第六章 あなたの終わりを、代筆します
翌朝、遺書代筆所の看板から文字が消えていた。
紙屋敷弔一は、店の前に立ってそれを見上げた。
黒地の板はそこにある。雨風に晒され、端が少し欠けた古い看板。けれど、そこに書かれていたはずの白い文字はなかった。
――遺書代筆所。
――あなたの終わりを、代筆します。
その二行が、綺麗に抜き取られている。
黒い板だけが、朝の光の中で沈黙していた。
商店街を歩く人々は、誰もその異変に気づかない。もともと何も書かれていなかったかのように通り過ぎていく。八百屋の店主も、煙草店の老婆も、通勤途中の会社員も、白紙になった看板に目を向けない。
見えていないのではない。
意味を失っているのだ。
弔一は店内に戻った。
ミズハは帳場の机の前に立っていた。
彼女の顔色は悪い。正確には、色が薄くなっている。肌の向こうに水面のような揺らぎがあり、輪郭がときどき滲む。彼女が存在を保つために、かなり無理をしているのが分かった。
「看板は」
ミズハが訊いた。
「白紙だ」
「こっちもだよ」
彼女は机の上を指した。
弔一は契約書の束を見た。
過去に書いた遺書の控え。依頼人の記録。支払いの領収書。宛先を書き留めた帳面。そこに残っていた「紙屋敷」の文字が、さらに薄くなっていた。
苗字まで削られ始めている。
弔一は一枚を手に取った。
署名欄には、かすかに「紙」の一字だけが残っていた。その文字も、目を離せば消えそうだった。
「進行が早いな」
「冷静に言うなって、昨日も言った」
「では、騒げば戻るか」
「戻らないけど」
ミズハは唇を噛んだ。
「でも、怖がってよ」
弔一は答えなかった。
怖くないわけではない。
昨夜、自分の名前を書けなくなったとき、確かに恐怖はあった。だが、その恐怖は朝になると形を変えていた。逃げ出したい恐怖ではなく、何かを書かなければならないという焦燥に近い。
弔一は自分宛ての遺書を見た。
古い便箋。
過去の自分が残したらしい文。
彼女の名前を忘れるな。
その下は黒く塗り潰されている。
あの子は、最後にこう言った。
その下も、黒く塗り潰されている。
読めない。
名前を売る店が奪ったのか。過去の弔一が自分で消したのか。あるいは、その両方か。
ミズハが低い声で言った。
「弔一」
彼女はまだ呼べた。
けれど、その音は昨日よりも苦しそうだった。水底から泡が上がるように、名が彼女の喉で抵抗している。
「無理に呼ぶな」
「嫌だ」
「お前まで壊れる」
「もう壊れかけてるよ」
ミズハは笑った。
無理に笑った顔だった。
「だから、今さら一つくらい増えても同じ」
「同じではない」
「じゃあ、お前の名前を呼ぶのをやめろって言うの?」
弔一は言葉に詰まった。
ミズハは机に手をついた。
「呼ばれない名がどうなるか、私は知ってる。祠がなくなって、祭りがなくなって、子供たちの歌が途切れて、誰も私の名を呼ばなくなった。あのとき私は、自分がまだそこにいるのか分からなくなった」
彼女の指先から水滴が落ちた。
机の上で、小さく弾ける。
「だから、呼ぶよ。苦しくても呼ぶ。弔一が弔一でいる間は、私が呼ぶ」
弔一は目を伏せた。
遺書代筆人として、彼は多くの言葉を扱ってきた。死に際の言葉、言えなかった謝罪、届かなかった感謝、呪いに似た後悔。だが、今のミズハの言葉に返せる文はなかった。
沈黙していると、店の奥から音がした。
紙が落ちる音。
弔一とミズハは同時に振り返った。
書庫の入口に、黒い封筒が落ちていた。
いつの間に現れたのか分からない。
弔一は近づき、封筒を拾った。表には宛名がある。
紙屋敷 様。
もう下の名はない。苗字の後ろに、不自然な空白があるだけだった。
封を切ると、中には一枚の見積書が入っていた。
商品名:遺書代筆人。
対象名:紙屋敷弔一。
現所有率:九割。
残所有率:一割。
買取予定時刻:本日二十三時五十九分。
購入者:遺書。
今度は、黒塗りがほとんど剥がれていた。
購入者欄には、はっきりと「遺書」とある。
その下に、細い字で注記があった。
――未完の遺書は、完成を求めます。
弔一は紙を机に置いた。
「今夜だな」
ミズハは見積書を見つめていた。
「二十三時五十九分。日付が変わる直前」
「終わりには都合のいい時刻だ」
「冗談言ってる場合?」
「冗談ではない」
「もっと悪いよ」
ミズハは顔を上げた。
「どうする」
「店へ行く」
「また?」
「ああ」
「今度行ったら、向こうはたぶん帰してくれない」
「そうだろうな」
「弔一」
ミズハの声が揺れた。
弔一は、見積書の「遺書」という文字を見た。
購入者は人ではない。
未完の遺書。
過去に書けなかった文が、弔一の名前を求めている。そう考えるのが自然だった。彼が自分の記憶と名の半分を売って得た「終わりを書き届ける力」。それは、誰かの終わりを書けなかった罪悪感から始まったものだ。
つまり、弔一の名を買おうとしているのは、過去の後悔そのものだった。
いや、もっと正確に言えば。
過去の自分が、書けなかった遺書に自分の名前を差し出そうとしている。
「今夜までに準備する」
「何を」
「代筆の準備だ」
ミズハは眉を寄せた。
「誰の」
「全員の」
弔一は机の上に、これまでの依頼の控えを並べた。
名前を売った少年。
神名を失ったミズハ。
呼ばれ方を探した青年。
そして、過去に救えなかった少女。
弔一自身。
「店を壊すつもりじゃなかったの?」
ミズハが訊いた。
「壊せば済むなら、そうした」
「違うの?」
「違う」
弔一は静かに言った。
「名前を売る店は、ただ奪っているだけではない。売りに来る者がいる。捨てたい者がいる。忘れたい者がいる。名前に傷ついた者が、あの店を必要としている」
「だから放っておく?」
「違う」
弔一は万年筆を取り出した。
「店は逃げ場所だ。だが、出口を与えていない。売った名を商品にし、痛みを商売に変え、戻りたくなった者には代価を要求する。なら、必要なのは破壊ではなく、別の出口だ」
「別の出口」
「名前を売らずに終われる文。名前を捨てずに別れられる文。名前に傷ついた過去へ宛てた遺書」
ミズハは黙った。
弔一は便箋を重ねた。
「名前そのものを取り返せなくても、名前を手放した理由には言葉を与えられる」
「それができると思う?」
「やる」
「また理屈だ」
「そうだ」
弔一はミズハを見た。
「だが、今度は自分も含める」
ミズハの表情が変わった。
「自分も?」
「他人の終わりだけではない。僕が逃げてきたものにも書く」
ミズハは目を逸らした。
「……本当に、怖がるのが下手だね」
「書く方が得意だ」
「知ってる」
その日、弔一は店を閉めた。
白紙になった看板の下に、臨時休業の札をかける。だが、そこにも文字は残らなかった。書いても書いても、すぐに消える。
結局、弔一は何も書かずに札を外した。
文字が消えるなら、消えるままにしておけばいい。
その代わり、店の中で便箋を整えた。
少年の遺書の控え。母親のために書いた文。赤いマフラーの糸。
榊原家の水神に宛てた文。青い石の写し絵。ミズハの神名の一字が戻ったときに震えた水差しの記録。
青年の「傘を忘れる人より」と署名された文。ミルクキャラメルの包み紙。空白に書かれた、弔一には読めない呼び方。
そして、過去の自分宛ての遺書。
それらを机に並べると、店の空気が変わった。
ひとつひとつは弱い。けれど、どれも名前を失った者が、かろうじて残した輪郭だった。名前ではない。だが、名前に届く道だった。
夕方、ミズハは窓辺に立っていた。
彼女の輪郭はさらに薄くなっている。
弔一は彼女の背中を見た。
「休んでいろ」
「水は横にならない」
「人の形をしているだろう」
「形だけね」
「その形も大事だ」
ミズハは振り返った。
「弔一」
彼女は名を呼んだ。
今度は、かなり苦しそうだった。声が途中で引っかかり、それでも無理に押し出したような音だった。
「呼ぶな」
「呼ぶ」
「ミズハ」
「私のことはいい」
「よくない」
弔一は近づいた。
「お前の名も取り戻す」
「全部は駄目だ」
「全部とは言っていない」
「一字だけでこれだよ。全部戻したら、私は私でいられない」
「なら、戻すのではなく、置き場を作る」
「置き場?」
「今のお前が、昔の名に潰されない場所だ」
ミズハは少し笑った。
「そんな場所がある?」
「書く」
「またそれ」
「僕にはそれしかない」
「いいね。単純で」
「お前ほどではない」
「ひどいねえ」
軽口は、そこで途切れた。
ミズハは窓の外を見た。
夕焼けは薄く、商店街の屋根に赤い光を残している。遠くで子供の声がした。誰かが誰かを名前で呼んでいる。
ミズハは小さく言った。
「私、本当はね」
弔一は黙って待った。
「名を売ったこと、後悔してないと思いたかった。呼ばれない名を持っているよりは楽だって。祠に縛られるより、自由になれてよかったって」
「今は違うのか」
「分からない」
彼女は正直に言った。
「売らなかったら、とっくに消えていたかもしれない。売ったから、お前に会えたのかもしれない。だから、全部が間違いだったとは言えない。でも」
「でも?」
「商品にされたのは、悔しい」
ミズハの声が少し震えた。
「私が捨てた名でも、痛くて手放した名でも、それは私だった。店の棚にしまわれて、値段をつけられて、他人に売られるようなものじゃなかった」
弔一は頷いた。
「取り戻す」
「戻して壊れたら怒るからね」
「怒れるなら、生きている」
「屁理屈」
「得意だ」
二十三時が近づく頃、二人は店を出た。
商店街は静まり返っていた。昼間は人の声と揚げ物の匂いに満ちていた通りも、夜になると別の町のようになる。シャッターの下りた店、点滅する街灯、放置された自転車。猫が一匹、路地の奥へ消えた。
薬局と写真館の間の壁。
扉は、もう隠れていなかった。
そこに堂々と存在していた。
古い木の扉。看板はない。けれど、扉そのものがこちらを待っている。
弔一は取っ手に手をかけた。
ミズハが横に並ぶ。
「行くぞ」
「うん」
「怖いか」
「怖いよ」
ミズハはすぐに答えた。
「お前は?」
弔一は少し考えた。
「ああ」
「やっと言ったね」
「怖い」
口に出すと、その感情は思ったよりも身体に馴染んだ。
怖い。
自分の名前が消えること。
書けなかった遺書を思い出すこと。
過去の少女の名に届かないこと。
ミズハを失うこと。
自分の終わりを、自分で書けないこと。
怖い。
だが、それでも扉を開ける。
店内は、これまでで最も広く見えた。
壁一面の引き出しは、天井のさらに上まで続いている。奥行きも分からない。カウンターの向こうには店主が立っていた。黒い服、白い手袋、印象に残らない顔。
「いらっしゃいませ」
店主は頭を下げた。
「お待ちしておりました。紙屋敷様」
弔一は黙ってカウンターに近づいた。
「本日は、買取のお手続きでよろしいでしょうか」
「違う」
「では、買い戻しでしょうか。残念ながら、現在のお客様の残所有率では、十分な代価をご用意いただくことが難しいかと」
「取引に来たわけではない」
店主は微笑んだ。
「では、何を」
「代筆に来た」
その言葉に、店内の引き出しが一斉に震えた。
かすかな音だった。
名を呼ばれる前の、息を吸うような音。
店主の笑みが、ほんの少し消えた。
「代筆?」
「ああ」
「当店では、そのようなサービスは行っておりません」
「知っている。だから、こちらから持ち込む」
弔一は鞄から便箋の束を取り出した。
少年。ミズハ。青年。過去の遺書。自分の空白。
店主はそれを見た。
「何をなさるおつもりですか」
「帳簿を見せろ」
「それはできません」
「見せろ」
「紙屋敷様。お客様はまもなく当店の商品となる予定です。勝手な行動は」
「僕はまだ一割残っている」
弔一は言った。
「残り一割の所有者として要求する。僕の名前が記された帳簿を見せろ」
店主は黙った。
その沈黙は、拒絶ではなかった。規則を確認しているように見えた。
やがて店主は、カウンターの下から黒い帳簿を取り出した。
「よろしいでしょう。ただし、閲覧のみです」
帳簿が開かれる。
紙屋敷弔一。
その名は、ほとんど消えかけていた。紙屋敷の文字も薄い。弔一の二文字は、黒い水に沈む寸前のように揺れている。
購入者欄には、やはり「遺書」とあった。
弔一はページに手を置いた。
店主が制した。
「触れないでください」
「遺書はどこにある」
「どの遺書でしょう」
「僕が書けなかった遺書だ」
店主は微笑んだ。
「それは、あなたの中にあります」
「違う。お前の店にもある」
「なぜそう思われますか」
「未完の遺書は、完成を求めると書いた。ならば、未完の原本か、写しがここにある」
店主はしばらく弔一を見ていた。
やがて、背後の棚から一つの引き出しを抜いた。
小さな引き出しだった。
札は黒く塗られている。
店主はそれをカウンターに置いた。
「こちらは、たいへん状態の悪い商品です」
「開けろ」
「開ければ、お客様にも影響が出ます」
「構わない」
「私は構います」
ミズハが言った。
彼女は弔一の横に立っていた。
「弔一。覚悟はいい。でも、壊れたら私が困る」
「壊れない」
「根拠は」
「お前が呼ぶ」
ミズハは一瞬、目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「ずるいねえ」
「よく言われる」
「誰に?」
「お前に」
店主が引き出しを開けた。
中には、便箋の切れ端が入っていた。
古く、濡れて乾いた跡がある。文字はほとんど滲んで読めない。ただ、いくつかの断片だけが残っていた。
――先生。
――いなかったことに。
――名前を。
――ごめんなさい。
弔一の視界が揺れた。
記憶が戻る。
それは映像ではなく、水の中から拾い上げる破片のようだった。
雨の日。
弔一は、まだ遺書代筆人ではなかった。
小さな私塾のような場所で、文章を教えていた。いや、正式な教師ではない。親に捨てられた子、学校に行けなくなった子、戸籍に問題を抱えた子。そういう子供たちに、読み書きを教える施設で働いていた。
そこに、ひとりの少女がいた。
名前は――。
弔一は掴もうとした。
だが、その部分だけ黒く塗られている。
少女は、いつも自分の名前を嫌っていた。
親がつけた名だった。暴力と無関心と、借金と、役所の書類にだけ残った名。彼女はその名で呼ばれるたびに、自分がいらない子供だったことを思い出すと言った。
ある日、少女は姿を消した。
数日後、戻ってきたとき、彼女の名は誰の記憶にも残っていなかった。施設の名簿からも消えた。写真の顔はぼやけ、荷物の名前も消えていた。
彼女は名前を売っていた。
代価として得たのは、新しい戸籍のようなものだった。別の町で、別人として生きられる切符。過去を捨てるための金。彼女は言った。
――先生、私、これでちゃんと生きられるよね。
だが、名前を売った者は、その後も無事ではいられない。
少女は存在が薄れていった。
新しい場所へ行く前に、彼女は消えかけた。弔一は彼女のために、最後の言葉を書こうとした。
だが、書けなかった。
名前がない。宛先がない。彼女自身も、自分が何を残したいのか分からなかった。
最後に少女は言った。
――先生、私、いなかったことになるの?
弔一は答えられなかった。
そのまま、少女は消えた。
雨の中で。
破れた便箋だけを残して。
弔一は、書けなかった。
その後、彼は名前を売る店に行った。
少女を忘れるためではない。
いや、半分はそうだった。
忘れたかった。
だが同時に、二度と書けないままでいたくなかった。
だから彼は、自分の記憶の一部と名前の半分を売った。
代わりに、終わりを書き届ける力を得た。
遺書代筆人になった。
弔一はカウンターに手をついた。
息が浅い。
ミズハの声が聞こえた。
「弔一」
名前が、彼を現実に引き戻す。
店主は静かに言った。
「思い出されましたか」
「少しな」
「では、分かるはずです。未完の遺書は、あなたの名前を求めています。あなた自身がそう契約した。書けなかった遺書に、自分の名を差し出すと」
「差し出せば、少女の遺書は完成するのか」
「はい」
「僕は消える」
「商品として残ります」
「死ぬより悪いな」
「価値ある保管です」
弔一は笑った。
自分でも意外なほど、自然に笑えた。
「お前は本当に商売人だな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
弔一は引き出しの便箋を見た。
未完の遺書。
それは少女のためのものだった。だが同時に、弔一自身の後悔が作った檻でもあった。
彼は万年筆を取り出した。
「完成させる」
店主の目がわずかに動いた。
「名前を差し出されますか」
「違う」
弔一は便箋を広げた。
「代筆する」
「名前がありません」
「名前だけが遺書ではない」
「その理屈は、以前にも」
「何度でも言う」
弔一は少女の破れた便箋の横に、新しい紙を置いた。
書き始める。
あなたへ。
あなたの名前を、私はまだ思い出せません。
あなたが嫌っていた名前も、あなたが本当は呼ばれたかった名前も、今の私には書けません。
けれど、あなたがいたことを、なかったことにはしません。
店内の引き出しが震え始めた。
店主の表情が硬くなる。
「おやめください」
弔一は止まらない。
あなたは、自分の名前を嫌っていました。
その名で呼ばれるたびに、自分が捨てられた子供だと思い出すと言いました。
だからあなたは、その名前を売りました。
過去と別れるために。
別の場所で、生きるために。
それは逃げではありません。
あなたが、生きようとした証です。
弔一の手は震えていた。
だが、文字は書けた。
ミズハが横に立ち、彼の名前を低く呼び続けている。
「弔一。弔一。弔一」
一度呼ぶたびに、彼女の輪郭が揺らぐ。
それでも彼女はやめない。
店主がカウンターに手を置いた。
「無断代筆は、当店の権利を侵害します」
「訴えろ」
「その前に、買取を完了します」
帳簿の弔一の名前が、さらに薄くなった。
弔一は自分の指先が透け始めていることに気づいた。
だが、書き続ける。
あなたは最後に訊きました。
私、いなかったことになるの、と。
答えられなかったことを、私はずっと後悔していました。
今なら答えます。
あなたは、いました。
名前を書けなくても。
記録に残らなくても。
写真の顔がぼやけても。
あなたは、確かにいました。
雨の日に、破れた便箋を握っていた。
新しい町へ行くことを怖がっていた。
それでも、生きたいと言った。
私はそのことを、忘れません。
その一文を書いた瞬間、黒い引き出しの中から音がした。
少女の声だった。
ありがとう、という声ではない。
泣き声でもない。
ただ、小さく息を吐く音。
ずっと止めていた息を、ようやく吐き出すような音だった。
帳簿の「購入者:遺書」という文字が揺らいだ。
店主が初めて、明確に顔を歪めた。
「その文は、商品価値を破壊します」
「違う」
弔一は言った。
「終わらせている」
彼は便箋をもう一枚取った。
次は、少年のために。
雨の日に生まれ、小さな舟のようだと呼ばれた子へ。
あなたは、名前を売りました。
母を救うために。
その選択は、正しかったとも、間違っていたとも、私には言えません。
けれど、あなたが母を愛していたことは、売られません。
あまね。
その呼び名は、値段のつかない場所に残ります。
店内の別の引き出しが開いた。
赤い糸が一筋、宙に浮かび、便箋の上に落ちた。
次に、青年のために書いた。
傘を忘れる人へ。
あなたの呼び方は、私には読めません。
けれど、あなたが誰かに叱られ、愛され、待たれていたことは分かります。
ミルクキャラメルは、噛まずに溶かすこと。
借りた傘は、返すこと。
それでもまた忘れるなら、叱ってくれる人のところへ帰ること。
カウンターの端に、ミルクキャラメルの包み紙が現れた。
そして、ミズハ。
弔一は彼女を見た。
ミズハは首を振った。
「私は、後でいい」
「今だ」
「弔一」
「お前の番だ」
彼は新しい便箋を置いた。
水の名を失ったあなたへ。
あなたの神名を、私は知りません。
けれど、あなたが川のそばにいたことを知っています。
子供たちが青い石を洗ったこと。
田植えの前に酒を供えられたこと。
その酒が毎年まずかったこと。
祠を壊されても、川があなたを忘れなかったこと。
ミズハが泣きそうな顔で笑った。
「またそこ書く?」
「本人の言葉だ」
「ほんと、ひどい代筆人」
弔一は書き続ける。
あなたは名を売りました。
呼ばれない名を持ち続ける痛みに耐えられなかったからです。
けれど、その名は商品ではありません。
売ったことも、逃げたことも、消えかけたことも、今ここにいるあなたを否定しません。
失われた神名は、あなたを潰すために戻るのではない。
あなたが、あなたの水を置く場所を選ぶために戻るのです。
その瞬間、店の奥の棚から六つの引き出しが飛び出した。
六つの小さな水滴が宙に浮かぶ。
失われた神名の残り六字。
それは文字の形をしていなかった。音でもなかった。水の粒に記憶が入っている。雨、川、祠、歌、青い石、子供たちの手。
水滴がミズハへ向かう。
彼女は怯えた顔をした。
弔一は便箋の最後に書いた。
戻るのではなく、並んで立て。
今の名と、失われた名が、同じ水の上に並んで立て。
水滴はミズハの胸に吸い込まれた。
彼女の身体が大きく揺れた。
水が床に溢れる。
弔一は手を伸ばしたが、彼女は倒れなかった。
長い髪が、水を帯びて光る。
顔立ちが一瞬だけ、掛け軸の女神と重なった。だが、次の瞬間にはいつものミズハに戻る。
彼女は息を吐いた。
「……重い」
「壊れたか」
「失礼だね。少し増えただけ」
「そうか」
「でも、名前はまだ言わない」
「言わなくていい」
「聞きたい?」
「いつか、お前が言いたくなったら聞く」
ミズハは笑った。
今度は、本当に笑っていた。
そのとき、店主が帳簿を強く閉じた。
「これ以上は困ります」
声から丁寧さが消えていた。
店主の背後で、無数の引き出しが鳴っている。中に保管された名前たちが、ざわめいている。弔一の便箋が、店の秩序を揺らしているのだ。
「あなたは当店の商品に干渉している」
「名前ではなく、理由に書いている」
「理由も商品価値の一部です」
「だから問題なんだ」
弔一は店主を見た。
「お前は名前に傷ついた者の逃げ場を作った。そこまでは否定しない。だが、逃げ込んだ者の痛みを棚にしまい、値段をつけた。戻りたくなった者には、さらに別の痛みを払わせた」
「それが商売です」
「お前は、いつ名前を売った」
店主が沈黙した。
弔一は続けた。
「お前自身も名前を失った者だと言った。誰にも本当の名を呼ばれず、役割名だけで生きていたのか。店主、主人、後継ぎ、出来損ない、何でもいい。そう呼ばれ続けて、自分の名を捨てた」
「やめなさい」
店主の声が低くなった。
「その後、名前を捨てたい者たちに場所を与えた。最初は救いだったのかもしれない。だが、いつの間にか店そのものになった。名前を売る者がいなければ、自分を保てなくなった」
「やめなさい」
店主の顔が崩れ始めた。
若い男にも、老いた女にも、子供にも、老人にも見える。いくつもの顔が重なり、どれも定着しない。
弔一は便箋を一枚取った。
「お前にも書く」
「不要です」
「必要だ」
「私は店主です」
「それは名ではない」
「私は店です」
「それも名ではない」
店主の白い手袋が震えた。
弔一は書いた。
名前を売る店の店主へ。
あなたが誰だったのか、私は知りません。
けれど、あなたが名を捨てたいほど傷ついていたことは分かります。
呼ばれたくない名があったのでしょう。
呼んでほしい名を、誰も呼ばなかったのでしょう。
役割だけを押し付けられ、本当の名を置く場所がなかったのでしょう。
だからあなたは、名前を売る者たちに店を開いた。
その始まりは、救いだったのかもしれません。
店主は動かなかった。
店内の引き出しも静まり返っている。
弔一は続けた。
けれど、痛みを商品にしてはいけなかった。
名前を捨てたい者に、捨てる以外の道を示さなかった。
名前を取り戻したい者に、代価ばかりを求めた。
呼ばれたかった者の声を、棚に閉じ込めた。
あなたもまた、終わらせるべきものを間違えたのです。
店主の目から、黒いインクのようなものが流れた。
「私は」
店主が呟いた。
「私は、何と呼ばれていたのでしょう」
その声は、初めて人間のものに聞こえた。
弔一は答えなかった。
「それは、僕には分からない」
店主が顔を上げる。
「なら、何も書けないではありませんか」
「名前は書けない。だが、空白は置ける」
弔一は便箋の最後に広い空白を取った。
あなたが、いつか自分で戻れるように。
その名のために、ここを空けておきます。
店主は便箋を見つめた。
空白。
誰にも読まれず、誰にも売られず、誰にも奪われない場所。
店主の身体から、力が抜けた。
黒い帳簿が、カウンターの上で開いた。
弔一の名前が記されたページ。
そこに変化が起きていた。
購入者欄の「遺書」という文字が薄くなっている。
対象名の「紙屋敷弔一」が、少しずつ濃くなっていく。
だが、まだ完全ではない。
最後に残っている。
自分自身の文。
弔一は新しい便箋を取り出した。
手が震えていた。
今度こそ、自分の名前を書かなければならない。
ミズハが横に立つ。
「弔一」
彼女は呼んだ。
もう苦しそうではなかった。
名を取り戻した水が、彼女の声を支えている。
「書けるよ」
「根拠は」
「私が呼んでる」
弔一は小さく頷いた。
便箋の冒頭に、ゆっくりと書いた。
紙屋敷弔一へ。
文字は消えなかった。
弔一は息を吐いた。
そして、書き始めた。
私は、他人の終わりを書くことで、自分が生きていることから逃げていました。
書けなかった遺書がありました。
救えなかった少女がいました。
答えられなかった問いがありました。
私、いなかったことになるの。
あの問いに答えられなかった私は、二度と同じことをしないために、名前の半分と記憶の一部を売りました。
それは償いではありません。
逃避でした。
力を得ても、罪は消えませんでした。
記憶を売っても、後悔は消えませんでした。
他人の終わりを書いても、自分の生は白紙のままでした。
弔一の指先はもう透けていない。
店内の引き出しが、静かに閉じていく。
彼は最後の段落を書いた。
これをもって、その逃避を終えます。
私は、書けなかった遺書を抱えたまま生きます。
名前を失った者のために書きます。
名前を捨てたい者のために、捨てる以外の文を書きます。
終わりたい者には終わりを。
生き直したい者には、生き直すための余白を。
私は、紙屋敷弔一です。
最後の一文を書いた瞬間、帳簿が光を失った。
黒い表紙がひび割れ、ページの文字が次々とほどけていく。だが、それは破壊ではなかった。閉じ込められていた名前たちが、一斉に外へ逃げ出すわけでもない。むしろ、引き出しの中にあったものが、それぞれの持ち主へ細い道を伸ばしていくようだった。
名前を戻す者。
戻さない者。
空白のまま置く者。
痛みに別れを告げる者。
店は揺れていた。
店主はカウンターに手をつき、便箋を見つめている。
「私は」
店主は呟いた。
「私は、店ではなかったのですね」
「店でもあった」
弔一は言った。
「だが、それだけではなかった」
店主は目を閉じた。
その顔に、初めて輪郭が生まれた気がした。年齢も性別もまだ曖昧だ。けれど、さっきまでのように印象から逃げていく顔ではない。そこにいる者の顔だった。
ミズハが静かに言った。
「この店、消えるの?」
店主は首を横に振った。
「消えません。消えられません。名前を手放したい者は、これからも現れるでしょうから」
「また買うのか」
弔一が訊いた。
店主は便箋の空白を見た。
「いいえ」
長い沈黙のあと、店主は言った。
「次からは、売る前に別の棚をお見せします」
「別の棚?」
「手放すための文。残すための文。呼ばれ方を選び直すための文。そういうものを置く棚です」
弔一は頷いた。
「なら、たまに補充しに来る」
「商売敵では?」
「取引先だ」
店主は小さく笑った。
その笑みは、初めて少しだけ人間らしかった。
店の扉が開いた。
外の路地が見える。
夜明け前の薄い光が差し込んでいた。
時刻は二十三時五十九分を過ぎているはずなのに、日付が変わる瞬間を誰も感じなかった。終わりは来た。だが、それは消滅ではなかった。
弔一とミズハは店を出た。
振り返ると、扉はまだそこにあった。
だが、以前とは違っている。
扉の横に、小さな札がかかっていた。
文字はない。
空白の札だった。
ミズハが言った。
「名前を売る店じゃなくなったのかな」
「まだ分からない」
「じゃあ何の店?」
「名前を置く店、かもしれない」
「締まらないねえ」
「名付けは苦手だ」
「遺書代筆人なのに?」
「遺書を書く仕事だからな。店名をつける仕事ではない」
ミズハは笑った。
その笑い声は、水音に似ていた。
遺書代筆所に戻ると、看板に文字が戻っていた。
遺書代筆所。
あなたの終わりを、代筆します。
ただし、その下に一行増えていた。
――生き直すための文も承ります。
弔一はしばらく看板を見上げた。
「書いた覚えはない」
「店が勝手に育ったんじゃない?」
「縁起が悪い」
「今さらだね」
二人は店に入った。
机の上には、これまで書いた便箋が整然と置かれていた。少年の文。青年の文。ミズハの文。少女の文。店主の文。そして弔一自身の文。
少女の便箋の黒塗りは、まだ完全には消えていなかった。
名前も読めない。
だが、最後の行だけは読めるようになっていた。
――先生、私、いたんだね。
弔一はその一文を見つめた。
胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどけた気がした。
赦されたわけではない。
罪が消えたわけでもない。
だが、問いには答えられた。
ミズハが横から便箋を覗き込んだ。
「よかったね」
「よかった、で済む話ではない」
「知ってる。でも、よかったことはよかったって言えばいい」
弔一は少しだけ笑った。
「よかった」
ミズハは満足そうに頷いた。
「よろしい」
夜が明ける頃、店の扉が叩かれた。
三回ではない。
迷いながら、一度。
少し間を置いて、もう一度。
最後に、震えるように一度。
弔一は万年筆を机に置いた。
「開いている」
扉がそっと開いた。
入ってきたのは、若い女だった。
顔色が悪く、目の下に隈がある。手には、ぐしゃぐしゃになった履歴書を握っていた。髪は濡れていないのに、雨に打たれた後のように疲れて見える。
彼女は看板と弔一を交互に見て、かすれた声で言った。
「ここは、名前を捨てられるところですか」
ミズハが棚の上に腰かけ、弔一を見た。
弔一は客用の椅子を指した。
「少し違う」
女は不安そうに眉を寄せた。
「違うんですか」
「名前を捨てる前に、話を聞くところだ」
「私、もうこの名前で呼ばれたくないんです」
「分かった」
弔一は便箋を一枚置き、万年筆を取った。
「ではまず、あなたがその名前で、誰に呼ばれたかったのかを聞かせてください」
女は椅子に座った。
朝の光が、店の床に細く差し込んでいる。
ミズハが水差しに水を注いだ。
水面が静かに揺れる。
弔一は便箋の上に、まだ何も書かなかった。
名前を書くのは、急がなくていい。
終わりを書くのも、急がなくていい。
人には、売る前に話すべきことがある。
捨てる前に、置いておくべき言葉がある。
紙屋敷弔一は、万年筆の先を紙に近づけた。
そして、目の前の客の最初の言葉を待った。
了




