三話 生業
「…はい、これで縫合は完了。あとは安静にしててね」
白衣に身を包んだ男が縫合用の針と鑷子を持ち、邪鬼の腕に大きい絆創膏を貼り付ける。傷はまだひりひり痛むが、さらけ出しっぱなしよりはましになった。
「感謝する。―それにしてもお前は医者なのか?」
彼が一瞬きょとんとした表情になったが、それは一瞬。笑顔で答える。
「まぁ、ね。基本的な医療の知識なら持ち合わせてるんだけど、大っぴらな手術なんてことはできないってところかな」
邪鬼はローブを深く羽織り、身を翻す。
「また世話になるだろう。じゃあな」
「うん、またね」
何の変哲もない会話だったが、邪鬼へと向けられた彼の視線は値踏みするようで、どこか不気味だった。
邪鬼は地獄の最下層、その下の下、自分の家よりも下の暗い地帯へ足を運ぶ。そこは完全に地面が真っ暗闇に包まれていてモノクロのよう。今自分がどんな色をした地面を踏んでいるのかさえわからない。
最下層の下には、三途の川と呼ばれる、死んで間もない魂たちが流れ着く場所がある。基本的に現世で無能力だった者たちは〝無間地獄〟という深い深い穴へ落とされ、再び輪廻転生へと踏み切る。それがこの世にとって最も幸せなことなのだ。
邪鬼はその穴の端にあるマンホールを開ける。その中には秘密基地のようにはしごが架けられていた。邪鬼はどこまでも続いていそうな穴に身を投じ、着地する。
中は洞窟となっており、奥から射す光の先は先程の無間地獄へつながっている。そしてその途中に、無造作に置かれた家具。まるで誰かが住んでいるかのような痕跡。
「…いるんだろ、ヤミ」
邪鬼が誰もいない空間へ話しかける―否、誰かいるのに気づいているからこそ呼びかけている。すると邪鬼の後ろの影が立体化し、姿を持った。真っ黒な影が剥がれ落ちると、そこには邪鬼よりも少し背が高い、緩いコートと着物を着合わせた少年がいた。フードを目深に被っていて、顔は見えない。
「よう、邪鬼」
気づいていなかったものの動じない邪鬼は、ゆっくり後ろを振り返る。
「お魔脅かしのレベルが毎回下がってきていないか?」
「そういう事を言うな。今ので俺の存在価値がちょびっと削られたぞ」
邪鬼としては事実のことだが、ヤミと呼ばれた少年には堪えたようだ。
「それで、ヤミ。まだお前はこんな散らかしっぱなしのまま過ごしているのか?」
ヤミは怪訝そうに顔をしかめ、不服そうだ。
「いいだろ、逆にお前がミニマリストすぎるんだよ。前に来た時なんてお前の部屋には何もなかっただろ?」
「それがどうした」
淡々と答える邪鬼にはヤミも呆れ顔で、言い飽きたと言わんばかりに顔を背ける。
「聞いたのが間違いだったよ。俺なんかにお前の気持ちはわかりゃしない」
ヤミは近くに置かれていた、埃をかぶったソファへ腰掛けて大きく伸びをする。その間にも洞窟の先の穴から人が大量に落ちていっていて、決していい景色とはいえない。
「なんで俺はお前みたいな奴と、知り合いになったんだろうな」
「知らねぇ。そもそも初対面で攻撃してきたのはそっちだろうが…」
どちらも納得できない表情でいる中、邪鬼の懐から着信が鳴る。取り出したのは古ぼけた小型の携帯機だ。
「なんだそりゃ」
「呼び出し用にナインからもらったやつだ。曰く『どっかほっつき歩かれたら困る』らしい」
ここまで問題児呼ばわりされて正直ダルいが、それほど邪鬼の評価と信頼は悪いのだろう。にしても不服で、忌々しいまである。
「…ああ、わかった。すぐ戻る」
通話を終了させ、邪鬼は洞窟の出口へ向かう。そして一瞬だけ振り向き、
「じゃあな」
一言、そう言った。
邪鬼の去った洞窟で、ヤミはあることに気づく。
「…結局何しに来たんだよ」
ヤミの呆れ果てた声だけが、洞窟に響いた。
大きな都市ひとつぶんある天守への道を再び登り、前の通り部屋へたどり着く。
「呼ぶ度こんな道を往復させる気か…」
「しょうがないじゃん。君の家は最下層部にあるんだから、住んだ自分を恨んで?」
「他人事みたいに言うけどよ…」
相変わらずへらへらしているナインとで、二人は正反対の表情を浮かべている。
「ともかく何の用だ。依頼なら訪ねてくればいいだろう…」
「違う違う。君に頼みたいのは結構大事な任務だから」
一瞬の沈黙。どんな言葉が出るのかと不思議な期待感がある。
「…潜入任務だよ」
「…は?」
直前の期待は折れ、拍子抜けした息だけが部屋に残された。
※ ※ ※ ※ ※
「邪鬼は、『ベリアル家』って知ってる?」
「知らない。そもそもこの地獄に政府以外の目立った勢力なんてあるのか?」
「あるんだよそれが。…その拠点は、地獄の外」
その言葉で邪鬼は驚いたように目を見開く。それもそのはず、地獄の外は何人も存在しえない闇の場所だ。魂は保てず崩壊し、体は闇に飲み込まれる。不可侵領域のはずだ。
「そんなことありうるか?質問してばかりだが…」
「自分と同じ芸当ができれば存在できるさ。普通の人にはほど遠い話だけど」
それもそのはず、この世界にエネルギーとして存在している〝妖力〟
ナインのそれはとても強力であり、地獄全体を覆っている。バリアのように作用する妖力が外の闇を退けているおかげで、地獄には市街地が存在できるのだ。
「つまり、その連中はお前と同じ芸当ができる…そういうことでいいよな」
「うん。それで具体的な目的は、自分の知り合いの兄弟が本家へ戻されちゃったみたいで取り戻してきてって言えばわかるね?」
邪鬼はまた混乱した。どう見ても説明が順序を追っていない。
「一言で説明されると困るんだが…まぁいい。どうやって行けばいいんだ?」
「それはね―」
※ ※ ※ ※ ※
「―うん、ばっちりだね」
視界の端には黒いフレームが見える。慣れない視界に目をぱちくりさせる邪鬼。
「…本当に、これでいいのか?」
それは確認の意味もとって言った。なんせこんな格好するとは思っても見なかったから―
「え、似合ってるけど…気に入らなかった?」
「そういうことじゃ、ないってんのによ…」
邪鬼の姿は、いつの間にか黒尽くめのスーツに覆われている。この見た目だけで判断すれば清楚なお姉さんに見えるが、実のところ口の悪い根暗でしかない。
「こんな格好して外に行くのが恥ずかしいんだが」
「え〜?君にも恥ずかしいなんて感情あったんだね〜」
からかうように絡んでくるナインには腹が立つが、任務ならば仕方あるまい。勢いに任せることにした。
「あ、あともう一つ」
「まだ何か…?」
振り返ると、ナインは今までよりも、いやせめてもの真面目な顔で邪鬼を指さしている。
「さっきも言ったけど地獄の外に行くと普通なら死ぬ。絶対に気を抜かず妖力を放出し続けて」
突然の念押しに少しうろたえたが、折れる理由はない。
「あ、ああ…わかってる」
「……それならよし」
そして邪鬼の顔をつんとつつき、いつも通りの笑みを浮かべた。
※ ※ ※ ※ ※
…狐につままれたみたいだ。
ナインが一体何を考えているのかわからないが、振り回されているのだけは自覚している。まるで幽霊みたいに透明な心だ。掴みどころがない。
邪鬼は地獄の外へ向かっている。もちろん先程の道を逆戻りだ。
そうして地獄の端へたどり着いた。もうすでに足元は見えず、このまま闇に溶けてなくなってしまいそうな実感がある。けれど一切、恐怖心はどこにも現れなかった。
体を、乗り出す。
どこかもわからないが、感覚だけで教えられた場所へ向かう。瞬きしているのかさえも不明瞭だ。
次第に手の感覚が無くなる。
揺れる髪が触れる感覚も無くなる。
目が無い。
耳が無い。
首が無い。
足が無い。
何も無い。
「…?」
闇の中に、ぼんやりと光が映った。いつの間にか感覚も戻っている。
それは、屋敷だった。大きな門と洋風の屋根が見え、歩いていくたびに大きさは天守閣に近いと気づく。
「…ここか」
暗闇の中に現れた屋敷。それは希望の光だったのか、それともこれから起こる闇の前兆か。
今の彼には、知る由もなかった。
妖怪にはそれぞれモチーフがあります。今後も出てくるので考えてみてはどうでしょう




