げます。もう祠に縛られる必要はありません。誰にも呼ばれない場所で朽ちる必要もありません。名前から自由になれます」
「信じたのか」
「信じたわけじゃない」
ミズハは弔一を見た。
「でも、疲れていた。誰にも呼ばれないのは、思っているよりずっと冷たいんだよ。水の神だった私が言うのも変だけどね」
「それで売った」
「うん」
「代価は」
「人の形。移動できる体。少しばかりの時間。それから――」
ミズハはそこで言葉を切った。
「それから?」
「お前と出会うための猶予」
弔一は眉を動かした。
「僕と?」
「さあね。そこは忘れた」
「今、言った」
「言ったかな」
ミズハは湯呑みを置いた。
「名前を売ると、記憶は綺麗にはなくならない。虫食いになる。都合よく消えるわけじゃない。むしろ、消えてほしくないところばかり欠ける」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「私は、自分が何の神だったかをまだ覚えている。でも、本当の名は思い出せない。誰が最後に呼んでくれたのかも、顔が霞んでいる。祠の場所も、ときどき分からなくなる」
「名前を取り戻したいと思わないのか」
ミズハはすぐには答えなかった。
それから、冗談めかして肩をすくめた。
「取り戻したら、今の私は消えるかもしれない」
「なぜ」
「神名は、ただの名前じゃない。祈りや役割や土地の記憶が詰まっている。今の私は、その重さから逃げてできた抜け殻みたいなものだ。元の名を戻したら、神だった頃の私に引き戻されるかもしれない。あるいは、今の私と神名が合わなくて、裂けるかもしれない」
「裂ける?」
「水を無理に二つの器に入れると、こぼれるだろう?」
弔一は言葉を探した。
だが、適切な言葉は見つからなかった。
「お前は、どうしたい」
結局、そう訊いた。
ミズハは少しだけ目を丸くした。
「どうしたいか?」
「そうだ」
「変なことを訊くね」
「変か」
「たいていの人間は、神様には願いを言うものだよ。神様が何を願うかなんて、訊かない」
「お前は元神様だろう」
「そういう問題?」
「少なくとも、ここでは客に近い」
ミズハは笑った。
今度は、少しだけ本当に笑っていた。
「遺書を書かれるのはごめんだよ」
「まだ書くとは言っていない」
「書く顔をしている」
「癖だ」
「悪い癖だね」
そのときだった。
店の電話が鳴った。
遺書代筆所の黒電話は、滅多に鳴らない。
弔一の仕事は紹介で来ることが多い。電話番号は看板にも名刺にも載せていない。にもかかわらず、必要な者だけが電話をかけてくる。そういう仕組みになっている。誰が仕組んだのかは、弔一自身も知らない。
受話器を取ると、女の声がした。
「紙屋敷さんですか」
「そうです」
「すみません。こんなことで相談していいのか分からないんですが」
声は中年の女性だった。息が乱れている。
「落ち着いてください。何がありました」
「家が、水浸しなんです」
「水道管の破裂ですか」
「違います。業者にも見てもらいました。水道も、排水も、雨漏りも異常なしって。でも、毎朝、仏間だけ水浸しになっているんです」
弔一はミズハを見た。
ミズハもこちらを見ていた。
「仏間だけですか」
「はい。畳の上に、水が溜まっていて。拭いても拭いても、翌朝にはまた。昨日は、古い掛け軸まで濡れていて」
「掛け軸?」
「うちの先祖が祀っていた水神様の掛け軸です。もう何十年も出していなかったんですが、蔵を整理していたら出てきて。それを仏間に置いた日から、おかしくなりました」
ミズハの顔が強張った。
弔一はメモを取った。
「お名前と住所を」
女性は名乗った。
榊原佳代。住所は町の北側、旧川筋に近い住宅地だった。
電話を切ると、ミズハがすぐに言った。
「行かない」
「まだ何も言っていない」
「行く顔をしている」
「相談が来た」
「水道業者に任せればいい」
「業者は異常なしと言っている」
「じゃあ霊媒師」
「元神様がそれを言うのか」
「元だからね」
ミズハは窓辺に戻った。
「関係ない。私には関係ない」
「掛け軸に、水神が描かれているそうだ」
「水神なんて、この国にいくらでもいる」
「旧川筋の榊原家だ」
ミズハの肩がわずかに揺れた。
弔一は見ていた。
「知っているのか」
「知らない」
「反応した」
「してない」
「榊原という家に覚えは」
「ない」
「祠を壊した家か」
ミズハは振り返った。
その目に、怒りがあった。
「知ったように言うな」
「知りたいから訊いている」
「知らなくていいこともある」
「お前の名に関わることなら、知らないままにはできない」
「どうして」
ミズハの声が鋭くなった。
「どうしてそこまでする。私は頼んでない。名を取り戻してくれとも、過去を暴いてくれとも言ってない。お前はいつもそうだ。誰かが終わりたいと言えば遺書を書く。終われないと言えば終わらせようとする。でも、私はまだ終わりたくない」
「なら、なおさらだ」
弔一は言った。
「終わりたくない者に、勝手に終わりが近づいているなら、止める必要がある」
ミズハは黙った。
「名前を売る店は、お前の旧名を保管中だと書いた。昨日、店主は水神の名が入った引き出しを見せようとした。今日、水神の掛け軸がある家から水の異変が起きた。無関係と考える方が難しい」
「そうやって理屈で追い詰めるの、嫌いだよ」
「僕も好きでやっているわけじゃない」
「嘘だね。お前は理屈が好きだ」
「理屈がなければ、恐怖に飲まれる」
ミズハは言葉を失ったように弔一を見た。
弔一は鞄を取った。
「行くぞ」
「私は行かない」
「分かった」
弔一があっさり頷くと、ミズハは逆に不安そうな顔をした。
「本当にひとりで行くの?」
「ああ」
「あの家に何があるかも分からないのに?」
「分からないから行く」
「水のことは私の方が詳しい」
「だろうな」
「だったら」
「来るのか」
ミズハは悔しそうに唇を噛んだ。
「行くよ。行けばいいんだろう」
「助かる」
「その言い方も嫌い」
彼女はそう言いながら、弔一の後をついてきた。
榊原家は、古い川の跡に沿った住宅地の一角にあった。
かつては田畑が広がっていたのだろう。道は不自然に曲がり、ところどころに用水路の名残がある。今は蓋をされ、細い歩道になっているが、耳を澄ますと地下で水が流れる音がした。
ミズハはその音を聞くたびに、表情を変えた。
懐かしいものを聞いたようでもあり、聞きたくないものを聞いたようでもあった。
榊原家は大きな旧家だった。黒い瓦屋根、白壁、広い庭。門柱には新しい表札がかかっているが、敷地の奥には古い蔵が残っていた。
出迎えた榊原佳代は、電話の声よりも疲れて見えた。
五十代半ば。上品な身なりだが、目の下に隈がある。水浸しの部屋の片付けに追われているのだろう。
「お越しいただいて、ありがとうございます」
佳代は深く頭を下げた。
弔一は名刺を差し出した。
「状況を見せていただけますか」
「はい。こちらです」
家の中は、よく手入れされていた。
廊下は磨かれ、古い柱には艶がある。けれど奥へ進むにつれ、空気が湿っていった。風呂場や台所の湿気ではない。川辺に立ったときのような、生きた水の気配だった。
仏間に入った瞬間、ミズハが足を止めた。
畳はすでに乾かされていたが、部屋全体に水の匂いが残っている。押し入れの前には除湿機が置かれ、畳の一部がめくり上げられていた。壁際には、濡れて波打った古い掛け軸が立てかけられている。
弔一はその掛け軸に近づいた。
描かれていたのは、水辺に立つ女神だった。
長い髪。細い肩。足元を流れる川。背景には、簡素な祠と、稲穂のようなものが描かれている。絵はかなり古い。顔の部分は滲んでいて、はっきりしない。
だが、弔一は横に立つミズハを見た。
似ている。
顔立ちがそのままというわけではない。むしろ絵の女神は、もっと厳かで、遠い存在として描かれている。だが、水のまとい方が同じだった。水が服のように、髪のように、影のように寄り添っている。
佳代は掛け軸を見ながら言った。
「蔵の奥から出てきたんです。古い家なので、処分するものを整理していたら。祖父が昔、この家は水神様を祀っていたと言っていたのを思い出しました。せっかくだから仏間に置いたんです。そうしたら、その夜から」
「水が出た」
「はい」
「掛け軸からですか」
「分かりません。朝起きると、畳の上に水が溜まっています。掛け軸も濡れていて。でも、不思議なんです」
「何が」
「水が、しょっぱくないんです」
弔一は一瞬、意味を取りかねた。
「しょっぱい?」
「すみません、変な言い方で。最初は雨漏りかと思ったんです。でも雨水とも違う。水道水みたいな匂いもしない。川の水みたいなんです。昔、家の裏を流れていた川の水の匂いに似ている気がして」
ミズハが小さく息を吐いた。
佳代は彼女を見た。
「そちらの方は」
「助手です」
弔一が答えた。
ミズハは何か言いたげだったが、黙っていた。
「この家の裏に川があったんですか」
弔一が訊くと、佳代は頷いた。
「今は暗渠になっています。昔は、家の裏に小さな川が流れていたそうです。祖父の話では、その川のそばに祠があって、田植えの前にはお参りをしていたとか」
「祠は」
「戦後しばらくして、壊したそうです。家を建て替えるときに邪魔になったとかで」
ミズハの指が、着物の袖を握った。
「壊したのは、榊原家ですか」
弔一が訊いた。
佳代は気まずそうに目を伏せた。
「そう聞いています。祖父の父、つまり曽祖父の代です。迷信だと言って、祠もご神体も処分したと」
「ご神体は何だったか分かりますか」
「小さな石だったそうです。川から拾い上げた青い石で、祠の奥に置いていたと」
ミズハの顔色が変わった。
弔一はそれを見逃さなかった。
「その石は」
「分かりません。捨てたのか、どこかに埋めたのか。蔵を整理しても出てきませんでした」
弔一は掛け軸に目を戻した。
女神の足元に、青い石らしきものが描かれている。だが水で滲み、輪郭が崩れていた。
「この掛け軸を見つけたのは、いつですか」
「四日前です」
四日前。
少年が名前を売った日の前後だ。
偶然とは思えなかった。
名前を売る店は、こちらが店に足を踏み入れるより前から何かを動かしていた可能性がある。
「掛け軸以外に、何か変わったものはありましたか」
「古い木箱が一つ。中は空でした。ただ、蓋の裏に文字が書いてあって」
「見せてください」
佳代は隣の部屋から木箱を持ってきた。
手のひらより少し大きい箱だった。内側は古びているが、底に水の染みがある。弔一は蓋の裏を見た。
墨で文字が書かれていた。
だが、読めない。
文字が崩れているわけではない。墨は残っている。形もある。しかし、視線を合わせると意味が消える。名前を売る店の引き出しの札と同じ現象だった。
「ミズハ」
弔一は呼んだ。
ミズハは近づかなかった。
「読めるか」
「読めない」
「見てもいない」
「見なくても分かる」
「お前の名か」
佳代が不思議そうに二人を見ている。
ミズハは唇を噛んだ。
「違う」
「では、何だ」
「祝詞の一部」
「なぜ分かる」
「分かるから」
弔一は蓋を佳代に返した。
「この箱は、祠にあったものかもしれません」
「やっぱり、祟りでしょうか」
佳代の声が震えた。
「ご先祖が祠を壊したから、水神様が怒っているんでしょうか」
ミズハが口を開きかけた。
弔一は先に言った。
「怒っているとは限りません」
「では、なぜ水が」
「忘れられたものが、思い出されようとしているのかもしれません」
佳代は困惑した顔をした。
「どうすればいいんでしょう」
「まず、この家に残っている記録を見せてください。祠、川、祭り、水神に関するものです」
「分かりました」
佳代は蔵へ案内した。
蔵の中は、古い紙と土の匂いがした。木箱、箪笥、額縁、巻物、古い帳簿。佳代の夫は仕事で不在らしく、家には彼女しかいないという。蔵の整理はほとんど佳代が一人で進めていた。
弔一たちは、蔵の中で数時間を費やした。
古い土地台帳。祭りの収支記録。水路の修繕費。明治期の村絵図。どれも断片的だったが、少しずつ全体が見えてきた。
榊原家は、かつてこの地域の有力農家だった。川の管理を任され、田に水を引く権利を持っていた。その川のほとりに小さな祠があり、水神が祀られていた。祠の名は記録に何度か出てくるが、肝心の神名だけがどの文書でも読めなくなっている。
墨が消えているわけではない。
そこだけ、認識できない。
名前を売る店が、神名に関する記録をすでに奪っているのだ。
しかし、完全ではなかった。
古い祭りの記録の中に、奇妙な記述があった。
――雨乞いの折、青石を清め、子らに舟歌を唱えさせること。
弔一はその一文に目を留めた。
「舟歌」
以前の少年が母親に歌われていた子守唄も、舟の歌だった。
偶然か。
いや、偶然というには、あまりに水の気配が濃い。
「この舟歌に覚えはありますか」
弔一が佳代に訊くと、彼女は首を横に振った。
「私は知りません。でも祖父なら、何か知っていたかもしれません」
「お祖父さんは」
「十年前に亡くなりました」
「記録は残っていますか。日記や録音など」
「録音……」
佳代は考え込んだ。
「そういえば、古いカセットテープがあります。祖父が昔話を吹き込んだものだと聞いたことがあります」
それは蔵の奥の箪笥から見つかった。
ラベルは黄ばんでいて、文字はかすれている。
――川祭り。祖父語り。
再生機を探すのにさらに時間がかかった。ようやく居間の古いラジカセが動き、カセットを入れると、ひどいノイズのあとに老人の声が聞こえた。
音は悪かった。
だが、ところどころ聞き取れた。
昔、この家の裏には川があったこと。水神の祠に青い石が祀られていたこと。田植えの前に子供たちが舟の形をした灯籠を流したこと。榊原家が祭りを取り仕切っていたこと。
そして、祠を壊した夜、大雨が降ったこと。
老人の声は、そこで少し震えた。
『あれは祟りじゃった、と年寄りどもは言うた。だが、わしの親父は聞かなんだ。迷信じゃと笑うた。祠を壊し、石をどこかへやった。あの名を呼ぶな、と言うた。呼べばまた水が戻る、と』
弔一はラジカセに耳を近づけた。
ミズハは部屋の隅に立っていた。顔を背けている。
テープの老人は続ける。
『じゃが、わしは覚えとる。子供の頃、祭りで歌うた。雨の子よ、舟を出せ。川の母様、名を返せ――』
そこでノイズが入った。
肝心の言葉が潰れる。
弔一は巻き戻した。もう一度聞く。
『川の母様、名を返せ――』
やはりその後が聞こえない。
ミズハの指先から、水が滴った。
床に落ちた水は、畳に染み込まず、丸い粒のまま転がった。
佳代が息を呑んだ。
「今の、水」
ミズハは答えなかった。
弔一はラジカセを止めた。
「掛け軸をもう一度見せてください」
仏間に戻ると、異変が起きていた。
乾かしたはずの畳が、再び濡れていた。
掛け軸の下に水が溜まっている。しかもその水は、部屋の中央へ向かって細い流れを作っていた。流れは畳の目に沿って進み、やがて一つの形を描いている。
文字だった。
ただし、完全な文字ではない。
弔一はしゃがみ込んだ。
水が描いたのは、一画だけだった。
細く、曲がった線。
神名の一部。
ミズハが後ずさった。
「やめて」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
掛け軸か。水か。自分の失われた名か。
水の線は、さらにもう一画を描こうとした。
その瞬間、部屋全体が揺れた。
地震ではない。水が動いたのだ。畳の下、床下、壁の中、家の周囲の暗渠。そこに流れているすべての水が、一斉にこの部屋へ向かっている。
佳代が悲鳴を上げた。
壁の隙間から水が滲み出し、仏壇の花立てが倒れた。掛け軸の女神の顔から、墨が流れ出す。黒い涙のように。
「ミズハ」
弔一が呼ぶと、彼女は強く首を振った。
「無理」
「水を止めろ」
「できない」
「お前の水だ」
「違う。私の名の水だ」
彼女の声は震えていた。
「私じゃない。売った名が、勝手に動いてる。私の形をして、私じゃないものが」
水は部屋の中央で渦を巻き始めた。
その渦の中に、人影が立ち上がる。
長い髪。細い肩。水をまとった女。
掛け軸の女神が、水で作られていた。
佳代がその場にへたり込んだ。
「水神様」
水の女は、ゆっくりと顔を上げた。
顔はなかった。
ただ、口の位置に黒い穴があり、そこから声のようなものが漏れた。
呼べ。
そう聞こえた。
呼べ。
呼べ。
名を呼べ。
ミズハは耳を塞いだ。
「嫌だ」
水の女が、ミズハの方を向いた。
呼べ。
ミズハは膝をついた。
弔一は彼女の前に立った。
水の女が腕を上げる。畳の上の水が細い縄のように伸び、弔一の足首に絡みついた。冷たい。氷水ではない。川底の泥の冷たさだった。
「紙屋敷さん!」
佳代が叫んだ。
弔一は動かなかった。
水の女の目的は、弔一ではない。ミズハだ。売られた神名が、持ち主の抜け殻を見つけて戻ろうとしている。あるいは、飲み込もうとしている。
名前は輪郭である。
だが、持ち主が変われば、輪郭は刃にもなる。
弔一は鞄から便箋を取り出した。
ミズハが顔を上げた。
「何する気」
「書く」
「今?」
「今だ」
「誰の遺書を」
「遺書じゃない」
弔一は万年筆を抜いた。
「名前を呼べないなら、名前の周りを書く」
水の女が再び声を発した。
呼べ。
部屋の水量が増す。畳が浮き始めた。掛け軸の女神の顔は、ほとんど黒く流れている。
弔一は佳代に向かって言った。
「昔の祭りで、子供たちが歌った舟歌を覚えている人はいますか」
「分かりません。もう、誰も」
「あなたは、今のテープを聞いた」
「はい」
「聞こえたところだけでいい。歌ってください」
「歌う?」
「名を呼ぶのではなく、名があった場所を呼ぶ」
佳代は理解できない顔をした。
だが、理解より先に、恐怖が彼女を動かした。
震える声で、彼女は歌い始めた。
「雨の子よ、舟を出せ」
水の女の動きが止まった。
「川の母様、名を返せ」
ミズハが息を呑んだ。
弔一は便箋に書き始めた。
あなたの名を、私たちは忘れました。
忘れたことすら、忘れていました。
祠を壊し、石を失い、歌を途切れさせました。
それでも、水はこの土地を流れていました。
田を潤し、井戸を満たし、子供の足を冷やし、雨の日に舟の歌を残していました。
あなたの名を正しく呼ぶことは、今の私たちにはできません。
けれど、あなたがここにいたことを、なかったことにはしません。
水の女が震えた。
文字を書くたびに、水の渦が弱まっていく。
弔一は理解した。
名前を直接呼べなくても、名前に付随する記憶を並べれば、輪郭は作れる。遺書と同じだ。死者の名が失われても、その者が誰に何を残したかを書けば、存在はかろうじて文の中に立ち上がる。
「ミズハ」
弔一は呼んだ。
今度は、彼女は拒まなかった。
「お前も言え。覚えていることだけでいい」
「無理だよ」
「名前はいらない」
「でも」
「お前が神だったことを、お前が否定するな」
ミズハは水の女を見た。
同じものだった。
違うものでもあった。
かつての自分。
売った名。
呼ばれなくなった神。
痛みだけが形を持った水。
ミズハはゆっくりと立ち上がった。
「私は」
声が震えていた。
「私は、川のそばにいた」
水の女が彼女を見る。
「子供たちが、石を洗ってくれた。手が冷たいって笑ってた。田植えの前には、年寄りが酒を少しだけ供えた。まずい酒だった。毎年まずかった」
弔一は書いた。
供えられた酒は、毎年まずかった。
ミズハが一瞬だけ弔一を睨んだ。
「そこ書く?」
「本人の言葉だ」
「ひどい代筆人だね」
その軽口で、部屋の空気が少しだけ戻った。
ミズハは続けた。
「でも、嬉しかった。呼ばれるのが嬉しかった。雨が降りすぎると怒られて、降らないと責められた。勝手だなと思った。でも、それでも、呼ばれたら行った。私は、呼ばれるためにいた」
水の女の顔のない口が、かすかに閉じた。
「祠を壊されたとき、悲しかった。怒った。でも、一番嫌だったのは、誰も謝らなかったことじゃない。誰も、私の名を覚えていなかったことだ」
ミズハの頬を、水が流れた。
今度は消えなかった。
「私は名を売った。持っていても痛かったから。呼ばれない名は、傷口みたいだったから。でも、売って楽になったわけじゃない。空いたところに、もっと冷たいものが入っただけだった」
弔一は書き続けた。
私は名を売りました。
呼ばれない名を抱えていることに、耐えられなかったからです。
けれど、売ったあとも、水は私を覚えていました。
土地も、歌も、青い石も、子供たちの手も。
だから私は、まだ完全には終わっていません。
ミズハは水の女に向かって、手を伸ばした。
「戻りたいわけじゃない。全部思い出したいわけでもない。今の私は、昔の私とは違う。でも、あんたが私だったことは、なかったことにしない」
水の女の身体が崩れ始めた。
水が床に落ちる。だが、もう暴れてはいない。畳の上に静かに広がっていく。
その中に、何かが光った。
青い小石だった。
佳代が息を呑んだ。
「それ」
弔一は石を拾った。
濡れているのに、手のひらが冷たくならない。むしろ、微かな温かさがある。長い間、暗い場所で誰かを待っていたものの温度だった。
「ご神体か」
佳代は震えながら頷いた。
「捨てられたって聞いていたのに」
「床下にあったのでしょう」
弔一は部屋の隅を見た。
畳の下の板が一枚、わずかに浮いている。祠を壊した者は、石を完全に捨てることができなかったのかもしれない。迷信だと笑いながら、それでも家の床下に隠した。恐れか、罪悪感か、あるいは微かな信仰か。
理由は分からない。
ただ、石は残っていた。
ミズハはその石を見つめていた。
「触るか」
弔一が訊くと、彼女は迷った。
長い迷いだった。
そして、指先だけを石に触れた。
瞬間、部屋に川の音が満ちた。
暗渠ではない。古い川だ。まだコンクリートで固められる前の、泥と草と魚の匂いのする川。子供たちの声。木の舟。雨乞いの歌。年寄りの咳払い。まずい酒。青い石を洗う小さな手。
そして、誰かが名を呼んだ。
弔一には聞き取れなかった。
ミズハだけが、それを聞いた。
彼女は目を見開き、次の瞬間、胸を押さえて膝をついた。
「ミズハ」
弔一が支えようとすると、彼女の体が一瞬、透けた。
水の輪郭が乱れる。
彼女は苦しそうに息をした。
「大丈夫」
「大丈夫には見えない」
「少し、思い出しただけ」
「名をか」
「一文字だけ」
「一文字?」
ミズハは頷いた。
「全部じゃない。最初か、最後かも分からない。ただ、一文字」
「それでそんなに」
「言っただろう。戻せばいいってものじゃない」
彼女は笑おうとしたが、失敗した。
「私の中に、入る場所がないんだよ。売った名は、売ったときの形のまま残っている。でも今の私は、その形じゃない。無理に戻せば、裂ける」
弔一は青い石を見た。
水の女は消えていた。畳の水も、少しずつ引いている。だが掛け軸には、先ほどまでなかった変化があった。
滲んでいた女神の顔の輪郭が、ほんの少しだけ戻っている。
完全ではない。だが、目元の線がかすかに見えた。
佳代は畳の上で深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
それが誰に向けた謝罪なのか、彼女自身にも分からなかっただろう。
先祖にか。水神にか。ミズハにか。忘れてきた土地の記憶にか。
ミズハは佳代を見た。
「謝る相手、間違えてる」
佳代が顔を上げた。
ミズハは青い石を指した。
「その石を、また祀って。立派じゃなくていい。名前が分からなくてもいい。水を一杯、供えればいい。あと、酒はまずいからいらない」
佳代は泣きながら頷いた。
「はい」
「それから、川の跡を塞ぎすぎないこと。水は道を忘れると、家の中を通ろうとする」
「分かりました」
「分かってない顔だけど、まあいいや」
ミズハはふらつきながら立ち上がった。
弔一は彼女に肩を貸そうとしたが、彼女は軽く手で拒んだ。
「神様だからね」
「元だろう」
「今日ちょっと戻った」
「そうか」
「だから、もう少し敬ってもいいよ」
「検討する」
「絶対しない返事だね」
佳代は二人を玄関まで見送った。
帰り際、弔一は青い石について確認した。佳代は石を新しい小さな箱に納め、裏庭に簡素な祠を作るという。立派なものはいらない。ただ、水がそこに戻れる場所があればいい。
外に出ると、空は晴れていた。
だが遠くの山際に、薄い雲が出ている。
ミズハは門の外で立ち止まり、旧川筋の方を見た。
「少し、聞こえる」
「何が」
「水が」
「今までは聞こえなかったのか」
「聞こえてたよ。でも、知らない水のふりをしていた」
ミズハは自分の胸を押さえた。
「一文字だけ戻った。たぶん、あの店の引き出しから漏れたんだ。掛け軸と石が呼び水になった」
「店が意図的に漏らした可能性は」
「あるね」
「なぜ」
「私を揺さぶるため。あるいは、お前を引っ張るため」
弔一は頷いた。
名前を売る店は、ただ待っているわけではない。
こちらが何を恐れているか、何を取り戻したがっているかを理解した上で、少しずつ餌を撒いている。
今回の件で、ミズハは神名の一部を思い出した。だが同時に、存在が不安定になった。店にとっては、取引材料が増えたことになる。
「ミズハ」
「何」
「お前の名を取り戻す」
彼女は弔一を見た。
驚いたようでもあり、怒ったようでもあり、少しだけ泣きそうでもあった。
「さっきの話、聞いてた?」
「聞いていた」
「戻したら、私は壊れるかもしれない」
「壊れない方法を探す」
「そんな都合のいい方法があると思う?」
「なければ作る」
ミズハは呆れたように笑った。
「人間って、傲慢だね」
「よく言われる」
「誰に」
「お前に」
「それは納得」
彼女は歩き出した。
その足取りは、来るときよりも少しだけ重い。それでも、消えそうだった輪郭はわずかに濃くなっているように見えた。
旧川筋の暗渠の上を通るとき、ミズハは小さく鼻歌を歌った。
弔一は聞き覚えがあると思った。
少年の母が歌っていた子守唄に似ている。
榊原家のテープに残っていた舟歌にも似ている。
水の近くに生まれた歌は、どこかで繋がっているのかもしれない。
「その歌は」
弔一が訊くと、ミズハはすぐに歌うのをやめた。
「知らない」
「今、歌っていた」
「水が歌った」
「便利な言い訳だな」
「便利だよ。元神様だからね」
二人が商店街に戻る頃には、夕方になっていた。
遺書代筆所の前に着くと、扉の下に一枚の紙が挟まっていることに気づいた。
黒い紙片ではない。
白い紙だった。
弔一は拾い上げた。
そこには、細い筆文字で一文だけ書かれていた。
――失われた神名、一字回収済。
ミズハがその文字を見た瞬間、顔を強張らせた。
弔一は紙を裏返した。
裏には、値札のようなものが貼られていた。
価格欄には金額ではなく、こう書かれている。
――残り六字。
弔一は紙を握り潰した。
ミズハは黙っていた。
夕方の商店街には、人の声が満ちている。
親が子を呼ぶ声。店主が客を呼ぶ声。友人同士が名前を呼び合う声。
そのすべてが、今の弔一には脆いものに思えた。
呼ばれているうちは、誰も気づかない。
名前があることの危うさに。
名前を奪われることの残酷さに。
弔一は遺書代筆所の鍵を開けた。
扉を押しながら、静かに言った。
「店を潰す」
ミズハが顔を上げた。
「弔一」
「お前の名を商品にしている限り、放っておけない」
「私のため?」
「違う」
弔一は店の中に入った。
「僕の仕事のためだ」
ミズハは一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。
「素直じゃないねえ」
「よく言われる」
「誰に?」
「お前に」
「それは納得」
弔一は机の上に白い紙を置いた。
失われた神名、残り六字。
名前を売る店は、確実にこちらを見ている。
ならば、こちらも見るだけでは済まさない。
弔一は万年筆を取り、手帳の最初のページに一行を書いた。
――名前を売る店。調査対象ではなく、対処対象とする。
その横で、ミズハが窓を開けた。
外の風が、かすかに水の匂いを運んできた。
彼女はその匂いを吸い込み、目を閉じた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、思い出したばかりの一文字を呟いた。
弔一には、その音は聞き取れなかった。
だが、店の奥に置かれた水差しの水面が、静かに震えた。




