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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第9話 地獄の特訓

《ここからはエリー目線で物語が進みます》

ティフェの街に到着してから数日。軍事都市というだけあって、この街の空気はどこか硬質で、常に鉄と規律の匂いが漂っていますわ。

本来なら、わたくしたち三人は足並みを揃えて行動すべきでしたのよ。それなのに、街の門を潜るなり


「腕の立つ修行者を探していた」


という市長直属の兵士が現れて、アリアとベルはそのまま連行……いえ、半ば強制的に騎士団の訓練施設へと送り込まれてしまいましたの。

「わたくしも同行しますわ!」と抗議したのですけれど、

「魔導士殿には、こちらの特別宿舎でゆっくりと研究に励んでいただきたい」の一点張り。


……そして今、わたくしは広々とした豪華な宿舎の一室で、一人取り残されていますわ。


「……落ち着きませんわね、本当に」


部屋にはシルクのカーテンが揺れ、ふかふかのソファに、磨き上げられた黒檀の机。市長や軍隊の並々ならぬ協力はありがたいのですけれど、アリアの無茶な突撃や、ベルの皮肉が聞こえない静寂は、どうにも居心地が悪くて仕方がありません。

じっとしていても知的好奇心が枯れるだけですわ。わたくしは分厚い魔導書を抱え直し、赤いチェック柄のマントを翻して、ティフェの中央図書館へと足を運びました。


「流石は軍事都市。戦略魔法や陣形構築に関する書物が、これほどまでに揃っているなんて……」


図書館の奥、埃っぽい書棚の影で、わたくしは貪るようにページをめくり続けました。魔術の修行も兼ねて、高度な数式を脳内で解体し、再構築する。アリアが剣を振っている間、わたくしだって足を止めるわけにはいきませんもの。

どれくらいの時間が経ったのかしら。


「……ここの術式、もう少し効率化できるはず……。霊脈の干渉を10%抑えて……」


文字の海に沈み込んでいたわたくしの意識を、ふとした違和感が浮上させました。

魔導書の細かい注釈を読もうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、丸い眼鏡の奥で文字が二重、三重に重なって見え始めたのです。


「……あら?」


瞬きを繰り返しても、ぼやけた視界は戻りません。どうやら、少し根を詰めすぎてしまったようですわね。知性の結晶であるわたくしとしたことが、体調管理という基礎的な計算を疎かにするなんて。


「……休憩も、理論的な工程の一部。そうですわね」


わたくしは重い魔導書を閉じると、大きく伸びをして図書館を後にしました。

建物の外に出ると、少し傾きかけた陽光が目に眩しく刺さります。

気分転換に、この鉄臭い街を少し散歩することにしましょう。アリアたちがどんな地獄の訓練をさせられているのか、高みの見物といきたいところですけれど……今のこのぼやけた視界では、迷子にならないように気をつけるのが先決ですわね。

わたくしははだけたブラウスの襟元を整え、おぼつかない足取りで、ティフェの石畳を歩き始めました。



ティフェの街を歩いていて驚かされるのは、その異常なまでの「規律」ですわ。角を曲がるたびに、磨き上げられた銀色の鎧に身を包んだ兵士と行き違います。彼らの眼光は鋭く、まるで街全体が巨大な監獄か、あるいは一つの生き物のように統制されていますの。


ふと見かけた露店で小さな諍いが起きかけた瞬間、どこからともなく三人の兵士が音もなく現れ、問答無用で当事者たちを連行していきました。その迅速すぎる対応には、治安の良さを通り越して、ある種の寒気を覚えるほどです。


「……少し、空気が重すぎますわね」


わたくしはぼやける視界を丸い眼鏡の奥で凝らしながら、あえて大通りを外れ、人気の少ない細い路地へと足を踏み入れました。知的好奇心というやつですわ。この完璧な管理社会の「裏側」がどうなっているのか、理論的な興味を抑えきれなかったのです。


ですが、その好奇心はすぐに後悔へと変わりました。


「おが、お嬢ちゃん。そんな格好で一人歩きかい?」

「いいブラウス着てんじゃねえか。……少し、奥で詳しく話を聞かせてくれよ」


路地の影から、濁った目をした男たちが数人、這い出すように現れました。彼らは明らかに兵士たちの監視から漏れた、あるいは放置された街の澱み。その下卑た視線がわたくしの肌を舐めるように動き、暴力的な意図を隠そうともせずに距離を詰めてきます。


わたくしは冷静を装い、抱えた魔導書に指をかけました。

「下がんなさい。わたくしの魔法をまともに喰らえば、理論的に計算して5分と命は持ちませんわよ」


強気に言い放ち、脳内で術式を組み上げ、詠唱を口ずさもうとした――その瞬間です。


「……ッ!?」


わたくしが言葉を発するより早く、路地の壁面に刻まれた古い紋章のようなものが青白く発光しました。同時に、男たちの足元から物理的な質量を持った「影」の鎖が飛び出し、彼らの四肢を瞬時に縛り上げたのです。


「な、なんだ!? 動けねえ!」

「魔法か!? 誰だ!」


混乱する彼らに追い打ちをかけるように、空間そのものが震動しました。無詠唱、かつ高密度の衝撃波――一般的な『衝撃波ショックウェーブ』の術式を極限まで圧縮したような魔力が炸裂し、不良たちはゴミ屑のように路地の奥へと吹き飛ばされました。壁に激突し、動かなくなった彼らの姿を確認することさえ、わたくしの本能が拒否していました。


「……誰? 誰がやったの?」


周囲を見回しても、そこには静まり返った石壁があるだけ。助けてくれたというよりは、害虫を駆除しただけのような、無機質で冷徹な魔力の残滓だけが漂っていました。


わたくしは震える脚を叱咤し、その場から逃げ出しました。大通りに戻り、再び整然と並ぶ兵士たちの姿を見た時、ようやく心臓の鼓動が耳元から遠のいていきました。


「……安心、しましたわ。けれど……」


この街の治安は、良すぎるのです。

犯罪の予兆さえ逃さない監視網。それは市民を守るための盾というより、街の静謐を乱す不純物を即座に排除するための「自動化された罠」のように感じられてなりません。先ほどの魔法も、もしかすると街そのものに組み込まれた防衛機構だったのではないかしら。


あまりに完璧すぎる秩序は、時に混沌よりも不気味な表情を見せますわね。


「……やはり、本の中にいるのが一番安全ですわ」


わたくしは冷や汗を拭い、はだけたブラウスの襟をきつく正すと、逃げ込むようにして中央図書館へと歩みを戻しました。アリアの無鉄砲さが、今は少しだけ恋しく感じられる……そんな非論理的な感情を胸に抱きながら。



図書館の重い石造りの扉に手をかけようとしたその時、背後から凛とした、けれど聞き覚えのある声が私を呼び止めました。


「あら、その特徴的な三角帽子に、不規則なほどはだけたブラウスの着こなし……もしかして、エリーじゃない?」


振り返ると、そこには陽光を反射して眩しく輝く、白銀の甲冑を纏った女性が立っていました。腰に下げた長剣の柄に手を置き、余裕のある笑みを浮かべている彼女の姿に、私は目を見開きました。


「……マリー!? マリー・フォン・アドラーですわね!?」


彼女は、わたくしが通っていた魔法学校の同級生。それも、あらゆる術式展開において理論と実践の両面でわたくしを凌駕し、首席で卒業した「完璧な秀才」ですわ。


「ふふ、覚えていてくれて光栄だわ。再会を祝して、少し付き合ってくれないかしら? とっておきの場所があるの」


断る間もなく、マリーに連れ出されるまま街の路地を抜けると、軍事都市には似つかわしくないお洒落なテラス席のあるカフェに到着しました。


「はい、これ。ここの目玉商品、モカフラッペよ」


差し出されたのは、細かく砕かれた氷と濃厚なコーヒー、そしてたっぷりのクリームが層を成す冷たい飲み物でした。一口含んだ瞬間、脳を直接揺さぶるような甘みと苦みの絶妙な調和が広がります。


「……! なんですの、これ……。これまで口にしてきたあらゆる保存食や宮廷料理よりも、遥かに合理的かつ劇的な美味しさですわ……」

「喜んでもらえてよかった。……ところでエリー、さっきは災難だったわね。路地裏で妙な連中に絡まれて」


思わずフラッペを吹き出しそうになりました。わたくしは非常に驚いて、丸い眼鏡を指で押し上げました。


「な、なぜそれを!? 貴女、見ていましたの?」

「いいえ。でも、あそこに設置しておいた私の魔法トラップが作動した通知が届いたから。監視の行き届かない死角には、私の編み出した拘束と衝撃の自律術式を仕掛けてあるのよ」


マリーは事もなげに言いました。彼女は、学校で学んだ高度な理論を単なる知識で終わらせず、このティフェの治安を守るという明確な目的のために使い、警備隊の魔法技師として就職していたのです。

それに比べて、わたくしはどうでしょう。 魔法学校を中途退学し、あてもなく大陸を放浪し、脳筋のアリアと皮肉屋のベルに振り回される日々。マリーが確固たる目的意識を持って社会の歯車として機能している姿を目の当たりにし、わたくしは胸の奥を鋭い針で刺されたようなショックを受けました。

(……わたくしの選択は、間違っていたのかしら。あのまま学校に残っていれば、今頃は……)

不意に、後悔の念が視界を濁らせます。俯きかけたその時、バシィィィンッ! と、甲冑越しとは思えない強烈な衝撃がわたくしの背中を襲いました。


「ふぎゃっ!? な、何を……!」

「エリー、浮かない顔をしないの。貴女の目は死んでいないわ。今の貴女には、学園の窮屈な教室では決して得られなかった『現場の魔力』が宿っている。貴女が進んだ道は、決して間違っていないはずよ」


マリーの言葉は、冷たいフラッペで冷え切っていたわたくしの心に、じわりと温かい熱を灯しました。首席卒業の彼女にそう肯定されたことで、これまで積み上げてきた迷いや自責の念が、報われたような気がしたのです。

マリーは懐中時計をパチンと閉じると、颯爽と立ち上がりました。


「さて、そろそろ持ち場に戻る時間だわ。また会いましょう、放浪の魔導士さん」


背中を向けて歩き出す彼女の銀色の甲冑を見送りながら、わたくしは深く、深く息を吐きました。

そうですわ。わたくしにはわたくしの、あの二人としか成し遂げられない「計算」があるはずです。アリアの剣術修行が終わった時、わたくしが彼女の背中を支えるための理論が不足しているなんて、万に一つもあってはなりません。


「……見ていなさい、マリー。わたくしも、わたくしの戦場でもっと頑張ってみせますわ」


飲みかけのフラッペを飲み干すと、わたくしは再び魔導書を強く抱きしめ、決意を胸に図書館へと踵を返しました。



《ここからはアリア目線で物語が進みます》

ティフェの街の巨大な石造りの門をくぐった瞬間、私はその威圧感に圧倒されてしまった。街道沿いの集落とは訳が違う。立ち並ぶ建物はどれも重厚で、行き交う人々からは鉄と規律の匂いが漂ってくる。


「……ここが、軍事都市ティフェ」


私が大剣の重みを肩に感じながら呟いたときだった。


「おい、そこな二人。見ない顔だな」


背後から掛けられた声は、地鳴りのように低く、力強かった。振り返ると、そこには磨き上げられた銀色の甲冑に身を包んだ、筋骨隆々の兵士が立っていた。その鋭い眼光は、一目で私たちの実力を見定めているようだった。


「貴様らのような格好の冒険者がこの街に来る目的など、一つしかない。強くなるための『修行』、そうだろう?」


図星だった。私とベルは顔を見合わせ、力強く頷いた。

「ええ、その通りよ。私はもっと強くならなきゃいけないの」

「わたくしも、今のままでは……」


私たちの返事を聞くやいなや、その兵士は「話が早い。ついてこい、修練場へ案内する」と歩き出した。その迷いのない足取りに、私たちは引き込まれるように後を追った。


その時、ふと後ろでエリーが呆然と立ち尽くしているのに気が付いた。

「ちょっと、エリーはどうするのよ! 置いてけぼりじゃない!」


私が叫ぶと、先頭を行く兵士は振り返りもせずに、部下らしき別の兵士にテキパキと指示を飛ばした。

「案ずるな。魔導士殿には市長直々の賓客として、豪華な宿舎を用意させる。市長には俺からよろしく伝えておく。……おい、お前! 彼女を特級宿舎へ案内しろ。粗相のないようにな!」


「はっ!」


部下の兵士がエリーを促し、私たちはそのまま二手に分かれることになってしまった。エリーが何か言いたげに眼鏡を指で直していたけれど、私たちは怒涛の勢いで巨大な訓練施設の敷地内へと連行されていった。


広い修練場に入り、熱気に当てられている間に、いつの間にか隣にいたはずのベルの姿が見えなくなっていた。

「ベル? どこに行ったの?」

不安になって周囲を見渡したけれど、案内役の兵士は私を促し、修練場の隅にある一軒の質素な小屋へと押し入った。


「さあ、まずはここだ。入れ」


言われるがままに狭い小屋の中に入った瞬間、予想もしないことが起きた。

兵士がいきなり、私の赤いレオタードに手を伸ばしてきたのだ。


「ちょ、ちょっと! 何をするのよ!」


太い指先が、脇腹や肩のあたりを容赦なく触り始める。布越しに伝わる体温と、執拗に生地の厚みを確かめるような感触に、私の脳内はパニックに陥った。


「な、ななな……何すんのよこのエロ兵士ーっ!!」


私はたまらず悲鳴を上げ、全力の張り手を彼の頬に食らわせた。乾いた音が小屋の中に響き渡る。


兵士は顔を背けながらも、特に怒る様子もなく、冷静に私を見下ろした。

「……落ち着け。貴様のそのレオタード、長旅のせいで至る所がボロボロになり始めている。生地が薄くなり、伸縮性も限界だ。そんな装備では、これから始まる地獄の訓練に耐えられん」


彼は赤くなった頬をさすりながら続けた。

「防御性能、伸縮性、そして魔力伝導率……。すべてにおいて今より高性能な、貴様専用の衣装を数日以内に用意させる。そのための採寸だ。不服か?」


「そ……それは……」


確かに言われてみれば、激しい戦いの連続で私の衣装は悲鳴を上げていた。納得のいく理由ではあったけれど、レオタード越しに……それも、ほとんど肌に触れるような距離で体を触られた感触が、まだ生々しく残っている。


「分かったわよ……でも、次からは一言言ってからにしてよね!」


私は白いマントをぎゅっと抱きしめ、自分の体を隠すように身を縮めた。納得はした。強くならなきゃいけないことも分かっている。けれど、背中を走ったあの気味の悪い悪寒だけは、どうしても拭い去ることができなかった。



数日後、私が借りていた宿舎の部屋に、丁寧に畳まれた一着の衣装が届けられた。

手に取ると、驚くほど軽くて驚いた。これまで着ていた赤いレオタードよりもずっと滑らかな手触りなのに、引っ張ってみると驚異的な弾力と頑丈さを感じる。


早速袖を通してみると、まるで吸い付くように全身にフィットした。関節の曲げ伸ばしに一切の抵抗がなく、それでいて要所要所は特殊な繊維で補強されているのがわかる。

鏡に映る自分を見ると、衣装の赤が以前よりも深く、どこか戦闘服としての気品を帯びているように見えた。


「……これなら、いけるわ」


自分の体を抱きしめるように感触を確かめていると、扉の向こうからあの兵士の地響きのような声が響いた。


「準備はいいか。衣装の馴染みを確認したらすぐに来い。本格的な『選別』を始める」


「ええ、今行くわ!」


私は後ろ髪の赤いリボンをきつく結び直し、大剣を背負った。気が引き締まるどころか、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。いよいよ、私が望んだ「強くなるための修行」が始まるのだ。


だが、実際に始まったメニューは、私の想像を絶する「地獄」だった。


修練場には、ティフェの正規兵を目指す屈強な男女が集められていたけれど、教官たちは性別など一切考慮しない。初日から、脱落者が続出するような過酷な試練が私を待ち受けていた。


鉄下駄の重圧走:

左右合わせて10キログラムはあろうかという鉄製の履物を履き、街の外壁に沿って不休で十周。足が上がるたびに、筋肉が引きちぎれるような激痛が走る。


滝枯れの素振り:

重量を増した訓練用大剣を使い、上から降り注ぐ巨大な落石(を模した丸太)を、一定のテンポで弾き返し続けなければならない千本素振り。


泥濘の肉体戦:

腰まで浸かる深い泥の中で、全身に重りをつけた状態で格闘訓練。抵抗が強すぎて、一度転ぶと呼吸さえままならない。


魔力遮断の瞑想:

魔力を吸収する特殊な首輪をつけられ、身体能力が極限まで低下した状態で、背後から放たれる矢を気配だけで避ける訓練。


絶壁の垂直登攀:

命綱なし。素手でティフェの切り立った岩壁を登らされる。握力が失われれば、そのまま奈落という極限の状況。


「もう……無理……」

初日の午前中で、隣にいたひ弱そうな男性兵士が泡を吹いて倒れた。午後には、凛としていた女性剣士の数人も、涙を流しながらギブアップを宣言して去っていった。


私の足も、とっくに感覚を失っている。呼吸をするたびに肺が焼け付くように熱い。何度も「逃げ出したい」「エリーのいる宿舎で温かいスープを飲みたい」という誘惑が頭をよぎった。


けれど、そのたびに脳裏を過るのは、あのアースドラゴンの咆哮と、ビョルンの最期の姿だ。

そして、今もどこかで必死に戦っているはずのベルと、私を待っているエリーの顔。


(ここで止まったら、私はまた同じ後悔をする……。水晶玉を手に入れて、あいつらと一緒に最後まで旅を続けるんだから……っ!)


私は奥歯が砕けるほど噛み締め、大剣を振り上げた。全身から噴き出す汗で衣装が張り付いても、高性能なレオタードは私の動きを一切妨げず、むしろ折れそうな心を物理的に支えてくれているようだった。


深夜。ようやく一日の全メニューが終了し、這うような足取りで自分の部屋に戻る。

ドアを開け、視線の先にベッドが見えた。

あと数歩。あと数歩歩けば、横になれる。


けれど、私の体はそこまで持たなかった。

膝がカクンと折れ、ベッドにたどり着く数センチ手前で、私は床に倒れ込んだ。

「……はぁ、……あ……」

意識が遠のく中、ズキズキと疼く筋肉の痛みが、私が今日も生き延びて、少しだけ強くなったことを証明しているようで。


私はそのまま、深い眠りの底へと沈んでいった。



翌朝、全身の筋肉が凝固し、自分の体ではないような重苦しさの中で目が覚めた。昨日床に倒れ込んだ姿勢のまま、冷えた石畳の温度が肌に伝わっている。だが、意識が覚醒するよりも早く、修練場に響き渡る無慈悲な銅鑼の音が鼓膜を突き刺した。


二日目も、そこにあったのは「修行」という言葉では生ぬるい、ただの生存競争だった。


ティフェの教官たちは、昨日よりもさらに苛烈だった。私たちが昨日流した血や汗など、乾いた大地に吸い込まれた水滴ほどにも価値がないと言わんばかりだ。メニューはさらに洗練された拷問へと進化し、参加者の精神を一人、また一人と確実に削り取っていく。


そして、その日の午後。ついに決定的な「一線」が越えられた。

「絶壁の垂直登攀」の最中だった。私の数メートル上を登っていた、年若き青年兵の手が、指先が、わずかに岩肌を滑った。


「あ……」


短い吐息のような声。直後、重力に引かれた彼の体は、何の抵抗もできぬまま奈落の底へと吸い込まれていった。鈍い音が谷底から響き渡り、修練場に凍りついたような静寂が流れる。だが、教官が放った言葉は、血も涙もないものだった。


「脱落者一名。運べ。……残りの者は登り続けろ。止まることは死を意味すると思え!」


夕暮れ時、私たちはその青年の亡骸を、名もなき荒野の片隅に埋めた。簡素な木の枝を十字に組み、申し訳程度の祈りを捧げるだけの、あまりにも寂しい葬儀。だが、最後の一握りの土が被せられた瞬間、再びあの銅鑼が鳴った。


「葬儀は終わりだ! 夜間戦闘訓練を開始する!」


死者の余韻に浸ることさえ許されない。これが数日間、絶え間なく繰り返された。仲間が消え、新しい土が盛られ、そしてまた走る。ティフェの土は、修行者たちの血と涙を吸って、黒ずんでいるように見えた。


その日の夜、ようやく自分の割り当てられた兵舎のベッドへたどり着いたとき、私の精神は極限まで磨り減っていた。薄い毛布を被り、泥のように眠りに落ちようとしたその時、壁越しにひそひそとした話し声が聞こえてきた。


「……もう限界だ。明日には俺もあの穴の中だぞ」

「逃げるのか?」

「ああ。ここは軍隊じゃない、ただの屠殺場だ。夜逃げする奴は他にも大勢いる。門番だって、修行を辞める奴には目をつむってくれるらしい」


足音を殺して、数人の影が闇に紛れていく気配がした。ここを去るのは自由だ。誰も引き止めないし、逃げることを責める法もない。むしろ、それが人間として正常な判断なのかもしれなかった。


暗い部屋の中で、私は一人、ボロボロになった自分の手を見つめた。

爪は剥がれ、節々は腫れ上がり、金髪は埃と汗で汚れ放題。赤いレオタードだけが、無慈悲に美しく私の体を包んでいる。


「……私だって、つらいよ……」


絞り出すような声が漏れた。

逃げ出したい。今すぐここを飛び出して、エリーのいる清潔な宿舎へ駆け込み、彼女の皮肉まじりの小言を聞きながら温かい紅茶を飲みたい。ベルと二人で、馬鹿げた冗談を言い合いながら笑いたい。


一度溢れ出した感情は、止まらなかった。

私は枕に顔を押し当て、声を殺して泣いた。嗚咽が胸を突き上げ、全身が小刻みに震える。

なぜ私は、こんな地獄にいるのか。なぜ、あんな恐ろしいドラゴンと戦わなければならないのか。


だが、涙で視界が歪むたび、あのアミルの村で見たベルの絶望的な叫びと、ビョルンの最期の瞳が、鋭い楔となって私の心に打ち込まれる。


(私がここで逃げたら……あの時と同じだ。何も変えられないまま、また誰かを失うのを待つだけになる……!)


私は泣きながら、腫れ上がった拳をシーツの上で固く握りしめた。夜逃げしていく者たちの足音が遠ざかる中、私は自分の中の弱さと、醜い逃避願望を、吐き出すように嗚咽に変えて夜の闇に放ち続けた。


明日もまた、地獄が始まる。

それでも、私はこのベッドから起き上がらなければならない。

水晶玉のためではなく、いつか自分の隣にいる仲間を、本当の意味で守れる自分になるために。



地獄のような日々が、ついに終わりを告げようとしていた。

ティフェの街の空は、最終日の朝を祝福するようにどこまでも青く澄み渡っていたけれど、修練場の空気はこれまでで最も重く、張り詰めていた。


初日にはあれほど大勢いた修行者たちは、今や私を含めて数えるほどしか残っていない。脱落した者、夜逃げした者、そして、文字通り帰らぬ人となった者……。生き残った数名の顔には、もはや悲壮感すらなく、ただ研ぎ澄まされた刃のような鋭さだけが宿っていた。


「最終訓練を開始する。内容は――『実戦決闘』だ」


教官の冷徹な声が響く。

一般的な決闘法に基づき、1対1の対決。ただし、条件が二つ提示された。一つは、勝利しても敗者への命令権は発生しないこと。そしてもう一つは、何があっても相手を「殺さない」こと。


「殺さないことは、殺すことよりも遥かに難しい。力加減を誤れば、これまでの修行で得た筋力が容易に相手の命を奪うだろう。心せよ」


事実、過去にはこの最終試験で加減を誤り、友をその手で葬ってしまった者も少なくないという。私は大剣の柄を握る手に、じわりと汗が滲むのを感じた。


そして、ついに私の出番が回ってきた。

「アリア。前へ」

呼ばれて砂塵の舞うリングの中央へ進み出ると、対角線上に立つ相手の姿を見て、私は息を呑んだ。


「……ベル」


そこにいたのは、黒いレオタードに青いマントをなびかせ、頭に亡き幼馴染の形見である茶色の鉢巻をきつく締めた、ベルだった。

彼女もまた、私と同じ地獄を生き抜いてきたのだ。その眼差しは以前よりも深く、鋭く、一振りの名剣のような静かな気迫を放っている。


私たちがお互いに本気で剣を交えるのは、これが初めてだった。

「……手加減、しないでよ。アリア」

「……当たり前でしょ。あんたこそ、泣き言言わないでね」


余韻に浸る間もなく、教官の手が振り下ろされた。


「始めッ!!」


直後、ベルの姿が視界から消えた。

「速い……っ!」

これまでの冒険で見せていた動きとは次元が違う。彼女は風そのものとなり、二本の細剣が銀色の閃光となって私の死角を突いてくる。金属音が火花と共に連続して弾け、私は防戦一方に追い込まれるかに見えた。


だが、私も以前の私ではない。

「はあああああッ!!」

地獄の素振りで鍛え上げた広背筋が、巨大な大剣を羽根のように軽く振り回す。私が剣を叩きつけるたびに、修練場の大地がドォォォォンと鳴動し、衝撃波が砂煙を巻き上げる。


(ベル、あんた……本当に強くなったわね)

(アリアこそ。その一撃、まともに受けたら死んじゃうわよ……!)


剣戟の合間に、視線が交差する。お互いの成長を、肌に伝わる振動と火花の熱を通じて認め合う。これは、言葉よりも深い、命懸けの対話だった。


ベルが超高速の連撃から、一気に懐を狙って踏み込んできた。

勝負の瞬間だった。

私はわずかに体勢を崩したふりをして、彼女を誘い込む。ベルの鋭い刺突が私の頬をかすめたその刹那、私は地を這うような低い姿勢から、大剣を垂直に跳ね上げた。


「そこっ!」


ベルが驚愕に目を見開く。その一瞬の、寸分の隙を見切り、私は彼女の懐へと潜り込んだ。

大剣の切っ先が、ベルの喉元、皮膚を傷つけないギリギリの距離でぴたりと止まる。


「……そこまで。勝者、アリア!」


教官の声が響き渡り、全身の力がふっと抜けた。

私は荒い息を吐きながら、大剣を鞘に収めた。ベルもまた、細剣を収めると、額の汗を手の甲で拭いながら小さく笑った。


「……負けたわ。まさか、あの重い剣をあんな至近距離で止められるなんて。あんた、本当に化け物ね」


「ベルのスピードこそ、本気で怖かったわよ。……ねえ、私たち、少しは強くなれたかな」


「ええ。これなら……あのドラゴンだって、もう怖くないわ」


私たちは、傷だらけの手を互いに伸ばし、固く握りしめた。

地獄を共にした戦友としての、そして誰よりも信頼できる仲間としての健闘を称え合い、私たちは晴れやかな顔で修練場の門をくぐった。そこには、きっとお洒落なカフェで優雅に待ちくたびれているであろう、私たちの「頭脳」が待っているはずだ。



修練場の重い鉄門を背にする直前、後ろからあの地獄の教官が呼び止めてきた。その手には、無骨な二つの木箱が握られてる。


「受け取れ。それが貴様たちの『卒業証書』だ」


渡された木箱の蓋をずらして、私は思わず息を呑んだ。そこには、修行でボロボロになるまで私を支えてくれたあのレオタードの、一点の汚れもない新品が入っていた。それだけじゃない。前よりもずっと上質で、触るだけで強さが伝わってくるような純白のマントが、きれいに畳まれて収まってた。


隣で箱を開けたベルも、「……私のマントも、新調されてる」って、青い布地の感触を確かめながら驚いた声を上げてる。


教官は私たちの顔をじっと見据えて、初めてその厳しい声に熱を込めた。


「貴様らがアルバ峠を目指していることは、最初から知っていた。ティフェは峠に最も近い街だ。つまり、ここは常にドラゴンの脅威に晒されている最前線でもある。これまでの修行で命を落とした奴らの多くも、本当はこの街を、家族を……ドラゴンの爪から守りたかった連中だ」


教官は一拍置いて、私とベルの肩に力強く手を置いた。


「頼む。その力を、自分たちの目的のためだけに使うな。このティフェの街を、そして世界を……ドラゴンから守ってやってくれ」


その言葉は、ただの頼み事じゃない。生き残った私たちに託された「願い」なんだって、痛いくらい伝わってきた。私とベルは顔を見合わせて、力強く頷いたわ。


「任せなさいって! もう、誰にもあんな悲しい思いはさせないわ」


修行を終えたばかりの、晴れやかな笑顔を教官に見せると、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いて……それから、初めて武人としての優しい微笑みを私たちに向けた。


「行け。……死ぬなよ」


その声を背中に受けて歩き出そうとした時、玄関の広間の奥、少し暗い場所に置かれた「それ」が目に飛び込んできた。ワイングラスみたいな形をした、なんだか神々しく輝く器。


「教官、あれは何?」


私が指差すと、教官は足を止めて、その器を敬意を込めた目で見つめた。


「それは『ドライクローネ』と呼ばれる宝具の一つだ。この街に伝わる守護の器でな。アルバ峠の水晶玉の伝説とも深い関わりがあると言われているが……本当のところを知る者は、もうこの街にはいない」


ドライクローネ――。

その名前と、不思議に滑らかなフォルム。それを見つめているうちに、なんだか胸の奥がざわざわしてきた。

(……ねえ、これ、どこかで見たことがある気がする。それも、最近どこかで……)


思い出そうとすると、記憶がするりと逃げていく。でも、この器が私たちの旅にとってすごく大事なものになる――そんな予感だけが、心に深く突き刺さった。


「アリア、何してるの? 置いていくわよ!」


修練場の外で、もう新しい青いマントをなびかせてるベルが声を張り上げてる。私はハッとして既視感を振り払い、「今行くわよ!」って彼女の元へ駆け出した。


「さあ、行きましょう。きっと今頃、エリーが宿舎の豪華なソファで『遅すぎますわ!』って頬を膨らませて待ってるわよ」


私たちは、地獄を一緒に生き抜いた絆を確かめ合うみたいに、肩を並べて歩き出した。

ティフェの中心街へ。

そこで待っている、私たちの不器用で大切な「頭脳」と合流するためにね!



ティフェの冒険者ギルドで、新しく発行された登録証を握りしめ、私はぐっと拳を固めた。


正直、修行を終えた私たちの財布の中身は、笑えないくらいに空っぽだった。軍資金が底をつけば、アルバ峠へ向かうための食料も道具も揃えられない。

「……背に腹は代えられないわね。修行の成果、ここで一気に試してやるんだから!」

私の宣言に、ベルが細剣の柄を叩いて応え、エリーが眼鏡の奥で不敵な光を宿した。


私たちが引き受けたのは、ティフェ郊外の渓谷に現れた『シオンドラゴン』の討伐。

現場にたどり着くと、そこには目を奪われるほど美しい紫色の鱗を輝かせた、巨大な巨躯が横たわっていた。けれど、その美しさに反して、周囲の木々はなぎ倒され、岩肌はドラゴンの毒気でドロドロに溶け落ちている。辺り一面を壊滅させる、まさに「災害」そのものだった。


「来るわよ! 散って!」


私の合図と同時に、ベルが風のような速さで横へ飛んだ。以前なら、ドラゴンの咆哮を聞いただけで体が震えていたかもしれない。でも今は、自分の体の内側から湧き上がる力が、恐怖を完全に塗り替えていた。


「はあああッ!!」


私は地を蹴り、新調された真っ白なマントを翻して正面から突っ込んだ。修行で鍛え上げた脚力は、私の体を弾丸のように加速させる。ドラゴンの鋭い爪が振り下ろされるより早く、私は重い大剣を全力で振り抜いた。


ドォォォォン……ッ!!


一撃。ただの一撃で、ドラゴンの硬い鱗が粉砕され、悲鳴のような咆哮が渓谷に響き渡る。


「隙だらけよ!」


ベルが紫の影を縫うようにして、二本の細剣で急所を次々と貫いていく。その動きもまた、修行前とは比べ物にならないほど鋭い。


そして、一番驚いたのはエリーだった。

「理論の完成形……見せてあげますわ! 『紫電の裁き(サンダーボルト・エクス)』!!」


彼女が魔導書から解き放った雷撃は、以前の数倍の密度と破壊力を秘めていた。正確にドラゴンの翼を焼き切り、その動きを完全に封じ込める。


「……エリー、あんた、魔法までアップデートしたの?」

私が驚いて叫ぶと、エリーは

「当然ですわ。マリーとの再会で、わたくしも自分の甘さを思い知らされましたから」

と、どこか誇らしげに答えた。実は彼女も、私たちが修行している間にあのマリーから厳しい稽古をつけてもらっていたらしい。


結局、あれほど恐れていたドラゴンを、私たちは傷一つ負わずに仕留めてしまった。


「……倒しちゃったわね」

「ええ……。なんだか、あっけなかったわ」


初めてドラゴンを討伐したというのに、実感が湧かなかった。あのアースドラゴンの時に感じた絶望的な力の差が、今はもう、私たちの手の中に収まる程度の距離にまで縮まっている。

これも、あの吐きそうになるほど苦しかった「地獄」の賜物なんだ。


「さあ、いつまでも突っ立ってないで戻りましょう。ギルドでお金を受け取らないと、今夜の夕食も抜きになりますわよ!」


エリーの現実的な一言に、私とベルは顔を見合わせて笑い出した。

私たちはドラゴンの素材を回収すると、意気揚々とティフェの街へ向けて歩き出した。誇らしい気持ちと、少しばかりの空腹を抱えながらね!



ギルドで重たい金貨の袋を受け取ると、私たちの心は久しぶりの解放感でいっぱいになった。

「ねえ、アリア、エリー! 今日くらいはパーッとやりましょうよ。この街、いい酒場がたくさんあるって聞いたわ!」

ベルが、あの地獄の修行を乗り越えたとは思えないくらい明るい声で提案してきた。明日の依頼は簡単な街の警備だけだし、たまには酒好きのベルに付き合うのも悪くないわね。


「もう……ベルったら、お酒のことになると本当に早いですわね。まあ、わたくしもフラッペ以外の甘い飲み物なら興味がありますわ」

エリーが呆れたように眼鏡を直すのを見て、私は笑いながら「よし、決まり! 今日は豪勢にいこう!」と、賑やかな大通りへと歩き出した。


ところが、酒場へ続く大通りに差し掛かった時、街の空気が一変した。

「どけ! 警備隊の通り道だ!」

甲冑の擦れる音と、重々しい馬蹄の音。物々しい雰囲気の中、警備隊の行列がゆっくりと進んでくる。その中心には、頑丈な鉄格子で囲まれた一台の檻車があった。


「……っ!?」


隣を歩いていたベルが、急に足を止めた。

「どうしたの、ベル?」

声をかけようとした私は、彼女の顔を見て凍りついた。ベルの顔からは血の気が引き、その視線は檻車の中に釘付けになっていた。


鉄格子の隙間から見えたのは、汚れ果て、獣のような目をした一人の男。

その男がベルの姿を捉えた瞬間、顔を醜く歪めて鉄格子にすがりついた。


「……ベル! ベルじゃないか! 助けてくれ、ベル! お前、冒険者になったんだろう? その力で俺をここから出してくれよ!」


「あ……、あ……」

ベルの口から、言葉にならない掠れた声が漏れる。彼女は目を見開いたまま、目に見えてガタガタと震えだし、逃げるように後ずさりした。


「ベル、しっかりして!」

私は咄嗟に彼女の肩を抱き寄せ、新調されたばかりの白いマントを大きく広げた。その男の汚らわしい視線から、親友を隠すように。


「おい、離せ! 娘だぞ、そいつは俺の娘だ! 親を見捨てるのか!」

男の叫び声に、周囲の野次馬たちがざわつき始める。行列を先導していた警備隊員の一人が、冷ややかな目で檻車を叩いた。


「静かにしろ、大罪人が。……お嬢さん、こいつの知り合いか? 災難だったな。こいつは再婚相手を手にかけた挙句、逃亡中にティフェの要人まで殺害した。その後も郊外で窃盗と強盗を繰り返していたところを、ようやく取り押さえたんだ。風の噂じゃ余罪は他にも山ほどあるらしい。極刑は免れないだろうな」


隊員の言葉を聞くたびに、私の腕の中でベルの震えが激しくなっていく。彼女は私のレオタードをちぎれんばかりの力で握りしめ、私の体に顔を埋めてしがみついた。


「嫌……嫌……来ないで、助けてアリア……っ!」


かつてベルを、そしてビョルンを絶望の淵に突き落とした元凶。血を分けた親でありながら、彼女の心に消えない傷を刻んだ男が、今、無様に命乞いをしている。

その醜悪な叫び声が遠ざかるまで、私はベルを抱きしめ続けた。


「……行きましょう、アリア。ここはもう、わたくしたちが居ていい場所ではありませんわ」

エリーが震える手で私の腕を掴んだ。彼女の顔も怒りと悲しみで青ざめている。


「……ええ。帰るわよ、私たちの場所に」


結局、酒場に行くことなんてできなかった。

私は泣きじゃくるベルを支え、エリーと肩を寄せ合いながら、逃げるように宿屋へと戻った。

静かな部屋のベッドで、ベルは子供のように丸まって泣き続けていた。私とエリーは、彼女の冷たくなった手を代わる代わる握りしめ、夜が明けるまでそばに寄り添い続けた。


強くなったはずだった。ドラゴンだって倒せるようになった。

でも、過去という名の怪物は、いつだって私たちの心の隙間を狙って牙を剥いてくる。

暗い部屋の中で、私は誓った。この白いマントは、もう二度と、彼女を悲しませないためにあるんだと。



宿屋の狭いベッドで、私はベルをそっと抱き寄せ、添い寝をしていた。外はすっかり暗くなり、街の喧騒も遠のいているけれど、部屋の中にはベルの浅く不規則な呼吸音だけが響いている。


しばらくして、私の胸元に顔を埋めていたベルが、消え入るような声で話し始めた。それは、彼女の心の奥底に封印されていた、どろどろとした暗い記憶の断片だった。


「……ねえ、アリア。あいつは、ずっとああだったの」


ベルの言う「あいつ」とは、あの檻車の中にいた父親のことだ。


「物心がつく前から、あいつにとって私は殴ってもいい道具だった。機嫌が悪ければ殴られ、機嫌が良くても酒の肴に蹴られた。……でも、あの日だけは違ったわ」


ベルの体が、思い出したように小さく跳ねた。


「あいつ、しつけだって笑いながら……鋼鉄のメリケンサックを嵌めたのよ。本気で私を殺そうとして、拳を振り上げた。それを止めたのは、お母さんだった」


私はベルの背中を、ゆっくりと、一定のリズムでさすり続けた。ベルの声は、震えながらも止まらない。


「お母さんは私を庇って、必死に抱きしめてくれた。でも、あいつの拳がお母さんの後頭部を直撃して……嫌な音がしたの。それでもあいつは止まらなかった。お母さんは顔面蒼白になって、意識も朦朧としていたはずなのに、死ぬまで私のことを離さなかった……。近所の人があいつを取り押さえた時には、もう、お母さんは……」


ベルの爪が、私のレオタードに食い込む。


「あいつの顔を見るたびに、あの時の感触や音が全部戻ってくるの。フラッシュバックして、自分がまたあの日の小さな子供に戻ったみたいで。……だから、必死に剣を覚えた。冒険に出て、エリーやアリアと騒いで、お酒を飲んで……そうすれば、あいつの顔を忘れられると思ったから」


ベルは私の胸に顔を強く押し当てて、再び激しく泣き出した。


「なのに……意味ないじゃない……! せっかく地獄の修行を耐えて、ドラゴンだって倒せるくらい強くなったのに、あいつの顔を見ただけで足がすくんで、逃げ出すことしかできない……! 私、ちっとも強くなってなかった……!」


「……そんなことない。そんなことないよ、ベル」


私は、嗚咽を漏らして崩れていく彼女の体を、壊れ物を扱うように、けれど決して離さないように力一杯抱きしめた。


今は、どんな慰めの言葉も空虚に響く気がした。どれだけ剣が速くなっても、どれだけ力が強くなっても、魂に刻まれた傷跡を消し去る魔法なんて存在しない。

ただ、私は自分の白いマントをベルの背中にかけ、彼女が流す冷たい涙を私の肩で受け止めることしかできなかった。


「大丈夫よ。ベルは強いわ。……私が、ずっとそばにいるから。あいつの影に、あんたを連れて行かせたりしない」


夜の闇の中、ベルの震えが少しだけ収まるまで、私は彼女を抱きしめ、名前を呼び続けた。窓の外ではティフェの街を監視する兵士たちの足音が響いていたけれど、今の私たちには、この小さなベッドの上の温もりだけが世界のすべてだった。

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