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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第10話 過去を乗り越えて

宿屋の窓から差し込む朝日は、昨日までの惨劇が嘘のように穏やかだったけれど、部屋に漂う空気は依然として重く沈んでいた。私は眠れぬ夜を明かし、ベルの寝顔を見守りながら、以前地元の図書館で読んだ古い文献の内容をぼんやりと思い返していた。


軍事都市ティフェ。そこは単なる武力の拠点ではない。強固な「法治都市」としての側面こそが、この街の真の正体だ。

ここでは、どれほど些細なトラブルであっても、定められた厳格な法律によって裁かれる。さらに、エリーが以前語っていたところによれば、ティフェには成文化された法律とは別に、膨大な過去の判例を積み重ねた「法の基準」というものが存在し、それが街の隅々まで見えない鎖のように張り巡らされているのだという。


息も詰まるような法と秩序。それがティフェを「完成された都市」たらしめている理由であり、昨夜エリーが感じたあの不気味なほどの治安の良さの根源なのだ。そして、その法の天秤がいよいよ、あの男を裁こうとしていた。


運命の悪戯か、それとも必然か。その日の午後、ギルドの掲示板に一通の特殊な依頼が張り出された。


「……犯罪者の裁判所への護送、および裁判の警護、か」


依頼書を指でなぞりながら、私は奥歯を噛みしめた。名前こそ伏せられていたけれど、今この街で最も注目されている大罪人といえば、あの檻車の中にいたベルの父親に他ならない。

あんな男のために、ベルが再び震える姿なんて見たくない。私はベルがギルドに来る前に、一人でこの依頼を受け、彼女の知らないうちにすべてを終わらせてしまおうと考えていた。


「その依頼、私が受けるわ」


背後から響いたのは、枯れているけれど、どこか澄んだベルの声だった。

驚いて振り返ると、そこには昨夜までの絶望に打ちひしがれた少女ではなく、二本の細剣を腰に帯び、茶色の鉢巻をきつく締め直した「剣士・ベル」が立っていた。


「ベル!? 何言ってるのよ、あんた……。部屋で休んでなさいって言ったじゃない」

私は慌てて彼女の肩を掴み、掲示板から遠ざけようとした。

「いい、この依頼は私がやるわ。あんたは顔も見なくていいの」


「ダメよ、アリア」

ベルは私の手を優しく、けれど拒絶できない力強さではねのけた。

「昨日、あいつの姿を見て逃げ出した時……私、悟ったの。このまま逃げ続けて、お酒や冒険で誤魔化していても、私の心はあの日、お母さんが死んだあの一室に閉じ込められたままなんだって。あいつは、私の中の『弱さ』そのものなのよ」


彼女の瞳の奥に、消えかけていた炎が再び灯るのが見えた。


「私は強くなった。修行に耐えて、ドラゴンだって倒せるようになった。それを証明するのは、大剣を振ることじゃない。あいつの……過去の悲しみと向き合って、今度こそ自分の足で立ち上がることなの。だから、私にやらせて」


「でも……!」

私は言葉を飲み込んだ。ベルの決意は、地獄の修行で培ったどんな術式よりも強固なものだった。彼女にとって、この護送と裁判は、自分自身の魂を取り戻すための聖戦なのだ。


ベルの横顔には、もう迷いはなかった。けれど、私は彼女の手が微かに、本当に微かに震えているのを見逃さなかった。

あんな化け物と対峙して、ベルの心が再び壊れてしまったら? 法の基準とやらが、あいつに有利に働いてしまったら? 不安が胸をざわつかせ、私は自分の大剣の柄を強く握りしめた。


「……分かったわよ。そこまで言うなら、止めない」

私はベルの隣に並び、ギルドの受付に力強く登録証を叩きつけた。

「ただし、条件があるわ。私も一緒に行く。あんたの背中は、私が守る。……いいわね?」


ベルは驚いたように目を見開き、それから困ったように微笑んだ。

「……お節介ね、アリア。でも、ありがとう」


こうして、私たちはティフェの厳格な法の秩序の中へと足を踏み入れることになった。

ベルの父親という、過去の悪夢を裁判所へと送り届けるために。

私たちの本当の「強さ」が試される戦いは、剣を振るうことのない法廷という場所で、静かに幕を開けようとしていた。



ティフェの街の北側に位置する、重厚な石造りの拘置所。その門を潜った瞬間、外の活気ある喧騒が嘘のように消え、代わりに冷え切った湿り気と、鉄錆の匂いが私たちを包み込んだ。


「……遅いわね」


私が隣のベルに声をかけると、案内役の看守が申し訳なさそうに肩をすくめた。

「すまない。出発の準備に手間取っているんだ。中にいる大罪人が、暴れて手に負えなくてな」


看守が指差した壁の奥から、低く、濁った怒声が響いてくる。壁越しだというのに、その声には聞く者の神経を逆撫でするような、どろりとした狂気が混じっていた。


「離せ! 俺を誰だと思っている! 街の要人を殺した? それがどうした! 俺には権利があるんだ! 自由にする権利がなぁっ!」


その声を聞いた瞬間、ベルの肩が跳ねるように震えた。

彼女の横顔を盗み見ると、その表情は昨夜のような絶望ではなく、氷のように冷たくこわばっていた。唇を一文字に結び、奥歯を噛みしめる彼女の瞳には、かつてないほどの激しい「怒り」が宿っているのが分かった。


ほどなくして、ギィィ……と嫌な音を立てて鉄の扉が開き、馬に引かれた檻車が私たちの前に姿を現した。


鉄格子の向こう側、地べたに座り込んでいた男が、私たちの姿を――正確には、ベルの姿を捉えた。


「……っ!」


私は反射的に、ベルの冷たくなった手をぎゅっと握りしめた。修行でマメの潰れた、ゴツゴツとした私の手。せめて私の体温だけでも彼女に伝わって、あの日のお母さんの温もりの代わりになればと願わずにはいられなかった。


ベルは私の手の力に気づくと、私の方を見ずに、ただ前を向いたまま、不器用な作り笑いを浮かべて小さく頷いた。その笑顔があまりに痛々しくて、私は大剣の柄を握る手に思わず力が入る。


一方、檻車の中の男は、娘が自分の警護に就いたことを知るや、一転して上機嫌な声を上げた。


「ひひっ、なんだ、やっぱり来てくれたのか! さすがは俺の娘だ。あんな酷い街の連中なんて放っておいて、俺を助ける算段でも立ててくれたんだろ? なあ、ベル。お前が剣を振れば、こんな檻なんて一撃だよな?」


男は鉄格子を掴み、気味の悪い笑顔を浮かべてベルに語りかけ続ける。かつて彼女の母親を死に追いやったその口から、自分勝手な親愛の言葉が溢れ出すたび、周囲の空気まで汚染されていくような錯覚に陥った。


けれど、ベルは揺らがなかった。

彼女は男を一瞥することさえせず、無表情のまま、深い静寂を貫いている。男の言葉を、ただの雑音として、あるいは存在しないものの声として切り捨てているようだった。


「……出発しましょう」


ベルの低く、凛とした声が響く。


馬車がゆっくりと動き出し、私たちはその左右を固めるように歩き始めた。

石畳を叩く馬の蹄の音と、檻が軋む音。そして、背後でなおも助けを乞い、時に罵倒へと変わる男の叫び声。


裁判所までの道のりは、距離にすればわずかなものだろう。

けれど、私にはその一歩一歩が、ベルが過去という名の鎖を断ち切るための、果てしなく長い行進のように感じられた。私は彼女の手を離さないまま、真っ白なマントを風になびかせ、ティフェの冷厳な法の天秤が待つ場所へと歩みを進めた。



裁判所への道は、想像していたよりもずっと長く、そして汚濁に満ちたものだった。


檻車の中から聞こえてくるのは、反省の色なんて微塵もない、身勝手な欲望の垂れ流し。

「腹が減った、何か食わせろ」

「タバコをよこせ」

「こんな狭いところに入れやがって、外に出せ!」

あいつは鉄格子をガタガタと揺らしながら、醜く喚き続けていた。


次第にその言葉は、聞くに堪えない屁理屈へと変わっていく。

「人を一人や二人殺して何が悪い、俺は生きようとしただけだ」

「金なんて世の中の回りものだろ、持ってる奴から奪って何が悪い」

「どいつもこいつも、心の中じゃ犯罪者じゃねえか」


隣を歩くベルは、相変わらず一言も発さず、彫像のように無表情を貫いていた。でも、私には分かっていた。彼女の白い指先が、掌に食い込むほど強く握りしめられているのを。地獄の修行で鍛えたその拳が、怒りと屈辱で小刻みに震えているのを。


そして、自分の要求が一つも通らず、ベルに完全に無視され続けたことで、ついにあいつのストレスが頂点に達した。


「おい、聞いてんのかベル! 親が話してんだよ!」


あいつは鉄格子に顔を押し付け、剥き出しの悪意をベルの横顔に叩きつけた。


「……ちっ、可愛くねえ女だ。あの日のお袋と同じツラしやがって。またあの日みたいに、鉄の拳で『調教』してやらねえと、自分の立場が分からねえか?」


「……っ!!」


私の頭の中で、何かがブチ切れる音がした。大剣の柄に手をかけ、一歩踏み出しそうになったその時。私の怒りよりも早く、空気を切り裂く鋭い音が響いた。


「――っ!?」


銀色の閃光。

ベルがいつの間にか抜剣し、その細剣の切っ先を、鉄格子の隙間からあいつの喉元に突き立てていたのだ。あと数ミリ踏み込めば、あいつの喉笛を貫く……そんな、寸分狂わぬ精密で冷徹な一突き。


さっきまで喚き散らしていた男が、ヒッ、と短い悲鳴を上げてのけぞった。喉に突きつけられた「死」の予感に、その顔はみるみるうちに土気色に変わっていく。


「……黙れ」


ベルの口から漏れたのは、地を這うような低い、けれど絶対的な拒絶の言葉だった。

その瞳には、もう過去に怯える少女の面影はなかった。目の前にいる怪物を、ただの「排除すべき対象」として見下ろす、冷徹な剣士の目がそこにあった。


ベルはあいつが完全に怯えきったのを確認すると、何事もなかったかのように剣を引き、鞘に収めた。そして、再び無言のまま、裁判所への歩みを再開した。


私はその光景を横で見ていて、心臓が口から飛び出しそうなほど冷や冷やしていた。

もし、あのまま刺し殺していたら。もし、警備隊がこれを見てベルを罪に問うたら……。


(ベル……あんた、大丈夫なの……?)


一瞬見せた、あの氷のような冷たい表情。

修行で手に入れた力は、確かにあいつを黙らせる術を彼女に与えたけれど、同時に彼女の心をも削り取っているような気がしてならない。

私は不安を押し殺し、彼女の背中を追った。

ティフェの巨大な裁判所の塔が見えてくる。そこは、法がすべてを裁く場所。

あいつの罪も、そしてベルの過去も、すべてがあの冷たい石造りの建物の中で決着しようとしていた。



ようやく辿り着いた裁判所の巨大な正門前。そこには、見覚えのある筋骨隆々の影が仁王立ちしていた。あの修行初日、私の着ているものを「採寸」だなんだと言って触りまくった、例の兵士だ。


「……おう、貴様らか。無事に護送任務を遂行したようだな」


兵士は、裁判所と警備隊の応援として駆り出されていたらしい。彼が言うには、裁判所に到着した安心感からか、最後の最後で脱走を試みる不届き者が後を絶たないため、万が一の時に物理的に叩き伏せられる屈強な兵士が待機しているのだという。


感心して話を聞こうとした私だったけれど、視線の違和感にすぐ気づいた。


(……この男、また……!)


彼の視線は、私の顔ではなく、新調された赤いレオタードに包まれた胸元を、隠そうともせずガン見していた。


「おい、アリアと言ったか。貴様……あの地獄の修行を経て、さらに『成長』したようだな? 生地が以前より張っているように見えるが、また採寸が必要か?」


「な、ななな……何をこのドエロ兵士ーっ!! 公共の場でどこ見てんのよ! セクハラよ、訴えてやるんだからーっ!!」


私は思わず顔を真っ赤にして、静まり返った裁判所の入り口で絶叫してしまった。すると、開け放たれた大扉の奥から、厳格そうな法服を纏った裁判官がぬっと顔を出した。


「……静粛に。ここは法と正義が支配する聖域。無用な喧騒は、法の尊厳を汚すものと心得よ」


低く冷徹な声にたしなめられ、私は慌てて口を塞いだ。裁判所の中は、外の喧騒が嘘のように静謐で、自分の足音さえも罪深く感じるほどの緊張感に満ちている。


「……ご、ごめんなさい」


私は小さくなって謝りながらも、あいつ――ベルの父親――を檻車から引きずり出して連行していく兵士の背中に向かって、裁判官に見えない角度で「イーだ!」と全力でべーをしてやった。あんなデリカシーのない男に、アリア様の成長ぶりを語られたくないわよ!


けれど、ふと隣を見ると、ベルの顔つきが再び変わっているのに気づいた。

彼女はもう、あいつの喚き声に耳を貸してはいない。ただ神妙な、覚悟を決めた面持ちで、自身の過去と決着をつけるための扉……裁判室の重い扉を見つめていた。


「……行くわよ、アリア」


「ええ……。最後まで、私がついてるから」


ベルが静かに、けれど確かな足取りで裁判室へと入っていく。私もその背中を追うように、護衛としての任務、そして友としての使命を胸に、静まり返った法廷の中へと足を踏み入れた。


高い天井、冷たい石の壁。

そこは、感情を排した純粋な「ことわり」が、すべてを裁く場所だった。



裁判が始まるまでの待機時間は、実戦の数時間よりも遥かに長く、そして重苦しく感じられた。


私たちは裁判所の奥にある警備隊の控え室で、刻一刻と迫る開廷の時を待っていた。ティフェの厳格な法執行には膨大な書類の準備が必要なうえ、罪人の身柄を法廷へ引き出すための拘束作業が難航しているらしい。壁一枚隔てた廊下の先からは、看守たちの怒鳴り声と、あいつ――ベルの父親の、耳を劈くような罵声が聞こえてくる。


「離せ、この薄汚い役人ども! 俺に触るなと言っているだろ!」


その声が響くたび、私の隣に座るベルの肩がびくりと跳ねる。彼女は控室の硬いベンチに座り、膝の上で組んだ両手をじっと見つめて俯いていた。新調された青いマントが、彼女の体の震えを隠しきれずに小刻みに揺れている。


私はたまらず、彼女の隣に深く座り直し、その震える肩を抱き寄せた。手のひらを通じて伝わってくる震動は、想像以上に激しい。それは、地獄の修行で手に入れた筋力や技では決して抑え込むことのできない、魂の根源的な恐怖だった。


「ベル……やっぱり、これ以上は無理よ。あんたはここに残って。裁判の様子は私が後で全部話すから、ね?」


私は彼女の目を見つめて、必死に説得しようとした。けれど、ベルは力なく、けれど頑なな仕草で首を横に振った。


「いいえ、アリア。私が行かなきゃダメなの。……あいつは、昔からずっとそうだった。自分の欲望が通らないと世界が間違っていると思い込み、精神の均衡を平然と投げ出す男。他人の痛みなんて、あいつの歪んだ心には一滴も染み込まない……」


ベルは掠れた声で、独り言のように続けた。


「あいつには……せめて自分が犯した罪の重さを、その身に刻んでほしい。逃げることも、喚くことも許されない法の檻の中で、絶望しながら、後悔しながら地獄に落ちればいい。……それをこの目で見届けるまで、私の時計は止まったままなのよ」


その言葉には、親娘という縁を自ら裁ち切った者の、凄惨な決意が宿っていた。震えは止まらない。それでも、彼女の意志は折れていなかった。


私は何も言わず、震え続ける彼女の細い体を、壊れないように、けれど確かな重みを持って力一杯抱きしめた。私の赤いレオタードにベルの涙が染み込んでいくのを感じながら、心の中で何度も「大丈夫、私がいる」と唱え続ける。


数分、あるいは数十分が経っただろうか。私の胸の中で、ベルの呼吸が次第に深く、静かなものへと変わっていった。彼女はゆっくりと顔を上げると、少しだけ赤くなった目で私を見つめ、いつもの凛とした、けれどどこか儚い笑顔を見せてくれた。


「……ありがとう、アリア。もう、大丈夫よ」


その時、控室の扉が重々しく開いた。

「開廷の準備が整った。証人兼、警護の冒険者は入室せよ」


職員の無機質な声が響くと同時に、私たちは再び「戦士」の顔に戻った。

廊下では、手枷と足枷を厳重に嵌められ、数人がかりで抑え込まれたあいつが、毒々しい眼光を撒き散らしながら法廷へ連行されていくところだった。


私はベルの隣に並び、大剣の重みを肩に感じながら歩き出した。

静謐な法廷の扉の向こうで待ち受けているのは、単なる裁きではない。ベルが自分自身を縛り付けてきた「過去」という名の鎖を、ティフェの法という大槌で粉砕するための、人生最大の戦いなのだ。


私たちは一歩ずつ、冷たい石畳を踏みしめ、断罪の場へと足を踏み入れた。



重い法廷の扉が、私たちの目の前で音もなく開いた。


檻から引きずり出されたあいつは、両腕を背後で厳重に縛られているというのに、まるで毒に当てられた獣のように執拗に暴れ続けていた。看守たちが数人がかりで押さえつけているけれど、その汚い口からは絶え間なく罵声と呪詛が吐き出される。


「離せ! 貴様ら全員、俺の自由を奪った罪で呪い殺してやる! ベル、お前もだ! 親を売った報いを受けろ!」


扉までのわずかな距離が、永遠のように長く感じられた。あいつの声が鼓膜を震わせるたびに、周囲の空気が腐っていくような気がして、私はマントの端を強く握りしめた。


その時だった。法廷へと足を踏み入れる直前、ベルが不意に足を止めた。

彼女は近くにいた警備隊の隊長に何事かを確認し、短く了解を得ると、懐からひどく汚れ、薄汚れた布切れを取り出した。


「な、なんだ、それは! 何をする気だ!」


あいつが怯えたように叫ぼうとした瞬間、ベルの動きは電光石火だった。修行で培ったあの無駄のない所作で、あいつの背後に回り込むと、迷うことなくその口に布を押し込み、後頭部で力任せに縛り上げたのだ。


「……んぐっ!? ぐ……ぅぅぅ!!」


猿ぐつわを噛まされたあいつは、目を血走らせて抗議の声を上げようとしたけれど、漏れ出てくるのは意味をなさない濁った唸り声だけ。

あんなに周囲を威圧していた罵声が、一瞬にして惨めな鳴き声に成り下がった。


ベルはその様子を冷たく見下ろすと、鼻で笑いながら、耳元で氷のように冷たい言葉を投げ捨てた。


「……無様ね」


その一言には、長年彼女を縛り付けてきた恐怖への決別と、目の前の怪物に対する底知れない蔑みが込められていた。ベルはそのまま、抵抗を続けるあいつの背中を、法廷の中へと力強く押し込むようにして連行していった。


私はその後ろ姿を追いながら、背中に冷や汗が流れるのを感じていた。

(ベル……あんた、本当に……)

あいつを黙らせた時の、あの淀みのない、それでいて慈悲の一片も感じさせない冷徹な横顔。地獄の修行が彼女に与えたのは、剣の腕だけじゃなかった。それは、自らを傷つけた対象を容赦なく切り捨てる、「冷酷な強さ」でもあった。


法廷の中は、外の喧騒を遮断した静寂の海だった。

中央の高い壇上に、威厳を纏った裁判官が入室してくる。それと同時に、室内には張り詰めたような緊張感が充満した。


ベルは、猿ぐつわを噛まされ顔を真っ赤にして悶えるあいつを、被告席の椅子に乱暴に座らせた。その隣で、私は大剣の柄に手をかけたまま、厳粛な法廷の一部として立ち尽くす。


「これより、被告人の審理を開始する」


裁判官の木槌の音が、高く、鋭く響き渡った。

それは、あいつの罪を暴き出す合図であり、同時に、ベルの過去という名の怪物を永遠に葬り去るための、断罪の始まりでもあった。



高い天井に木槌の音が反響し、ティフェが誇る厳格な裁判の幕が切って落とされた。


法壇に立った検察官は、感情を排した冷徹な声で、あいつ――ベルの父親が積み上げてきた罪状の束を読み上げ始めた。その内容は、私たちの想像を遥かに超える、吐き気を催すような汚濁の記録だった。


「被告人、及びその一味による罪状を読み上げる。まず、ベルの母親を含む女性数名、およびティフェの要人数名に対する残虐な手段を用いた殺人罪。市場における数十件の窃盗罪。ギルド出張所および武器商店に対する武装強盗罪。さらに郊外の廃村を拠点とした大規模な違法賭博罪、および広域詐欺罪……」


検察官の声は止まらない。彼はさらに、これまでに発覚していなかった余罪を次々と突きつけていった。


「……加えて、軍用馬の不正売買による軍機保護法違反。街道の孤児たちを誘拐し、非合法な労働力として売り飛ばした人身売買の仲介罪。さらには、ティフェの貯水池への毒物混入を画策したテロ予備罪。これらすべての証拠は揃っている」


人身売買にテロ予備罪……。読み上げられる言葉の一つひとつが、あいつという存在がいかに救いようのない「毒」であるかを裏付けていた。時折、あいつの隣に座る公選弁護人が「異議あり」と形ばかりの声を上げるけれど、その顔には隠しきれない嫌悪感が滲み、目は「早く終わらせたい」と言わんばかりのやる気のない色を湛えていた。


「んぐっ! ぐうぅぅぅっ!!」


あいつは隣の弁護人を血走った目で睨みつけ、猿ぐつわ越しに何かを必死に叫ぼうとしていた。唾液で汚れた布がその声を無様な唸りへと変える。その姿は、かつてベルを「調教」すると豪語した支配者の面影など微塵もない、檻の中で足掻く下劣な小動物そのものだった。


やがて、裁判官の許可によってようやくあいつの猿ぐつわが外され、証言が認められた。けれど、そいつの口から飛び出したのは、謝罪でも反省でもなく、ただただ身勝手な不平不満の濁流だった。


「俺が悪かったんじゃない、運が悪かっただけだ! 要人を殺したのは、あいつが俺を馬鹿にしたからだ! 娘のベルだってそうだ、あいつがあの日もっと素直に殴られていれば、母親だって死なずに済んだんだ! 全部、周りの奴らが俺を追い詰めたせいだ……っ!」


その言葉を聞いた瞬間、隣に立つベルの肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。

彼女はもう、怒ってさえいなかった。ただ、ゴミ溜めを見るような、あるいは道端に転がる石ころを見るような、完全に冷めきった「観念」の表情で、父親と呼ばれた怪物を静かに見下ろしていた。


その表情を見た時、私の胸の奥に、言葉にできないほど重く「やるせない」気持ちが広がった。

ベルは今、ようやくあいつという呪縛から解放されようとしている。でも、その代償として、彼女の心の一部は、もう二度と元には戻らないほど冷たく削り取られてしまったんじゃないか。強くなるために地獄を生き抜いて、やっと手にした平穏な日常さえも、あいつの存在が汚してしまったような気がして、私は自分の拳を強く握りしめた。


ふと上を見上げると、裁判官の表情が目に入った。

厳格であるべきその顔には、不気味なほど晴れやかな、どこか陶酔したような笑みが浮かんでいた。まるで、極上の芸術作品が完成する瞬間を待っているかのような、歪んだ高揚感。


「――十分だ。これ以上の審理は不要と判断する。一度休廷し、判決文の作成に入る」


裁判官が木槌を鳴らし、休憩が宣言された。

法廷を出る際、例のデリカシーのないエロ兵士が私の横に並び、裁判官のいた席を顎でしゃくった。


「おい、アリア。あの裁判官の顔を見たか? あの『晴れやかさ』は、ティフェの法の番人たちが、最も重い断罪を下す直前に見せる特有の表情だ。奴は最初から決めていたんだろう。……この休廷はただの形式だ。判決は、すぐに、そして極めて苛烈なものになるはずだぞ」


兵士の言葉に、私は何も答えられなかった。

判決が出る。あいつはきっと、二度と日の目を見ることはないだろう。それはベルが望んだ結末であり、正義がなされる瞬間のはずだ。


でも、私の視線の先にいるベルの後ろ姿は、新調された青いマントに包まれていながらも、どこか頼りなく、ひどく孤独に見えて仕方がなかった。

私は彼女に駆け寄り、その冷たくなった手を再び握りしめることしかできなかった。



休廷が解け、法廷内の空気は氷点下にまで下がったかのような静寂に包まれた。


裁判官が再び壇上に現れたとき、その手には一枚の羊皮紙が握られていた。彼は厳粛な、それでいてどこか芝居がかったほど朗々とした声で、判決の理由文を読み上げ始めた。ティフェの法典に基づき、被告がいかに社会の調和を乱し、人としての道を外れたかが、冷徹な言葉で紡がれていく。


(……来るわね)


私は隣に立つベルの拳が、白くなるほど握りしめられているのを見た。理由文から読み上げるのは、それが取り返しのつかない重い結末であることを意味している。対照的に、被告席のあいつは、自分が置かれた状況を理解しているのかいないのか、不服そうに顔を歪め、裁判官を呪うように睨みつけるだけだった。


やがて、理由の朗読が終わり、裁判官が深く息を吸い込んだ。


「――よって、主文を言い渡す。被告人を、死刑に処す」


その瞬間、法廷内の時間が止まった。ベルの肩が微かに揺れ、彼女の瞳からようやく何かが抜け落ちたような気がした。


だが、幕引きは残酷な形で訪れた。裁判官が閉廷を告げ、席を立とうとした刹那、あいつが獣のような咆哮を上げて飛び出したのだ。

「ふざけるな! 俺を殺すだと!? 死ぬのは貴様らの方だぁっ!」


見ると、あいつの両腕を縛っていた頑丈な麻縄が、ズタズタに引きちぎれていた。おそらく、護送中から今の今まで、執念深く体を動かし続け、摩擦で縄を摩耗させていたのだろう。あいつは驚愕する警備兵の腰からサーベルを鮮やかな手つきで奪い取ると、壇上の裁判官へ向かって斬りかかった。


「させないっ!」

ベルが真っ先に動いた。親子の縁も過去の未練も捨て去り、一人の剣士として、狂った肉親を阻止するために踏み込んだ。だが、死に物狂いのあいつは、実の娘を迷わず返り討ちにしようと、強奪したサーベルを猛然と振り下ろした。


「ベル、危ないっ!!」


私の叫びが響く中、鋭い銀光がベルの胴体を斜めに真っ二つに切り裂いた――かに見えた。

しかし、血飛沫は舞わなかった。あいつのサーベルは確かにベルの体を捉えたはずなのに、手応えがないかのように空を切り、ベルの姿は陽炎のように揺らめいて消えたのだ。


「な、なんだ!? どこへ行った!」

錯乱するあいつの後ろから、あのエロ兵士が落ち着き払った声で呟いた。

「……残像だ。修行で極限まで高めた脚力が、目にも留まらぬ踏み込みを可能にした。奴は自分の姿をその場に『置いてきた』のさ。本物はもう、あいつの死角にいる」


その言葉通り、あいつは背後から見えない衝撃を受けたかのように激しく突き飛ばされ、石畳の上を無様に転がった。


「がはっ……、あ、が……」

あいつが這いつくばりながら立ち上がろうとした瞬間、その視界を塞いだのは、冷たく輝く細剣の切っ先だった。

ベルは、いつの間にかあいつの目の前に立っていた。その瞳にはもはや何の感情も、恐怖も、憐れみすらも宿っていない。ただ、絶対的な断罪者の光があるだけだった。


「ひ、ひぃっ……! 待て、ベル! 待ってくれ、俺が悪かった、だから……!」


命乞いをするあいつの声は、駆けつけた警備隊員たちに取り押さえられ、新しい縄で無慈悲に縛り上げられる音にかき消された。ベルは地面に伏し、震えながら自分を見上げるかつての父親を、この世の何よりも汚らわしいものを見る目で一瞥した。


「……自分のやったことが、まだわからないクズが。地獄で、お母さんに何度でも謝れ」


吐き捨てるようにそうつぶやくと、彼女は一度も振り返ることなく、翻した青いマントで砂埃を払うようにして法廷を後にした。私はその背中を追い、あいつを罵倒したい気持ちすら忘れて、急いで彼女の隣へ駆け寄った。


背後の法廷からは、なおもあいつが何かを喚き散らす、耳障りな声が響いていた。けれど、その叫びはもう、私たちの心には一ミリも届かなかった。何を言っているのかさえ聞き取れない、ただの空虚な雑音。


裁判所の外に出ると、ティフェの冷たい風が頬を叩いた。ベルは立ち止まり、高く広がる空をじっと見つめていた。私は何も言わず、彼女の隣に立って、ただ一緒にその風を感じていた。これで、本当の意味で、私たちは前へ進める。ベルの細い指先がもう震えていないのを確認して、私は自分の白いマントをギュッと握り締めた。



裁判所の外には、まだ冷ややかな空気と共に、私たちの最後にして最も過酷な任務が待ち構えていた。判決が下ったとはいえ、あいつを「特別な拘置所」へと送り届けるまでは、護衛としての責任は終わらない。


警備隊の合図で裏門へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。数頭の馬に引かれた荷台の上には、窓ひとつない、漆黒に塗られた大型のドラム缶のような鉄製の容器が鎮座していたのだ。


「……あれは、何?」

私が思わず尋ねると、先行する警備隊の男が感情の欠片もない声で答えた。

「重大犯罪を犯した死刑囚専用の護送ポッドだ。内側には魔力封じの術式が組まれ、物理的な衝撃も外には漏れない。この中でどれだけ暴れようが、もはやティフェの法という壁を越えることはできない」


あいつはその中に乱暴に押し込まれ、重厚なハッチがボルトで幾重にも締められた。ガラン、ドォンと、内側から激しく鉄を叩く鈍い音が響く。あいつはまだ、自分が置かれた現実を呪い、喚き散らしているのだろう。私たちはその不気味な黒い塊を監視しながら、再び歩みを進めた。


ドラム缶の中からは、絶え間なくあいつの身勝手な独白が漏れ聞こえていた。

「俺は悪くない! あの裁判官は狂っている! ベル、そこにいるんだろ! お前からも言ってやれ、これは何かの間違いだって!」

鉄の厚みでくぐもってはいるものの、その声には以前のような威圧感はなく、ただただ自身の破滅を恐れる卑屈な響きが混じっていた。


ベルは、ドラム缶の隣を歩きながら無表情を貫いていたけれど、次第にその横顔は険しく、痛々しいものに変わっていった。肩で刻む呼吸は荒くなり、瞳の奥にはあいつに対する怒りと、それ以上に深い「何か」が渦巻いているのが見て取れた。


やがて、自分の声が届かない、あるいはベルが近くにいないと思い込んだのか、あいつの叫びはさらに悲痛で、醜い懇願へと変わっていった。

「頼む……誰か裁判をやり直してくれ! 反省してる、今度こそ真っ当に生きるから! せめて人権ぐらい守ってくれ! 死刑なんて、あまりにも非人道的だ……助けてくれ、誰か助けてくれぇっ!!」


「……っ!!」

その言葉を聞いた瞬間、私の全身に激しい怒りの炎が燃え上がった。

人権? 反省? お母さんをあんな残酷な方法で殺し、ベルの幼少期を地獄に変え、数えきれない人々の命と人生を奪っておいて、自分の命が惜しくなった途端にそんな言葉を吐くなんて。あいつには、そんな言葉を使う資格なんて一欠片もない。


私は震える拳を握りしめ、今すぐそのドラム缶を崖から蹴り落としてやりたい衝動に駆られた。けれど、隣のベルを見ると、彼女はもうあいつの声を聞くまいとするように、耳を塞ぎたいのを必死に堪えて前だけを見つめていた。


長い、あまりに長い沈黙の行進の果てに、私たちは街の最果てにある、地下深くへと続く特別な拘置所に到着した。

あいつを入れた黒いドラム缶は、滑車とチェーンによって冷たい闇の底へと吊り下げられ、そのまま無造作にどこか奥へと転がされていった。もう二度と、あいつが陽の光を浴びることも、誰かを傷つけることもない。それが、ティフェの法が下した最終回答だった。


「……終わったわね」


任務完了のサインを警備隊に送り、振り返った瞬間だった。

張り詰めていた糸がプツリと切れたように、ベルが私の胸に飛び込んできた。


「……う、ああ……ああああああぁぁっ!!」


彼女は私の赤いレオタードに顔を埋め、子供のように、獣のように、声を上げて泣き出した。地獄の修行でも、ドラゴンの咆哮の前でも決して見せなかった、魂が引き裂かれるような慟哭。


「ベル……。よく頑張ったわね、本当によく頑張った……!」


私は彼女の体を、壊れないように、でも力の限り抱きしめ返した。彼女の背中を伝う震えが私の体にも伝わり、私の目からも熱いものが溢れ出した。

あいつへの憎しみ、お母さんへの思慕、奪われた時間への悔しさ、そして、自分の手で過去に引導を渡したという恐ろしさ。それらすべてが、涙となって溢れ出していた。


「もう大丈夫……もう、あいつはいない。誰もあんたを傷つけないわ……」


日がゆっくりと沈み、ティフェの街が紫色の黄昏に包まれても、ベルの泣き声は止まらなかった。新調された白いマントと、彼女の青いマントが重なり合い、闇の中で静かに揺れていた。


その慟哭は、彼女が「被害者」としてではなく、自分の人生を歩む「一人の女性」として再生するための、避けては通れない儀式のようだった。私はただ、夜の帳が下りるまで、彼女の心の痛みが少しでも和らぐように、その温もりを抱きしめ続けていた。



翌朝、ギルドの喧騒の中に足を踏み入れた瞬間、私を待ち受けていたのは鋭い視線のレーザーだった。


「遅いですわ! アリア、それにベルも! 昨日は一体どこで何をしていたんですの!?」


受付のカウンターに陣取ったエリーが、私たちの顔を見るなり、堰を切ったように文句を垂れ流し始めた。眼鏡の奥の瞳は完全に据わっている。どうやら彼女、私たちが昨日の裁判に彼女を誘わなかったことに、心底腹を立てているようだった。


「ちょっと落ち着きなさいよ、エリー。あれは護送任務だったし、内容が内容だったから……」

「言い訳は聞き飽きましたわ! 私は、ティフェの法典が実際にどう運用されるのか、この目で確かめたかったのです! それなのに、一番重要な場面で私を宿舎に置き去りにするなんて、仲間外れもいいところですわ!」


エリーはぷんぷんと頬を膨らませて地団駄を踏んだ。

実は、ティフェの裁判は大抵の場合、市民に公開されている。図書館に通い詰めていた私ですら知っていたことだけれど、どうやらこの「歩く図書館」ことエリー様は、珍しくその事実を知らなかったみたい。理論や歴史には詳しいのに、実際の街のルールに疎いところが、いかにも彼女らしいといえば彼女らしいんだけど。


「……あ、あの、エリー様」

窓口の女性職員が、エリーの剣幕に引き気味になりながら、おずおずと口を挟んだ。

「その、次の公判……判決の執行に関する法廷の日程が決まりましたら、すぐにお知らせしますから。ただ、死刑囚の処遇については軍事上の機密も絡むので、次がいつになるかは、今の段階では何とも……」


「全然わからないということですわね!? はぁ……やりきれませんわ!」


エリーの怒りの矛先は再び私に向けられた。私の新調したばかりの白いマントの端をぐいぐいと引っ張り、

「アリアのせいですわ!」

「筋肉バカが脳まで筋肉になったんですの!?」

と乱暴な言葉を浴びせてくる。


「わ、わかったから、マントが伸びるってば!」


私がたじたじになっていると、それまで静かに私たちのやり取りを見ていたベルが、そっとエリーの肩に手を置いた。


「エリー。……ごめんなさい。私の事情で、あなたを巻き込みたくなかったの。でも、そんなに怒るなら、代わりに『見せたかったもの』を見せてくれない? あなたが昨日の裁判よりも重要だと思っている、何かがあるんでしょ」


ベルの穏やかな、けれど芯の通った声に、エリーは不自然なほどピタリと動きを止めた。彼女は一つ大きなため息をつくと、

「……ベルがそう言うなら、仕方ありませんわね」

と、不器用な手つきでマントから手を離した。


エリーは脇に抱えていた、ずっしりと重そうな革表紙の本を取り出した。それは彼女が地元の図書館から借りてきた、門外不出のはずの美術品図鑑だった。


「いいですこと? 感情に流されてはいけませんわ。私たちがティフェにいる真の目的を忘れないでください」


エリーが迷いのない手つきで図鑑の該当ページを開き、机の上に広げた。

そこに描かれていたのは、昨日、私とベルが修練場の玄関で見かけた、あの「器」だった。


「これ……! 昨日、修練場で見たやつだわ」

私が声を上げると、エリーは満足げに頷き、その図鑑の絵を指でなぞった。


「そうですわ。ワイングラスのような神々しい曲線、そして内側から放たれる特有の魔力光。これは『ドライクローネ』と呼ばれる古代の宝具の一つ。ティフェの街にはこれが一つ安置されていますが、図鑑によればこれは『三つの王冠』を意味する連作の器……」


エリーの声が、いつになく真剣なトーンに変わった。


「アリア、ベル。このドライクローネは、単なる美術品ではありません。アルバ峠に伝わる『水晶玉』の伝説。あのドラゴンが守っていた、世界を統べる力……。この器こそが、その伝説の核心に触れるための『鍵』である可能性が非常に高いのです」


エリーは図鑑の余白に記された、解読不能な古代文字をなぞりながら、アルバ峠の謎について語り始めた。彼女の言葉の一つ一つが、昨夜の重苦しい空気を切り裂き、私たちの旅を再び未知なる冒険へと押し戻していくようだった。



博物誌:失われた祭器『ドライクローネ』に関する考察

【起源と逸話:三勇者の遺志と悲劇の変貌】

「ドライクローネ」とは、古代語で「三つの王冠」を意味する。その成立には、アルバ峠の封印にまつわる凄惨な歴史が深く刻まれている。

遠き神話の時代、大陸の覇権を握ろうとした「時の権力者」は、世界を統べる究極の魔導体とされる「水晶玉」を巡り、三人の勇者と激突した。死闘の末に勇者たちを討ち果たし、念願の水晶玉を手にした権力者であったが、その手に収まった球体が放つ、理を揺るがすほどの強烈な魔力に戦慄したという。権力者はその強大すぎる力を恐れ、これをアルバ峠の最深部へと封印することを決断した。

しかし、封印の儀を終えた直後、運命は暗転する。権力者の上空を巨大なドラゴンの影が覆い、凄まじい業火と衝撃が大地を穿った。権力者は抗う術もなく命を落としたが、その際、彼が戦利品として帯びていた「三人の勇者の王冠」が、ドラゴンの放った超常的な衝撃波に晒された。 王冠は熱と魔力の奔流によってその形を歪められ、勇者たちの無念を宿したままワイングラスのような器へと変成し、大陸の各地へと吹き飛ばされた。これが「ドライクローネ」の誕生である。

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【物理的・魔術的特徴】

本器は一見すると、優美な曲線を持つワイングラス状の聖杯である。

•外観: 表面は磨き上げられた大理石、あるいは真珠のような質感を持つ輝く乳白色を呈している。光の当たり方によって、内部から淡い燐光が漏れ出すかのような幻想的な視覚効果をもたらす。

•魔術特性: この器からは、特殊な波動が絶えず放射されている。これは「対竜障壁」とも呼ぶべき性質を持ち、本能的にドラゴンを遠ざける、あるいはその敵意を減退させる効果があると信じられている。かつて勇者を守護した王冠が、形を変えてなお人類をドラゴンの脅威から守ろうとする残留思念の顕現であると、魔導学者の間では定義されている。

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【現存状況と伝承の断片】

現在、確認または推測されているドライクローネの所在は以下の通りである。

1. ゴダイの集落における「日用品」

辺境に位置するゴダイの集落においては、その神聖な由来は完全に失伝している。驚くべきことに、この至宝は「ユニコーンの餌を入れるための器」として無造作に扱われている。ユニコーンがこの器に盛られた餌を好むのは、器から放たれる清浄な魔力が、霊獣の好む波動と一致しているためと考えられている。

2. 軍事都市ティフェの「秘匿された象徴」

ティフェの街において、ドライクローネは都市を守護する聖遺物として崇められている。街の公式紋章シンボルはこの器を模したものであり、最前線の防衛を象徴している。しかし、ティフェに安置されている「真作」の正確な所在は、ギルドの上層部や軍の要人など、極一部の特権階級にしか開示されていない。

3. 東部樹海に眠る「三つ目の欠片」

最後の一つ、すなわち「三つ目の王冠」の変成体は、アルバ峠の東側に広がる広大な樹海のどこかに墜落したとされている。この樹海は古くから魔物の巣窟であり、地形も複雑を極めるため、数多の冒険者が捜索に挑みながらも、未だその乳白色の輝きを視界に捉えた者は存在しない。

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執筆者注: ドライクローネは、単なる器ではない。それはアルバ峠の封印を解く、あるいは再構築するための重要な「触媒」としての役割を隠し持っているという説がある。三つの器が再び揃う時、封印された水晶玉の魔力がどのような変容を遂げるのか、慎重な議論が待たれる。



エリーが机に広げた博物誌のページを、私は穴が開くほど見つめていた。頭の中では、これまでの旅の断片が、まるで導かれるように一つに繋がっていく。


「これ……嘘でしょ? あのゴダイの集落で、村人が当たり前のようにユニコーンの餌を入れていたあの器が……この伝説の宝具だっていうの?」


私の掠れた声に、ベルもまた驚愕を隠せない様子で、乳白色の器の挿絵を見つめたまま固まっていた。

「ええ、間違いありませんわ。修練場の玄関に飾られていたあの神々しい器も、形状、色、放たれる魔力の波長……すべてがこの『ドライクローネ』の記述と一致します」

エリーは眼鏡を指で押し上げ、確信に満ちた口調で続けた。


私たちが何気なく通り過ぎてきた場所に、世界を揺るがす封印の鍵が転がっていたなんて。ゴダイで見かけたあの器と、ティフェの修練場で教官が「守護の器」と呼んだもの。点と点が鮮やかな線で結ばれ、私たちの背負う運命の輪郭が、急激に色濃くなっていくのを感じた。


「でも、エリー。三つの王冠というからには、もう一つあるはずよね?」


ベルの問いに、エリーの表情が一段と険しくなった。彼女は図鑑のページをめくり、地図が描かれた古い羊皮紙の写しを指し示した。


「ええ。最後の一つ……『三つ目の王冠』ですわ。記述によれば、それはアルバ峠の東側に広がる、あの一度入れば二度と出られないと言われる『深緑の樹海』のどこかに墜落したとされています。未だに誰も発見できていない、失われた聖遺物ですわ」


東の樹海。そこは冒険者の間では「魔獣の胃袋」と恐れられている場所だ。凶悪な魔獣が跋扈し、複雑に入り組んだ植生が方向感覚を狂わせる。並の冒険者なら、入り口に立つことすら躊躇うような危険地帯。


「どうしてそこまでして、その器が必要なんですの? と、言いたげな顔ですわね、アリア」

エリーが私の思考を読み透かしたようにニヤリと笑った。

「思い出してください、ドライクローネの特性を。これには『対竜障壁』……つまりドラゴンを遠ざける、あるいは弱体化させる魔力が宿っているのです。アルバ峠を越え、あの水晶玉の元へ辿り着くためには、立ちはだかる最強のドラゴンを攻略しなければなりません。この三つ目の王冠こそが、私たちの旅の『勝機』そのものになるはずですわ」


ドラゴンを攻略するための鍵。

その言葉が、私の胸の奥に火をつけた。ベルの父親との忌まわしい過去、地獄の修行、そしてこの先待ち受けるであろう未曾有の脅威。それらすべてを乗り越え、自分たちの手で未来を掴み取るためには、もう迷っている暇なんてない。


「……決まりね」

私は椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、腰の大剣の感触を確かめた。

「その樹海へ行きましょう。三つ目の王冠を見つけ出して、ドラゴンだって、運命だって、全部私たちの思い通りにしてやるんだから!」


私の宣言に、ベルが静かに、けれど力強く立ち上がって微笑んだ。

「ええ、アリア。私も行くわ。あの地獄を生き抜いた私たちなら、どんな樹海だって恐るるに足りないはずよ」


「全く、相変わらず無鉄砲な二人ですわね」

エリーは肩をすくめて溜息をついて見せたけれど、その瞳には冒険者としての、そして知識の探求者としての隠しきれない熱い色が宿っていた。

「私も同行しますわ。私の頭脳なしでは、あなたたちは樹海の中で行き倒れるのがオチですから。……行きましょう、三人の力を合わせれば、見つけられないものなんてありませんわ」


ギルドの喧騒の中、私たちは互いの拳を重ね、固い誓いを交わした。

目指すは東の樹海。

失われた王冠を求め、私たちの物語は新たな、そして最も過酷な章へと踏み出していった。

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