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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第8話 旧友へのレクイエム

ロットの活気ある街並みが遠ざかり、街道の左右に広がる草原の緑が深まっていく。

エリーはいつものように分厚い魔導書をめくりながら、「次はアルバ峠の植生について予習しておかなくては」と鼻歌交じりに歩いている。


けれど、私たちの少し後ろを歩くベルの様子が、ずっとおかしかった。

いつもなら「あーあ、どこかにいい酒場でも落ちてないかしら」なんて軽口を叩いているはずなのに、今は青いマントを翻すこともなく、うつむいたまま黙々と歩いている。


「ねえ、ベル。さっきからずっと元気がないけど、どうしたの?」


私が立ち止まって声をかけると、ベルはビクッと肩を揺らし、黒髪のショートヘアを揺らして私を見上げた。その瞳は、いつもの勝気な輝きを失い、ひどく濁って見えた。


「……別に。なんでもないわよ」


「なんでもなくないわ。さっき、ダリアさんとエリーが別れる時も、変な顔してたじゃない。何か悩みがあるなら、聞かせて?」


ベルはしばらく黙っていたけれど、やがて絞り出すような声で、ポツリポツリと語り始めた。


「……わたくしね、実を言うと……。親から逃げたくて、この旅を始めたの」


ベルの口から漏れた言葉は、彼女の明るい性格からは想像もつかないほど重いものだった。

彼女が物心ついた時から、両親の仲は冷え切り、家の中はいつも罵声と憎しみに満ちていたという。そして彼女が13歳になった頃、父親の暴力はついに一線を越えた。


「父親がわたくしを殴ろうとした時……母親がかばってくれたの。でも、そのせいで母様は……殺されたわ」


ベルの声が震え、細い指が二本の細剣の柄を白くなるほど握りしめた。

その後、親戚に引き取られた彼女は、自分の身を守るために必死で剣術を学び、最低限の知識を身につけた。けれど、その平穏も長くは続かなかった。狂った父親が、彼女を追って親戚の家まで付け狙い始めたのだ。


「これ以上、あの一族に迷惑をかけたくなかった。だから……黙って逃げ出すしかなかったのよ。……さっきのダリアさんとエリーを見てたらね、あんな風に誰かに想われたり、心配されたりするのが……なんだか、とても羨ましくて、眩しすぎて」


ベルの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

隣で聞いていたエリーも、いつの間にか魔導書を閉じ、丸い眼鏡の奥の瞳を悲しげに揺らしていた。いつもは生意気なことを言っているエリーだけれど、今のベルの言葉には、かける言葉も見つからないようだった。


私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

これまで一緒に笑い合い、死線を越えてきた仲間が、そんな孤独な地獄を背負って歩いていたなんて。


「……ベル。私たちは家族じゃないし、あなたの本当の辛さを代わってあげることはできないかもしれない。でもね……話し相手になら、いつでもなれるわ。あなたが泣きたい時は、私が剣を振って、その涙が見えないように暴れてあげるから」


私がそう言うと、エリーもマントを翻し、少し照れ臭そうに、でもハッキリとした口調で続けた。


「……そうですわね。家族なんて血の繋がりだけで決まるものではありませんわ。これだけ長く一緒に冒険しているんですもの。……不本意ながら、わたくしたちはもう、家族みたいなものですわよ。わたくしの勝者権限、今はあなたを勇気づけるために使ってあげますわ」


ベルは驚いたように顔を上げ、私たちを交互に見つめた。

そして、彼女の顔に、いつもの明るい、けれど少しだけ泣きそうな笑顔が戻った。


「……二人とも、本当に……。……バカね、勝者権限の使い方を間違えてるわよ」


そう言うなり、ベルは堪えきれなくなったように私に飛びついてきた。

「わあ、ベル!?」

ぎゅっと私の赤いレオタードにしがみつき、私の肩に顔を埋めて、彼女は声を殺して泣いた。


細い、けれど剣を握り続けてきた力強い腕。その震えが私にも伝わってきて、私は彼女の黒髪をそっと撫でた。

大丈夫。もうあなたは一人じゃない。

アルバ峠に何が待ち受けていようと、私たちはこの絆を武器に、前へ進んでいける。


「よしよし。……さて、泣き止んだら出発よ。ベルの二刀流がなきゃ、魔物相手に苦戦しちゃうんだから」


私の言葉に、ベルは鼻をすすりながらも、嬉しそうに何度も頷くのだった。



ベルとの絆を確かめ合い、私たちは再び街道を歩き始めた。しばらくすると、地平線の先に質素な木の柵で囲まれた小さな集落が見えてきた。


「ええと、地図だと……次は『アミルの村』ね」


私が広げた地図を覗き込みながら言うと、ベルは「ああ、あそこね」と気だるげに肩をすくめた。

「冒険者の中継地点になるだけの、これといって何の特徴もない村よ。まあ、こういう村は大陸の至る所にあるわ。でも、野宿よりはマシでしょ?」


エリーも

「屋根がある場所で魔導書の整理ができるのは助かりますわ」

と賛成し、私たちはその日、アミルの村で一晩を過ごすことに決めた。


村に入ると、夕暮れ時ということもあって、家々の煙突からは夕食の準備をする煙が上がっていた。幸いにも村のギルドがまだ開いていたので、私たちは宿の紹介を兼ねて立ち寄ることにした。


「ふう、これで登録完了ね」


手続きを済ませ、ギルドの重い扉を押し開けて外へ出ようとした、その時だった。

入り口で、一人の青年と肩がぶつかりそうになった。


「おっと、すまない」


茶髪のショートヘアに鉢巻を巻き、軽めの鎧を身に着けたその青年は、爽やかな苦笑いを浮かべてこちらを見た。だが、その視線が私の隣にいたベルに止まった瞬間、彼の表情が劇的に変わった。


「……え? ベル? ベルじゃないか!」


「……ええっ!? ビョルン!?」


ベルの声は、驚きのあまり少し裏返っていた。

「ビョルンって……あのビョルン?」

「そうだよ! 最後に会ったのはあの一家が……いや、とにかく、元気そうでよかった!」


二人は手を取り合って、信じられないといった様子で再会を喜んでいた。ベルが親戚の家でお世話になっていた頃、共に剣を競い合った剣術仲間であり、いわゆる「幼馴染」なのだという。


アリアが使う大剣に比べれば小振りだが、使い込まれた剣を腰に下げたビョルンの姿からは、彼もまた放浪の旅の中で腕を磨いてきたことが伺えた。


「よおし、こうしちゃいられない! ベル、積もる話もあるし、景気づけに一杯行こうぜ!」


ビョルンは快活に笑いながら、ベルの背中を叩いた。そして、少し恐縮したように私とエリーの方を向いた。


「そちらのお二人も、ベルの仲間なんだろ? ぜひ一緒に来てくれ。俺がこの村で一番の酒場を案内するよ。奢らせてくれとは言えないけど、話相手くらいにはなるぜ!」


「……まあ、お酒と聞いちゃ黙っていられないわね。行きましょう、アリア、エリー!」


ベルの顔には、さっきまでの陰りなど微塵もなかった。幼馴染との偶然の再会が、彼女の心を芯から温めているのが見て取れて、私も自然と口元が緩んだ。


「そうね。エリーもいいでしょ?」

「……まあ、喉も乾きましたし、異国の戦士の話を聞くのも悪くありませんわ」


私たちは、意気揚々と先頭を歩くビョルンの後をついて、村で唯一の明かりが灯る酒場へと向かった。夜の帳が下りるアミルの村に、私たちの賑やかな足音が響き渡っていた。



酒場の中は、薪がはぜる音と酔客の笑い声で溢れていた。

運ばれてきたエールと簡単なつまみを囲みながら、話の中心はもっぱらベルの「黒歴史」――幼い頃の思い出話に集まっていた。


「いやあ、今のベルを見てると信じられないぜ。当時はとにかく無口で無愛想。話しかけても『……ふん』って鼻で笑うだけ。それでいて、剣の稽古になるとめちゃくちゃせっかちでさ」


ビョルンが懐かしそうに目を細めて笑う。

彼が語るには、ある合同稽古の時、ベルは早く相手を打ち負かしたい一心で、開始の合図も待たずに突っ込んでいったらしい。その結果、自分の足に躓いて派手に転び、あろうことか相手の股の間を滑り抜けてそのまま壁に激突した……なんて、今のスタイリッシュな二刀流からは想像もつかないドジな逸話が次々と飛び出してきた。


「極めつけは、あの『雨』事件だよな」


ビョルンが楽しげに声を張り上げた。

「ある日、意地の悪い稽古仲間がいたずらを仕掛けたんだ。道場の入り口に、大量の害虫……それも、例の『黒いカサカサ動くやつ』の死骸を詰めたバケツを仕掛けてさ。何も知らずに勢いよく飛び込んできたベルの頭上に、それが一斉に……」


「ちょっと! ビョルン、それ以上は言わないで!!」


ベルが顔を真っ赤にして叫んだけれど、もう遅かった。

私とエリーは、今のベルがなぜあんなに虫を、特にゴキブリを親の仇のように嫌うのか、その全ての根源を理解してしまった。必死で笑いをこらえようと口元を押さえるけれど、肩の震えが止まらない。エリーなんて、丸い眼鏡を指で直しながら

「……ふ、ふふ、理論的なトラウマですわね」

と声を震わせている。


けれど、ビョルンの次の言葉で、空気は一変した。


「……でもさ、ベル。お前が急にいなくなったって聞いた時は、本当に肝が冷えたよ。一族の連中も、あのお義父さんも、お前の行方を血眼で探してた。俺、お前がもう……」


その瞬間、ベルの表情から血の気が引いた。

さっきまで笑って酒杯を避けていた彼女の唇が、小刻みに震え始める。父親という言葉が出ただけで、彼女を包む空気は冷たい檻のように閉ざされてしまった。


「ベル、それは……」

私がフォローを入れようと身を乗り出した瞬間、隣に座っていたエリーが、机の下で私の手を強く握って制止した。彼女は無言で首を横に振り、「今はまだ」と目で訴えていた。


「少し、外の空気を吸おうぜ」


ビョルンがベルの肩にそっと手を置き、酒場のバルコニーへと促した。ベルは力なく頷き、幽霊のような足取りで彼の後をついていく。


二人の姿がカーテンの向こうに消えた瞬間、私は我慢できずに立ち上がった。

「ダメよ、やっぱり放っておけない! ベルのあの顔、見てられなかった。ビョルンは悪気はないんだろうけど……」


「座りなさい、アリア」


エリーの声は、いつになく冷徹で、鋭かった。

「追いかけて、何を言おうというのです? あなたが踏み込めるほど、彼らの共有する時間は浅くありませんわ」


「でも……!」


「これは『勝者権限』による命令ですわ。――今は、あの子を放っておきなさい。一歩もこの席を立ってはなりません」


「エリー……っ!」


私は歯噛みして、椅子に深く座り直した。

勝者権限。その言葉を出されたら、私には抗う術がない。

分厚い魔導書を抱え直したエリーの横顔は、冷たく突き放しているようにも見えたけれど、その指先がわずかに震えているのを私は見逃さなかった。彼女も彼女なりに、ベルのことを心配し、そして親友として適切な距離を測ろうと必死なのだ。


でも、バルコニーに続く扉を見つめる私の心は、ざわざわとして落ち着かなかった。

夜風に揺れるカーテンの向こう側で、ベルは何を言われ、何を思っているのか。

もし、あの父親の影がまた彼女を苦しめているのなら……私は今すぐにでも、その大剣で夜の闇ごと切り裂いてやりたかった。



《ここからはベル目線で物語が進みます》

酒場の喧騒がカーテン一枚隔てた向こう側に遠ざかり、夜のしじまが私たちを包み込んだ。

バルコニーに出ると、昼間の熱気を帯びた空気を追い払うように、涼やかな夜風が私の頬を撫でていく。見下ろせばアミルの村の穏やかな灯りが点々と広がり、見上げれば吸い込まれそうなほどの星空が広がっていた。


「……ごめんね、ビョルン。何も言わずに、あんな風にいなくなったりして」


手すりに身を預けながら、私はようやくそれだけを口にした。あの日、親戚の家を飛び出した時の私は、誰かに別れを告げる余裕なんて一欠片もなかった。ただ、追いかけてくる影から逃げることだけで精一杯で。


「気にするなよ。お前が無事で、こうしてまた会えた。それだけで十分だ」


ビョルンは隣で腕を組み、横顔で笑った。

「それにさ、さっき酒場で話してた時のお前、すごくいい顔してたぜ。昔みたいに尖ってなくてさ。いい仲間に会えたんだな、ベル」


「……ええ。本当に、あいつらには振り回されてばっかりだけどね」


アリアの真っ直ぐすぎるお節介や、エリーの理屈っぽい小言を思い出し、私は自然と自嘲気味な笑みを浮かべた。旅を通じて、私は知ったのだ。世界は広くて、私の過去なんて知らない人たちがたくさんいて、そして、そんな私をまるごと受け入れてくれる場所があることを。くよくよして閉じこもっている暇なんてないんだって、少しずつ前を向けるようになっていた。


けれど。


「……でも、まだ怖いんだろ。あいつのことが」


ビョルンの静かな声が、私の心の柔らかい部分を正確に射抜いた。

その瞬間、アミルの平和な夜景が歪み、視界の端からどろりとした闇が溢れ出してきた。


脳裏に、あの日の光景が鮮烈にフラッシュバックする。

酒の臭い、男の怒鳴り声、振り上げられた拳。そして、私を庇うようにして崩れ落ちた母様の背中。冷たくなっていくその手。あの日からずっと、私の時間の一部はあの血生臭い部屋に置き去りにされたままだ。


(あいつが、また追ってくる。あの暗闇から、私の脚を掴もうとしている)


一度震え始めると、止まらなかった。歯の根が合わず、膝ががくがくと笑い出す。さっきまでの前向きな気持ちなんて、砂の城みたいに脆く崩れ去っていく。


「っ……、ああ……っ!」


耐えきれず、私は隣にいたビョルンの胸に縋り付くように抱き着いた。二本の細剣を振るう私の腕は、今やただの細い枝のように震え、彼の軽鎧を必死に掴んでいた。


「怖い……怖いよ、ビョルン……。まだ、あの声が聞こえるの……」


「大丈夫だ、ベル。落ち着け。俺がここにいる」


ビョルンは拒むことなく、私の震える肩に大きな掌をそっと置いた。その掌からは、夜風に冷えた私の体とは対照的な、生きている人間の確かな温もりが伝わってきた。彼はそれ以上何も聞かず、ただ静かに、優しく、私の震えが収まるのを待ってくれた。


幼い頃、剣術の稽古で負けて泣いていた時も、彼はいつもこうして隣にいてくれた。

その変わらない優しさと、包み込んでくれるような安心感。


激しく波打っていた鼓動が、彼の規則正しい鼓動に重なるようにして、次第に落ち着きを取り戻していく。鼻をつくのは酒の匂いではなく、旅の埃と、彼自身の清潔な匂いだった。


(……温かい)


顔を上げた時、彼の瞳が真っ直ぐに私を見ていた。心配そうに、けれどどこか慈しむようなその眼差しに、私の胸の奥で、今まで感じたことのない熱い何かが疼いた。

恐怖で震えていたはずの心臓が、今は別の理由で、ドクンと大きく跳ねている。


私は彼の胸に顔を寄せたまま、自分でも驚くほど、彼の存在に強く心を奪われ始めていることに気づいてしまった。バルコニーを吹き抜ける風が、私たちの髪を優しく揺らしていた。



《ここからはアリア目線で物語が進みます》

朝のアミルの村は、昨日までの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。

私たちはいつものようにギルドのロビーに集まり、これからの進路を確認するはずだった。それなのに、ベルの口から飛び出した言葉は、私の理解を遥かに超えていた。


「わたくし、二人とはここで別れるわ。これからは、ビョルンと一緒に歩むことに決めたの」


「……えっ?」


私の声は、間の抜けた音を立てて空気に消えた。隣のエリーも、いつもは片時も離さない魔導書を危うく落としそうになりながら、丸い眼鏡の奥の瞳を点にしている。


「突然のことでごめんね。でも、昨日の夜……ビョルンと話して、気づいたの。わたくしの居場所は、あいつの隣にあるんだって。……アリア、エリー。これまで一緒に旅をして、本当に楽しかったわ。ありがとう」


ベルは一気にそう言い切ると、吹っ切れたような、けれどどこか寂しげな微笑みを浮かべた。そして、入り口付近でばつが悪そうに鉢巻をいじっているビョルンの元へと歩み寄り、その腕にそっと寄り添った。

ビョルンは申し訳なさそうに、私たちに軽く会釈をする。


「……じゃあ、元気で。お二人も、水晶玉が見つかるといいな」


二人の足音が遠ざかり、ギルドの重い扉が閉まる音が響く。

私とエリーは、そのまま石像にでもなったかのように、立ち尽くすことしかできなかった。


「……行ったわね」

「……行きましたわね」


しばらくして、ようやく私の思考が動き始めた。

「って、ちょっと待ってよ! 何なの今の!? 意味がわからないわよ! 幼馴染に再会した途端にパーティー離脱なんて、そんなのあり!? ベルの二刀流がなきゃ、次の魔物で私たちは全滅よ!」


私は頭を抱えてギルドの床をドタドタと踏み鳴らした。焦りと混乱が、火山のように噴き出してくる。

一方のエリーも、顔を真っ赤にして魔導書を強く胸に抱えていた。


「計算外……完全な計算外ですわ! あのベルが、あんな脳筋の鉢巻男に絆されるなんて、わたくしの知の結晶たる魔導書にも一行たりとも記されていませんわ! ど、どうしてくれるんですの、アリア! あなたがもっと昨日しっかり見張っていれば……!」


「私のせいにするの!? あなたが『勝者権限』なんて言って私を止めたからでしょう!?」


「なっ……! それは状況を冷静に判断した結果であって……!」


私たちが声を荒らげ、今にも掴み合いの口喧嘩に発展しようとした、その時だった。


「やかましいッ!! ガキの使いじゃねえんだ、静かにしねえか!」


ギルドのカウンターの奥から、髭面の頑固そうなおじさんの一喝が飛んできた。その迫力に、私たちは一瞬で沈黙した。


「……ふぅ。……そうね、喧嘩してもベルは戻ってこないわ」

私は深く息を吐き、乱れた赤いリボンを整えた。エリーも「……取り乱しましたわ」と、はだけたブラウスの襟を直して、眼鏡をクイと押し上げる。


私たちは隅のベンチに座り、お互いの本音を吐き出した。

ベルの幸せを願いたい気持ちはある。でも、あの怯えていた昨夜の彼女を知っているからこそ、不安でたまらなかった。あんなに心に深い傷を負ったあの子を、ただ「昔の知り合いだから」という理由だけで預けてしまっていいのか。


「……エリー。私はやっぱり、心配よ。ベルが本当にあいつといて笑えるのか、この目で見届けるまでは納得できない」


「……奇遇ですわね。わたくしも、あんな衝動的な決断が正解だとは、到底理論的に肯定できませんわ」


私は立ち上がり、拳をぎゅっと握った。


「決まりね。女の結束力、見せつけてやりましょう! 黙ってあの子を連れ去るなんて、百年前の騎士道物語だって流行らないわ!」


「若干……いえ、相当にストーカーじみた行為ですけれど……。アリア、あなたの猪突猛進ぶりには付き合ってあげますわ」


エリーは若干呆れたような顔をしながらも、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。

私たちはギルドの扉を蹴り開ける勢いで外へ飛び出した。

街道の先に見える二つの影。私たちは身を潜めつつ、けれど絶対に逃がさないという執念を胸に、ベルたちの後を追って駆け出した。



街道を進むベルとビョルンの背中は、昨日まで隣にいたのが嘘みたいに遠く感じられた。

でも、物理的な距離はわずか数メートル。私たちは今、まさに二人のすぐ後ろを歩いている。


「……アリア、動かないで。魔力が霧散しますわ」


隣でエリーが小声で囁く。彼女は分厚い魔導書を片手に、高度な隠密魔法を展開していた。私たちの姿は透明化され、音も匂いも魔法の膜によって遮断されている。

時折、ビョルンが「……ん?」と不審そうに背後を振り返るけれど、そこにはただ風に揺れる草むらがあるだけ。まさか、別れたばかりの仲間が透明になってストーキングしているなんて、夢にも思っていないだろう。


私たちは息を殺しながら、抜き足差し足で二人の後を追った。


最初は少し距離を置いていた二人だったけれど、歩みを進めるうちに、ビョルンがベルの肩を引き寄せたり、ベルがそれに応えるように彼に寄り添ったりし始めた。

……なんだか、見ているこっちの顔が熱くなるくらいの熱々ぶりだ。


(……ちょっと、何よあれ! 昨日の今日で、あんなに仲睦まじくしちゃって!)


私は心の中で叫んだ。隣のエリーを見れば、彼女も丸い眼鏡の奥の瞳を険しくさせ、歯を食いしばっている。

「このリア充が……! 爆発しろとは言いませんけれど、理論的に見て公共の場での節度は守るべきですわ!」

エリーの心の声が聞こえてきそうなほど、彼女の周りの空気がピリついている。正直、私も同感だ。私たちの前で寂しそうな顔をしていたベルはどこへ行ったのよ!


そんな私たちのイライラを余所に、二人の会話が風に乗って聞こえてきた。話題は、どうやら私たちについてらしい。


「なあ、ベル。あのアリアって子、結構すごかったんだろ?」


ビョルンが問いかけると、ベルは少し照れくさそうに、でも誇らしげに頷いた。


「ええ。アリアとは出会ってまだそんなに経っていないけれど、なぜか最初から息が合ったのよね。不思議な子よ。猪突猛進で、危なっかしいところもあるけれど……」


ベルが語る私への評価に、私は思わず耳をそばだてた。


「あの子、経験こそ浅いけれど、実は意外なほど博識なのよ。地元の図書館で調べたって言ってたけど、道端の石碑の意味とか、地形の成り立ちとか、私たちが知らないことをたくさん知っていて……。正直、彼女の知識に助けられたことは一度や二度じゃないわ」


(えっ……私、そんなに褒められてたの……?)


ベルは少し遠くを見るような目で続けた。


「私の経験と、アリアの知識……。あの二人と一緒なら、どんなに危険な冒険だって乗り越えていける気がしていたわ。本当よ」


透明な膜の中で、私は立ち止まりそうになった。

嬉しい。あんなに皮肉屋で、めったに人を褒めないベルが、陰で私のことをそんな風に認めてくれていたなんて。


でも、そう思ってくれていたなら、どうして?

どうして、あんなにあっさりと私たちを置いていってしまったの?


「……ふん。買いかぶりすぎですわ」

隣でエリーが、嫉妬と照れ隠しが混ざったような声で小さく毒づいた。でも、彼女の手が私の腕を優しく掴んだのがわかった。


嬉しい気持ちと、裏切られたような寂しさが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、私は複雑な気持ちのまま、二人の幸せそうな背中を見つめ続けるしかなかった。ベル、あなたは本当に、その人の隣でいいの? 私たちの隣じゃなきゃ、見られない景色があるって……わかっているはずなのに。



透明化の魔法に隠れ、息を殺して二人の後を追っていた私たちの目の前で、事態は急変した。


街道の先、切り立った崖の近くにある茂みが激しく揺れたかと思うと、低く唸るような咆哮と共に、黄金色の毛並みを持つ巨体が飛び出してきたのだ。


「サーベルタイガー……!」


私は思わず大剣の柄に手をかけた。けれど、エリーが「まだですわ」と私の腕を強く制する。

ベルとビョルンは即座に武器を抜き、戦闘態勢に入った。ベルの二刀流が、陽光を跳ね返して鋭く煌めく。


「ビョルン、私が背後に回っておびき寄せるわ! あなたは隙を見て――」


ベルが素早い身のこなしでタイガーの死角へと回り込もうとした、その時だった。


「おらぁッ!」


ビョルンがベルの指示を待たず、正面からタイガーに向かって斬りかかったのだ。


「ちょっと! ビョルン、待ちなさい!」


ベルの叫びも虚しく、ビョルンの小振りの剣がタイガーの肩口を浅く切り裂いた。だが、それは致命傷には程遠い。かえって獣の凶暴な神経を逆撫でし、激昂させる最悪の一手となった。

タイガーは怒りに目を血走らせ、目標をビョルン一点に絞って猛然と突き進む。


「うわっ……!?」


予想以上の突進力に圧倒されたビョルンは、後退した拍子に崖際の脆い足場に足を取られた。

「あぶない!」

私が叫びそうになった瞬間、ビョルンは何とか踏ん張って体勢を立て直したが、その目の前には、巨大な牙を剥き出しにしたタイガーが今まさに飛びかからんとしていた。


「させませんわ!」


隣でエリーが魔導書を高く掲げる。

彼女の詠唱と共に、タイガーの周囲の重力が一瞬で増したかのように、獣の動きが泥の中に沈んだように鈍った。鈍化スロウの魔法だ。


その一瞬の隙を、ベルは見逃さなかった。

「はあああッ!」

側面から弾丸のように飛び出したベルが、タイガーの横腹を二本の細剣で深く突き刺す。その衝撃と勢いを利用し、巨体を崖下へと押しやった。


「……はぁ、はぁ……大丈夫、ビョルン!?」


ベルはすぐさまビョルンの手を掴み、安全な場所まで引き上げた。けれど、次の瞬間。安堵の表情は消え、ベルの顔は真っ赤な怒りに染まった。


「何を考えているのよ、ビョルン! さっきの攻撃は何!?」


「な、なんだよ急に。倒せたんだからいいじゃないか」


「よくないわよ! サーベルタイガーは気性が荒くて、正面から力押しで戦うのが一番危険なの! おびき寄せて、敵が疲れた隙を突くのが鉄則でしょう!?」


「そんなこと、一言も聞いてないぜ! 俺のやり方があるんだ!」


ビョルンも引かずに声を荒らげ、ベルも「冒険者なら常識よ!」と一歩も譲らない。

さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、二人の間には、抜き身の刃のような険悪な空気が立ち込めていた。


(……ベル……)


透明な膜の向こうで、私は胸が締め付けられるのを感じた。

ベルが怒っているのは、ビョルンが危なかったから。でも、その「常識」や「戦い方」がこれほどまでに噛み合わないなんて。

ベルの苛立ちと、ビョルンの戸惑い。二人の間に広がり始めた深い溝を見つめながら、私とエリーは、昨日以上の不安に駆られて立ち尽くすことしかできなかった。



透明化の魔法に守られながら後を追う私たちの前で、二人の道中は見るに耐えない惨状へと変わっていった。


「ちょっと、ビョルン! 何をしているのよ!」


街道に現れたコカトリスの死骸に対し、ビョルンは不用意にそのくちばしを素手で弄ぼうとした。石化の呪いが残っているかもしれないのに。

さらには、どう見ても擬態しているゴーレムだとわかる不自然に大きな岩を、彼は「邪魔だ」と言ってどかそうとまでした。そのたびにベルが血相を変えて制止し、危機一髪で窮地を脱する。


極めつけは、古い墓所に迷い込んだ時だった。

何もしなければ動かないはずのスケルトンに対し、ビョルンは先制攻撃を仕掛けてしまった。案の定、バラバラになっても魔力で何度も繋ぎ合わさって立ち上がる骸骨たちを相手に、彼は無駄な体力を削り続け、結局は逃げ出す羽目になった。


(……ひどすぎるわ、これじゃベルが疲弊するのも当たり前よ)


私は、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じた。

ベルの戦い方は、私たちがこれまで旅を続けてきた中で、私の得た知識やエリーの理論によって洗練され、無駄のない合理的なものにアップデートされている。

それに対し、ビョルンの戦い方はあまりにも……そう、脳筋すぎた。ただ目の前の獲物に食らいつくだけで、相手の特性も地形の利も何も考えていない。


やがて陽が落ち、山道の終点にある開けた場所で、二人は重苦しい沈黙の中で野宿の準備を始めた。


「……ビョルン、もう限界だわ。わたくし、あなたとは一緒に行けない」


焚き火の爆ぜる音を切り裂くように、ベルが静かに、けれど明確に拒絶を口にした。

その一言が、ビョルンの我慢の限界も決壊させた。


「……なんだと? 俺は、お前を守りたくて、あの日からずっと腕を磨いてきたんだぞ! 昔みたいに泣かせたくないから、俺が先陣を切って戦ってるんじゃないか!」


ビョルンは立ち上がり、悔しそうに拳を震わせた。でも、ベルは焚き火の光に照らされた瞳を冷たく光らせ、真っ向から彼を見据えた。


「守る? それで守っているつもりなの!? あなたがやっているのは、ただの無謀よ! 危機管理もできていない、常識も通じない……。あなたはわたくしを守るどころか、自分の身すら守れていないじゃない! 誰よりもまず、ビョルン、あなた自身の身を守りなさいよ!」


「お前、変わっちまったな……。昔のベルは、もっと素直に俺を頼ってくれたのに!」


「変わったんじゃない、成長したのよ! 知識も経験もないままのあなたとは、もう見ている景色が違うの!」


深夜の山道に、二人の激しい怒号が響き渡る。

隠れながらその様子を見ていた私は、呆れて開いた口が塞がらなかった。隣のエリーも、魔導書を強く抱きしめながら

「……理論以前の問題ですわね。あまりに低次元すぎて眩暈がしますわ」

と、深いため息をついている。


でも、同時に確信した。

(……やっぱり、尾行して正解だったわ)


ベルが大切にしている「成長」を理解せず、ただ昔のイメージを押し付けるだけの彼では、今のベルの隣に立つ資格はない。

口げんかは泥沼化し、二人の間の空気は、夜の山よりも冷たく凍りついていく。私たちは息を潜め、この「破局」が決定的なものになる瞬間を、ただ見守り続けていた。



二人の罵り合いが最高潮に達しようとしたその時、足元の岩盤が嫌な音を立てて鳴動した。


「地震……!?」


私は咄嗟に大剣の柄を握り、低く身を構えた。けれど、隣にいたエリーは鋭い目つきで地面を凝視し、小さく首を振った。


「いえ、不自然ですわ。この周期的な揺れ、地殻変動によるものではありません!」


エリーの言葉を裏付けるように、ベルたちの目の前で大地が爆発した。土煙を突き破り、岩石の鎧を纏ったような巨躯が姿を現す。それは、地殻を喰らい移動する大地の暴君――アースドラゴンだった。


位置的にはアルバ峠からまだ距離があるけれど、このあたりの地脈を考えれば出現しても不思議ではない。だが、今の最悪なコンディションの二人の前に現れるには、あまりに強大すぎる相手だった。


「ベル、下がれ! 俺がやる!」


ビョルンが叫び、小振りの剣を構えて突進する。ベルも反射的に細剣を抜き、反対側から回り込もうとした。けれど、互いへの不信感と怒りで乱れた連携は、アースドラゴンの硬質な鱗に傷一つ付けることができない。それどころか、ドラゴンの巨体が放つ圧倒的な威圧感の前に、二人は防戦一方に追い込まれていった。


「っ……、なんて硬いの……!」


ベルが歯を食いしばり、一瞬だけ攻撃に転じようと踏み込んだ。だが、ドラゴンはその隙を見逃さなかった。鞭のようにしなる太い尾が空気を切り裂き、ベルの細い体を真横から薙ぎ払う。


「ベル!!」


「……っ!!」


地面に激しく叩きつけられ、ベルが苦悶の声を漏らす。追撃を加えようと、ドラゴンがその巨大な顎を広げた。


「させるかぁッ!」


ビョルンが必死の形相で二人の間に割り込み、ベルを庇うようにして身を盾にした。愛する幼馴染を今度こそ守るという、捨て身の覚悟。だが、アースドラゴンは知能の高い捕食者だった。


ドラゴンは攻撃を繰り出す代わりに、太い前足を深く地面に突き刺した。


ドォォォォ……ッ!


「なっ……!?」


激しい揺れではない。だが、足元から伝わる微弱で、かつ執拗な振動がビョルンの三半規管をかき乱す。アースドラゴンの戦い方は、この微細な地震で相手の平衡感覚を奪い、ひるんだ隙に致命的な一撃を叩き込むという、狡猾なものだった。


「う、うわああああ!」


案の定、地面の細かな震動に翻弄されたビョルンは、膝をつき、大きく体勢を崩してしまった。彼の目の前には、無防備な首筋を狙って振り下ろされる、ドラゴンの鋭い爪が迫っていた。


「アリア、もう限界ですわ! 魔法を解除します!」


「わかってる! エリー、援護して!」


私は透明化の魔法が解けるのも待たず、愛剣を背中から引き抜いて、親友を救うべく夜の闇を蹴り出した。



私が大剣を抜き放ち、エリーが魔導書の頁を激しくめくったその瞬間、夜の静寂を切り裂くように一枚の紙片が闇を舞った。


「……ッ!?」


白く鋭い光を放つその霊符は、正確にアースドラゴンの硬い首筋へと吸い寄せられるように貼り付いた。

直後、崖の上から凛とした気配が降り立つ。そこに立っていたのは、肩を露出し、夜風に袴をなびかせる東洋の巫女――フジだった。


「フジ……! なぜここに!?」


私の叫びに応じる余裕などないと言わんばかりに、フジは印を結び、ドラゴンへと視線を据えた。

標的を変えたアースドラゴンが、地響きと共にフジへと襲いかかる。しかし、彼女は蝶のように軽い身のこなしで、その巨躯から繰り出される猛攻を紙一重でかわし続けた。


苛立ちを募らせたドラゴンが、得意の地震を繰り出すべく前足を地面に深く突き刺す。だが、フジはそれを見透かしたように高く宙を舞った。空中で次々と霊符を取り出し、着地と同時にドラゴンの足元へ結界を展開していく。


「グオォォォォンッ!」


拘束を嫌ったアースドラゴンが全身の筋肉を膨張させ、力任せに結界を食い破った。その衝撃波がフジを襲うが、彼女は数歩後退しながらも、鋭い視線を崩さずに踏みとどまる。


ふと、彼女の目がこちらを向いた。

一瞬、私と視線がぶつかる。その瞳は饒舌に語っていた。

「これが格上の戦い方だ、よく見ておけ」

と。


フジは再びドラゴンの足元に結界を張ろうと動いた。ドラゴンは学習したのか、結界が現れる瞬間を狙って最大級の衝撃を地面に叩き込む。

ドォォォォォン……ッ!!

発生した地震は先ほどまでとは比較にならないほど強まり、共鳴するように大地が激しく揺れ続け、止まらなくなった。


「アリア、立っていられませんわ!」

エリーが私の腕を掴む。だが、フジは慌てなかった。


彼女は瞬時に足元の結界を解除すると、今度はドラゴンの正面に巨大な結界を垂直に展開した。

「……急急如律令!」

結界から溢れ出した無数の光が細い糸となり、暴れ狂うドラゴンの四肢と巨躯を絡め取っていく。光の糸は肉に食い込み、ドラゴンの動きを物理的、そして霊的に完全に封じ込めた。


フジはその糸を伝わせるようにして、自身の神通力を一気に流し込んだ。

「ガ、アァァァッ!」

内側から灼かれるような苦痛に、大地の暴君がのたうち回る。その隙を逃さず、フジはドラゴンの頭上にさらなる結界を重ねて展開した。


天から降り注ぐ純白の光の柱が、ドラゴンの脳天を直撃する。

神通力がその生命力を一刻一刻と削り取り、激しく抵抗していたドラゴンの四肢から、次第に力が抜けていった。


数分後、あれほど大地を揺るがしていた咆哮が途絶えた。

アースドラゴンの巨体は、最後の一息を吐き出すように地表に沈み、二度と動かなくなった。


静寂が戻った山道で、フジは静かに印を解き、乱れた髪をかき上げた。その圧倒的な実力差を前に、私たちはただ息を呑んで立ち尽くすことしかできなかった。



アースドラゴンの巨体が沈み、周囲を包んでいた圧迫感が霧散した。ふと崖の上を見上げると、そこにはもうフジの姿はなかった。風のように現れ、嵐のように去っていく。そのあまりの強さに圧倒されながらも、私は我に返って叫んだ。


「ベル! ビョルン!」


私はエリーと共に、地面に伏したままの二人の元へ駆け寄った。


「アリア……それにエリーも!? なぜ、ここに……」


ベルが信じられないといった様子で目を見開いた。私は「ええと、それは……たまたま、成り行きで通りかかったというか……」としどろもどろに誤魔化そうとしたけれど、ベルは力なく口角を上げた。


「……ふん。どうせ、気になってついてきたんでしょう。隠密魔法の使い方が甘いわよ、エリー」


すべて見透かされていた。けれど、その再会を喜ぶ余裕は与えられなかった。

背後で、嫌な音がした。

死んだはずのアースドラゴンが、その岩のような四肢を震わせ、再び立ち上がったのだ。執念だけで動き出したその瞳は、逃げ遅れたベルの細い体を捉えていた。


「ベル、危ない!!」


ドラゴンの巨大な前足が、鋭い爪を剥き出しにしてベルの胸元へと突き出される。死を覚悟したベルが目を閉じた瞬間、その前に影が割り込んだ。


「ぐ、あああぁぁッ!!」


鈍い肉音と共に、ビョルンの叫びが響いた。

ドラゴンの太い爪は、ベルを庇ったビョルンの胴体を無残にも貫通していた。


「ビョルン!!」


私は怒りに震え、大剣を握り直してドラゴンの喉元へ踏み込もうとした。エリーもまた、極大の攻撃呪文を放とうと詠唱を開始する。

だが、その必要はなかった。


「……ッ!?」


ドラゴンの首筋に貼り付いたままだったフジの霊符が、眩い白光を放ったかと思うと、内側から激しく爆ぜたのだ。凄まじい衝撃波がアースドラゴンの頭部を粉砕し、今度こそ、その巨躯は完全に崩れ落ちた。

フジは、あの一瞬の攻防の中で、復活を見越して遅延爆破の呪を仕掛けていたのだろうか。


「ビョルン……! 起きて、目を開けてよ!」


ベルが血に染まるビョルンを抱きかかえる。貫通した傷口からは絶え間なく鮮血が溢れ出し、夜の地面を黒く染めていた。

ビョルンは血を吐きながらも、どこか満足げな、ひどく歪な微笑みをベルに向けた。


「……へへ、ベル……。これでも……お前を、守れていないって……言えるか……?」


掠れた声。誇らしげに、けれど死を悟った男の最期の問い。

ベルは、彼の血で汚れるのも構わず、その胸に顔を埋めて泣き叫んだ。


「……バカ! だから言ったじゃない! だから、無鉄砲だって言ったのよ! こんなの、守ったことにならないわ……! あなたがいなくなったら、意味がないのよ!!」


「……アリア、早く! 魔法を!」

エリーが真っ青な顔をしてビョルンに駆け寄り、治癒の魔法を編み出そうとした。だが、ビョルンは震える手でそれを制した。


「……無駄だ、魔導士。……自分の体くらい、わかる。……そんな魔力は、ベル……お前の仲間のために……とっておいてやれ……」


彼は頑なに治療を拒んだ。己の死を、誇り高き「守護」の代償として受け入れようとしているかのように。

ビョルンは最後に、震える手でベルの頬に触れた。


「ベル。……幸せに、生きろ。……お前の隣には、いい……仲間が……いるじゃ……ないか……」


その手が、力なく地面に落ちた。

鉢巻を巻いた茶髪の青年は、二度と動かなくなった。


「嫌……嫌あああああぁぁぁぁ!!」


ベルの慟哭が、静まり返った夜の山道にこだまし続けた。

冷たい風が、私たちの頬を撫でていく。

私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。家族を亡くし、故郷を追われ、ようやく再会した幼馴染までもが、彼女を救うために目の前で散っていった。

夜明け前の深い闇の中で、親友の泣き声だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。



東の空が白み始め、夜のしじまを淡い光が塗り替えていく。けれど、私たちの心はまだ、昨夜の底知れない闇の中に置き去りにされたままだった。


翌朝。ベルは一言も発することなく、アースドラゴンが倒れた場所の近く、朝日のよく当たる高台に穴を掘った。エリーの魔法で土を柔らかくし、私は大剣を脇に置いて、彼女がビョルンの亡骸を丁寧に横たえるのを手伝った。


石を積み上げ、即席の、けれど心のこもった簡易的な墓を作る。その作業を終えたベルの横顔は、一晩中泣き明かしたせいか、ひどくやつれ、幽霊のように白く透き通っていた。


私はそっと、彼女の隣に腰を下ろした。


「……バカよね、あいつ」


ベルが、乾いた声で呟いた。視線は、まだ新しい土が盛られた墓標に向けられたままだ。


「小さい頃から、ずっとそうだった。私が近所の子供たちにいじめられて泣いていると、どこからともなく飛んできて……相手がどんなに大きくて強そうなガキ大将でも、我を忘れて突っ込んでいくのよ。それでいつもボロボロになって、結局私に手当てされて……」


ベルの脳裏には、きっと泥だらけで笑う幼い日のビョルンの姿が浮かんでいるのだろう。


「無鉄砲で、向こう見ずで、人の話なんてこれっぽっちも聞かなくて。……でも、私のそばには、いつもあいつがいた。家の中が地獄だった時も、あいつが外で待っていてくれると思うだけで、私は息ができたの。私にとって、ビョルンは……たった一つの、心のよりどころだった」


ベルの声が微かに震える。彼女は、ビョルンを土に還す直前に、彼の額から外したあの使い込まれた鉢巻を、震える手で握りしめていた。


彼女はおもむろに立ち上がると、その茶色い鉢巻を自分の頭に巻いた。栗色のセミロングの髪の上で、ビョルンの生きた証が力強く結ばれる。それは、彼の「無鉄砲な優しさ」を自分が引き継ぐという、静かな決意のようにも見えた。


「……しっかり見守ってなさいよ、ビョルン。あんたが命懸けで守ったんだから、私、そう簡単には死んであげないわ」


墓標に向かって、ベルは最後の一言を投げかけた。それは永遠の別れの言葉であり、同時に、再び前を向くための自分自身への誓いでもあった。


私とエリーは、少し離れた場所で、その様子をただ見守ることしかできなかった。

エリーはいつになく神妙な顔つきで魔導書を胸に抱き、私は自分の赤いリボンを一度解いて、結び直した。


ベルの隣に立つ資格が、今の私たちにあるのだろうか。

けれど、彼女がふり返り、赤く腫らした目の奥に、昨夜の絶望ではない「生」の光を宿したのを見た時、私は確信した。


私たちはこれからも、三人で歩んでいく。

ビョルンの鉢巻を風になびかせ、ベルは一歩、また一歩と、歩き出した。私たちは何も言わず、その背中を追うようにして、再びアルバ峠を目指して歩みを進めた。



街道を進む足音が、乾いた地面に空虚に響く。ビョルンの墓を後にしてから、私たちはしばらく無言のまま歩き続けていた。風が吹くたび、ベルの頭に巻かれた茶色い鉢巻がパタパタと音を立てる。


不意に、前を歩いていたベルが足を止めた。彼女は振り返ることなく、何かを言い忘れたかのように、震える声で私たちに話しかけてきた。


「……あの、二人とも。ちょっといいかしら」


ベルはばつが悪そうに、視線を地面に落としたまま言葉を繋いだ。


「わたくし、その……昨日、勝手なことを言って、二人を置いていこうとしたけれど。……もし、もしも許してくれるなら。もう一度、わたくしを仲間に戻してくれないかしら。今更だってことは、わかっているけれど……」


その言葉を最後まで言わせる必要はなかった。私とエリーは顔を見合わせ、どちらからともなく、何事もなかったかのような軽い口調で応えた。


「何を言ってるのよ、ベル。私たちは仲間でしょ? 仲間が戻ってくるのを拒む理由なんてないわ」


「そうですわ。戦力としても、あなたの二刀流がないと計算が合いませんもの。……おかえりなさい、ベル」


エリーが少しだけ優しく微笑むと、ベルの大きな瞳にうっすらと涙が溜まるのが見えた。彼女は慌てて顔を背け、「……ありがとう」とだけ小さく呟いた。


けれど、仲間が再結集したというのに、私の心はどこか晴れなかった。昨夜見た、フジの圧倒的な実力。そして、アースドラゴンの一撃で崩れ去ったビョルンの姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


やがて私たちは、小さな集落にたどり着いた。宿代わりの納屋を借りて一息ついた時、私は意を決して二人に切り出した。


「ベル、エリー。……実は、提案があるの。ここで一度、アルバ峠への冒険を中止したいと考えてるわ」


「「えっ……!?」」


二人が驚きの声を上げる。私は大柄な剣を床に置き、自分の震える拳を見つめた。


「昨日の戦いで、思い知らされたの。フジが言っていた通り……今の私の実力じゃ、ドラゴンには到底勝てない。このまま峠へ向かっても、私はまた誰かを、あなたたちを守れずに失うことになる。……それが、怖いのよ。だから、私はもっと強くなりたい。修行をしたいの」


私の言葉を聞いて、二人は一瞬沈黙したけれど、やがて安心したような顔を見せた。前向きな理由での「中止」だと伝わったからだろう。


「……アリアらしいわね。いいわ、わたしも賛成よ。今のままじゃ、確かに不安だもの」


ベルが頷くと、エリーが魔導書を広げ、あるページを指し示した。


「修行というのなら、最適の場所がありますわ。ここから少し先にある『ティフェの街』。アルバ峠に最も近い軍事都市ですわ。あそこには王国の精鋭騎士団の拠点があり、高度な剣術を学ぶための道場がいくつも軒を連ねていますわ」


「軍事都市、ティフェ……」


「アリアのその我流の剣術を、一度徹底的に叩き直してもらうには、最高の場所ですわね」


エリーの少し生意気な提案に、私は力強く頷いた。


「決まりね。ティフェの街へ行こう。そこで、どんな魔物も切り伏せられるくらい、私の剣を磨き上げてみせるわ!」


悔しさと悲しみを乗り越えて、私たちは新たな目標を定めた。

アルバ峠の水晶玉を手に入れるため。そして、二度とあんな悲劇を繰り返さないため。

私は、ティフェの街でさらなる強さを手に入れることを、自分自身の心に固く誓った。

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