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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第6話 エリー、倒れる

ハムロの町を出発する前夜。明日からの過酷な旅路に備え、私たちは宿屋の部屋で早めに休息を取ろうとしていた。新しい大剣の感触を確かめ、荷物の最終確認を終えて、ようやく眠りにつこうとしたその時だった。


「――いやああああああああああっ!!」


静まり返った夜の宿に、鼓膜を突き破らんばかりの甲高い悲鳴が響き渡った。

「ベル!? どうしたの!?」

私は飛び起き、隣の部屋で寝ていたはずのベルの元へ裸足で駆け寄った。賊か、あるいはフジの刺客か。剣を構えて飛び込んだ私の目に飛び込んできたのは、予想外の光景だった。


ベルが床に腰を抜かし、涙目でガタガタと震えながら激しく泣きわめいていたのだ。

「ア、アリア……! あ、あそこ、あそこおぉぉ!!」


彼女が震える指先で指し示した先――。

部屋の隅、月明かりが届かない影の中で、黒光りする「それ」が、カサカサと触角を動かしながら、不気味なほどゆっくりとこちらに向かって動いていた。

巨大なゴキブリだった。


「……え、これ?」

「無理! 絶対無理! お願いアリア、殺して! どっかやって! 絶滅させてえぇぇ!!」


ベルはなりふり構わず私に飛びつくと、私の腰に文字通り「しがみついて」離れなくなった。

「ちょっとベル、重いわよ! 離してくれないと退治できないでしょ!」

「嫌! 離れたらあいつが飛んでくる! 私の心臓が止まっちゃうわ!」


彼女のあまりの怪力としがみつき方のせいで、私は身動きが取れず、スリッパを振りかざしても空を切るばかり。そうこうしているうちに、黒い影はどんどんこちらへ歩み寄ってくる。


「何事ですの!? 敵襲!? それとも爆発!? ……って、何ですの、この光景は」


騒ぎを聞きつけたエリーが、寝ぼけ眼で部屋に飛び込んできた。抱き合う(というか、片方が泣き喚いて固着している)私たちと、床を這う小さな虫を交互に見て、彼女は深い溜め息をついた。


「もう……。文系脳が二人集まって、そんな小さな不快害虫一匹に手こずっているなんて、見ていられませんわ。『スノー・フラクション』!」


エリーが指先をパチンと鳴らすと、極小の氷の粒が放たれ、ゴキブリを一瞬で真っ白に凍りつかせた。

沈黙が訪れた。


「……はぁ。……死んだ? 本当に死んだの……?」

ベルは私の腰にしがみついたまま、ようやく呼吸を整えた。

「白状するわよ! 私は虫が大嫌いなの! 特にあの、予測不能な動きをする黒い悪魔だけは、この世のどんな魔王より恐ろしいんだから!」


「へぇ、意外な弱点ですわね。あの暴走した牡牛を翻弄した闘牛士様が、こんな氷漬けの標本一匹に腰を抜かすなんて」


エリーが不敵な笑みを浮かべ、あろうことか、氷漬けになったゴキブリを紙に包んで、ベルの顔のすぐ近くまで差し出した。


「嫌あああぁ! 近づけないで! エリー、あんた悪魔よ!」


ベルは再び泣き叫び、私の背後に隠れて震えだした。

「ちょっとエリー、やめなさいよ! ベルが本当に可哀想じゃない」

私がたしなめようとしたが、エリーは「あら、決闘の敗者さんは黙っていてくださる?」と、例の命令権を盾にするような視線を向けてくる。決闘で負けた弱みがある私には、それ以上強く言えなかった。


「ふふん、これくらいで泣くなんて。……おや? ベル、大変ですわ。あなたの足元の影に、もう一匹、もっと大きいのが這っていますわよ?」


「えっ……?」


ベルの顔から、さっと血の気が引いた。彼女はゆっくりと自分の足元を見た。もちろん、そこには何もない。エリーの悪質な嘘だ。


「……あ……う……」


ベルは、蚊の鳴くような、あまりにもか弱い悲鳴を漏らすと、そのまま白目を剥いて、私の腕の中にぐったりと倒れ込んだ。


「あ、ベル! 起きて! エリーの嘘よ、ただの嘘なんだから!」

「あははは! 傑作ですわ! 冒険者ギルドのホープが嘘一言で気絶するなんて、明日の日記に事細かく記しておかなくては!」


気絶した親友を抱えながら、私は高笑いするエリーを睨みつけた。

明日からの旅路、伝説の巫女や大蛇との戦いも不安だけれど、この自由奔放すぎる魔導士と、虫一匹で戦闘不能になる相棒を連れて、果たして無事にアルバ峠を越えられるのだろうか。

私は深い溜め息をつきながら、気絶して幸せそうな寝顔(?)のベルを、ベッドへと運び上げるのだった。



ハムロの活気ある街並みを背に、私たちは再びアルバ峠を目指して街道へと踏み出した。

朝日が眩しく輝き、本来なら旅立ちにふさわしい爽やかな朝のはずだったが、私たちのパーティの一角は、出発早々にして崩壊していた。


「……もう、無理……。あの部屋、絶対どこかに隙間があったんだわ……。あんな地獄、二度と御免よ……」


隣を歩くベルは、まさに満身創痍といった様子だった。昨夜の失神から一応は目覚めたものの、その目は虚ろで、焦点が合っていない。普段の凛とした面影はどこへやら、亡霊のようにふらふらと足を動かしている。


「ベル、しっかりして。もう町は出たんだから」

「……アリア、私決めたわ。しばらくハムロの宿屋には行きたくない。……っていうか、ゴキブリがいる宿屋に泊まるくらいなら、泥水すすってでも野宿したほうがマシよ。あんな悪魔の巣窟、二度と足を踏み入れないんだから……」


ぶつぶつと呪詛のように呟くベルを見て、私は困ったようにエリーと視線を交わした。だが、そのエリーの口角が意地悪く吊り上がっているのを見て、私は嫌な予感を覚えた。


「あら、ベル。野宿の方がいいなんて、また随分と思い切ったことを言いますわね」

エリーは魔導書を小脇に抱え、楽しげに足取りを速めた。

「ここから隣町まではかなりの距離がありますもの。私たちのペースだと、今夜は間違いなく森の中での野宿になりますわ」


「野宿なら、あの黒い悪魔は出ないでしょ……? 自然の中なら、まだマシなはずだわ……」


ベルが希望を見出すように呟いた瞬間、エリーの眼鏡がキラリと冷酷に光った。


「おめでたい文系脳ですわね、ベル。野宿ということは、すなわち『虫の本拠地』に自分から飛び込むということですのよ? 夜の森は、様々な虫たちのパラダイスなんですわ」


「……えっ?」

ベルの顔から、さらに血の気が引いていく。


「夜行性の虫といえば、アリアが小さい頃によく採っていたというカブトムシやクワガタムシ、それに幻想的なホタルなんかは有名ですけれど……」

エリーはわざとらしく声を潜め、不敵な笑みを深めた。

「他にも、闇に紛れて音もなく這い寄る猛毒のムカデや、巨大な網を張って獲物を待つ夜行性の蜘蛛……彼らにとって、無防備に寝転がっている人間なんて、格好の動く山のようなものですわ」


「ひっ、ひいいぃ……っ!」

ベルの表情は、もはや青を通り越して土色になっていた。膝がガクガクと震え、細剣の柄を握る手も止まっている。


「そして忘れてはいけませんわ。あなたが愛してやまないあの『ゴキブリ』。彼らこそ、夜の闇を支配する夜行性の代表例。腐葉土の下、木の洞、そしてあなたの毛布のすぐ裏側……。森こそ、彼らの真の王国なんですのよ!」


「……あ、あ、……あがっ……」


エリーの非情なとどめの一言が、ベルの限界を超えた。

ベルは、蟹のような泡を口の端から吹き出すと、そのまま白目を剥いて、棒切れのように後ろへとひっくり返った。


「ちょっと、エリー! やりすぎよ!」

私は慌てて倒れたベルを抱きかかえた。

「面白がって脅すのはいい加減にしなさい! これから険しい峠に向かおうっていうのに、主力の一人が戦う前に廃人になっちゃうじゃない!」


「ふふん、真実を教えてあげただけですわ。恐怖を克服するのも修行のうちですもの」

エリーは涼しい顔で、気絶したベルをノートに書き留めている。


地面に転がり、白目を剥いてぴくぴくと痙攣しているベル。

伝説の巫女フジ、正体不明の八岐大蛇、そして足元に潜む無数の這う虫たち……。

これから待ち受ける前途多難な旅を予感し、私は朝の澄んだ空気の中で、深く、果てしなく深い溜め息を吐き出すのだった。


果たして私たちは、無事にアルバ峠にたどり着けるのだろうか。それとも、その前にベルの精神が尽きてしまうのだろうか。


アリアたちの旅は、一抹の不安……というより、膨大な不安と共に、再開された。



ベルを背負って歩く羽目になるかと思われたけれど、街道を進むうちに、私たちの目の前には思いがけない絶景が広がった。


緩やかな丘の斜面を埋め尽くすように、視界の端から端まで、一面に広がる白い花、花、花。まるで雪が降り積もったかのようなその広大な花畑は、風に吹かれてさざ波のように揺れている。


「……綺麗。これ、何の花かしら?」


私が立ち止まって呟くと、白目を剥いていたはずのベルが、ふらりと自力で立ち上がった。鼻をひくひくさせ、辺りに漂う独特の、少しツンとした清涼感のある香りを嗅いでいる。


「……あ、アリア。この匂い、なんだかすごく……落ち着くわ」


「それはそうでしょう。これは『除虫菊じょちゅうぎく』という花ですわ」

エリーが知識を披露するように、一輪の白い花を指差した。

「最近の魔導化学の研究では、この花に含まれる成分に強力な殺虫効果があることが判明したのです。ハムロの工場でも、この花から抽出したエキスで高品質な殺虫剤を製造しているはずですわよ。いわば、虫たちにとっての『絶対禁足地』、聖域ですわね」


その言葉を聞いた瞬間、ベルの目にみるみるうちに生気が戻ってきた。

「殺虫剤……。そう、ここには『あいつら』は来ないのね。ああ、神様、仏様、除虫菊様……!」

ベルは文字通り花畑にダイブせんばかりの勢いで駆け出し、両手を広げて深く深呼吸を繰り返した。さっきまでの死相が嘘のように、頬には血色が戻り、いつもの快活なベルが復活している。


私たちはしばらく、その爽やかな香りを楽しみながら、花畑の中を通る小道をゆっくりと歩いた。ベルはスキップさえしそうな足取りで、機嫌よく鼻歌まで歌っている。


その時だった。

一匹の、私の手のひらほどもある大きなトンボが、羽音を立ててベルの肩に止まった。


「あ……!」

私は思わず息を呑んだ。また悲鳴を上げて気絶するんじゃないかと身構えたが、ベルの反応は予想に反するものだった。


「あら、こんにちは。綺麗な羽ね」


ベルは足を止めることもなく、愛おしげな表情で右手を伸ばすと、肩に止まったトンボの細長い尻尾を、人差し指で優しく、愛しそうに撫で始めたのだ。トンボも逃げる様子はなく、心地よさそうに羽を休めている。


私とエリーは、その光景を横目で見ながら、自然と顔を近づけてヒソヒソ話を始めた。


「……ねえ、エリー。あんなに虫を怖がっていたのに、あれはどういうこと?」

「……解せませんわ。わたくしの論理的推測に重大なエラーが生じています。さっきまでゴキブリ一匹で泡を吹いていた人物と同一人物とは到底思えませんわね」


私たちはしばらく観察を続けた。

ベルの周りには、トンボだけでなく、色鮮やかなモンシロチョウやアゲハチョウが、まるでお姫様を祝福するようにヒラヒラと舞い踊っている。ベルはそれらを全く嫌がる素振りも見せず、むしろ楽しそうに指先を差し出して遊んでいる。


「……わかったわ、アリア」

エリーが確信に満ちた声で呟いた。

「彼女の恐怖の対象は『夜行性の、カサカサと不規則に動く、黒光りする不潔なもの』に限定されていますわ。つまり、昼行性の、羽があって、日差しの下を優雅に飛ぶ虫には、何ら恐怖心を感じないどころか、好意すら抱いている……。なんという極端で、身勝手な文系脳でしょう!」


「……まあ、彼女らしいと言えばらしいけど」


私は、肩にトンボを乗せ、蝶々に囲まれながら「ふふ、こちょばいわよ」なんて笑っているベルの後ろ姿を見て、深く溜め息をついた。


さっきまでの絶望的な表情はどこへ行ったのか。

アルバ峠という、世界を揺るがすかもしれない戦地へ向かう途中で、花と蝶に囲まれてメルヘンの世界に浸っている親友。そして、その矛盾を冷静に分析しながら呆れている魔導士。


「……前途多難、っていう言葉じゃ足りない気がしてきたわ」


私は新しい大剣の重みを確かめ、再び歩き出した。

とりあえず、戦う相手が巨大な蝶やトンボでないことを祈るばかりだ。そうでなければ、私たちのパーティの主力は、攻撃する代わりに彼らを撫で回し始めてしまうだろうから。



地平線の向こうに太陽が沈み始め、空が濃い紫から群青色へと染まっていく。

「……やっぱり、隣町までは無理だったわね」

私は街道の先を見据え、小さく溜め息をついた。周囲には人影もなく、湿った土と草の匂いだけが立ち込めている。結局、私たちは街道脇にある切り立った崖の下、風を凌げそうな場所で野宿をすることに決めた。


幸い、道中で遭遇した小型のベヒーモスを仕留めておいたのが功を奏した。小型とはいえ、その巨体は解体してみれば凄まじい肉の量だ。私たちは焚き火を囲み、贅沢に三等分して焼き始めたが、一人分だけでもかなりのボリュームがある。


「はぐ……っ、やっぱりベヒーモスの肉は、この野性味がたまりませんわね」

エリーが口の周りを油だらけにしながら、骨付き肉に食らいつく。

「栄養価も高いですし、これで明日の魔力供給も万全ですわ」


その時、エリーが突然「ハクションッ!」と大きなくしゃみをした。

「あら……。風邪かしら? それとも、遠く離れた地で姉のダリア様が、わたくしの研究成果を噂でもしているのかしらね」

「ダリアさんなら、噂というより『あの子、ちゃんと食べてるかしら』って心配してそうだけど」

私の言葉に、エリーは「それもそうですわね」と冗談めかして笑った。ベルもようやく、昼間の「虫パニック」から解放され、満足げに肉を頬張っている。


しかし、食事が終わるのを見計らったかのように、ポツリと冷たいものが鼻先に落ちた。

「……雨?」

空を見上げると、いつの間にか星影は消え、重苦しい雲が頭上を覆っていた。パラパラという音は一瞬にして激しい地響きのような雨音へと変わり、焚き火の火をじりじりと追い詰めていく。


「アリア、あそこ! 洞窟があるわ!」

ベルが崖の少し高い位置にある岩の裂け目を指差した。私たちは慌てて荷物をまとめ、降りしきる雨の中を駆け抜けて、その洞窟へと滑り込んだ。


洞窟の中はひんやりとしていたが、外の土砂降りに比べれば天国のようだった。岩肌を叩く雨足は強くなる一方で、入り口付近には霧のような飛沫が舞い込んでいる。


「これじゃあ、今夜はここで動けそうにないわね」

私が岩の壁に背中を預けると、隣でベルが大きな欠伸をした。

「なんだか……雨の音を聞いていたら、急に眠気が……」


ベルは重い瞼をこすりながら、洞窟の奥の少し平らな場所を見つけると、そこに自分のマントを敷いて横になった。

「ちょっとだけ……おやすみ……」

そう呟いた数秒後には、彼女の規則正しい寝息が洞窟内に響き始めた。昼間の除虫菊畑での大はしゃぎと、その前の気絶劇で、彼女なりに精神を使い果たしていたのだろう。


私は入り口で降り続く雨をぼんやりと眺めた。

暗い洞窟の奥で眠るベルと、その横で魔導書の整理を始めたエリー。

外の激しい嵐とは対照的な、この奇妙に静かな時間が、明日の険しい冒険の前の、嵐の前の静けさのように思えてならなかった。


「……おやすみ、ベル」


私は新しい大剣を抱きしめるようにして、自分もゆっくりと目を閉じようとした。



洞窟の外で鳴り響く激しい雨音に紛れて、それは音もなく忍び寄ってきた。


「……あら?」

エリーが魔導書をめくる手を止めた瞬間、暗闇の中から放たれた数本の白い筋が、彼女の細い腕に絡みついた。粘り気のある、それでいて鋼のように強靭な糸。


「エリー、危ないわ!」

私は反射的に彼女の前に躍り出た。エリーの腕に絡みついた糸を無理やり引き剥がし、彼女を背後へと押しやる。

「何ですの、これ……!? 粘着性が異常に高いですわ!」


その糸の質感には見覚えがあった。図書館の資料で読んだ、獲物を生け捕りにするための罠。ここはただの雨宿りの場所ではない。夜行性の捕食者――巨大蜘蛛ジャイアント・スパイダーの棲み処だったのだ。


「ベル! 起きて、敵よ!」

叫んでベルを叩き起こそうとしたが、私の足元に、暗闇から無数の糸が蛇のように這い寄ってきた。


「あっ……!」

絡みついた糸は、一瞬にして私の両足を縛り上げた。抗おうと力を込めたが、糸は食い込むほどに強度を増していく。暗闇の奥から凄まじい力で引かれ、私は甲板ならぬ洞窟の床を滑るようにして、奥の深淵へと引きずり込まれていった。


「アリア! 待ちなさい!」

エリーの声が遠くなる。私は必死に、そばに置いていた新しい大剣に手を伸ばした。指先が冷たい柄に触れようとした、その時だった。


シュッ、という鋭い破裂音と共に、頭上から大量の白い塊が降り注いだ。


「う、うあぁっ!?」


それは噴射されたばかりの生々しい蜘蛛の糸だった。一瞬にして視界が遮られ、私の全身は繭のように糸まみれになった。粘着液が肌にまとわりつき、指一本動かすことができない。


そして、闇の中からカチカチという不気味な顎の音が近づき、その「主」が姿を現した。

月の光さえ届かない洞窟の最奥。八つの赤い瞳が、冷徹な光を放って私を見下ろしている。それは馬ほどもある巨大な蜘蛛だった。


「くっ……離して……!」


蜘蛛は私の抵抗を嘲笑うかのように、脚を自在に操ってさらに糸を吐き出した。糸は私の胴体、腕、首元へと幾重にも巻き付き、力強く締め上げていく。縛り上げられるたびに肋骨が軋み、肺の中の空気が無理やり押し出される。


「うぐっ、は……っ、あ……」


もがけばもがくほど、糸は肉に食い込み、自由を奪っていく。逆さ吊りにされるような感覚の中で、私は完全に身動きを封じられた。

目の前では、巨大な顎が粘液を垂らしながら、ゆっくりと開かれていく。


剣は遠く、相棒はまだ夢の中、頼みの魔導士も糸の弾幕に足止めされている。

絡みつく糸の不快な感触と、死への恐怖。私はただ、苦しみに悶えながら、捕食者がその牙を私の喉元に突き立てる瞬間を、絶望の中で待つことしかできなかった。



死の予感に体が硬直し、蜘蛛のどろりとした顎が私の鼻先にまで迫った、その時だった。


「――っ!! #$%&*!! ぎゃああああああああああああああっ!!」


洞窟の岩壁が震え、鼓膜が破れんばかりの凄まじい絶動が轟いた。その音源は、さっきまで眠りについていたはずのベルだった。あまりの音圧に、捕食者としての誇りを持ち合わせていたはずの巨大蜘蛛までもが、物理的な衝撃を受けたかのようにひるみ、数歩後ずさりした。


「ベル!? 意識があるの!?」

叫ぼうとしたが、私の視界に飛び込んできたのは、もはや「意識がある」とは形容しがたい、完全なるパニック状態の親友だった。


「$%!! &*@#!! いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」


彼女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、二本の細剣をまるで扇風機の羽のように猛烈な勢いで振り回し、洞窟内をデタラメに暴れまわっていた。その剣筋はもはや技術などではなく、純粋な恐怖が生み出した暴威。

シュバババッ! という風切り音と共に、私をがんじがらめにしていた強靭な糸が、ベルの無差別な剣撃によって次々と細切れにされていく。


「あ、動ける……!」


私が拘束から抜け出した瞬間、ベルは獲物である巨大蜘蛛の正面へと、文字通り突っ込んでいった。蜘蛛もまた、この世のものとは思えない怪音を放つ侵入者を迎え撃とうと身構えたが、至近距離でベルと目が合った瞬間――。


「#!! %&*?!?! ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


ベルが本日最大級の、天を突くような、言葉にならない絶叫を放った。


すると、どうだろう。ついさっきまで私を食らおうとしていたあの恐ろしい巨大蜘蛛が、まるで雷に打たれたかのように硬直し、そのまま八本の脚を力なく丸めて、ゴロリと床に転がってしまったのだ。


(……そうだわ、思い出した!)


私は自由になった手でべたつく糸を払いながら、昔読んだ博物誌の一節を思い出した。巨大蜘蛛は非常に優れた感覚器官を持っているが、その反面、大音量の振動には極めて敏感なのだ。ベルのあの、魂を削り取るような超高周波の悲鳴は、蜘蛛にとって文字通り脳を揺さぶる破壊兵器となったに違いない。


「今よ……!」


私は床に転がっていた新しい大剣をひっ掴むと、全力で地を蹴った。

気絶して無防備になった蜘蛛の眉間に向け、新調したばかりの鋭い刃を一直線に振り下ろす。


ズバッ!!


「はああああああっ!!」


手応えは十分だった。大剣は蜘蛛の強固な外殻をやすやすと断ち割り、一刀両断にする。巨体は一度だけ痙攣し、そのまま静かになった。


「ふぅ……。助かった……のかしら、これ」


剣を納め、私はまだ「ひいっ、ひいっ」と過呼吸気味に震えているベルの元へ駆け寄った。彼女をなだめようと肩に手を置いたが、彼女は私の顔を見るなり、堰を切ったように泣き出した。


「アリアぁぁぁぁぁ! ううぅ、ひっ、ひぐっ……!」

「落ち着いて、ベル。蜘蛛はもう倒したわ。何があったのよ?」


聞けば、彼女が目を覚ました直後、横たわっていたすぐ目の前の岩陰から、大きなゴキブリが数匹、彼女の顔を目がけてカサカサと這い出してきたのだという。暗闇の中で最愛(?)の宿敵と対面してしまった彼女は、恐怖のあまり精神の防衛本能が限界突破し、あのパニック状態に陥ったらしい。


「あいつら、絶対、私のこと、狙ってるんだわぁぁぁ! いやあああああ! 怖いよぉぉぉぉ!!」


ベルは私の腰に顔を埋め、子供のように大声を上げて泣きじゃくった。

蜘蛛という神話級の怪物を「声」だけで無力化した英雄の姿はそこにはなく、ただただ、虫が嫌いすぎて心が折れた哀れな一人の女の子が、私の服を涙で濡らしているだけだった。


「はいはい、よしよし。もう大丈夫だから。……エリー、あんたも手伝いなさいよ」

「……いえ、あんな生態系を破壊するような悲鳴、魔導士として分析するだけで精一杯ですわ。文系脳の底力、恐るべしですわね……」


エリーが遠巻きに呆れ果てた視線を送る中、私はひたすらベルを抱きしめ続けた。

アルバ峠に辿り着く前に、私たちのパーティが精神的に全滅してしまわないか。私は降り止まぬ雨の音を聞きながら、本気で心配になり始めていた。



洞窟の入り口から差し込む眩しい朝陽で、私は目を覚ました。

昨夜の激しい嵐が嘘のように、空は見事な青色に染まり、濡れた木の葉が宝石のように光り輝いている。


しかし、私たちのパーティの状態は、その晴天とは裏腹にどん底だった。


「……もう、洞窟は嫌。二度と入らない。一生、平野で暮らすわ……」

ベルは荷物をまとめながら、うつろな目で呪文のように呟いていた。昨夜の蜘蛛とゴキブリのダブルパンチは、彼女の冒険者としての矜持を粉々に粉砕してしまったらしい。


一方、エリーの様子もおかしかった。

「エリー、大丈夫? さっきから顔が赤いわよ」

「……ええ、問題ありませんわ。昨夜、雨に濡れた拍子に少し……ケホッ、ケホッ!……少し肺の機能が、過剰に反応しているだけですわ」


彼女はいつものように強がって見せたけれど、その足取りはどこか危うい。私たちはひとまず荷物をまとめ、湿った空気の中を歩き出した。


だが、出発して一時間も経たないうちに、エリーの咳はどんどん激しくなっていった。

「ゲホッ! ゴホッ、ゴホッ!!」

「ちょっと、エリー! 顔色が真っ青よ!」


私が呼びかけても、エリーは「……あら、アリア……。なんだか、視界に、虹色の数式が飛んでいますわ……」と、ぼんやりした表情で支離滅裂なことを口にし始めた。


心配になり、私は彼女の歩みを止めてその額に手を当てた。

「――っ!? 嘘でしょう、すごい熱よ!」


掌から伝わってきたのは、焼石のような熱さだった。昨夜、自分の魔導書が海に落ちた(と思い込んだ)ショックや、その後の激戦、そして雨の中での強行軍。いくら魔導士として優秀でも、彼女の体はまだ年相応の少女のものだったのだ。


「ベル! 地図を! 近くに町はないの!?」

「え、ええ! 今出すわ!」

ベルも血相を変えて、虚脱状態から一気に復醒した。震える手で地図を広げ、現在地を指でなぞる。


「……あったわ! この先を抜けたところに、隣町の『ロット』がある。医学の町と呼ばれている場所よ! 優秀な医師も、珍しい薬草も揃っているはずだわ!」


「あともう少しね……よし、エリー。捕まりなさい!」


私は新しい大剣を背中の鞘に深く差し込み、意識が混濁し始めたエリーを背負い上げた。彼女の体は驚くほど軽く、そして信じられないほど熱い。


「アリア……。わたくしを置いて、先に行って……。研究資料の、バックアップは、宿に……」

「馬鹿なこと言わないで! あんたがいなきゃ、誰が神霊術の解析をするのよ。寝言はベッドで言いなさい!」


私はエリーを背負い直し、ベルと共に街道を駆け抜けた。

昨夜の蜘蛛との戦いで体力を消耗していたけれど、今はそんなことを言っている場合ではない。医学の町、ロット。そこまで行けば、きっと彼女を救えるはずだ。


「行くわよ、ベル! 遅れないで!」

「わかってるわ! エリー、死んじゃダメよ! 死んだらあのゴキブリの標本、あんたの枕元に置くんだからね!」


ベルの無茶苦茶な激励(?)を背に受けながら、私は泥濘んだ道をひた走った。

伝説の巫女も、八岐大蛇も、今は二の次だ。仲間を救うため、私たちは一刻も早く、霧の向こうに見えるロットの町へと急いだ。



医学の町ロットを象徴する、高くそびえ立つ白亜の時計塔が丘の向こうに見えてきた。あと少し、あと数キロ走れば、エリーをふかふかのベッドに寝かせ、医者に診せることができる。そう確信した私たちの希望を打ち砕くように、街道の左右の茂みから、鋭い口笛と共に異様な集団が飛び出してきた。


「ひゃっはー! 運がいいぜ、上等な獲物がかかりやがった!」


現れたのは、20人近い大所帯の盗賊団だった。彼らの風体は、これまでに見てきたどのならず者よりも悪趣味で奇抜だった。頭髪を極彩色に染め上げて天を突くように逆立て、素肌に直接ボロボロの革ベストを纏い、手には血に飢えた光を放つサバイバルナイフを弄んでいる。


「どきなさい! 私たちは急いでいるの!」

私が大剣の柄を握りしめて叫んだが、彼らは下卑た笑い声を上げるばかりだ。


「おいおい、そんな怖い顔すんなよ。その背中の病人と、腰の細い姉ちゃんを置いていきな。そうすりゃ命だけは助けてや……」


奴が言い終わるより早く、ベルの細剣が空を切り、先頭にいた男のナイフを弾き飛ばした。

「……生憎だけど、私は今、猛烈に機嫌が悪いのよ。昨夜からずっとね!」

ベルの瞳には、虫への恐怖を怒りに転換したかのような、凄まじい闘気が宿っていた。


私たちは瞬時に背中を合わせ、円陣を組んだ。私は意識の混濁したエリーを背負ったまま、新調した大剣を引き抜く。ずっしりとした重みが腕に伝わるが、今の私にはそれが唯一の希望だった。


「アリア、エリーを絶対に離さないで! 雑魚は私が散らしてあげる!」


ベルが旋風のように踊り、盗賊たちの中へと飛び込んでいく。二本の細剣が閃くたびに、盗賊たちの奇抜な髪型が切り裂かれ、悲鳴が上がった。私もまた、背中のエリーが揺れないよう細心の注意を払いながら、大剣を振るって迫りくる刃をなぎ払う。


しかし、この盗賊団は執拗だった。一人倒せば、また茂みの奥から二人、三人と同じようなスタイルの男たちが湧き出てくる。


「くっ、……きりがないわね!」


高熱のエリーを背負っての立ち回りは、想像以上に体力を削っていく。彼女の体から伝わる熱気が私の背中を焼き、荒い呼吸が耳元で途切れ途切れに響く。疲労で足元がわずかにふらついた、その瞬間だった。


「隙ありだぁ!」


一人の盗賊が、私の死角からナイフを逆手に持って飛びかかってきた。ベルは反対側で複数の敵に応戦しており、私の剣は振り抜いた直後で戻りが間に合わない。


(しまっ――!)


私が覚悟を決めて目を閉じた時、背中から驚くほど冷徹で、透き通った声が響いた。


「……計算、完了。……わたくしを、ただの荷物扱いしないでくださる?」


エリーの手が、私の肩を力強く掴んだ。彼女の指先から、高熱に浮かされているとは思えないほど濃密な魔力が溢れ出す。


「吹き荒れなさい! 『テンペスト・ノヴァ』!」


刹那、私たちの周囲を爆風のような竜巻が包み込んだ。私を襲おうとした男は文字通りゴミのように空高く舞い上げられ、周囲を囲んでいた盗賊たちも、凄まじい風圧に抗えず四方八方へと吹き飛ばされていく。サバイバルナイフが虚しく地面に突き刺さり、戦意を喪失した者たちは散り散りになって逃げ出していった。


静寂が戻った街道で、私は真っ先に背中の感触を確かめた。

「エリー! 無事なの!?」


急いで彼女を地面に下ろすと、エリーは真っ白な顔で力なく微笑もうとした。しかし、その直後、彼女の体は激しく折れ曲がり、これまでとは比較にならないほど重い咳が、彼女の小さな喉を突き破った。


「カハッ、ゲホッ……!!」


「エリー!?」


駆け寄ったベルと私の目の前で、エリーの口元から鮮血が零れ落ち、白い除虫菊の香りが残る地面を赤く染めた。彼女の瞳から光が消え、糸が切れた人形のように、ゆっくりとその場に崩れ落ちる。


「嘘……、エリー! 目を開けて! エリー!!」


ベルの絶叫が、ロットの町へと続く街道に虚しく響き渡った。

伝説の巫女の目的も、八岐大蛇の謎も、今はどうでもよかった。私の手は、血を流して冷たくなり始めた親友の肩を、ただ震えながら掴んでいることしかできなかった。



《ここからはベル目線で物語が進みます》

「エリー! エリーッ!!」


目の前で、わたくしたちの毒舌魔導士が、真っ赤な血を吐いて倒れ伏した。アリアの悲鳴が耳を突き刺す。嘘でしょ……。昨夜あんなに元気(?)にわたくしをいじめていたのに、こんな、こんなのってないわ。


絶望が喉元までせり上がってきたその時、地響きのような蹄の音が街道に鳴り響いた。


「おい、そこな旅人! 何事だ、賊か!?」


現れたのは、目を疑うような姿の男だった。

下半身は屈強な馬、上半身は筋骨隆々の人間。その頭には、太陽を照り返すほどテカテカに塗り固められた、立派な黒髪のリーゼントが鎮座している。上半身の重厚な甲冑が、彼が走るたびにガチガチと勇ましい音を立てた。


「ケン……タウロス?」


アリアが呆然と呟く中、その男――ガロと名乗った男は、倒れているエリーを一瞥するなり、鋭い眼光を走らせた。


「この辺りの警備を任されているガロだ。……チッ、こいつはひどい熱だな。おい、嬢ちゃんたち、モタモタしてる時間はねえ。こいつを俺の背中に乗せな!」


ガロは手際よく、ぐったりとしたエリーを自分の馬の背の部分へと引き上げた。アリアが戸惑っていると、ガロはリーゼントを揺らしながら不敵に笑った。


「安心しな、ケンタウロスの背骨をなめるんじゃねえ。俺たちの骨は岩より頑丈にできてんだ。人間二人分くらい、羽毛を乗せてるようなもんだぜ。ほら、お前さんも乗りな、金髪の嬢ちゃん……そう、そっちのデカい剣の嬢ちゃんだ!」


ガロはアリアを促すと、彼女もついでに背中に乗せてしまった。


「よおし、ロットの病院まで直行だ。舌を噛まねえように気をつけてな!」


「えっ、ちょっと! わたくしは!?」


わたくしが声を上げた時、ガロは既に前傾姿勢に入っていた。彼はリーゼントを風になびかせながら、わたくしの方を親指で指差す。


「黒髪の嬢ちゃん! ロットはこの道を真っ直ぐだ、突き当たりを右に行けば門が見える! 歩きゃあすぐそこだ、健闘を祈るぜ、あばよ!!」


言うが早いか、ガロは凄まじい脚力で地面を蹴った。

砂埃を巻き上げ、アリアとエリーを乗せたケンタウロスは、まさに疾風のごとき速さでロットの町へと走り去っていく。


「…………は?」


街道に残されたのは、わたくし一人。

遠ざかっていくリーゼントの後頭部を見送るわたくしの耳には、もはや風の音しか聞こえない。


「……ちょっと、待ちなさいよ。何なのよあの馬男。警備なら警備らしく、全員保護しなさいよ! なんでわたくしだけ置いてけぼりなわけ!? 『歩きゃあすぐそこ』って、あんたの足と一緒にしないでよ!!」


怒髪天を衝く。まさにこのことだわ。

昨夜はゴキブリに泣かされ、今日は盗賊に襲われ、最後はリーゼントのケンタウロスに置いていかれるなんて。わたくしのプライドは、今やズタズタのボロボロよ。


「エリーのことは心配だけど……それはそれとして、あのガロとかいう男、次に会ったら絶対に細剣でリーゼントを真っ二つにしてやるんだから!!」


わたくしは拳を震わせながら、猛然とロットの町に向かって歩き出した。不機嫌なんて言葉じゃ足りない。今なら、目の前にクラーケンが現れたって、素手で引き裂いてやれる自信があるわ。待ってなさいよ、ロットの町! そしてあのリーゼント!!



《ここからはアリア目線で物語が進みます》

猛烈な勢いで流れる景色、力強い蹄の音。私はガロの広いたてがみに必死にしがみつきながら、目の前のエリーを、今にも消えてしまいそうなその小さな体を、力の限り支え続けていた。


「……アリア……ごめんなさい、わたくしの、せいで……。……ありがとう……」


エリーが、熱に浮かされながらも、途切れ途切れの声でそう言った。いつもの尊大で自信満々な口調は影を潜め、私を気遣うその弱々しい響きが、かえって私の胸を締め付ける。


「何言ってるの、エリー! お礼なんていいから、今はとにかく体を治すことだけ考えて。大丈夫、もうすぐロットの町よ」


私は彼女をしっかりと抱きしめた。彼女の目尻には、熱のせいか、それとも不安のせいか、一粒の涙が溜まり、頬を伝って私の腕に落ちた。あのプライドの高いエリーが涙を見せるなんて。私の心臓は、ガロの蹄の音よりも激しく打ち鳴らされていた。


やがて、白亜の壁が立ち並ぶロットの町へと滑り込む。ガロは歩みを緩めるどころか、「どけえっ! 急患だ!!」とリーゼントを揺らして一喝し、通行人を左右に割りながら町の中を爆走していった。


「一番腕のいい病院に叩き込んでやるからな! 歯を食いしばってろ!」


到着したのは、町の中でも一際立派な石造りの大病院だった。ガロが中庭に乗り入れると同時に、待機していた看護師たちが飛び出してきた。私はエリーを彼らに託し、祈るような気持ちで診察室の外、長い廊下のベンチに腰を下ろした。


数十分後、診察室から出てきた年配の医師が、神妙な面持ちで私に告げた。


「……診断の結果、彼女は『結核』を患っています」


その言葉を聞いた瞬間、私の視界が真っ暗になった。

結核。それは私の故郷では、一度かかれば命を落とすと恐れられている「死の病」だ。じわじわと肺を蝕み、命を削っていく不治の病。エリーが、あの若くて優秀な彼女が、そんな病に――。


「……嘘。そんな、どうすれば……。エリーは、死んじゃうんですか?」


私はショックで膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。視界が涙で滲み、医師の顔さえまともに見られない。


「いいえ、落ち着きなさい」


医師の声は、驚くほど穏やかで力強かった。


「確かに他所では恐れられている病ですが、ここは医学の町ロットです。近年開発された特効薬があり、それを正しく投与すれば、彼女なら一週間もあれば完全に回復し、元通りの元気な姿で退院できますよ」


「……本当、ですか?」


私は立ち上がり、医師の白衣の袖を掴んで、泣きながら何度も何度も頼み込んだ。

「お願いします……先生、お願いします。彼女は私の、かけがえのない親友なんです。どうか、助けてください。何でもしますから……!」


溢れ出す涙を拭うことも忘れ、必死に訴えかける私を見て、医師は優しく、しかし確固たる自信を宿した瞳で微笑んだ。


「任せなさい。彼女は明日には熱も引き始め、一週間後にはまたあなたの隣で元気に喋っているはずですよ。ロットの医学を信じて、あなたはゆっくり休みなさい」


その言葉で、張り詰めていた私の糸がようやく緩んだ。

エリーは助かる。死なないんだ。

私は安堵のあまり、その場に座り込んで激しく泣き崩れた。窓の外では、ようやくロットに辿り着いたベルの怒鳴り声が遠くから聞こえてきた気がしたが、今はただ、エリーが助かるという奇跡に、心からの感謝を捧げずにはいられなかった。



病院の白い廊下に、激しい足音と共に怒鳴り声が響き渡った。


「ちょっと! 置いていくなんてあんまりじゃない、アリア! 肺が焼け死ぬかと思ったわよ!」


肩を上下させ、真っ赤な顔をして現れたのはベルだった。彼女の自慢の黒髪ショートは乱れ、青いマントは泥に汚れ、その表情は不機嫌の極致といった様子だ。私がガロの背中に乗せられた時のことを思い出して申し訳なさが込み上げたけれど、彼女の元気な姿を見て、張り詰めていた心の糸がふっと緩んだ。


「ベル、ごめんなさい。でも、大変だったの……。エリーが」


私が沈痛な面持ちで、医師から告げられたエリーの病名を伝えると、ベルの不機嫌そうな顔は一瞬で凍りついた。


「結核……? 嘘でしょ、あの毒舌が死の病にかかったっていうの?」


ベルは信じられないというように、細剣を帯びた腰に手を当てて立ち尽くした。けれど、私が「ロットの特効薬を使えば一週間で治る」という医師の太鼓判を伝えると、彼女は深いため息をつき、膝の力を抜いてベンチに座り込んだ。


「……よかった。あんな生意気な魔導士に先立たれたら、毎日の私の楽しみがなくなっちゃうもの」


それからしばらくして、私たちは入院の手続きを終え、エリーが深い眠りについたのを見届けてから病院の外に出た。そこで、リーゼントを夕陽に輝かせながら中庭で待っていたガロと再会した。


「おう、嬢ちゃんたち。仲間の容態はどうだったんだ?」


「おかげさまで助かるわ。ありがとう、ガロ。あなたが運んでくれなかったら、間に合わなかったかもしれない」


私が心から感謝を伝えると、ガロは太い腕を組み、蹄でカツンと石畳を叩いた。


「礼には及ばねえよ。このロットは最近、急に治安が悪くなってやがってな。元々は平穏な医学の町だったんだが、怪しい流れ者が増えて警備の人手が全く足りてねえんだ。だから俺みたいなケンタウロスまで駆り出されて、こうして町の守りを固めてるってわけよ」


ガロはそう言うと、再び郊外の街道へと目を向けた。どうやら、私たちがさっき遭遇したあの奇抜な髪型の盗賊団を、徹底的に懲らしめに戻るつもりらしい。彼は自慢のリーゼントを指先で整えると、走り出す直前にニヤリと笑って私たちを上から下まで眺めた。


「まあ、あれだ。……二人とも、そんな格好で夜道を歩くんじゃねえぞ。『痴漢』にでも遭っちまったら目も当てられねえからな。気をつけて帰れよ!」


そう言い残すと、ガロは砂埃を巻き上げ、凄まじい速度で町を駆け抜けていった。


「…………え?」


静まり返った広場に、私とベルだけが取り残された。ガロの「痴漢に気をつけろ」という言葉が、不気味なほど鮮明に耳に残っている。

改めて自分の姿を見下ろしてみる。私は真っ赤なレオタードに白いマント。隣のベルは黒いレオタードに青いマント。……どちらも体のラインがこれ以上ないほどはっきりと出る、動きやすさを重視しすぎた「冒険者仕様」の格好だ。


これまでは冒険の最中で必死だったし、二人でいれば強気でいられた。けれど、文明の進んだ綺麗な町中で、しかも治安が悪いと言われた矢先に、男のケンタウロスからそんな指摘をされたのだ。


「……アリア」

「……何、ベル」

「……私たち、もしかして、すごく破廉恥な格好してる?」

「…………否定できないわね」


私たちは同時に顔を真っ赤にし、マントの端をギュッと握り締めて、少しでもレオタードの露出を隠そうともがいた。恥ずかしさが波のように押し寄せ、顔から火が出そうだ。


「もう! 最悪よ! エリーは入院するし、変なリーゼントに煽られるし、おまけにゴキブリに蜘蛛に盗賊! しまいには自分の格好が恥ずかしくなってくるし……! やってられないわ!」


ベルは叫ぶように言うと、私の腕を強引に掴んで歩き出した。


「こうなったらヤケ酒よ! アリア、あんたも付き合いなさい! ロットで一番強い酒を出す店に連行してやるんだから!!」


「ちょ、ちょっとベル、引っ張らないで!」


金髪のロングヘアを揺らしながら、私は不機嫌全開のベルに引きずられるようにして、医学の町の賑やかな酒場へと消えていった。エリーがいない寂しさと、これからの不安、そして耐えがたい羞恥心。それらすべてを酒精で洗い流すために、私たちの波乱万丈なロットの一夜が始まろうとしていた。



ロットの町に朝が訪れた。石畳の道は昨夜の雨の名残を吸い込んでしっとりと濡れ、白亜の建物が朝陽を反射して眩しいほどに輝いている。


私は宿屋の重い木扉をそっと閉め、一人で通りへと踏み出した。

部屋ではまだ、ベルが泥のように眠っている。昨夜の彼女は、まさに凄まじいの一言だった。酒場に着くやいなや、普段の彼女からは想像もつけない勢いでエールを煽り、時には「あのリーゼント馬男め!」と毒づき、時には「エリー、あんたがいなきゃ誰が私に突っ込みを入れるのよ……」と、ジョッキを抱えて泣きべそをかいていた。


ベルは、本当は誰よりも繊細なのだ。連日のように彼女を襲ったゴキブリや巨大蜘蛛への恐怖、そして何より、妹のように思っていたエリーが目の前で血を吐いて倒れたショック。彼女はそのすべてを一瞬でも忘れたくて、独り、酒の海に溺れるしかなかったのだろう。


「……私も、同じね」


誰に聞かせるでもなく呟いた声が、冷たい空気の中に溶けて消えた。

私もまた、エリーのことが心配で、宿の閉塞感に耐えきれず外へ飛び出してきたのだ。歩いていれば、少しはこの胸のざわつきが収まるのではないかという、淡い期待を抱いて。


ロットの町は、朝から活気に満ち溢れていた。

行き交う馬車の車輪の音、焼きたてのパンの芳ばしい香り、露店商たちの威勢のいい掛け声。人々は皆、今日という日を謳歌するために忙しなく動いている。


いつもなら、私の右側には「あそこの店、掘り出し物がありそうよ!」と目を輝かせるベルがいて、左側には「アリア、そんな子供のような顔をして歩くのはおやめなさい」と、眼鏡の奥で呆れ顔をするエリーがいるはずだった。


けれど、今の私の隣には、ただマントを揺らす冷たい風が吹き抜けるだけだ。


「……っ」


不意に、胸の奥をぎゅっと握りつぶされるような強い孤独感が込み上げてきた。

赤いリボンで束ねた髪が、歩くたびに背中で跳ねる。その重みさえ、今はひどく頼りないものに感じられた。白いマントを固く握りしめて歩くけれど、人混みの中にいればいるほど、自分だけが世界の中心から切り離されてしまったような錯覚に陥る。


「……だめ。やっぱり、一人じゃ無理だわ」


一度そう思ってしまうと、もう居ても立ってもいられなくなった。

散歩で気を紛らわすなんて、最初から不可能なことだったのだ。私の心は、あの消毒液の匂いが漂う、静かな病院の病室に置き去りにされたままなのだから。


私は踵を返し、歩幅を広げた。

医学の町ロット。人々が希望を求めて集まるこの町の中心に建つ、あの大きな病院を目指して。

特効薬があれば大丈夫。医者はそう言った。一週間で元気になる、と。

けれど、その一週間が、今の私には永遠よりも長く感じられた。


「待ってて、エリー……。今、行くから」


私は人混みを縫うようにして、走り出した。

背中に背負った大剣が重く揺れ、腰のレオタードが朝の冷気にさらされるけれど、今の私には恥ずかしがっている余裕すらない。ただ一刻も早く、あの憎まれ口を叩く親友の、熱に浮かされていない穏やかな寝顔を確認したかった。孤独という名の鎖を断ち切るために、私は迷わず病院への道を進んでいった。



病院へと急ぐ私の心は、エリーへの焦燥感で支配されていた。石畳を蹴る足取りは速まり、視界に入る景色もろくに確認していなかった。それが、命取りになった。


人通りの少ない裏路地のショートカットへ差し掛かった、その時だ。


「おっと……どこへ急いでるんだい、お嬢ちゃん」


地響きのような蹄の音と共に、突如として五つの巨大な影が私を包囲した。

そこにいたのは、ガロのような律儀な警備兵ではない。極彩色のタトゥーを全身に彫り込み、金属のチェーンを首や腕に巻き付けた、ならず者のケンタウロスたちだった。彼らは一様に、野卑な笑みを浮かべ、獣特有の荒い鼻息を漏らしている。


「どいて……! 急いでいるの!」


私は背中の大剣に手を伸ばそうとした。だが、奴らはあまりにも手慣れていた。私が柄を握るより早く、五頭の巨躯が壁のように間を詰め、私の可動域を完全に奪ったのだ。

抜剣に必要な「間合い」がない。腕を大きく振り上げることすらできないほどの超至近距離で、私は屈強な馬の胴体と人間の肉壁に押し込められた。


「そんなデカい玩具、危ないから仕舞っておけよ」


一人の、一段とガタイの良い男が、私の肩を鷲掴みにした。万力のような力で引き寄せられ、私はなす術もなく彼の胸元へ抱きかかえられた。


「やめて……放してっ!!」


必死に抗おうと身をよじったが、その瞬間、私の背筋に氷のような戦慄が走った。

レオタード越しに押し付けられる、異様なほどの熱量。

ふと視線を落とした私は、自分の目を疑った。


取り囲む五人のケンタウロスたち。彼らの馬の部分――その股間にある荒々しい「本能」が、隠しきれないほど猛り、膨張していたのだ。それは、彼らが私を「獲物」としてではなく、ただの「雌」として、蹂全する対象として見ていることを何よりも雄弁に物語っていた。


「……あ……」


喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れた。

ガロが言っていた「痴漢に気をつけろ」という言葉。あの時、私たちはそれをどこか冗談半分に受け止めていた。けれど、今、目の前にあるのは、理性など微塵も残っていない、獣の欲望そのものだった。


逃げ場はない。力では到底かなわない。

エリーの元へ行きたい。ただそれだけだったのに。

どうして、こんなところで――。


「……お願い、やめて……助けて……」


私の声は震え、視界が涙で滲みだした。赤いリボンを揺らして激しく首を振るが、私の絶望に満ちた表情、今にも泣き出しそうな瞳、そして恐怖で小刻みに震える体。そのすべてが、奴らの獣性をさらに煽る火に過ぎなかった。


「いい顔だぜ。泣き叫ぶ女を組み敷くのが、一番の愉悦なんだよなあ……」


下卑た笑い声が路地に反響する。

一人の手が私のマントを乱暴に剥ぎ取ろうとし、もう一人の手が私の脚に伸びてくる。

貞操を蹂躙される恐怖に、私はただ、真っ白な絶望の中で声を枯らすことしかできなかった。



「ひっ……や、やめて……!」


乱暴にマントを剥ぎ取られようとし、獣の熱気が肌を焼く。逃げ場のない路地の隅で、私は固く目を閉じ、これからの地獄を覚悟して震えた。その時、石畳を叩く凄まじい蹄の音が、路地の入り口で爆発した。


「てめえら……俺の目の届くところで、何さらしてやがるッ!!」


怒髪天を衝くとは、まさにこのことだった。

振り返ったならず者たちの動きが止まる。そこに立っていたのは、いつもの重厚な甲冑を脱ぎ捨て、ラフな綿のシャツに袖を通したガロだった。非番だったのか、私服姿の彼は、その鍛え上げられた上半身の筋肉をより一層際立たせ、鬼のような形相でこちらを睨みつけていた。


「ゲッ、ガ、ガロの兄貴……!?」

私を抱え込んでいた男が、引きつった笑いを浮かべて手を離した。

「ち、違うんですぜ、これはただの教育というか、ちょっとした火遊びで……」


「……その言葉、あの世で抜かしやがれ」


ガロの動きは、巨体に似合わず電光石火だった。

「まずは一発!」

言いざま、ガロの太い右拳が、言い訳をしていた男の顔面に沈み込んだ。鼻骨が砕ける不快な音が響く。さらに、背後から鎖を振り回して襲いかかろうとした相手には、馬の部分の後ろ足――鋭い蹄を、正確に相手の腹部へと叩き込んだ。


「ぐはあっ!?」


巨体が吹き飛び、壁に激突する。横から飛びかかってきた三人目に対しては、目もくれずに鋭い肘打ちを食らわせ、一撃で沈黙させた。文字通りの一騎当千。ガロはわずか数秒のうちに、五人の暴徒を血祭りにあげてしまった。


「お、覚えてろよ、ガロ!」

「退散だ、逃げろ!!」


さっきまでの尊大な態度はどこへやら、這う這うの体で、鼻血や泥にまみれたケンタウロスたちは、尻尾を巻いて路地の奥へと逃げ去っていった。


静寂が戻った路地で、ガロは深くため息をつくと、地面に落ちていた私の白いマントを拾い上げ、優しく私の肩にかけた。


「……怖かったな、嬢ちゃん。同族がこんな無様な真似を晒しちまって……本当に申し訳ねえ」


ガロは深々と頭を下げた。彼の声には、いつもの荒々しさではなく、深い悲しみと自責の念がこもっていた。

ロットの町の治安が悪化していた原因――それは、ガロのような真面目な警備兵ばかりではなく、荒事と快楽を求めて町へ流れ込み、暴走族と化したケンタウロスたちが増えたせいだったのだ。


「……ガロのせいじゃないわ。でも、どうして……?」

私は震える手でマントを握りしめ、疑問を口にした。

「ケンタウロスは元々気性が激しい種族だって本で読んだことはあるけど、どうして故郷を捨てて、人間が暮らすこの町までやってくるの?」


ガロは遠くを見つめるように、自慢のリーゼントを一度撫でつけた。


「それを説明するには、俺たちの生まれ故郷のことを話さなきゃならねえ。……文字通り『地獄』を見てきた連中が、なぜここへ流れてきたのか。言葉だけで伝わるような生易しいもんじゃねえんだ」


ガロは少し躊躇った後、真剣な眼差しで私を見た。

「どうだ、嬢ちゃん。もし興味があるなら、俺の故郷を紹介してやる。そこを見れば、今この世界で何が起きようとしているのか、少しは見えるかもしれねえ」


私はガロの真意を測るように見つめ返した。今の私たちが追っているフジの目的、そしてアルバ峠の異変。ガロの故郷に、そのヒントがあるのかもしれない。


「わかったわ、ガロ。あなたの招待、引き受けるわ」

私は力強く頷いた。

「でも、その前にエリーのお見舞いに行かせて。あの子の顔を見ないと、落ち着いて旅を続けられないもの」


「ああ、もちろんだ。まずは仲間のところへ行ってやりな」


ガロは再び、頼もしい笑みを浮かべた。

私は彼に付き添われながら、再び病院へと歩き出した。エリーへの心配と、ガロが語ろうとする「故郷」の影。不安は尽きないけれど、少なくとも今は、一人ではないという事実に背中を押されていた。

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