第7話 失われた集落
病院の白いカーテンが風に揺れ、窓からは穏やかな午後の陽光が差し込んでいた。私は、昨日までの嵐のような出来事が嘘のように静かな病室で、エリーの傍らに座っていた。
エリーの呼吸は、昨日よりずっと深く、安定している。あれほど激しかった咳も今は随分と落ち着き、真っ白だった頬には、微かに生気が戻りつつあった。
「……アリア、そんなに覗き込まなくても、逃げやしませんわ」
少し掠れた声。けれど、いつもの不遜な響きが戻っている。私は安堵で胸が一杯になりながら、「元気そうでよかったわ」と微笑み返した。そこへ、ガチャリと扉を開けてベルが入ってきた。
「エリー! 死ぬほど心配したんだからね!」
ベルはそう言いながら、お見舞いの果物が入ったカゴを乱暴にテーブルに置いた。そこからは、他愛のないおしゃべりの時間だった。昨夜のベルのヤケ酒の大失敗、ガロのリーゼントの話、そして道中の盗賊たちの奇抜な格好……。
私とベルが代わる代わる話すと、エリーは呆れたように「わたくしがいない間に、どれだけ騒動を起こせば気が済むのですの」と鼻を鳴らした。そのやり取りが、何よりも彼女を元気づけているのがわかった。
そんな和やかな空気を破ったのは、巡回にやってきたあの優しそうな医師だった。
「三人とも、楽しそうだね。……さて、アリアさん、ベルさん。お二人に大切なお話があります。今回、エリーさんと行動を共にしていたお二人には、念のため『予防注射』を受けてもらいたいのです」
「……ちゅうしゃ?」
私とベルは顔を見合わせた。聞き慣れない言葉だ。医師の説明によれば、結核は空気を通じて移ることもあるため、今のうちに薬を体に直接打ち込むことで、感染を防ぐ必要があるのだという。
医師が、トレイに乗せられた銀色の鋭い「針」を取り出した。
「――っ!? な、何よそれ! そんなスズメバチの毒針みたいなもの、体に刺すつもり!?」
ベルが叫び声を上げ、椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がった。彼女の目には、あの蜘蛛やゴキブリに遭遇した時と同じ、猛烈な恐怖が宿っている。
「ベル、落ち着きなさい! 先生が、私たちのためにやってくれるのよ」
「嫌! 絶対嫌! あんなの刺されたら、私の細剣より痛いに決まってるわ!!」
暴れだして逃げようとするベルの腰を、私は全力で羽交い絞めにした。金髪のロングヘアが乱れるのも構わず、私は彼女を椅子に固定する。
「アリア、離しなさい! 裏切り者ぉー!!」
「ごめんベル、これもお互いのためなのよ!」
私がベルを押さえ込んでいる間に、医師は手際よく彼女の二の腕に針を刺した。
一瞬の静寂。そして。
「…………う、うわああああああああん!!」
注射が終わるなり、ベルは私の胸に顔を埋めて子供のように泣き出してしまった。普段は二刀流で颯爽と戦う彼女が、小さな針一本に負けて大号泣している。
その様子を見ていたエリーが、くすりと声を漏らした。
「ふふ……、あはは! ……ゲホッ、本当に、ベルは……退屈させませんわね」
咳き込みながらも、エリーは久々に心の底から楽しそうに笑っていた。その笑顔を見て、私は「ああ、本当にもう大丈夫なんだ」と確信した。
ベルの泣き声と、エリーの笑い声。
医学の町の片隅で、私たちはようやく、いつもの平穏な日常の片鱗を取り戻したような気がした。私はベルの背中を優しく叩きながら、これから向かうガロの故郷、そしてまだ見ぬアルバ峠の冒険へ向けて、静かに決意を新たにするのだった。
病院の重い扉を閉めると、背後から鼻をすする音が聞こえた。
「もう……最悪……。結核より、あの針の方がよっぽど命の危険を感じたわ……」
ベルは真っ赤になった目で、二の腕のパッチをさすりながら愚痴をこぼしている。さっきまでの大号泣の余韻で、自慢の黒髪も少し跳ねていた。私は苦笑いしながら、「お疲れ様、ベル。これで安心して旅が続けられるわ」となだめ、ガロと待ち合わせている広場へと歩を進めた。
広場の噴水の前には、夕陽を浴びて黒光りするリーゼントが鎮座していた。甲冑を再び身に纏ったガロが、退屈そうに蹄を鳴らしている。
その姿を視界に捉えた瞬間、ベルの泣きべそ面が一変した。
「――いたわね、リーゼント馬男ッ!!」
「おう、嬢ちゃんたち。お見舞いは済んだか?」
「済んだかじゃないわよ! 昨日はよくもわたくしだけを置き去りにしてくれたわね! おかげでどれだけ寂しい思いをして、挙句の果てに変な連中に絡まれたと思ってるのよ!」
ベルは怒髪天を突く勢いでガロに詰め寄り、その鼻先で指を突きつけた。普段の彼女なら二刀流で斬りかかってもおかしくない剣幕だったけれど、ガロは全く動じる様子もなく、大きな手で自分のリーゼントを「ポリポリ」と掻いた。
「っははは! わりいわりい。あの時は緊急事態だったからな。お前さんなら自力で来れると信じてたんだぜ? ほら、悪かったって!」
「全然反省してないじゃない! そのリーゼント、全部むしり取ってやりたいわ!」
ベルが地団駄を踏んで怒る横で、ガロは「まあそう怒んな」と笑い飛ばしている。この二人のやり取りを見ていると、なんだか昨夜の絶望が遠い昔のことのように思えてくるから不思議だ。
「さて、出発の前にちょっと寄るところがある。ついてきな」
ガロに連れられてやってきたのは、町の外縁に建つ巨大な石造りの建造物――コロッセウムだった。円形の競技場からは、地響きのような蹄の音と、人々の地鳴りのような歓声が漏れ聞こえてきている。
「ここは医学の町だが、もう一つの顔がある。ケンタウロス同士の速さを競う『競馬大会』の聖地だ。だから、この辺りは同族の数も多い。……ま、さっき絡んできたような、あぶれ者も集まりやすいってわけだがな」
確かに、周辺を見渡すと、屈強なケンタウロスたちが誇らしげに筋肉を誇示しながら歩いている。中には競技用の軽量な鎧を纏った者もいて、その迫力に圧倒される。
ガロは「ちょっと待ってな」とコロッセウムの裏手にある待機所へと消えていき、しばらくして戻ってきた時には、見慣れない奇妙な形をした車を引いていた。
「お待たせ。ケンタウロス専用の特注馬車だ。人間用のとは構造が違うが、乗り心地は保証するぜ」
それは、ケンタウロスの胴体に直接固定された連結棒で引く、非常に重心の低い馬車だった。
私とベルは、ガロに促されるままにその荷台へと乗り込んだ。
「行くぜ、お嬢ちゃんたち。俺の故郷までは少し距離があるが……覚悟はいいか?」
「ええ、お願いするわ」
私がそう答えると同時に、ガロは力強く地面を蹴った。
馬車は滑るように動き出し、夕暮れ時のロットの町を背にして走り出す。ベルはまだ「絶対に許さないんだから」と小声で毒づいていたけれど、遠ざかる病院の窓を一度だけ振り返り、それから前を見据えた。
私たちは、ガロが語った「地獄」の正体を知るために。そして、エリーが戻ってくる場所を、この世界を守り抜くために。
リーゼントの巨躯に引かれ、私たちはケンタウロスの聖域――ガロの故郷へと、夜の帳が下りる街道を駆け抜けていった。
背後で燃えるような朱色に染まっていた空は、次第に深い群青へと溶け出し、気が付けばロットの町の白亜の時計塔も、地平線の彼方へと消え去っていた。
ガロが引くケンタウロス専用の馬車は、驚くほど揺れが少なく、それでいて風を切る速さで荒野を突き進んでいる。車輪が砂利を噛む一定のリズムを聞きながら、私はマントの襟を立て、流れていく夜の景色を眺めていた。
「もうすぐだぜ。俺たちの故郷、ゴダイの集落が見えてくるはずだ」
ガロが前を向いたまま、野太い声で告げた。私はその言葉に、思わず目を丸くして身を乗り出した。
「えっ、もう……? でも、私の知識が正しければ、ゴダイの集落はロットから北へ数日はかかる場所にあるはずよ」
「アリア、それは古い地図の知識ね」
隣で腕を組んでいたベルが、少し得意げに、けれどどこか寂しげな表情で口を開いた。「ケンタウロスは一箇所に留まらない遊牧生活を営んでいるのよ。彼らにとって『故郷』とは場所の名前じゃなくて、彼らが今いる集落そのものを指すの」
ガロは一度、蹄の音を重く響かせると、神妙な面持ちで付け加えた。
「……嬢ちゃんの言う通りだ。俺たちの生活は、季節と獲物を追って移動する。だが、ここ数年はその『定まらない位置』が、嫌でも南へと押し流されてきているんだ。ロットの町にあぶれ者が行き着いちまったのも、好き好んでのことじゃねえ……そうせざるを得ない事情があったのさ」
ガロの背中が、夕闇の中でいつになく小さく、そして重苦しく見えた。
私はふと、幼い頃に図書室の隅で読んだ、古い遊牧民族に関する書物を思い出していた。
そこには、肥沃な土地を求めて移動を繰り返す民と、それを拒む定住民との血塗られた歴史が記されていた。かつての人々は、遊牧民族による苛烈な略奪と侵略を防ぐために、気が遠くなるような年月をかけて巨大な『長城』を築き、彼らを外側へと追い払ったのだという。
(まさか、彼らも……?)
私の脳裏に、不穏な疑問がよぎる。
ロットの町を荒らしているあのならず者たちは、単なる素行不良ではないのかもしれない。遊牧生活という体裁を保ちながら、実は虎視眈々と豊かな人間の町を「侵略」する機会を伺っているのではないか。ガロが見せようとしている「故郷」は、そのための軍事拠点のような場所なのではないか……。
一度芽生えた疑念は、暗闇の中で急速に膨らんでいく。
けれど、エリーを救うために命を懸けて走ってくれたガロの背中を見ていると、どうしてもその言葉を口に出すことはできなかった。
「……アリア、どうしたの? 怖い顔して」
ベルに覗き込まれ、私は慌てて首を振った。
「ううん、なんでもないわ。……ただ、ガロの故郷がどんな場所なのか、少し緊張しているだけ」
私は自分の膝の上で、冷たくなった拳を握りしめた。
長城の物語の結末は、いつも悲劇だった。侵略する側と守る側、どちらかが滅びるまで終わらない戦い。
暗闇の先、まもなく姿を現すという「ゴダイ」の灯りが、平和を告げるものなのか、それとも戦火の予兆なのか。私は期待と、それを上回るほどの不安を胸に、馬車の縁を強く掴んでいた。
太陽の残照が完全に消え去り、夜の重厚な帳が降り切ったその瞬間。ガロの引く馬車は、荒野の先に突如として現れた光の群れへと滑り込んだ。
そこが、ケンタウロスの移動集落「ゴダイ」だった。
「着いたぜ。ここが俺たちの今の根城だ」
ガロの声と共に視界に飛び込んできたのは、無数の松明が整然と立てられ、夜闇を黄金色に染め上げている活気ある光景だった。ロットの町のガス灯とは違う、爆ぜる炎の揺らぎが、集落全体に原始的な力強さと温もりを与えている。
馬車が止まるやいなや、周囲から次々とケンタウロスたちが駆け寄ってきた。
「若様! お帰りなさいませ!」
「ガロの兄貴、早かったじゃねえか。隣町の様子はどうだったんだい?」
彼らはガロを見るなり、尊敬と親愛の入り混じった声を上げる。あのリーゼントの巨漢が、ここではただの警備兵ではなく、一族を束ねる象徴的な立場にあるのだということを、私は初めて肌で感じた。
集落のあちこちでは、ヤギや羊、そして牧羊犬たちが自由に放け放たれ、ケンタウロスたちと共生していた。驚いたのは、その群れの中に数頭、銀色に輝く角を持つ「ユニコーン」が混じっていたことだ。
「あれは……ユニコーン?」
私が息を呑むと、ガロが誇らしげに鼻を鳴らした。
「ああ。あいつらは俺たちの守り神さ。気性は荒いが、心が通じればその存在だけで集落の荒んだ空気を浄化し、傷ついた者を癒してくれる。俺たちが移動を続けるのは、あいつらに適した草地を探すためでもあるのさ」
市場に目を向けると、そこは全て頑丈な毛皮や布で作られた巨大なテントの連なりだった。吊るされた干し肉の匂い、手織りの絨毯、見たこともない形状の金属雑貨が並び、遊牧民族特有の文化が色濃く漂っている。
「……ねえアリア、一番大事な建物が見当たらないんだけど」
ベルが不安げに辺りを見回した。
「酒場は? 看板が出てないわよ」
「悪いな、嬢ちゃん。俺たちの掟じゃ、酒は家族や客人と自宅で静かに酌み交わすもんだ。この集落にゃ『酒場』なんて騒がしい場所はねえよ」
「そんなぁ……」
昨夜のヤケ酒の味を占めたらしいベルは、肩を落として絶望の声を上げた。
ガロは苦笑しながら、私たちを集落の奥にある一軒のコテージへと案内した。ゴダイの建物は、すぐに畳めるテントか、現地調達した木材で手早く組み上げられるコテージのどちらかだという。ガロの家は、小さいながらも堅牢なログハウス風の作りで、中には乾燥したハーブの香りが満ちていた。
「もてなしらしいことはできねえが、腹は減ってるだろ。座ってな」
ガロは手際よく焚き火に鉄鍋をかけ、調理を始めた。差し出されたのは、新鮮な羊肉と、驚くほど甘みの強い人参を豪快に炒めたソテーだった。
「……美味しい!」
一口食べた瞬間、私は目を見開いた。野性味溢れる羊の脂が、人参の甘みとハーブの香りに絶妙に調和している。ベルも「お酒がないのは残念だけど、この料理は文句なしね」と、夢中でフォークを動かしていた。
食事を終えると、ガロの表情が少しだけ引き締まった。
「明日の朝、お前さんたちに見せたい場所がある。今の俺たちが、そしてこの世界が直面している『現実』ってやつをな。……今夜はもう休み。シーツは清潔なのを敷いておいた」
案内された寝所には、麻で編まれた肌触りの良いシーツが用意されていた。ベルはよほど疲れていたのか、横になるなりすぐに穏やかな寝息を立て始めた。
私は一人、コテージの窓から夜空を見上げた。
遮るもののない荒野の空は、ロットの町で見るよりもずっと透き通り、今にも降り注いでくるのではないかと思うほど無数の星々が瞬いている。
(ガロが見せたいもの……それは、私が恐れている『侵略』の足跡なのだろうか)
ユニコーンの癒やしに包まれたこの穏やかな集落の裏側に、どんな闇が隠されているのか。窓から差し込む冷たくも美しい月光に照らされながら、私は深い思考の海へと沈み、やがて重い微睡みの中へと落ちていった。
朝の冷気がコテージの隙間から入り込み、私は鳥のさえずりと共に目を覚ました。赤いリボンを結び直し、白いマントを羽織って外に出ると、そこには朝靄の中でユニコーンの細い首を撫でるガロの姿があった。
「おはよう、ガロ。早い標高ね」
「おう、こいつらはデリケートでな。腹が減るとすぐに機嫌を損ねやがる」
ガロが差し出している餌の器を見て、私は思わず足を止めた。それは、この質素な集落には似つかわしくない、不思議な存在感を放っていた。細長い脚のついたワイングラスのような形状をしているが、素材は銀でもガラスでもない。乳白色に輝くその器は、朝日を浴びて神々しいほどの光を放っている。
「……綺麗な器。これもケンタウロスの伝統工芸なの?」
「さあな。俺たちがずっと昔から受け継いできたもんだ。これ以外じゃ、ユニコーンは満足に食いやしねえ」
私がその器の意匠に見入っていると、背後のコテージから「ううぅ……」という、この世の終わりを告げるようなうめき声が聞こえてきた。振り返ると、そこにはひどい隈を作ったベルが、よろよろと足を引きずりながら現れた。
「ベル? 凄い顔よ、眠れなかったの?」
「……最悪。最悪の夢を見たわ。あのリーゼント馬男が、鼻息を荒くして……『俺の愛を受け取れぇ!』って叫びながら、わたくしを押し倒して……ひぃっ!」
ベルは自分の肩を抱いてガタガタと震え出した。どうやら、ガロの屈強な体に組み敷かれるという、あまりにも生々しい悪夢にうなされていたらしい。昨日、路地裏で本物の暴走ケンタウロスたちに囲まれ、その剥き出しの本能を突きつけられた私としては、ベルの恐怖が単なる夢の話とは思えず、胸が痛んだ。
「……ドンマイ、ベル。夢で本当によかったわね」
私が複雑な心境で同情を寄せると、当のガロは
「おい、誰が鼻息を荒くして押し倒すって? 勘弁してくれよ」
と、心底困惑した様子でリーゼントを掻いていた。
「さて、準備がいいなら行くぜ。……こっからは馬車じゃ無理だ。徒歩で行く」
「馬車じゃ無理? 地形が険しいの?」
私が問いかけると、ガロは表情を険しくさせ、ただ一言「危険だからだ」とだけ答えた。それ以上の説明を拒むような彼の背中に、私は言い知れぬ不安を覚えた。
私たちはガロの案内に従い、集落を離れて北へと歩き出した。大剣の重みが背中に心地よい緊張感を与えてくれる。しばらく歩くと、私たちの眼前には、地平線の彼方まで続く広大な草原が広がった。
「わあ……綺麗……」
ベルが思わず溜め息を漏らす。風が吹くたびに、背の高い草たちが波のようにうねり、緑の海を作っている。どこまでも平和で、美しい景色。
(……でも、どうしてここが『危険』なの?)
周囲を見渡しても、崖があるわけでも、猛獣が潜めそうな深い森があるわけでもない。遮るもののないこの草原で、馬車が通れないほどの危険とは一体何なのか。ガロは口を閉ざしたまま、ただ黙々と、草をかき分けて進んでいく。
平和な緑の絨毯の下に、何か底知れない闇が潜んでいるのではないか。
私はマントを握りしめ、時折、風に揺れる草の音に耳を澄ませた。ガロが私たちに見せたい「現実」は、この美しい草原の、すぐ足元まで迫っているような気がしてならなかった。
一面に広がる美しい緑の草原。その穏やかな風景が、ある一線を越えた瞬間に凍りついた。
「……っ、これは」
足元に広がる、無数の白い塊。風に晒され、砂に埋もれかけたそれは、明らかに自然の石ではなかった。細長い四肢の骨、ひび割れた頭蓋骨。人間のものによく似た骨と、馬の骨格が、不自然な形で混ざり合い、散乱している。
ガロが足を止め、静かにそのうちの一つを拾い上げた。
「ここはかつて、俺たちの真の故郷があった場所だ」
ガロの声は、風にかき消されそうなほど低かった。彼は自由な方の手で、遠く北の方角に見える険しい山地を指さした。雲を突くようなその山々の頂付近に、黒い点のようなものがいくつも舞っているのが見える。
「……鳥かしら? 随分と大きいけれど」
ベルが目を細めて呟くと、ガロは首を振った。
「いいや。あれは鳥じゃねえ。……『飛竜』だ。ドラゴンの一種さ」
その言葉に、私の背筋を冷たいものが走り抜けた。飛竜――。物語の中の怪物だと思っていた存在が、今、あの山の上を支配している。
「あの山地こそが、お前さんたちが目指している『アルバ峠』だ。かつてこの草原で平和に暮らしていた俺たちの部族は、ある日突然、あの峠から舞い降りてきたドラゴンの群れに襲われた。この骨の山は、逃げ遅れた俺たちの仲間や家族の成れの果てだ」
ガロの手の中で、骨が乾いた音を立てて砕けた。
話はそれだけで終わらなかった。ドラゴンに蹂躙され、南へと逃げ延びたケンタウロスたちを待ち受けていたのは、さらなる地獄だった。逃げた先には、元々その土地で遊牧生活を送っていた人間の部族がいたのだ。
「生きる場所を失った俺たちと、突然現れた異形に怯えた人間。……縄張り争いが始まるのに、時間はかからなかった。どちらも必死だったが、結局、互いの血で大地を染めるだけの結果になっちまった」
そして、悲劇は繰り返された。疲弊したケンタウロスと人間が争っている最中、獲物の匂いを嗅ぎつけたドラゴンが、再びアルバ峠から来襲したのだという。種族の壁を超えて、多くの命が等しく炎に焼かれ、牙に裂かれた。
「生き残ったわずかな俺たちと人間は、その時ようやく悟ったのさ。争っている場合じゃねえってな。一時的な停戦を結び、ドラゴンの牙が届かない南の海辺まで、死に物狂いで逃げ延びた。……そこで共に築いた町が、今の『ロット』だ」
私は言葉を失った。医学の町ロット。あの平和な白亜の街並みの礎には、人間とケンタウロスの、血を吐くような共闘と犠牲の歴史があったのだ。
「町が形を成すと、人間たちは定住を選び、遊牧生活を捨てた。だが、俺たちの多くは、馬の誇りと広大な大地を捨てきれなかった。……結局、俺たちは町を出て、このアルバ峠を望む危険な草原に戻ってきた。それが、今の『ゴダイ』の集落だ」
ガロの視線は、再びあの飛竜が舞う山地へと向けられた。
「今、アルバ峠で何かが起きている。ドラゴンの動きが、あの時以上に活発になってやがるんだ。……お前さんたちにこれを見せたのは、これから向かおうとしている場所が、単なる伝説の地じゃねえってことを分かってほしかったからだ」
足元に転がる同族たちの遺骨。美しく揺れる草原の下に隠された、凄惨な過去。
私は自分の大剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。ロットの町で過ごすエリー、そして隣で唇を噛み締めているベル。
ガロの話した「現実」は、今の私にはあまりにも重く、鋭く突き刺さっていた。
「逃げるぞ! しっかり捕まってろ!」
ガロの叫び声が響くのと同時だった。アルバ峠の重苦しい影から、一条の鋭い「何か」が猛スピードでこちらへ向かってくる。それは最初は羽虫のような点に過ぎなかったけれど、瞬く間に風を切り裂く巨大な異形へと姿を変えた。
ガロは迷うことなく私とベルをその強靭な背に放り込み、草原を蹴り上げた。
(信じられない……。まだあんなに距離があったはずなのに!)
私は、故郷の図書館の片隅で埃を被っていた『竜族生態図鑑』の記述を必死に思い出していた。そこには、多くのドラゴンが数キロ先の獲物の鼓動を聞き取り、空高くから地上の蟻の動きさえ捉える「桁違いの感覚」を持っていると書かれていた。けれど、現実は文字以上の恐怖だ。私たちの存在を、まるで最初から知っていたかのように迷いなく狙い定めてくる。
「ちょっと、あれ何なのよ!? 速すぎるわよ!」
ベルが私の腰にしがみつきながら悲鳴を上げる。全速力で駆けるガロの蹄の音をかき消すように、背後から巨大な羽ばたきが空気を震わせた。
振り返ると、そこにいたのは、燃えるような紅蓮の鱗に包まれた『飛竜――ワイバーン』だった。
図鑑の記憶が警鐘を鳴らす。ワイバーンはドラゴンの中でも特に気性が荒く、極めて攻撃的だ。そして、中には体内の魔力器官を暴走させ、口から高熱の「熱線」を吐き出す個体も存在する。
「伏せて!!」
私が叫んだ直後、視界が真っ白な閃光に包まれた。
ワイバーンの顎が大きく割れ、そこから放たれた白熱の光線が、空気を焼き焦がしながらガロの足元へ着弾した。
「ぐあああああッ!!」
凄まじい衝撃。ガロの強靭な後ろ脚が熱線に焼かれ、砂煙と共に彼の巨体が前のめりに崩れ落ちた。私とベルは放り出され、固い地面を数メートルも転がった。
「っ……痛い……」
マントが泥に汚れ、腕に鋭い痛みが走る。幸い、私とベルは草むらがクッションになり、かすり傷で済んだ。けれど、すぐ傍に倒れたガロは違った。
「く……そ……っ、脚が……」
誇り高きケンタウロスの戦士が、苦痛に顔を歪め、地面を掻き毟りながらうめき声を上げている。熱線を受けた後ろ脚の甲冑は無惨にひしゃげ、火傷の酷さが遠目にも分かった。立ち上がろうとするものの、自重を支えることすらままならない。
「ガロ!!」
駆け寄ろうとした私の頭上を、巨大な影が覆った。
獲物を仕留めたと確信したワイバーンが、悠然と旋回し、今度は地上に這いつくばる私とベルを「食事」として認識したようだ。
ギチギチと音を立てて開かれる、牙の並んだ巨大な口。その奥に、再び禍々しい熱線の光が凝縮され始める。
私は震える手で、背中にある大剣の柄を握りしめた。
(守らなきゃ……エリーだけじゃない、ベルも、ガロも!)
絶望的な体格差。けれど、ここで退けば、私たちはあの白い骨の山の一部になるだけだ。私は涙を拭い、逃げ出したい足を無理やり地面に踏み込ませて、金髪を振り乱しながらワイバーンの正面に立ちはだかった。
ワイバーンが大きく顎を開き、その喉奥に再び禍々しい白熱が収束していく。私は大剣を構え、死を覚悟して奥歯を噛みしめた。
その絶望的な静寂を切り裂いたのは、鋭く凛とした声だった。
「……急場凌ぎの剣で、竜の息吹は防げぬ」
私たちの目の前に、まるで陽炎のように一人の女性が立ちはだかった。
艶やかな黒髪のセミロングをなびかせ、肩を大胆に露出した異国の装束。ミニスカートのように短い袴から伸びる白い脚。それは、私たちが追っていた謎の巫女、フジだった。
彼女は迷いのない手つきで数枚の霊符を取り出すと、真剣な眼差しで空の覇者を見据えた。
「グゥオオォォ!!」
ワイバーンが咆哮し、凝縮された熱線をフジめがけて放った。大地をも焼き払う光の奔流。けれど、フジは動じない。彼女が指を複雑に交差させると、彼女の周囲に薄紫色の六角形の紋様――防御結界が展開された。
ジジジ……と空気が焦げる音が響く。しかし、山をも穿つはずの熱線は、その美しい結界に阻まれ、霧散していく。
「完璧だわ……」
背後でベルが息を呑むのが分かった。
「次は、こちらの番だ」
フジが言霊を紡ぐと、結界の表面から無数の鋭い光の弾が生成された。それは意思を持つ矢のように、一斉にワイバーンへと降り注ぐ。
「ギャアッ!」
強固な鱗を貫く光の雨にワイバーンが怯んだ隙を、フジは見逃さなかった。
彼女が両手を天に掲げると、空気が震えるほどの神通力が一点に集う。
「退け、穢れし翼!」
フジが解き放った巨大な光の衝撃波がワイバーンの胸元を直撃した。衝撃で大気が爆ぜ、草原の草が激しくなぎ倒される。
致命的な打撃を受けたワイバーンは、断末魔のような叫びを上げながら、苦し紛れにその場から逃げ出そうとした。だが、その翼はフジの術によって無惨にただれ、力強く羽ばたくことができない。数メートルほど不格好に浮き上がったものの、やがてバランスを崩し、少し離れた草原の向こう側へと重々しく墜落した。
一帯に静寂が戻る。フジは乱れた髪を整えることもなく、冷徹な瞳を私たちに向けた。
「忠告しておく。お前たちのような未熟者が、今の竜を倒すことなど不可能だ。命を捨てに来たのでなければ、これ以上は踏み込むな」
「待って、フジ! どうしてあなたがここに――」
私が声をかけたが、彼女はそれに応えることはなかった。翻した短い袴がふわりと舞ったかと思うと、彼女の姿は霧に溶けるように、草原の向こうへと消えていった。
「待って! 行かないで!」
私は慌てて彼女が消えた方へ駆け寄った。けれど、そこには風に揺れる草があるだけで、足跡一つ残っていない。
「……何なのよ、あの高飛車な巫女。こっちがどれだけ苦労したと思ってるの!」
ベルが悔しそうに叫んだが、その声も虚しく響くだけだった。
胸の中に、言いようのないわだかまりが広がる。助けられたことへの感謝と、何もできなかった自分たちへの不甲斐なさ。そして、フジが漂わせていたあの不穏な気配。
「……アリア、今はガロを助けなきゃ」
ベルの言葉に我に返り、私はうめき声を上げているガロに歩み寄った。後ろ脚を酷く焼かれたガロを、私たちは肩を貸すようにして支えた。誇り高きケンタウロスの戦士が、痛みに耐えながら地面を這うように歩く姿を見て、私の心はさらに重く沈んだ。
私たちは夕暮れに染まり始めた草原を、重い足取りでゴダイの集落へと引き返した。遠くに見えるアルバ峠の峰々は、まるで私たちの無力を嘲笑うかのように、一段と高く、険しくそびえ立っていた。
草原を吹き抜ける風が、急速に冷たさを帯びてきた。
肩を貸しているガロの呼吸は浅く、時折漏れるうめき声は、一歩進むごとに激しさを増していく。
(……そうだ、ケンタウロスの急所は、人間でいう心臓と同じくらい「足」にあるんだわ)
幼い頃に読んだ古い神話の記述が、不吉な記憶として蘇る。ある賢明なケンタウロスの賢者でさえ、偶然足に刺さった毒矢が原因で、その命を落としたという。ましてや今のガロは、ドラゴンの放った凶悪な熱線で、その後ろ脚を無残に焼かれているのだ。
「ベル、お願い! 集落まで走って、助けを呼んできて!」
「わかったわ! アリア、ガロを頼んだわよ!」
ベルは黒髪のショートをなびかせ、弾かれたように草原の先へと消えていった。
集落まではまだかなりの距離がある。日が完全に落ちれば、この草原は再びドラゴンの、あるいは夜を好む魔物の狩場になる。私は周囲を見渡し、ちょうど良い大きさに枝を広げた一本の木を見つけると、力尽きそうなガロをその木陰へと誘導した。
ガロの額からは、滝のような汗が噴き出している。
私は自分の白いマントを迷わず引き裂き、震える手で彼の手当てを始めた。熱線で焼かれた皮膚は赤黒く腫れ、甲冑の破片が肉に食い込んでいる。
「痛むだろうけど……我慢して、ガロ」
「……はぁ、はぁ……嬢ちゃん……すまねえ……」
必死に傷口を清め、布を巻く私の顔を、ガロは虚ろな瞳で見つめていた。その瞳が、不意に私とは別の誰かを追うように、遠くを彷徨う。
「……似てやがる……。お節介で、危なっかしくて……好奇心の塊みてえな、お前さんのその顔……」
ガロが苦しげに漏らした名は「ミツキ」といった。
彼女はガロの恋人だったのだという。平和だった頃の草原で、いつもガロの隣を、アリアのように活発に駆け回っていた女性。
「さっきの場所はな……ミツキが、俺の目の前で……ドラゴンに焼かれた場所なんだよ……。あいつ、最後まで俺の名前を呼んで……俺は、ただ見てることしか……っ」
ガロの大きな掌が、地面の草を根こそぎ引き抜くほど強く握りしめられた。
彼が私たちをあそこへ案内したのは、現実を見せるためだけではなかったのだ。愛する人を失った悲劇の場所で、彼は自分の中の消えない罪悪感と対峙し続けていた。
「なのに俺は……お前さんたちを守るどころか……逆に守られちまって……。情けねえ……ミツキに、合わせる顔がねえよ……」
誇り高き戦士の目から、大粒の涙が溢れ出し、砂に染み込んでいく。
私は彼の手を、血と泥に汚れた自分の手で、力強く握りしめた。
「そんなこと言わないで、ガロ。あなたはちゃんと戦っていたわ」
私は彼の顔を覗き込み、精一杯の言葉を紡いだ。
「ワイバーンが現れたとき、あなたは真っ先に私たちを背中に乗せて、自分の命を懸けて走ってくれた。足に大怪我を負ってまで、アリアとベルを守ろうとしてくれたじゃない。……それは、ミツキさんが一番望んでいたことなんじゃないかな」
ガロが、弾かれたように私を見た。
「きっと、彼女は喜んでいるはずよ。あなたが自分と同じ悲劇を繰り返させなかったこと。誰かを守り抜こうとしたこと。……あなたは、弱虫なんかじゃない。最高の戦士だわ」
木漏れ日が、泣き濡れたガロの顔を優しく照らした。
ガロはしばらくの間、呆然と私を見つめていたが、やがて憑き物が落ちたように、深く、長い溜息をついた。
「……ははっ。本当にお節介な嬢ちゃんだ……」
その顔には、先ほどまでの絶望ではなく、凪いだ海のような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
遠くから、松明の光が近づいてくるのが見える。ベルが助けを連れて戻ってきたのだ。私は夜空に透き通る星々を見上げながら、ガロの手を離さず、固い絆が結ばれたことを静かに確信していた。
松明の炎が夜風に揺れる中、私たちはほうほうの体でゴダイの集落へと辿り着いた。けれど、そこは安息の地ではなかった。
ガロの傷口は、集落の治療師たちが顔を曇らせるほどに悪化していた。熱線による火傷は筋肉の奥深くまで達し、どす黒く変色した患部からは、嫌な熱気が立ち上っている。
「ここでは手に負えねえ……。ロットの専門医に診せるしかねえ!」
仲間のケンタウロスたちが声を荒らげ、私たちは再び、ガロを乗せた大型の馬車でロットの町へと急いだ。
真夜中のロットは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夜更けまで賑わうはずの酒場すら扉を閉ざし、石畳に響くのは馬車の車輪の音だけ。私たちはガロの巨体を運び入れるため、ケンタウロス族の治療に長けたコロッセウム近くの病院へと駆け込んだ。
「……ひどいな。これは想像以上だ」
当直の医師が、ガロの脚を覆う布を剥いだ瞬間、病室に緊張が走った。
ガロの強靭な脚は、すでに壊死が始まっていたのだ。細胞が死に絶え、生命の脈動が途絶えかけている。
「毒素が回っている……。ここまで深刻だと、どんな腕利きの外科医でも、失われた肉を呼び戻すことはできない。最悪、脚を切り落とさなければ命に関わる」
「そんな……! ガロから足を奪うなんて、そんなの残酷すぎるわ!」
ベルが叫び、私も絶望に目の前が暗くなった。ケンタウロスにとって、足は誇りそのもの。それを失うことは、彼にとって死にも等しい宣告だった。
その時、病室の重い扉が静かに開いた。
「……その嘆き、天に届けましょう。まだ、諦める必要はありませんわ」
凛とした、けれど慈愛に満ちた声が響いた。
振り返ると、そこには白を基調とした清浄なローブを纏い、深い青のベールを被った女性が立っていた。胸元に揺れる銀の十字架が、ランプの光を反射して神聖に輝く。
「ダリアさん!?」
私は思わず声を上げた。エリーの姉であり、高名な修道女であるダリア。なぜ彼女がここに……という疑問を投げかけるよりも早く、彼女は私とベルに優しく微笑みかけ、すぐに苦悶の表情を浮かべるガロの傍らへと歩み寄った。
「アリアさん、ベルさん。再会を喜ぶのは後回しにしましょう。今は、この方の魂を繋ぎ止めるのが先決です」
ダリアは躊躇うことなく、見るも無惨に壊死したガロの患部に、白く細い手をそっと添えた。そして、静かに目を閉じ、祈りを捧げ始める。
「大いなる慈悲よ、この傷を癒し、失われし命の灯火を再び灯したまえ……」
彼女の掌から、淡く温かみのある金色の光が漏れ出した。その光は、まるでガロの痛みを吸い取るかのように優しく広がり、驚くべきことに、どす黒く変色していた肉が、瑞々しい赤色を取り戻し始めた。死の淵にあった細胞が、ダリアの祈りという奇跡によって、再び息を吹き返していく。
「……っ……ああ……」
ガロの荒い呼吸が次第に落ち着き、苦痛に歪んでいた顔が安らかなものへと変わっていった。
「……ふう。一番危険な状態は脱しましたわ」
数分後、額にうっすらと汗を浮かべたダリアが手を離した。壊死は止まり、傷口は塞がっていたが、彼女の表情はまだ厳しかった。
「ですが、ドラゴンの熱線は肉体だけでなく霊的な活力まで奪っています。組織が完全に元通りになり、以前のように大地を駆けられるようになるまでには……少なくとも半年以上はかかるでしょう」
「半年……」
ベルが呟いた。冒険者にとって半年は長い。けれど、医師が「不可能」と断じた絶望からすれば、それはあまりにも明るい希望だった。
「よかった……本当に、よかった……」
私はガロの安らかな寝顔を見つめながら、膝の力が抜けるのを感じた。命が助かった。それだけで今は十分だった。窓の外では、夜明け前の深い闇が、少しずつ白み始めていた。私たちはダリアの深い慈愛に感謝しながら、ようやく長く苦しい夜が終わったことを実感し、安堵の溜息を漏らすのだった。
翌朝の太陽は、昨夜の緊迫した空気など知らぬげに、窓から明るい光を病室に投げ入れていた。
「ふわあ……。結局、一睡もできなかったわね」
ベルが大きく欠伸をしながら、丸まった髪を整えている。私も同じく、瞼の裏に残るワイバーンの熱線と、ガロの脚を救ったダリアさんの奇跡的な光を思い出し、重い体を引きずるようにしてエリーの病室のドアを開けた。
「あら、アリア、ベルさん。おはようございます」
病室にはすでにダリアさんの姿があった。彼女は聖職者らしく、一晩中ガロの看病をしていたはずなのに、その立ち姿は凛としていて疲れを感じさせない。ベッドの上では、エリーが分厚い魔導書を膝に置き、丸い眼鏡の奥の瞳を和ませていた。
「遅いですわよ、二人とも。わたくしの看病を忘れて、どこかで道草でも食っていたのかしら?」
「エリー! 憎まれ口が叩けるなら、もう大丈夫そうね」
私が安堵して駆け寄ると、栗色のセミロングを揺らして、エリーは「失礼ね」と笑った。それからは、ダリアさんを交えた賑やかな時間が流れた。普段は厳しい表情が多いエリーも、実の姉であるダリアさんの前では少し甘えるような素振りを見せ、久々の姉妹の語らいに病室は明るい笑い声に包まれた。時折、コンコンと乾いた咳を漏らすことはあったけれど、その表情にあの時の絶望的な苦痛はない。
そこへ、足音と共に主治医が入室してきた。
「経過は極めて良好だ。肺の影も消えかけている。この分なら、あと数日もすれば退院の許可を出せるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、私とベルは手を取り合って喜んだ。
「よかった! これでまた一緒に旅に出られるわね!」
私が弾んだ声でそう言った時、ダリアさんが静かに、けれど強い意志を感じさせる声で口を開いた。
「……エリー。退院したら、一緒に故郷へ帰りましょう」
病室の空気が、一瞬で凍りついた。
エリーの笑顔がスッと消え、抱えていた魔導書を握る手に力が入る。
「……何を、言っているのですの、お姉様」
「あなたは今回、死にかけたのですよ。冒険はもう十分でしょう? あなたの体は、私たちが思っている以上に繊細なのです。これ以上、異国の地で体を壊すようなことがあっては、亡くなったご両親に顔向けできません。故郷で静かに、療養を兼ねて勉学に励みなさい」
ダリアさんの言葉は、姉としての深い愛情からくるものだと分かった。けれど、それは同時に、エリーがようやく見つけた「居場所」を否定するものでもあった。
「嫌ですわ……。わたくしは、帰りません!」
「エリー、我儘を言わないで。今度また同じようなことがあったら、アリアさんたちだって困るでしょう?」
「困りませんわ! アリアには『勝者権限』で命令してありますもの。わたくしを守る義務があるのです! ベルだって……ベルだって、わたくしがいなきゃ、ゴキブリ一匹倒せない臆病者なんですもの!」
エリーの声が震えだした。彼女の大きな三角帽子の端が、小刻みに揺れている。
彼女は、ダリアさんの正論を拒むように、布団を強く握りしめた。
「わたくしは……アリアとベルと、冒険を続けたいのです……。やっと、わたくしを必要としてくれる仲間を見つけたのに……帰りたくなんて……っ」
ついにエリーの目から大粒の涙が溢れ出した。彼女は丸い眼鏡を外す余裕もないまま、シーツに顔を伏せて泣き崩れてしまった。ひっく、という子供のような泣き声が病室に響き渡る。
ダリアさんは困惑したように立ち尽くし、妹の背中に手を伸ばしかけて、止めた。
「ダリアさん……」
私はベルと顔を見合わせ、無言で頷いた。今は、姉妹でぶつかり合っても平行線のままだ。
私は泣き続けるエリーの肩を一度だけ優しく叩き、戸惑うダリアさんの腕をそっと取った。
「ダリアさん、少し……場所を変えましょう。私たちと、お話しさせてください」
私たちは困惑する彼女を促し、静かに病室の扉を閉めた。廊下に出ても、中からはまだ、エリーの悲痛な泣き声が漏れ聞こえていた。
《ここからはダリア目線で物語が進みます》
私は、アリアさんとベルさんに促されるまま、無機質な病院の控室へと足を踏み入れました。扉の向こうから聞こえる妹の泣き声が、私の心に冷たい棘のように突き刺さります。
「……あの子がああまで頑固になるなんて、初めてのことですわ」
私は二人の正面に座り、胸元の十字架を握り締めました。アリアさんとベルさんの瞳には、エリーへの深い友情と、私に対する戸惑いが混ざり合っていました。私は少しだけ視線を落とし、今のあの子の姿からは想像もつかない、古い記憶の糸を解き始めました。
「エリーは、生まれた時から本当に体が弱い子でしたの。季節が巡るたびに重い熱を出し、一年の半分以上をベッドの上で過ごすような子供時代でしたわ」
外で駆け回る子供たちの笑い声が聞こえる中、エリーはいつも、白いはだけたブラウスに包まれた小さな体で、窓の外を寂しげに見つめていました。私はあの子が孤独に押し潰されないよう、修道女としての修行の合間を縫っては、ずっと側で話し相手をしていました。
転機は、何気ない午後のことでした。
私が隣で読んでいた分厚い聖典に、あの子が興味を示したのです。
「お姉様、そこに何が書いてあるの?」
その一言から始まりました。エリーは私が答える一つ一つの言葉を、乾いた砂が水を吸い込むように、恐ろしい速度で理解していきました。難解な神聖語や複雑な教義の構造を、たった数日の対話で把握し、ついには私が数年かけて学んだ聖典を全て読破してしまったのです。
「驚きましたわ。あの子には、外を駆け回るための脚力の代わりに、真理を見通すための類い稀なる知性が与えられていたのです」
それからの私は、あの子のために教会や街の図書館から、ありとあらゆる本を借りてくるようになりました。歴史、哲学、薬草学……。エリーは一度読んだ本の内容を、一言一句たりとも忘れることはありませんでした。あの子の栗色の髪が本に埋もれるようにして、没頭する姿を見るのが、私の唯一の喜びでした。
そして、あの子の十歳の誕生日。
私は貯めていたわずかな金貨をすべて使い、あの子に「初歩の魔導理論」という入門用の魔導書を買い与えました。入門用とは名ばかりの、大人でも投げ出すような難解な書物でしたが、エリーは一晩中丸い眼鏡を光らせて読み耽り、翌朝には指先から小さな、けれど確かな光の魔法を生み出してみせたのです。
「この子は、もっと広い世界で学ぶべきだわ」
そう信じた私は、無理をしてあの子を有名な魔法学校へと通わせました。ですが、わずか半年後。エリーは突然、学校へ行きたくないと部屋に閉じこもってしまったのです。
「学校で教わることなんて、もう何もありませんわ。あそこにいるより、自宅で独りで研究した方が、よっぽど身のためになりますもの」
生意気な口を利くようになったあの子に、私は最初、失望と怒りを覚えました。けれど、後日学校へ退学の手続きに向かった際、担任の先生から聞かされた話に、私は言葉を失いました。
エリーは入学からたった一ヶ月で、魔法学校の巨大な図書室にある数千冊の本を、すべて読破してしまったというのです。
「あの子は、自分一人で未知の真理へと辿り着く道を選んだのです。それからは、自宅の部屋で独自の研究を進め、その成果を誇らしげに私に話してくれるようになりました。あの分厚い魔導書も、あの子が自分で書き綴った研究の記録なのですわ」
私はそこまで話して、一度言葉を切りました。窓から差し込む夕刻の光が、私の青いベールを縁取ります。
「あの子にとって、知識は盾であり、魔法は羽でした。けれど……それらはすべて、狭い部屋の中でのこと。外の世界には、本には書いていない恐ろしい病も、あのような凶悪な竜もいるのです。お二人なら、私の不安を分かってくださるでしょう?」
私は、アリアさんとベルさんの顔を真っ直ぐに見つめました。エリーがどれほど特別で、どれほど脆い存在であるか。それを一番知っている自負があるからこそ、私はあの子を、再びあの静かな、けれど安全な部屋へと連れ戻したいと願わずにはいられないのです。
《ここからはアリア目線で物語が進みます》
ダリアさんの静かな語りが終わり、控室には重い沈黙が流れた。エリーがどれほど大切に、そして壊れ物を扱うように育てられてきたか……。姉としての切実な祈りに似た愛情は、私の胸に痛いほど響いた。
けれど、それでも私は、自分の思いを伝えずにはいられなかった。
「……ダリアさん。エリーがどれだけ大切にされてきたか、今の話でよくわかったわ。でも、私からも話させてほしいの」
私は腰に下げた大剣の鞘にそっと手を触れた。その冷たい感触が、私が歩んできた道と、この旅に懸ける決意を思い出させてくれる。
「私もね、エリーとは形が違うかもしれないけれど、どうしても自分の目で確かめたい『真実』があってこの旅に出たの。私の故郷では、子供の頃から大人たちに聞かされてきた古い伝承があったわ。アルバ峠に眠るという『水晶玉』の物語……」
私はかつての自分を思い出していた。暖炉の側でお伽話を聞いていた頃、そして成長するにつれ、その物語の裏側に隠された真実を知りたいと渇望するようになった日々を。
「物心ついてから、私は地元の図書館に通い詰めて、あらゆる古い資料を引っ張り出して調べたわ。でも、そこに書いてあったのは、どこか説得力に欠ける、ありふれた伝承の焼き直しばかり。本を読めば読むほど、私の心は満たされなかった。文字の中には答えがない……真実は、あの険しい峠の向こうにしかないんだって、確信したの」
私はダリアさんの目を真っ直ぐに見つめた。
「それから私は、がむしゃらに剣術を学んで、旅に必要な知識を詰め込んだ。準備をしている時は、自分が無敵になったような気がしていたわ。でも、実際に外の世界へ飛び出してみれば、ダリアさんが心配する通り、そこは想像を絶する危ないことの連続だった」
私はこれまでの旅の断片を、一つずつ思い返しながら話した。
「ブロの町では呪いで体が石に変わって、冷たい絶望を味わったわ。あの巫女のフジと戦った時は、手も足も出ずに重傷を負わされたし……それに、巨大蜘蛛の巣に捕まった時は、本当にこのまま食べられて終わるんだって、死ぬほど怖かった。それはエリーだけじゃなくて、私にとっても、ベルにとっても、いつも隣り合わせにある危機なのよ」
私の言葉に、ダリアさんの眉が微かに動いた。
「でも、そんな絶望の中でも、エリーは一度も折れなかった。あの子は確かに生意気で、口を開けば嫌味ばかり。勝者権限なんて言って私を困らせることもあるけれど、魔法の実力だけは本物よ。あの子の知識と勇気がなければ、私たちはとっくにどこかの道端で野垂れ死んでいたと思うわ」
私は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「エリーはもう、図書室の椅子に座っているだけの小さな女の子じゃないわ。自分の意志で、自分の魔法で、運命を切り拓こうとしている一人の立派な魔導士よ。あの子の人生は、あの子自身のもの。……ダリアさん。あの子が納得して、気が済むまで、この旅を続けさせてあげてくれないかな?」
私の精一杯の説得に、ダリアさんは長く、深い溜息をついた。その瞳からは、先ほどまでの頑なな拒絶が消えて、代わりにエリーの成長を認めるような、穏やかで納得した色が宿っていた。
「……アリアさん。あなたたちのような強い絆で結ばれた仲間に恵まれたこと、それこそがあの子にとって、どんな魔法よりも得難い収穫だったのかもしれませんわね」
ダリアさんはそう言って微笑んだけれど、その笑顔はどこか寂しそうで、遠くへ羽ばたこうとする小鳥を見送る親鳥のような、切なさに満ちていた。彼女の心の中にあった「守るべき妹」という形が、少しずつ、新しいエリーの姿に書き換えられていくのがわかった。
数日後。雲一つない青空が広がる朝、エリーはついにロットの病院を退院した。
病院の重い石造りの扉の前で、エリーとダリアさんは、いつまでも名残惜しそうに言葉を交わしていた。いえ、正確にはダリアさんが、あの子の身を案じるあまり、過保護なほどにあれこれと世話を焼いていた、と言うほうが正しいかもしれない。
「エリー、この薬草茶は毎晩飲むのですよ。冷えは万病の元ですから、ベールも予備を多めに……。それから、無理だと思ったらすぐに教会へ助けを求めなさい。いいですね?」
ダリアさんはエリーの肩を抱き寄せ、何度も何度も、赤いチェック柄のマントの歪みを直したり、三角帽子の位置を調整したりしている。その様子は、まるで初めての旅に出る幼い子供を送り出す母親のようだった。
「お姉様、もう大丈夫ですわ。わたくしは子供ではありませんもの」
エリーは丸い眼鏡を指で押し上げながら、少し呆れたような溜息を漏らした。けれど、その口調にはダリアさんの深い愛情を理解している優しさが滲んでいて、一生懸命に彼女を安心させようと努めているのがわかった。
「……心配しすぎですわ。わたくしの隣には、一応は剣が使えるアリアと、逃げ足だけは一級品のベルがついているんですもの」
そう言って、エリーはひょいと顔を上げると、少し離れたところで様子を伺っていた私に気付いて、「こっちへ来なさい」と手招きをした。
私が近寄ると、エリーはニヤリといたずらっぽく笑い、分厚い魔導書を抱え直して宣言した。
「アリア、忘れていないでしょうね? 勝者権限としてのわたくしの命令ですわ。――お姉様をこれ以上不安にさせないよう、完璧な言葉で安心させなさい」
(……もう。結局、私に丸投げなんだから)
私は思わず苦笑いしてしまったけれど、エリーの照れ隠しなのだと思うと、不思議と嫌な気はしなかった。私は姿勢を正し、不安そうに私を見つめるダリアさんの瞳を真っ直ぐに見返した。
「ダリアさん、大丈夫よ。エリーのことは、私の命に代えても守り抜くわ。彼女は私たちの旅に欠かせない、最高の魔導士なんだから。……だから、安心して任せて」
私の言葉に、ダリアさんは一瞬驚いたように目を見開いた。けれど、すぐに聖職者らしい穏やかな微笑を浮かべ、私の手をぎゅっと握りしめてくれた。
「……信じていますわ、アリアさん。わがままな妹ですが、どうかよろしくお願いいたします」
その後、ダリアさんは次の巡礼先へと向かうため、待機していた牧師の方々と共に、何度も振り返りながら静かにその場を後にしていった。彼女の青いベールが雑踏の中に消えていくのを、私たちはしばらく見守っていた。
「さて! 湿っぽいのは終わりですわ。行きましょう、アリア。アルバ峠の水晶玉、わたくしの知的好奇心が限界ですの!」
エリーが元気よく歩き出し、私も大剣を背負い直して一歩を踏み出した。
ふと横を見ると、ベルが険しい顔をして、地面の石ころを見つめたまま考え込んでいた。
「ベル? どうしたの、そんな難しい顔して。まだお酒が抜けてないわけじゃないでしょ?」
私が声をかけると、ベルは「ひゃいっ!?」と変な声を上げて飛び上がった。
「な、なによアリア、急に。……あ、ああ、ダリアさん行っちゃったのね。……そうね、そうそう。さあ、冒険の続き、行こうじゃないの!」
慌てて我に返り、何事もなかったように歩き出すベル。でも、その瞳の奥には、いつもの軽口とは違う、何か言い知れぬ不安や葛藤が揺れているような気がした。
私たちは再び、あの険しくも美しいアルバ峠を目指して。
それぞれの想いを抱えたまま、陽光が降り注ぐ街道へと踏み出していった。




