第一章 遺書代筆人と、名前を売った少年
雨の日に来る客は、たいてい嘘をついている。
紙屋敷弔一は、そう決めていた。
もちろん、雨そのものに罪はない。濡れた傘を畳む音も、玄関先に落ちる水滴も、人の嘘とは本来関係がない。ただ、弔一の店にやって来る者たちは、雨に紛れて自分の本心を隠そうとする。濡れた髪、冷えた指先、曇った眼鏡、貼りついた服。そういうものを盾にして、本当に言うべきことを少しだけ遅らせる。
泣いているのは雨のせいだと言える。
震えているのは寒さのせいだと言える。
後悔しているのは、濡れた靴下が不快だからだと言える。
人間は、言い訳を必要とするとき、天気をよく使う。
その夜も雨だった。
細い雨ではない。空の底が抜けたような雨だった。古い商店街のアーケードを叩き、路地の排水溝を泡立たせ、電柱の根元に溜まった古い煙草の吸い殻を泥水の中で回転させている。
遺書代筆所は、その商店街の一番奥にあった。
看板は小さい。
黒地に白い文字で、ただこう書かれている。
――遺書代筆所。
その下に、さらに小さく一文。
――あなたの終わりを、代筆します。
初めてその看板を見た者は、たいてい顔をしかめる。悪趣味だと言う者もいる。縁起でもないと舌打ちする者もいる。だが本当に用事のある者は、必ず足を止める。看板の前で何度か通り過ぎ、しばらくして戻ってくる。扉に手をかけるまでに、五分かかる者もいれば、一時間かかる者もいる。
今夜の客は、長かった。
弔一は店の奥で万年筆の手入れをしながら、その足音を聞いていた。
アーケードの下を行ったり来たりする足音。軽い。大人ではない。革靴でもない。濡れたスニーカーが、古びたタイルを踏む音だった。
一度、扉の前で止まった。
それから離れた。
また近づいた。
また離れた。
それを三度繰り返したところで、店の奥から女の声がした。
「焦らすねえ。入るなら入ればいいし、帰るなら帰ればいいのに」
弔一は万年筆の胴軸を布で拭きながら、声のした方を見た。
帳場の横、古い木製の棚の上に、ミズハが腰かけていた。人間で言えば二十歳前後に見える。けれど、その年齢感は見るたびに少しずつ変わる。灯りの加減によっては少女のように見え、雨音の中では老女のようにも見えた。
濡れてもいないのに、長い髪の先から水滴が落ちている。床に落ちた水は、染みを作らない。そこだけ時間が巻き戻るように消えていく。
「帰ってほしいのか」
弔一が訊くと、ミズハは膝を揺らした。
「いいや。今夜は来るよ。あの子はもう、他に行く場所がない」
「あの子?」
「足音が若い。迷い方が幼い。だけど、抱えているものは年寄りみたいに重い」
「詩的だな」
「元神様だからね」
ミズハは得意げに言ったあと、少しだけ表情を曇らせた。
弔一はそれ以上尋ねなかった。
彼女が自分のことを「元神様」と言うとき、たいていその後ろには本当の名に関する沈黙がある。弔一は、言葉を生業にしている。だからこそ、尋ねてはいけない言葉があることも知っていた。
四度目の足音が近づいた。
今度は離れなかった。
扉の前でしばらく止まり、遠慮がちなノックが三回響いた。
「開いている」
弔一が言うと、扉がゆっくり開いた。
入ってきたのは少年だった。
中学生か、高校一年か。正確には判別しにくい。濡れた前髪が額に貼りつき、制服のブレザーは肩から水を滴らせていた。細い首に、赤いマフラーを巻いている。季節はまだ十一月に入ったばかりで、そこまで寒くはない。だが少年の唇は紫色だった。
彼は扉を閉めると、店内を見回した。
書棚。机。古い時計。便箋の束。インク瓶。硝子の文鎮。壁にかけられた黒い傘。客用の椅子。
最後に、弔一を見た。
「ここで、遺書を書いてもらえるって聞きました」
声は思ったよりも落ち着いていた。
弔一は万年筆を置いた。
「誰から聞いた」
少年は少し考えるような顔をした。
「分かりません」
「分からない?」
「誰かに聞いた気がするんです。でも、その人が誰だったか思い出せない。たぶん、道で会った人です。いや、夢だったかもしれません」
弔一は黙って少年を見た。
雨の日の客は嘘をつく。だが、この少年の言葉は嘘とは違っていた。記憶の輪郭が、初めから欠けている。本人が隠しているのではない。思い出そうとしても、指の間から水がこぼれるように抜けていくのだ。
ミズハが棚の上で足を止めた。
彼女も同じものに気づいたらしい。
弔一は客用の椅子を指した。
「座れ。タオルを出す」
「濡れるので」
「もう濡れている」
少年は一瞬だけ困ったように笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。椅子に腰かける動作がひどく慎重だった。まるで、自分の体重を信じていないようだった。
弔一は奥から白いタオルを持ってきて、少年の前に置いた。
「名前は」
訊いた瞬間、少年の肩が小さく震えた。
ミズハが、わずかに息を呑む。
少年はタオルに手を伸ばしかけたまま、固まっていた。
「名前は」
弔一は同じ調子で繰り返した。
少年の目が揺れた。
泣きそうなのではない。恐怖に近かった。暗い部屋で、自分の影だけがなくなっていることに気づいた者の顔だった。
「分からないんです」
少年は言った。
「自分の名前が、分からないんです」
店の中で、時計の秒針だけが音を立てた。
雨は相変わらず強かった。外の世界が水の壁で隔てられているように思えた。
弔一は机の引き出しから、一枚の受付用紙を取り出した。
「名前が分からない客は初めてではない」
少年が顔を上げた。
「本当ですか」
「ここは、そういう者が来る場所だ」
「じゃあ、僕は」
「まだ分からない」
弔一は用紙を机に置いた。
上から順に、依頼者名、年齢、住所、代筆対象者名、希望文面、宛先、と印字されている。けれど少年に渡しても意味はないだろう。彼は自分の名前だけでなく、自分に付随する情報のいくつかも失っているはずだった。
「何を書いてほしい」
少年は両手を膝の上で握った。
「僕が、僕だったことを」
その言葉を口にした途端、彼の目から涙が落ちた。
本人も驚いたようだった。慌てて袖で拭おうとしたが、制服の袖も雨で濡れていて、涙を拭いたのか雨を塗ったのか分からなくなった。
「すみません」
「謝ることじゃない」
「泣くつもりはなかったんです」
「泣くつもりで泣ける人間は少ない」
弔一は向かいに座った。
「順番に話せ。いつから名前が分からない」
「三日前です」
「三日前に何があった」
少年は唇を噛んだ。
「店に行きました」
ミズハの指先が、棚の端を掴んだ。木が湿った音を立てた。
弔一は視線だけで彼女を制した。
「どんな店だ」
「看板は、なかったと思います」
少年は記憶を探るように、宙を見つめた。
「商店街の裏の、細い路地にありました。通り過ぎたはずなのに、気づいたら入口の前にいて。変な店だなと思ったんです。でも、中から声がしました。お困りですか、って」
「店主は」
「男の人……だったような、女の人だったような。若いようにも見えたし、年を取っているようにも見えました。変ですよね」
「その店で何をした」
少年の顔に、はっきりとした罪悪感が浮かんだ。
「名前を、売りました」
ミズハが目を伏せた。
弔一は、少年の濡れた髪を見ていた。雨水が毛先に集まり、顎から一滴、膝の上に落ちた。
「なぜ」
「お金が必要だったんです」
少年の声が細くなった。
「母が入院しています。治療にお金がかかるって言われて。保険とか、制度とか、そういうのは大人が相談してくれていたんですけど、それでも足りないって聞いて。僕、廊下で聞いてしまって」
彼は一度、言葉を切った。
「母は、僕には何も言いませんでした。大丈夫って。すぐよくなるって。でも、夜中にベッドで泣いているのを見ました。声を出さないようにして、布団を噛んでいました」
弔一は何も言わなかった。
慰めの言葉は、こういう場面では役に立たない。むしろ、相手が抱えてきたものの重さを軽く見せることがある。
「その帰りです。病院からの帰り道、あの店を見つけました。お金に困っているなら、買い取れるものがありますって言われました。僕は、売れるものなんて何もないと言いました。そしたら店の人が」
少年は喉を鳴らした。
「名前なら、誰でも持っていますよ、って」
雨音が一段と強くなった。
「いくらで売った」
弔一が訊くと、少年は鞄の中から封筒を取り出した。
濡れていなかった。
奇妙なことに、鞄も制服も水を吸っているのに、その封筒だけは乾いていた。白い紙の角はぴんと立ち、中身の厚みが机の上で生々しく沈んだ。
「三百万円です」
少年は言った。
「母の治療費には、足りると思いました」
弔一は封筒には触れなかった。
ミズハが棚の上から降りた。裸足が床に触れる音はしなかった。彼女は少年の横を通り過ぎ、封筒に顔を近づけた。
「臭い」
ミズハが言った。
少年が驚いて彼女を見た。今まで、ミズハの存在に気づいていなかったようだった。
「誰ですか」
「居候」
弔一が答えた。
「助手じゃないの?」
「助手として雇った覚えはない」
「ひどいねえ。こんなに献身的なのに」
ミズハは冗談めかしたが、目は笑っていなかった。彼女は封筒から少し距離を取った。
「これは金じゃないよ。形は金だけど」
「どういう意味ですか」
少年が訊いた。
弔一は封筒を見たまま言った。
「代価だ。金の形をした契約の残骸だ」
「契約の、残骸」
「その店で名前を売ったとき、何か書いたか」
「はい。紙に名前を書けと言われました」
「その名前を覚えているか」
少年は首を横に振った。
「書いたときは、覚えていました。自分の名前ですから。でも、店を出たら、何を書いたか分からなくなっていました。最初は疲れているだけだと思いました。病院のことで頭がいっぱいだったから。でも、翌朝、学校に行ったら」
彼は両手を見下ろした。
「出席簿から、僕の名前が消えていました」
少年の説明は、断片的だった。
朝の教室。担任が出席を取る。いつもなら自分の名前が呼ばれるはずの順番で、何事もなかったように次の生徒の名が呼ばれる。手を挙げて「先生」と言ったが、担任は不思議そうに彼を見た。
君は、どこのクラスの子だ。
冗談だと思った。
周囲の友人たちも笑ってくれると思った。けれど誰も笑わなかった。隣の席の生徒は、少年の顔を見て首をかしげた。
見たことはある気がする。
でも、名前が出てこない。
自分の机の中には教科書があった。ノートもあった。筆箱もあった。だが表紙に書いたはずの名前だけが、どれも薄い汚れのように滲んで読めなくなっていた。
学校の端末にログインしようとしても、アカウントが存在しなかった。生徒証の氏名欄は空白になっていた。下駄箱の名札も白紙だった。
「家に帰ったら、母が退院していました」
少年は言った。
「お金を払ったら、急に容体がよくなったって。先生たちも驚いていました。でも、母は僕を見て、こう言ったんです」
少年は唇を震わせた。
「あなた、誰?」
弔一は少年の顔を見た。
「その後は」
「説明しました。息子だって。あなたの子供だって。母は困った顔をしていました。優しい人だから、僕を追い出したりはしませんでした。でも、信じていないのは分かりました。僕の部屋も残っているのに、写真もあるのに、写真の中の僕の顔だけ、ぼやけているんです。母子手帳を見ても、名前のところだけ読めない。母はずっと謝っていました。ごめんなさい、あなたのことを覚えていなくて、ごめんなさいって」
それが一番つらかったのだろう。
少年は名前を忘れられたことよりも、母に謝らせてしまったことに傷ついているように見えた。
「死のうとしたのか」
弔一が訊くと、少年は小さく頷いた。
「はい」
ミズハが顔を上げた。
「橋から飛び降りました。でも、気づいたら橋の上に戻っていました。電車の前にも出ようとしました。改札を通ったところまでは覚えています。でも次の瞬間、駅の外にいました。包丁も使おうとしました。でも、刃が手首に触れる前に、台所の入口に戻っていました」
「死ねないんだな」
「たぶん」
少年は力なく笑った。
「死ぬこともできないんです。生きていることも、誰にも証明できないのに」
弔一は机の上の万年筆を手に取った。
黒い軸の古い万年筆。ペン先は幾度も研がれ、微妙に左右非対称になっている。何人もの終わりを書いてきた道具だった。
「遺書を書くには、本人の名前が必要だ」
少年の顔が曇った。
「やっぱり、無理ですか」
「無理とは言っていない。だが、名前なしで書いた遺書は、ただの文章になる。最後の言葉は、誰のものか分からなければ届かない」
「僕の名前は、もう」
「本名だけが名前ではない」
少年が顔を上げた。
「え?」
「人間には、いくつもの名前がある。本名。あだ名。役割。家族だけの呼び名。幼い頃の呼び方。自分では忘れている名でも、誰かがまだ持っていることがある」
「誰かが」
「それを探す」
弔一は受付用紙を横に避け、白い便箋を一枚置いた。
「まず、覚えていることを全部話せ。学校、家、母親、友人、部屋にあるもの。名前そのものではなく、お前がどう呼ばれていたかに関わるものだ」
少年はしばらく黙っていた。
それから、深く息を吸った。
「母は、よく歌を歌っていました」
「歌?」
「子守唄みたいなものです。小さい頃、熱を出すと歌ってくれました。でも、普通の歌じゃなくて、母が勝手に作った歌だと思います。変な歌詞で」
「覚えているか」
少年は眉を寄せた。
「少しだけ」
「歌ってみろ」
「ここでですか」
「ここでだ」
少年は困惑したようにミズハを見た。ミズハはにやりと笑った。
「聞かれて困るほど上手いの?」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ大丈夫。弔一は音痴にも優しい」
「余計なことを言うな」
弔一が言うと、少年の口元がほんの少し緩んだ。
その一瞬、彼は年相応に見えた。
少年は視線を落とし、小さな声で歌い始めた。
雨音に混じって、かすかな旋律が流れた。
眠れ、眠れ、雨の子よ。
川を渡れば、朝が来る。
小さな舟に、灯をのせて。
帰っておいで、――。
そこで少年は止まった。
「最後が思い出せません」
「もう一度」
少年は繰り返した。
眠れ、眠れ、雨の子よ。
川を渡れば、朝が来る。
小さな舟に、灯をのせて。
帰っておいで、――。
また止まる。
名前を売る店は、そこだけを奪っている。
弔一はそう感じた。
正式な氏名ではない。おそらく母だけが使っていた幼い呼び名だ。だから、完全には消えていない。歌の形で残っている。だが肝心の音だけが抜き取られている。
「母親に会う必要がある」
弔一が言うと、少年は身を乗り出した。
「でも、母は僕を覚えていません」
「覚えていなくても、残っているものはある」
「母を苦しめたくありません」
「苦しめるかどうかは、やり方次第だ」
少年は迷っていた。
無理もなかった。母に忘れられるという傷を、もう一度自分から開きにいくようなものだ。
弔一は便箋の端を指で押さえた。
「お前は遺書を書きたいと言った。僕が僕だったことを残してほしいと。ならば、必要なものを探すしかない。優しいだけの言葉で、失われた名前は戻らない」
少年は目を閉じた。
やがて、小さく頷いた。
「お願いします」
その言葉を待っていたように、店の奥の時計が十時を打った。
弔一は立ち上がり、黒い傘を手に取った。
「行くぞ」
「今からですか」
「名前は待ってくれない」
ミズハがついてこようとしたが、弔一は振り返った。
「留守番を頼む」
「嫌だね」
「客が来るかもしれない」
「こんな雨の夜に?」
「今の客も来た」
ミズハは不満げに唇を尖らせたが、すぐに少年を見た。彼女の表情から、いつもの軽さが消えた。
「じゃあ、ひとつだけ忠告」
ミズハは少年に近づいた。
「あの店でもらったお金、もう使った?」
「はい」
「そう」
ミズハは目を伏せた。
「なら、取り返すのは名前だけじゃ済まないかもしれない」
少年の顔がこわばった。
弔一はあえて何も言わなかった。
恐怖を薄めるための慰めは、この場合、毒になる。
外に出ると、雨はさらに強くなっていた。
傘を開いた瞬間、雨粒が布を叩き、低い音を立てた。少年は傘を持っていなかった。弔一は自分の傘に少年を入れた。
並んで歩くには狭い傘だった。
少年はできるだけ弔一から離れようとして、肩を濡らしていた。
「もっと中に入れ」
「でも」
「風邪をひく」
「僕、風邪をひくんでしょうか」
弔一は少年を見た。
「どういう意味だ」
「名前がないのに、病気にはなるのかなって。死ねないなら、風邪も治らないのかなって。僕の体って、まだ僕のものなんでしょうか」
弔一はすぐには答えなかった。
商店街を抜けると、街灯の少ない住宅街に出た。雨で濡れたアスファルトが、赤や青の信号をぼんやり映している。車の音は遠く、町全体が水の中に沈んでいるようだった。
「体は、まだお前のものだ」
弔一は言った。
「どうして分かるんですか」
「寒がっている」
「それだけですか」
「十分だ」
少年は少し黙ったあと、「そうですか」と言った。
それだけの言葉だったが、さっきよりも呼吸が楽になったように見えた。
少年の家は、病院の近くにある古いマンションだった。三階建てで、外壁には雨染みが目立つ。エントランスの照明は一つ切れており、郵便受けのいくつかにはチラシが詰まっていた。
少年は三階の角部屋の前で立ち止まった。
「母は、僕を入れてくれるでしょうか」
「お前が鍵を持っているなら、入れる」
少年は鞄から鍵を出した。
その鍵にも、名前は書かれていなかった。
部屋に入ると、味噌汁の匂いがした。
玄関には女性ものの靴が一足と、少年のものと思われるスニーカーがもう一足あった。生活は残っている。けれど、その生活の中で少年だけが説明を失っていた。
奥の部屋から、女性が出てきた。
三十代後半か四十代前半。病み上がりらしく顔色は悪かったが、目元は柔らかい。弔一たちを見て、彼女は一瞬警戒した。
「あの、どちら様ですか」
少年の体が強張った。
弔一は名刺を出した。
「紙屋敷と申します。文書作成の仕事をしています」
「文書?」
「こちらの少年から相談を受けました」
女性は少年を見た。
その目に、戸惑いと罪悪感が同時に浮かんだ。
「あなた、また来たのね」
また、という言葉に少年の指が震えた。
母は彼を完全に拒んでいるわけではなかった。記憶はない。だが、知らない少年が何度も自分を訪ねてくることを、彼女は受け入れようとしている。それがかえって残酷だった。
「すみません」
少年は言った。
「謝らないで。私こそ、何も思い出せなくて」
女性は苦しそうに眉を寄せた。
「あなたを見ると、胸が痛くなるの。知らない子のはずなのに、追い返したらいけない気がする。でも、名前が分からないの。あなたが誰なのか、どうしても」
「今日は、確認したいことがあって来ました」
弔一が言った。
「確認?」
「子守唄です」
女性は不思議そうな顔をした。
「子守唄」
「この少年が幼い頃、あなたが歌っていた歌があるそうです」
「私が?」
女性は額に手を当てた。
「ごめんなさい。よく覚えていません。私は歌が下手で、あまり歌わなかったと思います」
少年が俯いた。
弔一は女性の反応を見ていた。
完全な忘却ではない。否定の仕方に迷いがある。歌という情報は、まだ彼女の中に沈んでいる。
「台所をお借りしても」
「台所、ですか」
「はい」
女性は困惑したが、頷いた。
台所は狭かった。シンクの横に食器が二人分置かれている。茶碗が二つ。箸が二膳。片方は明らかに少年用だった。けれど茶碗の底に書かれていたはずの名前は、白く削られたようになくなっていた。
弔一は冷蔵庫の側面を見た。
マグネットで紙が留められている。病院の予約票、スーパーの特売チラシ、ゴミの日の予定表。その隅に、小さなメモがあった。
買うもの。
牛乳。卵。ねぎ。豆腐。プリン。
プリンの横に、丸印がついている。
「これは誰が好きだったんですか」
弔一が訊くと、女性はメモを見た。
「私……ではないですね。甘いものはあまり」
そこで女性は言葉を止めた。
自分でも気づいたのだろう。好きではないものを、なぜ毎週買っているのか。
少年が小さく言った。
「僕、プリンが好きでした」
女性は彼を見た。
「そう……なの」
記憶ではなく、胸の奥にある習慣が反応している。名前より先に、生活が覚えていることがある。
弔一はさらに部屋を見た。
リビングの棚には写真立てがあった。遊園地。入学式。海辺。どの写真も、女性の隣にいる人物の顔だけがぼやけている。まるで撮影時にそこだけピントが合っていなかったように。
だが一枚だけ、違うものがあった。
幼い子供の手だけが写っている写真だった。小さな手が、粘土で作った舟を持っている。写真の裏を見ると、日付と短い文字が書かれていた。
――雨の日の舟。
名前はない。
弔一は写真を女性に見せた。
「これに覚えは」
女性は写真を受け取った。
しばらく見つめるうちに、彼女の唇がかすかに動いた。
「雨の日……」
弔一は黙って待った。
「この子、雨の日に生まれたんです」
女性は言った。
少年が息を止めた。
「予定日より早くて。すごい雨の日で。病院に向かうタクシーがなかなか捕まらなくて。やっと生まれたら、泣き声が小さくて。看護師さんが、大丈夫ですよ、ちゃんと息をしていますよって」
女性の目に涙が浮かんだ。
「私、何を話しているんでしょう」
「続けてください」
弔一は静かに言った。
「その子を見たとき、小さな舟みたいだと思ったんです。雨の中を、必死に浮かんでいる舟。だから、眠らない夜に歌を作りました。眠れ、眠れ、雨の子よ、って」
少年の目が大きくなった。
女性は自分の口元を押さえた。
「どうして、そんなことを」
弔一は訊いた。
「最後は、何と歌いましたか」
「最後?」
「帰っておいで、の後です」
女性は眉を寄せた。
思い出そうとしている。だが、見えない壁がそこにある。名前を売る店が、彼女の記憶の一部を塞いでいる。
弔一は机の上にあった粘土の舟の写真を、少年に渡した。
「持っていろ」
少年は両手で写真を受け取った。
女性の唇が震えた。
「眠れ、眠れ、雨の子よ」
自然と、歌がこぼれた。
川を渡れば、朝が来る。
小さな舟に、灯をのせて。
帰っておいで――
そこで、部屋の照明が明滅した。
窓の外で雷が鳴ったわけではない。雨音は一定だった。なのに室内の空気だけが急に冷えた。
女性が喉を押さえた。
「声が」
少年が駆け寄ろうとした。
弔一は腕で制した。
「歌ってください」
「でも、声が出ない」
「出なくてもいい。思い出すだけでいい」
女性は苦しそうに目を閉じた。
少年は写真を握りしめていた。粘土の舟。雨の日。小さな子供の手。母の歌。
弔一には見えた気がした。
名前そのものではない。もっと柔らかいもの。戸籍に載る前から存在していた呼び方。母が、まだ言葉を持たない子供に与えた、小さな灯のような名。
女性の唇が動いた。
音にはならなかった。
だが少年には届いたらしい。
彼の目から、大粒の涙が落ちた。
「……あまね」
少年が言った。
弔一は少年を見た。
「何だ」
「たぶん、母は僕をそう呼んでいました。雨の日に生まれたから。雨音みたいに、小さくてもちゃんと聞こえる子になりますようにって」
女性がその場に崩れるように座り込んだ。
「あまね」
今度は声になった。
瞬間、部屋の空気が変わった。
完全に記憶が戻ったわけではない。写真の顔もぼやけたままだ。母親が少年の本名を思い出したわけでもない。けれど、彼女の目は初めて、目の前の少年を「知らない誰か」ではなく、「失ってはいけない誰か」として見た。
「あまね」
女性はもう一度呼んだ。
少年は泣きながら頷いた。
「はい」
その返事は、どこか遠くから戻ってきたように聞こえた。
弔一は腕時計を見た。
十一時三十八分。
名前の痕跡は見つかった。だが時間は少ない。名前を売った者の存在は、取り戻そうとすればするほど、店に回収される。あまねという呼び名も、このままではすぐに消えるだろう。
「戻るぞ」
弔一は言った。
少年は母親を見た。
「でも」
「遺書を書くなら、今だ」
女性が顔を上げた。
「遺書って、どういうことですか」
少年は答えられなかった。
弔一は代わりに言った。
「この子が、自分の言葉を残すための文書です」
「死ぬんですか」
女性の声が震えた。
「死ねるかどうかは分かりません。ただ、今のままでは、誰の記憶にも残らず消える」
女性は少年の手を掴んだ。
「嫌です」
その言葉は、理屈ではなかった。
母親としての記憶は失われている。それでも、手が先に動いていた。
「私、あなたのことを思い出せない。最低だと思う。でも、嫌です。もう一度忘れるなんて、嫌」
少年は涙を拭いた。
「僕も嫌です」
「なら」
「でも、母さんに生きてほしかったんです」
女性の顔が歪んだ。
少年は初めて、彼女を母さんと呼んだ。
「お金が必要だって聞きました。母さんが泣いているのを見ました。僕、何もできなかった。名前くらいなら、売ってもいいと思ったんです。だって、名前は僕のものだから。僕が売るなら、誰にも迷惑をかけないと思ったんです」
「迷惑なんかじゃ」
「でも、母さんが僕を忘れて謝るのは嫌でした」
少年は笑おうとした。
失敗した。
「だから、僕がいたことだけ残したい。母さんが悪いんじゃないって、書いてほしい」
女性は首を横に振った。
何度も、何度も。
弔一はその場に長居しなかった。
別れには、長さよりも形が必要な場合がある。長く引き延ばせば救われるとは限らない。むしろ言葉が多すぎると、本当に残すべき一文が見えなくなる。
少年は母親に手を握られたまま、最後に言った。
「プリン、また買っておいて」
女性は泣きながら頷いた。
「買う。何個でも買う」
「一個でいいよ」
「うん」
「母さん、無理しないで」
女性は答えられなかった。
少年は手を離した。
その瞬間、女性の目に一瞬だけ混乱が戻った。目の前にいる少年が誰なのか、分からなくなりかけている。だが彼女は必死にその輪郭を掴もうとしていた。
「あまね」
彼女は呼んだ。
少年は振り返った。
「うん」
それだけで十分だった。
遺書代筆所に戻る頃には、日付が変わろうとしていた。
ミズハは店の中で待っていた。弔一たちを見るなり、彼女は何かを言いかけたが、少年の顔を見て黙った。
少年の輪郭が薄くなっていた。
比喩ではない。店の灯りの下で、彼の肩や指先がわずかに透けて見える。濡れた制服から落ちる水滴も、床に届く前に消えていた。
「見つけたんだね」
ミズハが言った。
「呼び名だけだ」
弔一は机に向かった。
「十分だよ。呼ばれなかった名より、呼ばれた名の方が強いこともある」
弔一は便箋を置き、万年筆にインクを吸わせた。
少年は向かいに座った。
「何を書けばいいですか」
「お前が決める」
「分かりません」
「では、訊く」
弔一はペン先を紙に置いた。
「誰に宛てる」
「母に」
「何を伝える」
少年は考えた。
「謝らないでほしい」
弔一は書いた。
母さんへ。
まず、謝らないでください。
少年は弔一の手元を見つめていた。
「僕のせいで、母さんは僕を忘れた。でも、それは母さんが悪いんじゃない」
弔一の万年筆が紙の上を進む。
この仕事で最も大事なのは、上手い文章を書くことではない。依頼人の言葉を、依頼人自身も気づいていない順番で並べることだ。人は死の前で、言いたいことを見失う。言葉が多すぎる者もいれば、少なすぎる者もいる。代筆人は、その混乱の中から、本人の核に近い一文を探す。
「母さんの病気が治ってよかった」
「本当に、そう思うか」
弔一が訊くと、少年は少し驚いた顔をした。
「思います」
「名前を失ってもか」
少年は黙った。
長い沈黙だった。
やがて彼は言った。
「思いたいです」
弔一は頷いた。
「なら、そのまま書く」
母さんの病気が治ってよかったと、僕は思いたいです。
少年はその一文を見て、少しだけ笑った。
「変ですね」
「正直な文章だ」
「遺書って、もっと立派なことを書くものだと思っていました」
「立派な遺書ほど信用できないことがある」
ミズハが横から覗き込んだ。
「弔一の書く遺書は、だいたい湿っぽくて不器用だからね」
「お前よりはましだ」
「私は遺書なんか書かないよ。まだ終わらないから」
その言葉に、弔一は一瞬だけペンを止めた。
ミズハは気づかないふりをした。
少年は続けた。
「プリンは、一週間に一回でいいです。母さんはすぐ買いすぎるから」
弔一は書いた。
冷蔵庫のプリンは、一週間に一個でいいです。
多すぎると、僕が困ります。
「僕が困るって変じゃないですか。もう食べられないかもしれないのに」
「変ではない。残る者の生活に、自分の席を少しだけ残す文章だ」
少年は目を伏せた。
「僕の席」
「そうだ」
「残りますか」
「残すために書いている」
少年は頷いた。
それから、最後にこう言った。
「僕の名前を思い出せなくても、あまねって呼んでくれたことだけは、忘れないでほしい」
弔一はしばらくその言葉を見つめた。
そして、少しだけ形を変えて書いた。
僕の本当の名前を思い出せなくても、かまいません。
でも、雨の日に小さな舟みたいな僕を見て、あなたが「あまね」と呼んでくれたことだけは、どうか忘れないでください。
僕は、その呼び方が好きでした。
僕が僕だと思える、一番最初の名前でした。
少年は泣いていた。
だが今度は、声を殺さなかった。
便箋の最後に、弔一は署名欄を作った。
少年が不安そうに見た。
「名前、書けません」
「本名は必要ない」
弔一は万年筆を少年に渡した。
「母親がくれた名を書け」
少年は震える手でペンを握った。
便箋の下に、ゆっくりと文字を書く。
あまね。
その三文字を書き終えた瞬間、店の中の雨音が消えた。
いや、外ではまだ降っている。けれど、少年の周囲だけが静かだった。水の膜に包まれたように、彼の体から音が遠ざかっていく。
ミズハが小さく息を吐いた。
「行くんだね」
少年は自分の手を見た。
指先が透けている。
「死ぬんですか」
「分からない」
弔一は正直に答えた。
「名前を売った者が、どこへ行くのかは人によって違う。ただ、少なくともお前は、完全な無名ではなくなった」
「母の記憶に残れますか」
「少しは」
「少し」
「人が人を残せる量は、いつも少しだ」
少年は考えたあと、微笑んだ。
「少しでいいです」
その言葉とともに、彼の姿が薄れていった。
最後に残ったのは、赤いマフラーだった。椅子の上に、濡れていない状態で置かれていた。
弔一はそれを拾わなかった。
ミズハが訊いた。
「届けるの?」
「朝になったらな」
「今じゃないんだ」
「今行けば、あの母親はまた失うところを見ることになる」
「優しいね」
「手順の問題だ」
「そういうことにしておく」
ミズハは便箋を見た。
あまね。
その署名は、まだ消えていなかった。
弔一は遺書を封筒に入れた。宛名は書かない。母親には名前が戻っていない。宛名を書いても、届かない可能性がある。だから封筒には、こうだけ記した。
雨の日にプリンを買う人へ。
書き終えたとき、弔一は机の上に見慣れないものがあることに気づいた。
黒い紙片だった。
名刺ほどの大きさで、艶がない。いつからそこにあったのか分からない。少年が座っていた場所のすぐ横に置かれていた。
ミズハの顔色が変わった。
「触るな」
弔一は手を止めた。
「知っているのか」
ミズハは答えなかった。
ただ、棚の上に戻ることも忘れたように、その黒い紙片を見つめていた。水の気配が、彼女の足元に薄く広がっている。
弔一は紙片を裏返さず、机の上に置いたまま読んだ。
白い文字が浮かび上がっていた。
――次は、あなたの名前を買いに参ります。
雨音が戻ってきた。
先ほどよりも近い。
まるで、店のすぐ外で誰かが傘を畳んだような音がした。
弔一は窓の方を見た。
硝子には、店内の灯りと自分の顔が映っている。だがその後ろに、一瞬だけ、もう一人の影が重なった気がした。
振り返っても、誰もいない。
ミズハが低い声で言った。
「だから言ったのに」
「何を」
「あの店には、近づくなって」
弔一は黒い紙片を見た。
そこに書かれた文字は、もう消えていた。
代わりに、紙片の中央に一つだけ、細い線が浮かんでいる。
それは、誰かの名前を書き始めるときの、一画目のように見えた。




