第11話 アリアたち、死す?
ティフェの堅牢な門が背後で閉まり、私たちはついに東の樹海を目指して出発した。
見慣れた街並みが遠ざかるにつれ、肌を刺すような緊張感が戻ってくる。あの日、ベルが過去と決別し、私たちが新たな目的を見出したことで、進む道の重みがこれまでとは全く違って感じられた。
歩を進めること数時間。樹海へと続く広大な草原に差し掛かった時、風が不自然にうねった。
「……来るわよ、二人とも!」
私の叫びと同時に、青々とした草原の中から、地面と同じ保護色をした『グラスドラゴン』がその巨躯を現した。細長くしなやかな体躯に、鋭い鎌のような爪。草原を滑るように動くその身のこなしは、見た目以上に素早かった。
「逃がさないわ!」
だが、今のベルにとって、その動きは止まっているも同然だった。
ベルは新しい青いマントを鮮やかに翻すと、地面を蹴った。以前なら目で追うのが精一杯だったドラゴンの突進を、彼女はあの日法廷で見せたような神業の身のこなしでかわしていく。まるで草原を渡る風そのものになったかのように、彼女の残像がドラゴンの周囲を舞った。
「アリア、隙を作りますわ! 焼き尽くしてあげます!」
後方からエリーの凛とした声が響く。彼女が魔導書を掲げると、草原の緑を赤く染めるほどの巨大な火球が形成された。グラスドラゴンは草木を司る属性ゆえに、何よりも炎を忌み嫌う。
「『焦熱の紅蓮』!!」
解き放たれた炎がドラゴンの足元を焼き、その俊敏な動きを確実に削いでいく。熱波に晒され、体力を消耗したドラゴンが苦悶の咆哮を上げた。その瞬間、私は大剣を正眼に構え、一気に地を這うような低空の踏み込みを見せた。
「これで……おしまいよッ!!」
修行で鍛え抜いた腕の筋肉が、大剣の重さを感じさせないほどの速さで振り抜かれる。銀色の軌跡がドラゴンの喉元を正確に捉え、硬い鱗ごと一撃で断ち切った。
ズゥゥゥン……と、巨体が草原に沈み、周囲に静寂が戻る。
「……ふぅ。これで三体目ね」
私は剣を鞘に納め、額の汗を拭った。ティフェの街を出てから、まるで私たちの旅路を阻むかのようにドラゴンの出現頻度が上がっている。けれど、不思議と恐怖はなかった。
かつては一匹のドラゴンに絶望していた私たちが、今はこうして連携を取り、難なく討伐できている。あの日々があったからこそ、私たちは日に日に、自分たちが「本物」の強さを手にしていることを実感できていた。
「驚きましたわ。アリアの一撃、以前よりさらに重くなっていますわね。理論上の破壊力を優に超えていますわ」
「ベルの動きも、もう私でも捉えきれないわ。本当に風みたいだった」
エリーとベルが歩み寄り、互いの無事を確認し合う。
でも、私たちは分かっていた。これから向かう『東の樹海』、そしてその先に待つアルバ峠には、今のグラスドラゴンとは比較にならないほどの凶悪な強敵が潜んでいることを。
「さあ、先を急ぎましょう。三つ目の王冠は、私たちの訪れを待っているはずよ」
私は遠くに広がる、黒々とした森の境界線を見据えた。
白と青のマントを風になびかせ、私たちは再び歩き出す。気を引き締め、互いの絆を武器にして。伝説の鍵が眠る、未知なる緑の魔宮へと。
草原の静寂を切り裂いて、何かが私の背後から凄まじい速度で飛来した。
「――っ!?」
咄嗟に首を傾げたけれど、一歩遅かった。鋭い紙片のようなものが私の頬をかすめ、熱い痛みが走る。指で触れると、薄っすらと赤い血が滲んでいた。地面に突き刺さったのは、何度も見かけた気がする紋様が書かれた一枚の「紙」――霊符だった。
「少しは成長しているようだな」
鈴の音のように冷たく、けれど凛とした声が響き、草むらの中から一人の女性が姿を現した。
黒髪のセミロングを風になびかせ、肩を大胆に露出した独特の巫女装束を纏ったその姿。ミニスカートのように短い袴から伸びる足取りは、音もなく優雅だった。
「……フジ」
私は頬の傷を拭い、大剣の柄を握りしめた。東洋から来たという謎多き巫女。彼女の表情は相変わらず氷のように無機質で、その瞳の奥に何が隠されているのか、私たちには全く読み取れなかった。
「貴様たちの目的は、東の樹海に眠る『ドライクローネ』……三つ目の王冠だな」
名前を言い当てられ、私とベル、エリーは同時に身構えた。なぜ彼女がその名を知っているのか。敵か味方か判断がつかない緊張感が、草原の空気をピリつかせる。
「……だとしたら、どうするつもり?」
私が問いかけた瞬間、フジの姿が揺らめいた。
「なっ……!?」
驚愕したのはベルだった。地獄の修行を経て、ドラゴンの動きさえ残像で翻弄するようになった彼女の目をもってしても、フジの動きを捉えきることができなかったのだ。
視界から完全に消えたフジの気配を探そうとしたけれど、気づいた時にはもう遅かった。
「そこだ」
冷たい声が背後から聞こえたのと同時に、背中に奇妙な圧迫感を感じた。体が鉛のように重くなり、指一本動かせなくなる。神霊術による「金縛り」だ。私たちは完全に背後を取られ、なす術もなく立ち尽くすしかなかった。
数秒の後、背中にペタリと何かが貼られる感触がして、不意に体の自由が戻った。
「くっ……! 何をしたのよ!」
私が振り返りながら叫ぶと、フジはすでに数歩下がった場所に立ち、相変わらず無表情のままこちらを見つめていた。私の、そしてベルとエリーの背中には、先ほど私を切り裂いたのと同じような霊符が貼り付けられていた。
「それは『魔除け』の霊符だ。これから向かう樹海には、貴様たちの想像を超える邪気が渦巻いている。気休め程度にはなるだろう」
「……助けてくれたっていうの?」
ベルが困惑したように尋ねると、フジは興味なさげに視線を逸らした。
「せめてもの良心だ。死なれては、私の計画に障る」
それだけ言い残すと、彼女は再び風に溶けるような身のこなしで、追う隙も与えず草原の向こうへと消えていった。
「……何なんですの、あの人は。相変わらずペースを乱されますわ」
エリーが背中の霊符を剥がそうとして、思い直したように手を止めた。
「でも、この霊符から感じる魔力……本物ですわ。今のわたくしたちでは、束になっても彼女には勝てなかったでしょうね」
頬の傷が、まだヒリヒリと痛む。
フジは何を知っていて、どこへ向かおうとしているのか。
三つ目の王冠を巡る旅に、新たな、そしてあまりに強大で不可解な「影」が差したことを、私は確信していた。
「……行きましょう。霊符をくれたのが『良心』だって言うなら、ありがたく使わせてもらうわ」
私は大剣を背負い直し、再び樹海へと続く道を見据えた。フジの警告が本当なら、この先には霊符なしでは歩けないほどの闇が待っているはずだ。私たちは気を引き締め直し、一歩ずつ、深い緑の深淵へと足を踏み入れていった。
草原の終わり、木々が折り重なるようにして空を隠し始める「東の樹海」の入り口に差し掛かった時だった。
ざわり、と肌を撫でる風が、獣の腐臭を運んできた。
「……囲まれたわ」
ベルの低く鋭い警告と同時に、周囲の藪から銀灰色の影が次々と躍り出た。
『フェンリル』――。ただの狼とは一線を画す巨体と、鋼のような毛並みを持つ魔獣だ。その瞳には飢えと狂気が宿り、低い唸り声が地鳴りのように私たちの足元を震わせる。
「群れで来るなら好都合ですわ! まとめて消し飛ばしてあげます!」
エリーが杖を掲げ、詠唱を開始する。私は大剣を抜き放ち、正面から飛び込んできた一頭の首を、力任せに横一文字に薙ぎ払った。地獄の修行で培った筋肉が、フェンリルの強靭な皮をもろともせず断ち切る。
しかし、フェンリルは単独で戦う魔獣ではない。一頭を倒せば、その死角から別の二頭が、三頭が、連携して牙を剥く。
「しまっ……!」
背後から迫る殺気に気づいたとき、私は別の個体を斬り捨てた直後で、体勢が崩れていた。一頭の巨大なフェンリルが、私の右腕を噛みちぎらんとばかりに、血走った目で宙を舞った。その牙が私の肌に届くかと思われた刹那――。
「させないわっ!」
銀色の光が二条、私の視界を横切った。
ベルだ。彼女は愛用の細剣二本を抜き放ち、目にも留まらぬ速さで割り込んだ。一本目の細剣が、跳躍したフェンリルの下あごを深々と貫き、咆哮を封じる。間髪入れず、もう一本の細剣が奴の鼻先を正確に突き刺した。
「グガッ……!?」
急所を同時に撃ち抜かれ、フェンリルが苦悶に顔を歪めてひるむ。
「ありがとう、ベル! 助かったわ!」
私は崩れた体勢を強引に立て直し、渾身の力を込めて大剣を振りかざした。空中で無防備になったフェンリルの胴体へ、断罪の刃を叩きつける。
凄まじい衝撃と共に、フェンリルの巨体は真っ二つに裂け、地面に叩きつけられた。
そこからの戦いは一方的だった。エリーの放つ炎が群れの連携を分断し、ベルが急所を突き、私がトドメを刺す。私たちはかつてないほどの連携で、フェンリルの群れを次々と骸に変えていった。
やがて、最後の一頭が絶命し、周囲に静寂が戻ったときだった。
「……何よ、これ」
剣の血を振り払った私は、周囲の光景を見て、思わず言葉を失った。
散乱しているのは、今私たちが倒したフェンリルの死体だけではなかった。
草むらの影、大きな岩のそば、あちこちに、見るも無惨な姿となった「冒険者たち」の遺体が転がっていた。
引き裂かれたマント、へし折られた剣、そして、絶望の表情を浮かべたまま事切れた遺骸……。
「おそらく、他のパーティーですわね……。三つ目の王冠、あるいは樹海のお宝を狙ってここに来て、この群れに食い殺されたのでしょう」
エリーが険しい表情で、遺体の傍らに落ちていた錆びたバッジを拾い上げた。
ベルが静かに目を伏せる。
「わたくしたちが来るのが、もう少し早ければ……いえ、これが『東の樹海』という場所の現実なのね」
頬に薄く残るフジに付けられた傷が、疼くように熱を帯びた気がした。
あの巫女が言っていた「想像を超える邪気」とは、こういうことだったのだ。ここは、実力のない者が足を踏み入れれば、瞬く間に無惨な死体へと変わる選別場。
もし私たちが、あの地獄の修行を耐え抜いていなければ。
もしベルが、過去の恐怖を乗り越えていなければ。
今頃、この草原に転がっていたのは私たちだったかもしれない。
「……弔っている時間はないわ。行きましょう」
私は散らばる遺体に一礼し、顔を上げた。目の前には、空を覆い尽くさんばかりの漆黒の巨木たちが、私たちを飲み込もうと待ち構えている。
「ここからが本番よ」
アリア、ベル、エリー。
三人の少女たちは、背中の魔除けの霊符を意識しながら、死の匂い漂う草原を後にし、生い茂る樹海の深淵へと、より一層気を引き締めて踏み込んでいった。
一歩、樹海の奥へと足を踏み入れるごとに、空気は粘り気を帯びた死の気配に染まっていく。
「……何、これ」
足元でパキリと乾いた音がした。見下ろすと、泥にまみれた「人間の頭蓋骨」が転がっていた。それは一つだけではない。木の根元、茂みの奥、至る所に白骨化した遺体が、まるでこの森の養分にでもなったかのように散乱している。
草原で見かけた「遺体」とは違う。長い年月をかけて絶望の中で朽ち果てた者たちの残骸。
アリア、ベル、エリー。私たちは互いの距離を詰め、新調したマントを固く握りしめた。修行で強くなったはずの心に、得体の知れない不気味さと、底冷えするような恐怖が這い上がってくる。
その時だった。
「助けて……助けてくれっ!」
樹海の深い闇を切り裂いて、一人の男が転がるようにして現れた。
眼帯をかけ、かつては白かったであろうマントはボロボロに引き裂かれている。全身傷だらけの彼は、私たちを見つけるなり必死な形相で縋り付いてきた。
「魔獣が……奥に、とてつもない魔獣がいて……仲間がみんなやられたんだ! お願いだ、外へ連れ出してくれ!」
「大丈夫、落ち着いて! 私たちがついてるわ」
私は男の肩を支え、すぐにベルとエリーを見た。
「作戦変更よ。まずはこの人を外へ逃がしましょう。王冠はそれから――」
「……アリア、待って。この男、何かおかしいわ」
エリーの鋭い警告が響いた。だが、その直後の光景は、私たちの理解を絶していた。
「あ……」
隣にいたベルが、声を出す暇もなかった。
助けを求めていたはずの男の手元で、何かが黒く光った。次の瞬間、ベルの美しい銀髪が舞い、彼女の小さな体が、信じられないほどの速さで横一文字に切り裂かれた。
「ベル……?」
私の問いかけに、彼女は答えない。そのまま糸が切れた人形のように地面に崩れ落ち、鮮血が樹海の腐葉土を真っ赤に染めていく。
「ベルッ!!」
絶叫したのはエリーだった。だが、親友の死というあまりに唐突な絶望を前に、彼女の体は凍りついたように動かない。その隙を、怪物は逃さなかった。
「ヒヒッ……」
男の手には、いつの間にか巨大な、死神の象徴のような鎌が握られていた。
「次は、お前だ」
逃げ腰だった旅人の面影は消え、そこには殺戮を楽しむ捕食者の笑みがあった。大鎌が風を切り、無防備なエリーの体を容赦なく薙ぎ払う。
「エ、エリー……!」
立っていたはずの仲間が、一瞬で物言わぬ肉塊に変わる。
私は狂ったように大剣を引き抜こうとした。だが、背中に冷たい風が吹いたと思った瞬間、視界から男の姿が消えた。
「遅いな、冒険者」
耳元で、死の宣告が聞こえた。首筋に冷たく、鋭利な刃の感触が押し当てられる。
背後を取られた。抗う術など、何一つ残されていなかった。
「俺の名は死神・ジュザ。冥府への道連れを、ここで刈り取っているのさ」
ジュザと名乗る男の声は、どこか楽しげですらあった。
「さらばだ、冒険者。お前たちの旅は、ここで終わりだ」
「……っ、あ……」
叫ぼうとした。けれど、声が出るよりも早く、巨大な刃が私の首を易々と断ち切った。
視界が激しく回転し、地面が迫ってくる。
首から下がどこへ行ったのかも分からない。
ただ、冷たい土の匂いと、先に横たわっていたベルとエリーの姿だけが、ぼやける視界に映った。
(どうして……? 私たち、あんなに頑張ったのに……)
頬を伝う熱いもの。それが自分の涙なのか、それとも噴き出した血なのか、もう判別すらつかない。
意識が急速に闇へと溶けていく。
ドライクローネも、未来も、仲間との約束も、すべてが漆黒の森の中に消えていくのを、私はただ受け入れるしかなかった。
私たちは、ここで死んだのだ。
何も成し遂げられず、ただの白骨の一つとして、この樹海に加わるために。
《ここからはフジ目線で物語が進みます》
樹海の深淵を覆う澱んだ空気の中で、私は木々の枝に身を預け、眼下の光景をただ静かに見つめていた。
血飛沫が舞い、アリアと呼ばれた少女の首が宙を舞う。ベルとエリーも、既に物言わぬ骸となって地面を赤く染めている。死神と名乗った男、ジュザが振るう大鎌の軌跡は、確かに彼女たちの命を断ったように見えた。
だが、私の心に波風は立たない。
私はただ、黒髪を風に流しながら、冷徹な観察者としてそこに居続けた。
「……ほう。隠れているつもりか、小娘」
ジュザが私の存在に気づき、血の滴る鎌を肩に担ぎ直してこちらを睨み据えた。奴は獲物を見つけた獣のような足取りで、私の潜む木へと歩み寄ろうとする。その眼帯の奥に宿る下卑た殺意が、肌を刺す。
私は無言のまま、指先で一筋の印を結んだ。
「――不動、縛」
短く唱えると、ジュザの足元から霊力の鎖が這い上がり、その動きを完全に封じ込めた。
「なっ……身体が動かん!? 貴様、何をした!」
ジュザが焦燥に顔を歪め、足元に転がるアリアたちの死体を鎌の先で指し示した。
「大人しく降りてこい。さもなくば、この小娘たちのようにバラバラに解体して、この森の肥やしにしてやろうか!」
その脅しを聞き、私は初めて小さく鼻で笑った。
その嘲笑は、静まり返った樹海に場違いなほど澄んで響く。
「……本当にお前が殺した者が、そこにいると思っているのか?」
「何……?」
ジュザが不審げに視線を足元へ落とした。
直後、彼の目の前で「死体」たちの輪郭が陽炎のように揺らめいた。鮮血は霧散し、転がっていたはずの肉体は、ただの真っ白な和紙でできた等身大の人形代へと姿を変えた。
私が金縛りの術をかけた際、密かに背中に貼っておいた霊符。それは魔除けであると同時に、致命的な一撃を受けた瞬間に主の身代わりとなる「形代」の術式を組み込んだものだ。
アリアたちは今、少し離れた茂みの奥で気を失っているに過ぎない。
「貴様……! 最初から仕組んでいたのか!」
ジュザが歯噛みし、殺気を膨らませる。
「なぜだ? なぜ、あんな端くれの冒険者どもを庇う? 貴様ほどの術者が、あの泥臭い連中に肩入れする理由があるまい」
ジュザの問いに対し、私は答える価値さえ感じなかった。
理由など、私自身にも判然としない。
ただ、あの真っ直ぐすぎるほど愚かな瞳を持つ少女たちが、こんな薄汚い死神の手にかかって終わる。その光景が、私の描く「計画」の美しさを損なうと感じただけのこと。
私は懐から、数枚の新たな霊符を取り出した。
指先で挟んだ紙片が、私の放つ霊力に呼応して青白い光を帯び始める。
「理由を知る必要はない。死人に言葉は不要だ」
私は木から音もなく舞い降り、短すぎる袴を翻して着地した。
ジュザもまた、拘束の術を力任せに引きちぎり、巨大な鎌を逆手に構え直す。死神の刃が放つ呪いと、私の霊符が放つ神気が、樹海の闇の中で激しく衝突した。
「いいだろう……。巫女の首を刈るのは初めてだ。その澄ました面を、絶望で染め上げてやる!」
「試してみるがいい、死に損ない」
無表情のまま、私は最初の一枚を放った。
樹海を統べる静寂が終わり、死神と巫女、二つの「異端」による殺し合いが幕を開けた。
樹海に漂う死の臭いが、激突する霊力と呪力によってかき消されていく。
「無駄だと言っている!」
ジュザが地を蹴った。その巨躯に見合わぬ瞬発力で、一息に私の懐へと潜り込んでくる。大鎌の刃が月光を吸い、黒い軌跡を描いて私の喉元を狙う。だが、刃が届く直前、私の周囲に展開した不可視の壁――『護身結界』が火花を散らしてその一撃を弾き返した。
私は後方へ音もなく跳び、距離を置く。空いた左手で印を結び、大気中の霊素を収束させた。
「急――!」
指先から放たれた神通力の奔流が、白光の矢となってジュザを襲う。しかし、奴は不敵な笑みを浮かべたまま大鎌を縦に一閃させた。キィィィン、という硬質な音と共に、私の術が霧散する。重い武器を羽毛のように扱うその膂力、流石に死神を自称するだけのことはある。
「ハハッ! そんな豆鉄砲が俺に効くかよ!」
再び間合いを詰めてくるジュザ。奴の戦い方は荒々しく、かつ極めて精密だ。本来、大鎌という武器は振りかぶる動作に大きな隙が生じるものだが、ジュザのそれは違う。手首の返し、あるいは石突きの突き出しを混ぜ、鎌の軌道が蛇のように変則的にうねる。
私が右へ躱せば、刃はあらかじめそこを断つように回ってくる。
私は短い袴を翻し、神霊術による身体強化で紙一重の回避を繰り返す。翻る袖が、舞い散る落ち葉を切り裂く。
だが、一瞬だった。
踏み込んだ足元の腐葉土が、湿り気によってわずかに滑った。その刹那の停滞を、死神は見逃さない。
「もらったぁッ!!」
上段から振り下ろされる絶望の刃。咄嗟に半身を引いたが、大鎌の切っ先が私の右腕の付け根を鋭くかすめた。
「……っ」
肉までは届かなかったものの、巫女装束の白い袖が音を立てて切り落とされ、森の冷気に私の片腕が露わになる。黒髪の間から見える私の右腕は、月の光を浴びて白く浮かび上がった。
「ヒヒッ、いい肌してやがるじゃねえか。その調子で、次はその派手な装束ごと丸裸にしてやろうか! 恐怖に染まった女の肌こそ、死神への最高の供物だ!」
ジュザの瞳に、狩人としての冷徹さではなく、嗜虐的な欲望が混じり始める。奴は獣のような咆哮を上げ、怒濤の連撃を繰り出してきた。左右、上下、そして裏をかくような突き。逃げ場を塞ぐように迫る刃に対し、私は幾重にも結界を重ねて防壁を築く。
ドォン! ドォン! と、鉄塊が叩きつけられるような衝撃が結界を揺らす。内側にいる私の肌にまで、死の圧力が伝わってくる。
「……下俗な男」
私は結界を維持しながら、冷静に奴を見据えた。
「男の本能を剥き出しにして……。お前はもう死神ではない。ただの飢えた獣だ。死神の本分を忘れたか?」
「黙れ! 死ねぇッ!」
「……因果、応報」
結界の表面に、魔力を逆流させた「光の楔」を無数に出現させる。ジュザが鎌を叩きつけた瞬間、それらはカウンターとなって奴の全身を貫くべく放たれた。
「ちぃいっ!」
ジュザは空中で身体を捻り、大鎌の面で楔を強引に跳ね返していく。火花が樹海を赤く照らし、砕け散った光の破片が木々を焼く。
奴は着地すると同時に、不敵な笑みを消さずに再び構えた。腕を露わにした巫女と、大鎌を構えた死神。
深淵の森の中、二人だけの時間は止まり、ただ殺意だけが加速していく。
アリアたちが目を覚ますのが先か、あるいは私がこの死に損ないを葬るのが先か。
黒髪を夜風に躍らせ、私は次の一手を練るべく静かに息を整えた。一騎討ちは、まだ終わらない。
樹海を包む薄暗い闇が、一刻一刻とその濃度を増していく。西の空からわずかに差し込んでいた残光も、巨木たちの枝葉に遮られ、今や足元さえおぼつかない。
(まずいな……)
私は無表情を保ちながらも、内心で舌打ちをした。死神という存在の本質は夜にある。陽が落ち、陰の気が満ちれば、奴の呪力は増大し、傷の治りさえ早まるだろう。対して、陽の光を力の源泉とする私の神霊術は、夜が深まるほどにその真価を削られていく。
ジュザの呼吸は荒くなり、その大鎌を振るう速度も目に見えて落ちていた。だが、奴の瞳に宿る邪悪な輝きは、闇が深まるにつれて一段と不気味に増幅している。このまま持久戦に持ち込まれれば、有利になるのは奴の方だ。
私は露わになった右腕に、かすかな寒気を感じながら決断した。
「……これでおしまいだ」
わざと一歩、後方へ足をもつれさせる。ジュザの単眼が喜悦に歪み、獲物を仕留めんと大きく踏み込んできた。その一瞬の隙――。
「『天照』!!」
私は結んだ印から、溜め込んでいた全霊力を一気に解放した。
夜の樹海に、真昼の太陽を凝縮したかのような眩い白光が爆発した。
「ぐわあああぁっ!? 目が、目がぁッ!!」
闇に慣れ始めた死神の目にとって、その聖なる光は劇薬に等しい。視界を奪われ、のけ反るジュザ。私はその隙を逃さず、立て続けに九字を切り、霊力の鎖で奴の四肢を大地に縫い止めた。
「急々如律令――。滅せよ、不浄の魂」
止めを刺すべく、滅殺の言霊を紡ぎ始める。ジュザの体が浄化の光に焼かれ、紫煙を上げて苦しみ出した。だが、奴の執念は私の想像を絶していた。
「……ふざ、けるな……! この俺が、こんな小娘にぃッ!!」
激昂したジュザが、自らの四肢を縛る霊鎖を、筋肉を断ち切るほどの力で強引に引きちぎった。呪いによる凄まじいまでのブースト。奴は血走った目で私を捉えると、死なばもろともと言わぬ勢いで、大鎌を振りかぶって肉薄してきた。
私は瞬時に霊符を大幣へと持ち替え、大きく円を描くように一閃させた。
「吹き荒べ、『神風』!」
私の周囲に、大気を激しく巻き込む巨大な竜巻が発生した。迫りくるジュザをその中心へと吸い込み、宙へと跳ね飛ばす。
さらに私は、懐から取り出した清めの塩をその風の中に撒いた。神霊術で強化された塩の礫は、不浄の存在である死神にとって、燃え盛る炭を直接肌に押し付けられるような激痛となる。
「ぎゃあああぁぁッ!! 痛い、熱い! 身体が……溶けるっ!!」
渦巻く白銀の風の中で、ジュザの肉体が浄化され、粒子となって崩れ始めた。断末魔を上げる奴が、消えゆく意識の中で最後の手向けと言わぬばかりに呪詛を吐く。
「……覚えておけ……! 貴様ら人間が……『竜族』の逆鱗に触れたことをな……! 仲間が……奴らが黙ってはいないぞ……ッ!!」
最後の一喝と共に、ジュザの魂は光の柱となって天空へと昇天し、霧散した。
静寂が戻った樹海に、私の荒い息遣いだけが響く。
「……竜族と、結託していただと?」
私は大幣を下ろし、その言葉の意味を反芻した。死神と竜族。本来、相容れぬはずの異質な強者たちが手を組んでいるというのか。だとすれば、アリアたちが追っている「ドライクローネ」や「水晶玉」の件、単なる伝説の回収では済まない事態になっている。
ふと周りを見渡せば、樹海はすでに完全な夜の闇に支配されていた。
私は茂みの奥で、形代の術によって深い眠りについているアリアたちの気配を確認した。彼女たちはまだ、自分たちが本当の意味で「死」に直面し、それをどう乗り越えたのかさえ知らないだろう。
「……あとは、貴様たちの運命だ」
私は剥き出しの片腕を隠すようにマントを引き寄せると、ジュザが消えた空を一瞥し、音もなく樹海を後にした。
闇の中で、竜族という新たな脅威の影が、着実にその輪郭を現し始めていた。
《ここからはアリア目線で物語が進みます》
暗い、深い闇の底に沈んでいるような感覚だった。
最後に覚えているのは、首筋に触れたあの冷たい鎌の感触と、自分の視界が真っ逆さまに落ちていく絶望感だけ。私は確かに、死神・ジュザの手によって殺されたはずだった。
(……生きて……る……?)
肺が空気を吸い込み、心臓がドクンと大きな音を立てる。私は恐る恐る、重い瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、月明かりさえ届かない夜の樹海。木々の影がまるでおぞましい怪物の手のようにうごめいている。
けれど、何かがおかしい。足元に土の感触がないのだ。私はなぜか、宙に浮いているような妙な感覚に包まれていた。
「……っ、痛っ!」
腕を動かそうとした瞬間、鋭い痛みが全身を駆け抜けた。
見上げれば、私の両手首と足首は、頑丈な太い鎖で、巨木の幹に打ち付けられた横木に固定されていた。……磔にされている。身動き一つ取れない。
「ベル……? エリー……!」
掠れた声で隣を呼ぶ。そこには、私と同じように磔にされ、ぐったりと首を垂らして気を失っている二人の姿があった。幸い、生きてはいるようだけれど、呼びかけに応じる気配はない。
状況が飲み込めず混乱する私の耳に、ズシン、ズシンと地面を揺らす重苦しい足音が届いた。
「フゴォ……、フゴォ……」
闇の奥から現れたのは、鼻を鳴らし、筋骨隆々の醜悪な肉体を揺らす一人のオークだった。その手には、巨大なフォークのような形をした、血錆の浮いた三叉槍が握られている。
オークは私の目の前まで来ると、卑しい欲望を隠そうともせず、濁った瞳でジロジロと私の体を見分した。
「フゴッ! 目が覚めたか、人間。今夜は久々の『人間様』のご馳走だ。新鮮なうちにバラしてやるのが、一番美味いんだよなぁ」
オークは下卑た笑いを浮かべ、三叉槍の先を私の腹部に突きつけた。冷たい鉄の感触が肌に触れ、背筋に凍り付くような戦慄が走る。
「……待って。何をするつもり!?」
「何って、決まってるだろう。お前を串刺しにして、今夜の夕飯にするのさ。まずはその柔らそうな腹から――」
オークが三叉槍を構え、力を込める。
死神の手から逃れたと思ったら、次は化け物の食糧になるなんて。そんな冗談、笑い話にもならない。
「やめて……来るな……っ!!」
私は必死に、鎖が食い込むのも構わず身をよじった。
ガチガチと金属音が虚しく夜の樹海に響く。手首の皮が擦り切れ、血が鎖を伝うけれど、拘束はびくともしない。
(嫌だ、死にたくない! こんなところで、食べられるために死ぬなんて……!)
意識を取り戻したばかりの頭が、恐怖と焦りで真っ白に染まる。隣で眠るベルとエリーを、このまま化け物の餌食にさせるわけにはいかない。
私は必死に脱出の糸口を探して、狂ったように体を揺らし続けた。オークの三叉槍が、ゆっくりと、確実に私の心臓を貫こうと持ち上げられるのを、ただ絶望的な目で見つめるしかなかった。
「フゴッ!? いただきま――」
オークが三叉槍を突き出そうとした、その瞬間だった。
「いい加減にしろッ、この甲斐性なしがぁぁぁ!!」
鼓膜を突き破らんばかりの、凄まじい怒鳴り声が樹海に響き渡った。
あまりの音量に、槍を構えていたオークの巨体がビクンと跳ね、私を貫くはずだった穂先が大きく逸れた。
「ひいぃっ、お、母ちゃん!?」
闇の奥からドスドスと地響きを立てて現れたのは、もう一人の人影だった。
私は一瞬、目を疑った。そこにいたのは、筋骨隆々の醜い怪物ではなく、人間の女性よりも一回りほど背が高く、がっしりとした体格の女性だった。
(……あ、あれが、女性のオーク……!?)
かつてギルドの書庫で読んだ知識が脳裏をかすめる。オークの雌は、雄とは似ても似似つかぬ姿をしているという。鼻は小さく整い、肌の質感も人間に近く、暗がりで見れば人間の女性と見分けがつかないほどだという記述は、本当だった。
「な、なだめてくれよ、母ちゃん! 久しぶりの獲物だから、つい……」
「黙れ! 誰が食べていいって言ったんだい!」
女性のオークは、自分の背丈ほどもある巨大なこん棒を肩に担ぎ、夫である男性オークを恐ろしい形相で睨みつけた。男性オークは先ほどの威勢はどこへやら、三叉槍を放り出して情けなく後ずさりしている。
「いいかい、あたしゃあんたに『怪我をして倒れている人間を運び出せ』とは言ったよ! だけどね、誰がこんな風に『磔にしろ』なんて言ったんだい! 恥を知りなッ!」
「えっ……?」
私は呆然とそのやり取りを見つめた。手当てをするつもりだった? つまり、彼女は私たちを助けようとしていたというの?
女性のオークの怒りは収まらない。彼女はこん棒をギュッと握りしめ、地面を激しく叩きつけた。
「この恥さらし! 反省しな! さあ、そこへ直れッ! ケツを突き出せぇ!!」
「そ、それだけは……それだけは勘弁してくれぇ!」
男性オークは顔を真っ青(というか、土色)にして逃げようとしたが、女性オークの素早い足払いに転倒し、四つん這いの姿勢に固定された。
「覚悟しなッ! どりゃぁぁぁ!!」
凄まじい風切り音と共に、巨大なこん棒が振り下ろされた。
パァァァァァンッ!!!
樹海全体が震えるような、乾いた、そしてあまりに痛々しい衝撃音が炸裂した。
「フゴォォォォォォォォォッッッ!!!」
男性オークは、この世のものとは思えない断末魔を上げ、白目を剥いてその場に沈んだ。尻からは煙が出ているのではないかと思うほどの威力だった。
一撃で夫を気絶させた女性のオークは、「ふぅ」と大きくため息をつくと、こん棒を傍らに置いた。そして、気絶した夫には目もくれず、磔にされている私たちの元へ、申し訳なさそうな、ひどく複雑な表情で歩み寄ってきた。
「ごめんよ、お嬢さん。うちのバカ亭主が、とんでもない失礼を……。怖かっただろう?」
彼女は手際よく、私の手首を縛り付けていた鎖を外していった。
「あ、ありがとう……ございます……」
私は地面に足がついた安堵感で膝をつきそうになったが、彼女は大きな、温かい手で私の肩を支えてくれた。
「今すぐ他の二人も降ろしてやるからね。うちは魔物だけど、恩知らずな殺生はしないよ。あんたたちの背中に貼ってあったあの霊符……あれのおかげで、あんたたちの命が繋がってたんだからね」
彼女は手際よくベルとエリーも救い出し、まだ意識のない二人を器用に小脇に抱えた。
「夫が起きる前に、私の家へおいで。温かいスープでも飲ませてあげるよ」
先ほどまでの殺戮の光景が嘘のように、私たちはオークの妻に導かれ、夜の樹海のさらに奥へと足を進めることになった。死神に殺され、身代わりとなり、今度はオークに助けられる……。
激動すぎる一日に、私は意識が遠のきそうになりながらも、彼女の逞しい背中を必死に追いかけた。
オークの奥さんの家は、樹海の巨木の根元をくり抜いて作られた、意外にも温かみのある場所だった。
「さあ、冷めないうちに飲んでおくれ。あんた、顔色が真っ白だよ」
奥さんが台所から大きな木のお玉を持って現れ、湯気の立つスープを私の前に差し出した。器から漂ってくるのは、野性味溢れる肉の香りと、鼻を抜けるような清涼感のある薬草の香りだ。
「これ、何のスープ……?」
「キマイラだよ。それと、この裏山で採れた滋養強壮に効く薬草をたっぷり煮込んである。私の自慢料理さ」
キマイラ、と聞いて一瞬手が止まった。あの複数の頭を持つ凶悪な魔獣を食べるなんて想像もしていなかったけれど、一口啜ってみて驚いた。
「……美味しい」
濃厚なコクがあるのに、薬草のおかげで後味は驚くほどさっぱりしている。喉を通るたびに、凍りついていた指先にまで熱が戻ってくるのが分かった。
「この樹海にはキマイラもよく出るからね、肉には困らないのさ」
奥さんは笑いながら、大きな椅子にどっしりと腰を下ろした。
「私たちはね、この樹海の入り口近くに集落を作って、魔獣を狩りながらひっそりと暮らしているんだ。あんたたち人間から見れば、私たちも魔獣の一種かもしれないけれどね」
私はスープの温かさに救われながら、先ほどまで体験した悪夢のような出来事――死神・ジュザに襲われ、命を落としかけたことをポツリポツリと打ち明けた。
話を聞くうちに、奥さんの表情がみるみるうちに険しく、悲しげなものへと変わっていった。
「……やっぱり、死神かい。あの眼帯の男だろう」
奥さんは重々しく頷いた。
「あの死神はこの樹海の深い闇に潜んでいる。私たちの仲間も、何人も犠牲になったよ。戦おうにも、奴はまともな生き物じゃない。影のように現れて、魂をごっそり持っていくんだ……」
奥さんは私の目をじっと見つめ、その大きな手で私の肩を包み込んだ。
「お嬢さん、忠告しておくよ。死神に一度目を付けられたら、奴はどこまでも追いかけてくる。あんな紙切れ(霊符)の身代わりが次も通用するとは限らない。奴の影を感じたら、迷わず逃げるんだ。いいかい?」
「……はい」
私は神妙な面持ちで頷いた。
フジが助けてくれなければ、今頃私は形代ではなく、本物の白骨となって樹海に転がっていただろう。死神の恐怖を思い出し、背筋が寒くなった。
その時、横に寝かされていたベルとエリーが小さく呻き声を上げた。
「……ん……ここ、は……?」
「アリア……? 私たち、死んだんじゃ……」
二人がおぼつかない手つきで上体を起こす。まだ顔色は悪いけれど、瞳には確かな生気が戻っていた。
「気が付いたかい。運がいい子たちだ」
奥さんは二人の目覚めを確認すると、先ほどまでの厳しい表情を和らげ、再び立ち上がった。
「さあ、あんたたちの分もスープを温め直してやるからね。しっかり食べて、体力を戻すんだよ。明日は明日で、またこの恐ろしい森を歩かなきゃいけないんだから」
奥さんは鼻歌を歌いながら、再び台所へと向かっていった。
死神が跋扈し、魔獣が牙を剥く呪われた樹海。けれど、その暗闇の中に、こんなにも温かいスープと優しさが存在していることに、私は少しだけ救われた気がした。
ベルとエリーに手を貸しながら、私は改めて気を引き締めた。三つ目の王冠を手に入れるため、そしてあの死神の影を振り払うため、私たちの本当の戦いはこれからなのだと。
翌朝、樹海の木々の隙間から差し込む朝日は、昨日までの惨劇が嘘のように穏やかだった。
オークの奥さんに借りた寝床で体を休めた私たちは、昨夜のスープのおかげですっかり体力を取り戻していた。
「さあ、行きましょう。奥さん、本当にお世話になりました」
私は荷物をまとめ、ベルとエリーを連れて出発の挨拶をした。だが、私たちが踵を返そうとしたその時、「待ちなッ!」と地鳴りのような呼び声が響いた。
振り返ると、腰に両手を当てたオークの奥さんが、仁王立ちでエリーを凝視していた。
「お嬢ちゃん、その格好でこの先へ進むつもりかい?」
「えっ? ……あ、ああ……」
エリーが自分の服装を見下ろして、困惑したように声を漏らした。
無理もない。昨夜、死神の鎌に狙われた際、身代わりの術が発動したとはいえ、彼女の賢者風のローブはボロボロに引き裂かれ、裾は泥と血にまみれていた。魔導士にとって、術を安定させるための衣装は命の次ぐらいに大切なはずだ。
「そんなみすぼらしい格好じゃ、魔力の循環も滞るし、何より樹海の毒虫に食い尽くされるのがオチだよ。ちょっとこっちへ来な」
「えっ、あ、ちょ、ちょっと! どこへ連れて行くんですの!?」
奥さんは返事も待たず、エリーの細い腕をがしっと掴むと、まるで仔猫でも運ぶかのような軽やかさで家の中へ引きずり戻し始めた。
「実はね、私は昔、ティフェの街で冒険者専門の衣装仕立て屋をやってたことがあるのさ。わけあって今の亭主と駆け落ちしてこの森に来ちまったけどね、腕は鈍っちゃいないよ!」
「仕立て屋!? オークのあなたがですの!?」
エリーの驚愕の悲鳴が家の中に消えていく。
私とベルは顔を見合わせた。
「……ティフェの街で仕立て屋だなんて、意外すぎる経歴ね」
「でもアリア、あの奥さんの手際なら、本当にすごいものを作ってしまいそうだわ。……少し、気にならない?」
ベルの言葉に、私は深く頷いた。
おしゃれに無頓着な私でも、あんな自信満々に言われたら期待せずにはいられない。それに、これからの過酷な旅を考えれば、エリーの防具が新調されるのは大きなアドバンテージだ。
「追いかけましょう、ベル!」
私たちは好奇心に抗えず、エリーを救出する建前で(半分はワクワクしながら)、奥さんの家へと足早に戻っていった。
家の中では、奥さんが既に大きなハサミと、不思議な光沢を放つ布地を取り出していた。
「いいかいお嬢ちゃん、あんたは線が細いから、動きやすさを重視しつつ、防御魔法を付与しやすいシルクを多めに使うよ。さあ、大人しく採寸させなッ!」
「いやっ、そこはくすぐったいですわ! ひゃんっ!」
家の中から聞こえてくる騒がしい声を聞きながら、私は「どんな姿でエリーが出てくるんだろう」と想像し、少しだけ口角が上がるのを感じていた。昨夜の恐怖が、奥さんの力強いエネルギーに上書きされていくようだった。
「さあ、できたよ! 恥ずかしがらずに皆に見せてやりなッ!」
奥さんの威勢のいい声と共に、奥の部屋のカーテンが勢いよく開かれた。そこに立っていたエリーの姿を見た瞬間、私とベルは言葉を失い、文字通り釘付けになった。
「な、なんなんですの、この格好は……!」
エリーが真っ赤な顔をして、震える手で裾(といっても、ほとんど無いようなものだけれど)を必死に隠そうとしている。
新衣装は、鮮やかな青を基調とした魔導士らしいレオタードだった。肩から腕にかけてのラインは動きやすさを追求して大胆にカットされ、一方でその下には、光沢のある黒のタイツがぴったりと脚を包み込んでいる。
知的なエリーの雰囲気と、タイツが際立たせるそのセクシーなシルエット。そのギャップが、彼女の持つ魔導士としての神秘性をとんでもないレベルで引き立てていた。
「すごい……! エリー、あなた、ものすごく綺麗よ!」
「ええ、本当に……。神々しさすら感じるわ……」
私とベルは、あまりの感動に思わず並んで手を合わせた。
「死神に襲われて、あのオークに磔にされた甲斐があったわね……」
「本当に、災い転じて福となすとはこのことね……」
私たちが恍惚とした表情でご満悦になっていると、エリーの眉間には深い皺が寄った。
「あなたたち、縁起でもないことを言わないでくださいまし! 動きやすいのは認めますけれど、これでは露出が多すぎますわ! アリア、リーダーとしてなんとか言ってやって!」
エリーが涙目で私に縋り付いてくる。けれど、私は彼女の肩をポンと叩き、ニヤニヤとした笑みを隠そうともせずに突き放した。
「いい? エリー。選択肢は二つよ。さっきのドロドロでボロボロの、雑巾みたいな衣装に戻るか……あるいは、このまま裸で樹海を冒険するか。さあ、どっちがいい?」
「そ、そんなの……っ、でも、前の服を洗って直せば……」
エリーが救いを求めるように奥さんを振り返ったが、奥さんは豪快に笑いながら、親指で外を指した。
「悪いねぇ、あんな縁起の悪いボロ布、さっき竈の火種に放り込んじまったよ! 今頃はもう灰さ!」
「……っ!!」
エリーが絶望の表情を浮かべ、膝から崩れ落ちそうになる。
奥さんは満足げに鼻を鳴らすと、私とベルのマントを指差した。
「あんたたち三人のマントの色(白、青、赤)に合わせて、統一感が出るようにデザインしたんだ。これぞ『チーム・ドライクローネ』の制服ってやつさ!」
「奥さん、最高よ……。あなたこそ真の芸術家だわ」
私は脱帽するしかなかった。オークの集落にこれほどのデザイナーが隠れ住んでいたなんて、ギルドの連中が知ったら腰を抜かすに違いない。
結局、代わりの服がない以上、エリーは観念するしかなかった。
彼女は羞恥心に震えながらも、最高級のシルクと防御魔法が施されたタイツの感触を確かめ、重い足取りで家の外へと踏み出した。
「……もう、どうにでもなればよろしいわ。もし死神に出会ったら、恥ずかしさで爆発する前に呪文を叩き込んでやりますから!」
「その意気よ、エリー! 見た目も実力も、今の私たちは最強なんだから!」
私たちは家の前で、気絶から目覚めてまだお尻をさすっている旦那さんと、力強く手を振る奥さんに見送られた。
「元気で行くんだよ! 困ったらまたおいで!」
「ありがとうございました!」
青いレオタードを翻すエリーを先頭に、私たちは再び、さらに深く不気味な樹海の中へと消えていった。羞恥心という新たな試練を背負ったエリーだったが、その足取りは以前よりもずっと軽く、鋭くなっているように私には見えた。




