夢の中で見る夢の記憶・下
女が最後に出かけた場所は、家の近くの小さなゲームセンターだった。
たまには、としつこく誘う妹の言葉に根負けして、大人しく妹の着せ替え人形になって車椅子に座った。
片隅にあるUFOキャッチャーの景品に、最近遊んでいるゲームの缶バッチが積まれていた。興奮してそれに齧り付く妹に付き合って、女も少しばかり遊んだ。当たり前だが、缶バッチにプリントされたキャラクターイラストの中にはエリザの存在は無かった。
(エリザとか、そういうサブキャラクターは無いんだ。あのゲームはサブキャラの豊富さも特徴なのに)
──まあ、例えサブキャラのグッズ化があってもエリザはないでしょ〜。悪役だし、誰得って感じじゃん?そりゃ、もしあったら私ならゲットするけどさ
女の小さな呟きを、妹が笑い飛ばす。女はそうかな、と首を傾げた。
エリザは説明書にもビジュアル付きで乗っているし、恋愛パートばかりで盛り上がりに欠ける話を悪事や謀で引っ掻き回すという、ストーリー進行にかなりの影響力がある存在だ。攻略対象ではないかもしれないが、それこそメイン級の活躍をしている気がする。
──でもやっぱ、乙女ゲームだからね。ドロドロの世界観はウケるけど、やっぱ悪役令嬢な敵キャラは嫌いな人も多いんじゃない?可愛さの欠片もないしね、エリザってさ
女の車椅子を押しながら、女などよりも余程ゲームに詳しい妹がそう評する。
女は今度こそ、その妹の意見に頷いて肯定した。
確かにエリザは乙女ゲームの登場キャラにしては一切可愛げが無い。ライバルキャラの要素は一切無いし、あまりにも卒なく悪事を……それも年齢制限がかかるほどのえげつない悪事を次々と起こすものだから、むしろ人間味が無くて、全く感情移入が出来ない。
女はそれほどそのキャラクターを嫌いだと思っていなかったが、それも、どうせ単なる作り話だからという意識の上に成り立つ感想でしかなかった。
女の目には、エリザは単に主人公達に都合の良い、物語を掘り下げるためのギミックの一つにしか写っていなかった。
毒々しい緑と赤の閃光が眩んだ。チカチカする視界の中で、泡が弾けて消える。あまりにも胸が苦しくて口を開けたが、いっこうに空気が吸えず、まるで溺れるように藻掻いた。
それでも色褪せた記憶の泡はお構い無しに、次々と浮かんでは私を苛むよう光景を映し出す。
王都の下町に迷い込んだヒロインを貴族街まで案内してくれた小さな平民の女の子を事故として馬車で轢き殺したエリザ。
主人公が特別可愛がっていた学園内で飼育していたウサギを買い取り、ヒロインの晩餐として出させたエリザ。
敗戦国の大公女だとヒロインを嘲り、謗り、戦争と混乱を再びアークシアに齎そうとしたエリザ。
自らの領民を嬲り、痛め付け、炙り殺しにして弄んだ父親と家族の事が露見して、一家全員が教会から破門されて火炙りの刑に処されるという凄惨な最後を迎えた。彼女の父親のエピソードでは領地の民を火に掛けて楽しんでいたのだから、実に皮肉だと思う。
燻されながら死の恐怖を味わい、虐げ続けた領民に詰られ、石を投げられながら──
違う。
ごぽりと気泡が浮かんで、世界が揺らいだ。
エリザの最後は、ただ処刑されたというセリフしか無かった。あんなシーンは無かった。
では、先程の泡で見た記憶は何だ。あれは──私の恐怖?
ざわりと肌が粟立つ。誰かの苦しげな声が聞こえたような気がして、私はふいに頭上を仰いだ。
意識がはっきりと明確化していく。
不気味ながらも安穏を与えてくれた眠りの世界は、今や私自身の精神におかされて狂ったようにひっきりなしに歪み続けている。
私の身体は恐怖で凍り、浮かぶ事も沈む事も出来ずにいた。
周囲の全てが恐ろしくなり、かと言って頭上にある水面の向こう側は苦しみに満ちている。
──このままここで眠り続けてしまいたい。
凍り付いたように喉が引き攣る。
目覚めの向こう側では延々とぶつけられる憎しみや恨み、恐怖、そしてその反射として人を常に疑う私の心。それはとても重く、冷たく、苦しくて、酷い痛みのする現実なのだ。
まるで煮えたぎる釜の中で藻掻いているようだ。
溺れながら、渇いて。
凍えながら、熱に浮かされる。
このまま眠っていれば、もうそんな思いをする事は無いのだと、分かっている。
このまま眠るように死んでしまえば、最早人に憎しみを与える事も、与えられる事も無い。彼のように私のせいで死ぬ人も、二度と現れない。
そもそも、私は何故起きなきゃならないんだっけ……?
どうして死んではいけないのか。
その時、起きろ、と誰かが私を揺さぶった。
不思議な感覚だった。寝入っているのを誰かに起こされる感覚を、ここまで明確に体感するとは。
起きろよ、とその誰かは言う。
何故起こす、と私はその声に問いかけた。答えは無い。それがもどかしい。
死ねばよかったんだと言ったのはお前だろう。何故私を起こそうとするのか。
どうして死なせてくれないのか。
ここには安寧がある。孤独でも、静寂に包まれて。記憶に苛まれようと、誰かに傷つけられることは無い。
なのに、起きろとその声は言う。
起きねば殴れないだろう、と言うのだ。
嗚呼、私には死さえ許されないのか。
頭の中で、名前も知らない少女の声が蘇る。
あの人も生きろと言っていた。私を殺してはくれなかった。
泣きじゃくる子供の声が、さっきよりも近くで聞こえる。薄い水の膜を通してすぐ向こう側に、小さな子供が迷子のように泣いている。
それがどうしてか、私に死ぬなと訴えているような気がして──
そして、全てが唐突に輪郭を取り戻した。
泣いているのはラトカだ。父のせいでまともに生まれてくる事も、育つ事も出来ず、私のせいでまともに生きていく事も、死ぬ事も出来なくなった子供だ。
……ああ、くそ。思い出してしまった。死ねなくなった。畜生が。
口汚く悪態を吐いて、そうして私は彼へと禄に動かない手を伸ばした。
夢見る時間は終わってしまった。
アンフラマンス・メモリーズはこれで完結となります。
前世の女の死の苦しみを半ば追体験させられ、その上死という安寧を自分の死を明確に望んだ相手によって奪われるという救いのない話ですが、書けて満足です。