第二章 看板のない店
翌朝、雨はやんでいた。
けれど、町はまだ濡れていた。アスファルトは黒く沈み、商店街のアーケードには水滴が残っている。昨日の夜に流れきれなかった雨が、看板の端や電線や古い軒先から、思い出したように落ちてきた。
紙屋敷弔一は、開店前の菓子店の前で足を止めた。
シャッターはまだ半分しか上がっていない。店内では、白衣を着た店主がショーケースの中にプリンを並べていた。丸い瓶に入った、ごく普通のプリンだった。特別な菓子ではない。駅前のチェーン店なら、もう少し洒落たものが売られているだろう。
だが、今日はこれでなければならなかった。
弔一は店が開くのを待ち、プリンを一つ買った。
「一つでよろしいですか」
店主が訊いた。
「一つでいい」
弔一はそう答えた。
店主は妙な顔をした。朝一番にプリンを一個だけ買う男が珍しかったのだろう。しかし、詮索はしなかった。商売人の沈黙だった。
プリンを袋に入れ、弔一は少年の母親が住むマンションへ向かった。
三階の角部屋。昨日と同じ扉の前で、呼び鈴を押した。
すぐに返事はなかった。
しばらくして、扉の向こうで足音がした。チェーンを外す音。鍵を回す音。扉が少し開き、少年の母親が顔を出した。
昨夜よりも顔色が悪かった。
眠っていないのだろう。目元が赤く腫れている。だが、弔一を見ると、彼女は小さく会釈した。
「昨日の」
「紙屋敷です」
「そうでした。すみません。名前を覚えるのが苦手で」
彼女はそう言ったあと、自分の言葉に傷ついたように口を閉じた。
弔一は何も言わず、封筒とプリンの入った袋を差し出した。
「預かりものです」
彼女は封筒を見た。
そこには、昨夜弔一が書いた文字がある。
雨の日にプリンを買う人へ。
女性の指が震えた。
「これは」
「読めば分かります」
「あなたが書いたんですか」
「代筆しました」
女性は封筒を受け取り、しばらく見つめていた。すぐに開けることができないようだった。開ければ、何かが終わる。人はそれを本能で知っている。
弔一はプリンの袋も渡した。
「一週間に一個でいいそうです」
女性の目から涙が落ちた。
理由を理解したのか、理解していないのか、弔一には分からなかった。たぶん、両方なのだろう。記憶は失われている。だが、身体が知っている。冷蔵庫を開けるたびに、なぜかプリンを一つ買わなければならない気がする。その習慣だけが、少年の居場所として残る。
「私は」
女性は喉を詰まらせた。
「私は、何を忘れたんでしょう」
弔一は答えなかった。
その問いに、正確な答えはない。彼女は息子の名を忘れた。顔を忘れた。過ごした時間の一部を忘れた。だが、それだけではない。忘れたことを思い出せないという苦しみも背負わされた。
名前を売るというのは、ただ本人から名前を奪うことではない。
その名前を呼んだ者からも、何かを奪う。
「忘れたことを、全部取り戻す必要はありません」
弔一は言った。
女性が顔を上げた。
「ただ、残ったものを粗末にしないことです」
「残ったもの」
「プリンを一つ買うこと。雨の日に、誰かを思い出しそうになること。封筒を捨てないこと」
女性は封筒を胸に抱いた。
「それだけで、いいんでしょうか」
「それだけしかできないこともあります」
弔一は頭を下げ、踵を返した。
背後で扉が閉まる音がした。
階段を下りながら、弔一は昨夜の黒い紙片のことを考えていた。
――次は、あなたの名前を買いに参ります。
ただの脅しではない。あれは招待状に近かった。相手はこちらの存在を知っている。しかも、弔一が少年の遺書を書いた直後に紙片を残した。つまり、あの店は弔一の仕事を見ていたことになる。
マンションを出ると、空気に薄い湿り気が残っていた。
通りの向こうに、一人の小学生が立っていた。黄色い傘を持ち、じっと弔一を見ている。弔一が視線を返すと、子供は慌てて走り去った。
昨日の夜から、こういうことが増えている。
誰かに見られている気配。だが、その誰かの輪郭を掴もうとすると、すぐに記憶の焦点がずれる。見ていたはずの顔を思い出せない。道に落ちた紙片を拾おうとして、風にさらわれるような感覚だった。
弔一は遺書代筆所には戻らず、商店街の方へ向かった。
まず調べるべきは、少年が名を売った店だった。
看板のない店。
それは、昨夜少年が語った言葉だ。
商店街の裏手には、いくつもの路地がある。古い町にありがちな、地図には載っているが誰も名前を知らない細道。飲食店の換気扇から油の匂いが漏れ、雑居ビルの裏口には割れた植木鉢が置かれている。猫の通り道であり、酔客の近道であり、配達員の抜け道でもある。
弔一は一つずつ歩いた。
だが、見つからない。
クリーニング店の裏。居酒屋の勝手口。使われていない駐輪場。シャッターの下りた玩具店。どこにも、少年が言ったような店はなかった。
十時を過ぎる頃には、商店街に人が増え始めた。八百屋の声、惣菜店から漂う揚げ物の匂い、通学路を外れた高校生の笑い声。町は昨日の雨などなかったように動いている。
けれど、弔一の中には、ひとつの違和感が残っていた。
通りの奥に、行っていない路地がある。
そう思うのに、目で探すと見つからない。
地図アプリを開いても、その場所は空白のように見えた。道路は続いている。建物も表示されている。だが、そこへ入るための道だけが認識から滑り落ちている。
弔一はスマートフォンをしまい、通行人に訊くことにした。
まず、八百屋の店主に尋ねた。
「この辺りに、看板のない店はありますか」
店主は大根を並べながら笑った。
「看板がなきゃ店じゃないだろ」
「商店街の裏手です」
「裏手? あそこは倉庫ばっかりだよ。昔は小さい店もあったけどねえ」
「どんな店が」
「さあ、何だったかな。古道具屋だったか、判子屋だったか……いや、違うな。何か売ってたんだよ。何だったかな」
店主は眉を寄せたが、結局思い出せなかった。
次に、古い煙草店の老婆に訊いた。
「看板のない店?」
老婆は椅子に座ったまま、弔一を見上げた。
「知ってるような、知らないような」
「行ったことは」
「行ったことはないよ。あそこに行く人は、みんな変な顔をしてるから」
「あそこ、とは」
老婆は商店街の奥を指さそうとした。
だが、指が途中で止まった。
「あれ」
「どうしました」
「どっちだったかねえ」
老婆は自分の指先を不思議そうに見た。
「今、分かってたんだけどねえ」
弔一は礼を言って店を離れた。
次に、近くの交番へ行った。若い巡査が応対したが、看板のない店の話をすると困った顔をした。
「営業許可の確認ですか」
「そうではありません。店が存在するかどうかを知りたいだけです」
「店名は」
「分かりません」
「住所は」
「分かりません」
「業種は」
「名前を買うそうです」
巡査は弔一を見た。
明らかに、関わってはいけない種類の相談だと判断した顔だった。
「ええと、いたずらですか」
「そう思っていただいてかまいません」
弔一はそれ以上粘らなかった。
交番を出ると、道の向こうにミズハが立っていた。
彼女はいつものように、場に馴染んでいなかった。人通りの中にいるのに、誰も彼女を見ていない。薄い水色の着物のような服に、素足。長い髪の先から水滴を落としている。普通なら目立つはずだが、通行人は誰一人振り返らない。
「留守番は」
弔一が言うと、ミズハはむっとした顔をした。
「客が来なかったから閉めてきた」
「店番になっていない」
「私を雇っていないんだろう?」
「それはそうだ」
「じゃあ文句も言えない」
ミズハは勝ち誇ったように言ったあと、すぐに表情を引き締めた。
「探してるんだね」
「当然だ」
「やめた方がいい」
「理由は」
「理由を言ったら、やめる?」
「理由による」
「嘘だね。弔一は一度気になったら、棺桶の中まで調べる」
「仕事柄な」
ミズハはため息をついた。
その息が、白くもないのに空気を湿らせた。
「名前を売る店は、探して見つけるものじゃない。向こうが客を選ぶ」
「昨日の紙片は、向こうからの接触だ」
「だから危ないって言ってる」
「危ないものほど、仕組みを知る必要がある」
「相変わらず、面倒くさい男だねえ」
ミズハは商店街の奥を見た。
ほんの一瞬、その顔に恐怖が浮かんだ。
弔一は見逃さなかった。
「知っているんだな」
「何を」
「あの店を」
「噂くらいは」
「元神様が噂で怯えるのか」
ミズハは弔一を睨んだ。
「神様だって怯えるよ。名前を失えば、神もただの水溜まりになる」
その言葉には、冗談の欠片もなかった。
弔一は黙った。
ミズハは失言したと気づいたように、視線を逸らした。
「今のは忘れて」
「忘れるのは得意じゃない」
「だろうね。だから厄介なんだよ」
弔一は歩き出した。
ミズハはしばらく迷っていたが、結局ついてきた。
二人は商店街の裏手に入った。
路地を一本ずつ確かめる。ミズハは黙っていた。弔一はその沈黙を観察した。ある角に近づくと、彼女の歩幅が少し狭くなる。別の路地では平気な顔をしている。つまり、店に近い場所では身体が反応している。
弔一は、ミズハの足が止まった場所で立ち止まった。
そこには何もなかった。
少なくとも、弔一の目には何もないように見えた。
古い薬局と、廃業した写真館。その間に、壁がある。灰色のコンクリート壁。エアコンの室外機が置かれ、錆びた自転車が一台倒れている。
「ここか」
弔一が訊いた。
ミズハは答えなかった。
「ここだな」
「違う」
「否定が早い」
「違うと言ったら違う」
弔一は壁に近づいた。
何の変哲もない壁だった。触れると冷たい。雨を吸ったコンクリートの感触がある。爪で軽く叩けば、硬い音がした。
だが、妙なことに気づいた。
壁の前に倒れている自転車の車輪が、半分だけ濡れていなかった。昨夜の雨なら、路地の奥まで吹き込んだはずだ。実際、壁も地面も濡れている。なのに、自転車の前輪の一部だけが乾いている。
そこに何かがあった。
雨を遮るものが、昨夜までそこにあったのだ。
「ミズハ」
「何」
「水は覚えているか」
ミズハが弔一を見た。
「何を」
「ここに店があったかどうか」
彼女の顔から血の気が引いた。もっとも、彼女に血が流れているのかどうか、弔一は知らない。
「嫌だ」
「まだ何も頼んでいない」
「頼む顔をしている」
「水に訊け」
「嫌だと言っている」
「理由は」
「向こうに気づかれる」
「すでに気づかれている」
「そういう問題じゃない」
ミズハは低い声で言った。
「水は道になる。こちらから覗けば、向こうも覗き返す。あの店に水を向けたくない」
弔一は少し考えた。
「なら、僕が見る」
「できるわけが」
「方法はある」
弔一は鞄から一枚の紙を取り出した。
昨夜、黒い紙片が置かれていた机の上に残っていたものだ。紙片そのものではない。紙片の下にあった便箋の一部を切り取ってきた。そこには、目には見えないが、何らかの痕跡が残っているはずだった。
弔一はその紙片を壁に近づけた。
何も起こらない。
ミズハが息を詰めて見ている。
弔一はさらに、少年が残した赤いマフラーから抜け落ちていた糸を取り出した。細い赤い糸。少年の呼び名を取り戻した夜、椅子に残されていたものだ。
名前を売った者の痕跡と、店からの招待の痕跡。
二つを合わせれば、入口が見えるかもしれない。
弔一は赤い糸を紙片の上に置いた。
その瞬間、壁に雨音がした。
晴れているのに。
コンクリートの表面を、水滴が一筋流れた。続いて、もう一筋。やがてそれは細い線になり、縦に伸びた。壁の中央に、扉の輪郭のような染みが浮かび上がる。
ミズハが弔一の腕を掴んだ。
「やめろ」
「入口だ」
「開けるな」
「店があるなら、確認する」
「あれは店じゃない」
ミズハの声は震えていた。
「じゃあ何だ」
「呼ばれなくなったものの口だよ」
その言葉の直後、壁の一部が奥へ沈んだ。
扉が現れた。
古い木の扉だった。看板はない。取っ手も飾りもない。ただ、そこにあると分かった瞬間、どうして今まで見えなかったのか不思議になるほど自然に存在していた。
弔一は取っ手に手をかけた。
「弔一」
ミズハが呼んだ。
その声には、普段の軽さがなかった。
「入ったら、何を見ても名乗るな」
「なぜ」
「名前を呼ばれたら、返事をするな」
「なぜ」
「値段がつくから」
弔一は彼女を見た。
ミズハは今にも逃げ出したそうだった。それでも、彼の腕を離そうとしない。
「お前は来るな」
「馬鹿言うな。ひとりで行かせたら、絶対に余計な契約をして帰ってくる」
「契約はしない」
「契約書を読む人間ほど、契約で失敗するんだよ」
弔一は反論しなかった。
扉を開けた。
中は、思ったよりも明るかった。
古い紙の匂いがした。
店内には、壁一面に引き出しが並んでいた。薬局の棚のようでもあり、古い図書館の目録棚のようでもある。小さな引き出しが天井まで続き、それぞれに白い札が差し込まれている。けれど札に文字はない。近づいて見ると、文字がないのではなく、読めないのだと分かった。視線を合わせた瞬間、意味だけが滑り落ちていく。
中央にはカウンターがあった。
その向こうに、店主が立っていた。
年齢は分からない。若い男のようにも見えるし、穏やかな女のようにも見える。黒い服を着て、白い手袋をしている。顔立ちは整っているが、印象に残りにくい。目を離した瞬間、もう顔を忘れそうになる。
「いらっしゃいませ」
店主は丁寧に頭を下げた。
「お待ちしておりました」
弔一は黙っていた。
ミズハも口を閉ざしている。
店主は微笑んだ。
「どうぞ、ご安心ください。無理にお売りいただくことはありません。当店はいつも、お客様の自由意思を尊重しております」
「自由意思」
弔一は繰り返した。
ミズハが横で鋭く息を吸った。名乗りではない。だが、声を出すこと自体を警戒している。
店主は弔一を見た。
「はい。名前とは、所有物です。売るかどうかは、ご本人の自由です」
「他人の名前でもか」
店主の笑みが、ほんの少し深くなった。
「それは難しい問題です。世の中には、自分の名前を自分で持っていない方も多いので」
「どういう意味だ」
「親がつけた名。学校で呼ばれた名。職場で貼られた肩書。家族に押し付けられた役割。世間が勝手に広めた呼称。果たしてそれらは、本当に本人の所有物でしょうか」
店主は白い手袋の指先で、カウンターを軽く叩いた。
「当店では、そういった名前も買い取っております」
弔一は店内を見回した。
「ここには、売られた名前が保管されているのか」
「ええ。大切な商品ですから」
店主は背後の引き出しを振り返った。
「本名、幼名、あだ名、芸名、源氏名、蔑称、戒名、神名。人が人を呼ぶために使うものは、すべて名前です」
ミズハの身体がわずかに震えた。
神名。
店主はその反応に気づいていた。だが、何も言わない。丁寧すぎる沈黙だった。
「先日、ここで少年が名前を売った」
弔一は言った。
「少年?」
「母親の治療費のために、三百万円で名前を売った」
「申し訳ありません。お客様の情報はお答えできません」
「個人情報保護か」
「名前を扱う店ですので」
店主の冗談は、ひどく滑らかだった。
弔一はカウンターに一歩近づいた。
「彼は名前を失った。母親からも忘れられた。死ぬこともできなくなった」
「それはお気の毒に」
「お前がしたことだ」
店主は首を傾げた。
「私は買っただけです。売ると決めたのは、お客様です」
「相手は子供だ」
「子供にも売れるものはあります」
ミズハが前に出ようとした。
弔一は手で制した。
怒りに任せて声を荒らげる相手ではない。店主は悪意を露出させない。むしろ、どこまでも丁寧で、どこまでも正論めいた言葉を使う。そのため、反論する側が感情的に見える。
そういう相手が一番厄介だった。
「名前を売った者は、どうなる」
「お客様によります」
「死ぬのか」
「死を望む方もいらっしゃいます」
「消えるのか」
「消えたい方もいらっしゃいます」
「戻れるのか」
「戻りたいと願う方は、少数です」
店主はそう言って、カウンターの下から一冊の帳簿を取り出した。
黒い表紙の分厚い帳簿だった。古いものに見えるのに、紙の端は傷んでいない。店主が表紙を撫でると、表面に淡い光が走った。
「名前を売る方の多くは、名前に傷ついています」
店主は言った。
「親に呼ばれるたびに殴られた名。学校で笑われた名。罪を着せられた名。売れなかった芸名。売れすぎて本人を食い潰した芸名。死んだ後にまで家に縛りつける戒名。信仰を失い、誰にも呼ばれなくなった神名」
最後の一語だけ、店主はわずかにミズハの方を見て言った。
ミズハの指先から、水滴が落ちた。
床に落ちた水滴は、消えなかった。黒い染みになり、そのまま残った。
「そういう名を持ち続けることが、必ずしも幸福とは限りません」
店主は帳簿を開いた。
「だから当店は、買い取るのです。お客様の痛みごと」
「代価を払ってな」
「当然です。商売ですから」
「名前を買って、何に使う」
「必要とする方に売ります」
弔一は目を細めた。
「名前を買う者がいるのか」
「たくさん」
店主は穏やかに言った。
「有名になりたい者。別人になりたい者。死者の名を欲しがる者。神の名で奇跡を起こしたい者。罪人の名を被せたい者。誰かの記憶に入り込みたい者」
「名前を売るだけではない。売買しているのか」
「はい。名前を必要とする方は多いのです」
弔一は背後の引き出しを見た。
その中のどれかに、昨夜の少年の本名がある。母親が呼んだ小さな名とは別の、戸籍に記された名が。だが、引き出しの札は読めない。探し出すことはできないだろう。
「少年の名を返せ」
「買い戻しをご希望ですか」
「条件は」
「同等の価値を持つ名前をお持ちいただくか、相応の代価をお支払いください」
「金か」
「金で済む場合もあります」
店主は帳簿のページをめくった。
「ただし、一度売却された名前は、状態が変わることがあります。すでに加工されている場合、元の形ではお返しできません」
「加工?」
「呼ばれた記憶を外す。役割を削る。響きだけを残す。恨みだけを残す。用途によって調整します」
ミズハが低く唸った。
「気持ち悪い」
「名前は生ものですから」
店主は微笑んだ。
「保存には技術が必要です」
弔一は、カウンターの上に黒い紙片を置いた。
昨夜のものだ。
「これは何だ」
店主は紙片を見た。
「ああ、お渡しできていましたか」
「誰が置いた」
「店からのご案内です」
「僕の名前を買いに来ると書いてあった」
「その通りです」
ミズハが弔一の袖を掴んだ。
弔一は動かなかった。
「僕は売らない」
「存じております」
「なら、なぜ買いに来る」
店主は帳簿のあるページを開き、弔一に向けた。
そのページの中央に、見慣れた文字があった。
紙屋敷弔一。
弔一は息を止めた。
自分の名前だった。
間違いようがない。漢字も、筆跡ではなく活字のような整い方も、すべて自分の名前を示している。
その右側には、売却予定日、買付状況、代価、保管形式といった欄が並んでいた。ほとんどは空欄だった。だが、購入者の欄だけが黒く塗りつぶされている。
「これは何だ」
「帳簿です」
「僕は契約していない」
「ええ。まだ」
「なら、なぜ載っている」
「予約が入っておりますので」
店主はあくまで丁寧だった。
「当店では、価値の高い名前については事前査定を行うことがあります。紙屋敷弔一様のお名前は、なかなか特殊です」
「僕の名前に価値があると?」
「ございます」
「何の価値だ」
「終わりを与える名です」
店主の目が、初めて笑みを失った。
「あなたは、名前を失った者、死に損なった者、呼ばれなくなった者に、最後の言葉を与える。名簿の外に落ちた者に、文としての輪郭を与える。それは当店にとって、少々面倒な能力です」
「営業妨害か」
「いえ。むしろ、需要があります」
「需要?」
「あなたの名前を使えば、終われないものを終わらせることができる。消せない記録を消すことができる。誰にも届かない遺書を、届いたことにできる」
ミズハが弔一の腕を強く掴んだ。
「弔一、もう出よう」
弔一は帳簿から目を離さなかった。
「購入者は誰だ」
「お答えできません」
「僕の名前だ」
「ですが、まだあなたのものとは限りません」
「どういう意味だ」
店主はページを閉じた。
「名前とは、呼ぶ者によって成り立つものです。あなたが紙屋敷弔一であることを、誰が保証しますか。戸籍ですか。仕事ですか。客ですか。あなた自身ですか」
弔一は答えなかった。
「もし、あなた自身よりも強く、あなたの名前を必要とする者が現れたら。その者には、買う権利があります」
「勝手な理屈だ」
「名前というものは、もともと勝手につけられるものです」
店主は微笑みを戻した。
「ところで、紙屋敷様」
ミズハが、びくりとした。
名前を呼ばれた。
弔一は返事をしなかった。
店主は続けた。
「一つ、お勧めしたい商品がございます」
背後の棚から、店主は小さな引き出しを一つ抜いた。
札には何も書かれていない。だが、ミズハが一歩後ずさった。
「やめろ」
彼女の声は掠れていた。
店主はその引き出しをカウンターに置いた。
「こちらは、古い神名です。水にまつわる名で、状態は良好とは言えませんが、まだ力が残っています。呼ぶ者がいなくなったため、かなりお求めやすくなっております」
ミズハの顔が真っ白になった。
弔一は店主を見た。
「開けるな」
「おや。ご興味はありませんか」
「開けるなと言った」
店主は引き出しに置いた手を止めた。
沈黙が落ちた。
店内の引き出したちが、一斉にこちらを見ているような気配がした。名前は目を持たない。だが、呼ばれることを待つものには、耳のようなものがあるのかもしれない。
「承知しました」
店主は引き出しを棚に戻した。
ミズハは呼吸を忘れたように立っていた。
弔一は彼女の前に出た。
「もう一度訊く。僕の名前を買おうとしているのは誰だ」
「お答えできません」
「なら、僕は自分で調べる」
「どうぞ」
店主は深く頭を下げた。
「当店は、いつでもお客様をお待ちしております」
「僕は客じゃない」
「今は」
その一言のあと、店内の灯りがふっと暗くなった。
次の瞬間、弔一とミズハは路地に立っていた。
目の前には、薬局と写真館の間のコンクリート壁がある。扉はない。倒れた自転車も、エアコンの室外機も、最初に見たときと同じだった。
ただ、弔一の手には帳簿の匂いが残っていた。
古い紙と、知らない誰かの涙の匂い。
ミズハはしばらく動かなかった。
「ミズハ」
弔一が呼ぶと、彼女は肩を震わせた。
「名前を呼ばないで」
彼女は小さく言った。
弔一は黙った。
その声は、拒絶ではなかった。恐怖だった。呼ばれることそのものを怖がっている声だった。
「すまない」
「謝らなくていい。私が勝手についてきた」
「さっきの引き出しは」
「訊くな」
「お前のものか」
「訊くなって言ってるだろ」
ミズハは弔一を睨んだ。
その目に、涙のような水が浮かんでいた。けれど、頬を流れる前に消えた。
「弔一。あの店に二度と行くな」
「それは無理だ」
「なぜ」
「僕の名前が帳簿にあった」
「だからこそだよ」
「放っておけば、いずれ買われる」
「名前なんか、なくても」
ミズハはそこで言葉を止めた。
自分で言って、自分で傷ついたような顔をした。
名前なんか、なくても。
それは、名前を失った者が最初に自分へ言い聞かせる嘘なのだろう。
弔一は言った。
「名前は、ただの記号じゃない」
ミズハは答えなかった。
「昨日の少年は、本名を失っても、母親が呼んだ名で残った。お前も、さっきの引き出しを見て怯えた。名前は、痛みでもあるが、輪郭でもある」
「分かったようなことを言うな」
「分かっていない。だから調べる」
「調べたら、戻れなくなる」
「それでもだ」
ミズハは弔一を見つめた。
何かを言おうとして、やめた。彼女はいつもそうだ。肝心なところで、冗談に逃げる。だが今は、その冗談さえ出てこないようだった。
「弔一」
「何だ」
「お前は昔、あの店に来たことがある」
弔一は瞬きをした。
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「僕が?」
「そう」
「いつ」
「分からない」
「なぜ知っている」
「見たから」
「どこで」
「水の中で」
ミズハは顔を伏せた。
「お前はずぶ濡れだった。誰かの名前を探していた。手に、破れた遺書を持っていた。あの店の前で、何度も名前を呼んでいた。でも、その名前はもう、どこにもなかった」
弔一の胸の奥で、何かが微かに軋んだ。
記憶ではない。
記憶になる前の、痛みだけが残っている場所だった。
「誰の名前だ」
弔一が訊くと、ミズハは首を横に振った。
「それを言ったら、たぶん全部始まる」
「もう始まっている」
「まだ戻れる」
「戻る場所が分からない」
ミズハは唇を噛んだ。
「だから嫌なんだよ。お前は、自分のことになるといつも鈍い」
「いつも?」
弔一が聞き返すと、ミズハははっとした顔をした。
そして、すぐに視線を逸らした。
「今のは忘れて」
「忘れるのは得意じゃない」
「知ってる」
二人はしばらく黙っていた。
商店街の方から、昼の喧騒が聞こえてくる。人々は買い物をし、昼食の店を探し、誰かの名を呼んでいる。そこには、当たり前のように名前が溢れていた。
お母さん。
店長。
佐々木さん。
先生。
お兄ちゃん。
ねえ、あなた。
それらの呼び声は、世界を縫いとめる糸のようだった。
名前を売る店は、その糸を買っている。
そして、弔一の糸にも手を伸ばしている。
弔一はコンクリート壁を見た。
もう扉は見えない。
だが、そこに店があることを、彼は知っている。
知ってしまった以上、忘れることはできない。
「戻るぞ」
弔一は言った。
「どこへ」
「店に」
「遺書代筆所?」
「他に戻る場所があるか」
ミズハは小さく笑った。
まだ少し震えている笑いだった。
「ないねえ。あんな縁起の悪い店しか」
「文句があるなら出ていけ」
「嫌だね。私がいないと、お前は名前を売られても気づかなそうだから」
「気づいた」
「遅い」
二人は商店街へ向かって歩き出した。
途中、弔一はふと足を止めた。
薬局のショーウィンドウに、自分たちの姿が映っている。
弔一。ミズハ。通り過ぎる人々。
その中に、一瞬だけ、黒い服の店主の姿が見えた。
振り返ると、誰もいない。
ショーウィンドウに戻った視線の先で、自分の胸元に何かが付いていることに気づいた。
黒い紙片だった。
いつの間にか、上着の内ポケットに差し込まれていた。
弔一はそれを取り出した。
ミズハが凍りついたように見つめている。
紙片には、白い文字が浮かび上がった。
――紙屋敷弔一様。
今回は、査定のみとさせていただきました。
次回ご来店時には、正式なお見積りをご提示いたします。
その下に、小さく一文が添えられていた。
――なお、同伴者様の旧名につきましても、現在保管中です。
ミズハが紙片を奪い取ろうとした。
だが、彼女の指が触れる寸前に、紙片は水に濡れたように黒く滲み、弔一の手の中で消えた。
残ったのは、紙の感触だけだった。
ミズハは何も言わなかった。
弔一も言わなかった。
ただ、彼女が初めて見せたその顔を、弔一は忘れないと思った。
恐怖ではない。
怒りでもない。
それは、自分の墓を他人に見つけられた者の顔だった。




