第12話 迷子の飛竜
樹海の深部は、もはや太陽の光さえ届かないほどの鬱蒼とした静寂に包まれていた。立ち込める霧は冷たく、私たちの吐く息が白く揺れる。
ここへ来るまで、何度か魔物やドラゴンの群れと遭遇したけれど、今の私たちにとってそれらはもはや「強敵」ではなかった。私の振るう大剣は正確に肉を断ち、ベルの二刀流は風を切り、そしてエリーの魔術はこれまで以上に鋭く戦場を支配している。
……けれど、戦いの合間に訪れる静寂の中で、パーティーの空気は妙に落ち着きがなかった。
「……っ、もう! さっきから視線を感じますわ! ベル、あなたですわね!?」
エリーが、大きな三角帽子をぐいっと深く被り直し、分厚い魔導書を胸元に抱きしめるようにして叫んだ。新調された青いレオタード。その脇から覗く白い肌や、黒タイツに包まれた脚の曲線が、本人の意思とは裏腹に、歩くたびに嫌でも目に入ってしまう。
「ええっ? だって、エリーが歩くたびにその……タイツの質感がすごく綺麗なんですもの。本当に似合っているわよ、かわいいわ」
ベルは黒髪のショートヘアを揺らしながら、心底楽しそうに、そして慈しむような目でエリーを眺めていた。彼女にとって、この恥じらう魔導士の姿は最高のご馳走……あるいは、酒の肴にでも見えているのかもしれない。
「『かわいい』なんて言われても、ちっとも嬉しくありませんわ! ジロジロ見ないでくださいまし! ああ……もし、もしお姉様に今のわたくしの姿を見られたら……」
エリーは丸眼鏡の奥の瞳を潤ませ、戦々恐々とした様子で震え出した。彼女の姉であるダリア様は、規律に厳しいことで有名だ。
「きっと、『エリー、あなたをこんな破廉恥な子に育てた覚えはありません!』って、烈火の如く怒られてしまいますわ……。ああ、破門ですわ、わたくしの魔導士人生が終わってしまいますわ……っ!」
ぶつぶつと絶望を口にするエリー。そのあまりに必死な様子が面白くて、私はつい意地悪な心が疼いてしまった。
「何言ってるのよ、エリー」
私は歩み寄り、彼女のレオタードの腰回りに指を滑らせた。上質なシルクの滑らかな感触が、指先から伝わってくる。
「……なっ、アリア!? な、何を……っ」
「いいじゃない。これだけ動きやすくて、しかもセクシーなんだから。それとも何? 『超一流のセクシー魔導士』って呼ばれるのが嫌なわけ?」
レオタードの生地を少しだけつまんでからかうと、エリーは顔から火が出るんじゃないかと思うほど真っ赤になった。
「せっ、セクシーなんて言葉、わたくしの辞書にはありませんわ! そもそも、アリアだって赤いレオタードじゃないですか!」
「私は見慣れてるでしょ? でも、あなたのその『隠してたのに出ちゃった』感は、格別だわ」
私のからかいに、エリーはいよいよ限界に達したらしい。彼女は震える指で私を指差し、魔導士としての凛とした、それでいてどこか泣きそうな声で宣言した。
「うるさいですわ! これは『勝者権限』による命令です! アリア、あなたはこれから、世の中の不埒な男どもから、わたくしの貞操を全力で守りなさい! 一切、近寄らせるんじゃないわよ!」
あまりにエリーらしい、そしてあまりに自分勝手な命令に、私とベルは顔を見合わせて噴き出してしまった。
「はいはい、了解したわよ。『かわいい魔導士さん』の命令だもんね。どんな敵からも、その大事なタイツと貞操は死守してあげるわ」
「『かわいい』は余計ですわっ!」
怒鳴り散らしながら先を急ぐエリーの背中を追いかけながら、私は確信していた。
過酷な樹海、そして死神や竜族の影。そんな重苦しい旅路の中で、この騒がしくて可笑しなやり取りこそが、私たちの心を繋ぎ止める一番の魔法なのだと。
私は白いマントを翻し、大剣の重みを確かめながら、再び深い霧の中へと足を踏み入れた。
霧の向こう側から、肌を刺すような濃密な殺気を感じた。
「……来るわ」
私の低い呟きに合わせ、ベルは音もなく二本の細剣を抜き放ち、エリーは分厚い魔導書の頁をめくって魔力を練り始めた。私たちは背中を合わせ、全神経を研ぎ澄ませて周囲を警戒する。
だが、どれだけ待っても、死神ジュザのような影や、凶悪な魔獣の姿は現れない。その代わりに、樹海のさらに奥から、地響きのような震動と共に「それ」が聞こえてきた。
「グォォォ……ォ……」
空気を震わせる巨大な鳴き声。けれど、それは獲物を威嚇する咆哮ではなかった。喉の奥から絞り出されるような、掠れた、痛切な悲鳴だ。
「……苦しんでいるの? この声……」
「戦っている様子はありませんわ。行きましょう、この先ですわ!」
私たちは声の主を求めて、絡みつく蔦を払いながら森の深部へと突き進んだ。開けた場所にたどり着いた瞬間、私たちの目に飛び込んできたのは、地面に力なくうずくまる巨大な飛竜の姿だった。
「これは……ワイバーンの種族かしら? でも、ゴダイの集落で見た奴らより二回りは大きいわ……」
ベルが警戒を解かずに呟く。確かに、その体躯は山の一部が崩れ落ちたかのような圧倒的な存在感を放っていた。しかし、誇り高いはずの飛竜の姿は無惨だった。
美しいはずの翼は、毒か呪いにでも侵されたかのように赤黒くただれ、岩のように強靭な後ろ脚には、肉が裂け、骨が見えるほどの深い傷が刻まれている。
「グルゥ……」
飛竜が私たちに気づき、濁った瞳を向けた。けれど、牙を剥く力さえ残っていないのか、ただ力なく首をもたげることしかできない。その瞳に宿っているのは、恐怖ではなく、耐え難い苦痛だった。
「……ひどい。こんな傷、放っておけないわ」
私は大剣を背負い直すと、無意識に足を踏み出していた。
「アリア、危ないわ!」というベルの制止を片手で制し、ゆっくりと飛竜に近づく。巨体の熱が伝わってくる距離まで来ても、飛竜は暴れなかった。
「大丈夫よ。何もしないから……」
私は優しく声をかけながら、飛竜の巨大な後ろ脚に触れた。熱を持っている。私はポーチから清潔な布と止血剤を取り出し、開いた傷口に手際よく応急措置を施した。私の掌の下で、硬い鱗が微かに震えているのが伝わってくる。
「ベル、あなたはその翼を! 汚れを落としてあげて!」
「わかったわ、任せて!」
ベルも意を決して駆け寄り、水魔法を込めた布で、ただれた翼の毒を慎重に拭い去っていく。そして、最後にエリーが歩み出た。
「……わたくしに任せなさい。大地の慈悲、癒しの光!」
エリーが魔導書を高く掲げると、彼女の新調された青いレオタードが淡いエメラルド色の光に包まれた。その光がエリーの手のひらから溢れ出し、飛竜の全身を優しく包み込んでいく。ただれていた皮膚がゆっくりと再生し、深い傷口が塞がっていくのが目に見えて分かった。
数分後、エリーがふぅと大きなため息をついて魔法を止めると、飛竜の呼吸は目に見えて穏やかになっていた。
「グルルゥ……」
先ほどまでの悲痛な鳴き声ではない、喉を鳴らすような低い音が聞こえる。飛竜はゆっくりとまぶたを閉じ、私たちの献身に応えるかのように、その巨体を大地に預けて落ち着きを取り戻した。
私たちは顔を見合わせた。この樹海の奥で、一体何がこの誇り高き飛竜をここまで追い詰めたのか。その疑問は消えなかったが、今はただ、目の前の小さな命――いいえ、大きな命が救われたことに、確かな安堵を感じていた。
飛竜の荒い呼吸が落ち着き、深い眠りに落ちたような静寂が辺りを包んだ、その時だった。
「ふぅ……。えらい目に遭うたわ。一時はどうなることかと思ったで、ほんま」
飛竜の巨大な腹の下、鱗の隙間から這い出すようにして、一匹の黒猫がひょっこりと姿を現した。ツヤツヤとした黒い毛並みに、どこかふてぶてしさを感じさせる金色の瞳。その黒猫は後ろ足で立ち上がると、前足で顔を拭いながら、私たちに向かって深々と頭を下げた。
「お客人方、感謝するわ。このボウズを助けてくれて、ほんまにおおきに!」
「えっ……猫が、喋った……!?」
私は思わず大剣の柄を握り直し、目を丸くした。隣ではベルが「お酒の飲みすぎかしら……」と自分の頭を押さえている。
「驚くことはありませんわ、アリア」
エリーが丸眼鏡を指先で押し上げ、分厚い魔導書をめくりながら冷静に言った。
「それは『ケットシー』と呼ばれる猫の妖精ですわ。高い知性を持ち、人の言葉を操ると文献にありました。この辺りに生息していて、普段は魔獣に殺された生物の残骸などを食べて生活している、たくましい種族ですわね」
「へぇ、物知りな姉ちゃんやな。吾輩の正体を一目で見抜くとは、ええ眼鏡しとるわ」
そのケットシーは、独特な訛りのある言葉で軽妙に答えると、眠っている飛竜の鼻先に歩み寄った。
「ケットシーさん、あなたはこの飛竜と一緒にいたの?」
私が尋ねると、彼は長い尻尾をパタリと振って、ため息をついた。
「左様。この飛竜はなぁ、見た目はデカいけど中身はまだほんのガキなんや。人間で言うたら5歳かそこら。数週間前にな、このボウズ、母親とはぐれてしもたんや」
ケットシーの話によれば、母親を必死に探そうとする幼い飛竜を、彼は背中に飛び乗って必死に引き止めたのだという。
「吾輩は『今は動くな、危ないさかい待っとけ』言うて、必死に説得したんや。けどこのボウズ、吾輩の言うことも聞かんと『お母ちゃん! お母ちゃん!』言うて、無鉄砲に飛び出していきよった。……そしたら運の悪いことにな、突然のゲリラ豪雨や」
話が進むにつれ、ケットシーの耳が心なしかシュンと垂れ下がっていく。
「空中でどえらい雷に打たれてな。そのまま錐揉み状態でここに墜落や。羽は焼けるわ、脚は折れるわで散々な惨状やったんや。吾輩も下敷きになるところやったわ」
彼は眠る飛竜の頭を前足でポカポカと叩きながら、今度は心底怯えたような表情で震えだした。
「……なぁ、お客人方。お願いや、このボウズの母親探し、手伝うてくれへんか? もしこのまま母親が見つからんかったら、吾輩、一生この子に恨まれる……というか、責任感じて寝覚めが悪うてしゃあないんや! 吾輩の安眠がかかっとるんや!」
どうやらこのケットシー、口は悪いが、この幼い飛竜を放っておけないお人好し(お猫好し?)な性格らしい。
私は、エリーとベルを見た。
死神の影、竜族の陰謀……追いかけるべき謎は多いけれど、目の前で母親を求めて傷ついた「5歳の子供」と、それを必死に守ろうとした黒猫を見捨てていくことなんて、私たちにはできなかった。
「……仕方ないわね。この子が飛べるようになるまで、私たちも付き合うわよ」
私が言うと、ケットシーはパッと顔を輝かせた。
「ほんまか! おおきに! さすが赤いレオタードのお姉ちゃん、話がわかるわ!」
こうして、私たちの奇妙な道中に、独特な訛りの黒猫ケットシーと、傷ついた幼い飛竜という新たなメンバーが加わることになった。樹海の闇はさらに深まっていくけれど、この小さな「家族」を守るという新たな目的が、私たちの足取りを少しだけ力強く変えてくれた気がした。
翌朝、樹海の深い霧を切り裂いて差し込んだ朝日が、湿った土の匂いを立ち昇らせていた。
私たちの懸命な介抱とエリーの高度な回復魔法が功を奏したのか、飛竜の容態は劇的な回復を見せていた。昨日はあんなに絶望的に見えた傷口も、今では新しい皮膚が鱗の下で力強く再生し、その巨体には生命の熱が満ち溢れている。
「グルルッ、ガァッ!」
飛竜は翼を大きく広げ、力強く羽ばたいて見せた。巻き起こる突風に、私の白いマントが激しくたなびく。
「……なぁ、お姉ちゃん方。このボウズ、こう言うとるわ。『身体の痛みは引いたけど、胸の奥がチクチクして、お母ちゃんの声が聞こえるような気がしてならん』……てな」
吾輩と名乗るケットシーが、飛竜の鳴き声を通訳するように耳元を掻きながら言った。飛竜は再び、空を仰ぎ見た。視線の先には、どこまでも続く深い緑の海と、その向こう側に広がる広大な青空がある。
「キィィィィィィンッ!」
突如、飛竜は天に向かって遠吠えのような、鼓膜を震わせるほどの甲高い鳴き声を放った。それは幼い子供が迷子になり、必死に親を呼び求める叫びそのものだった。その金色の瞳には、朝露とは違う、熱く光る涙が溜まっているように見えた。
「……あ……」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、隣にいたベルの体が微かに震えたのを、私は見逃さなかった。
いつもはクールで、冗談を言いながら二刀を操る彼女の表情が、今はまるで別人のように強張っている。黒髪のショートヘアに隠された彼女の横顔には、深い、あまりに深い孤独の色が混じっていた。
ベルは、乱暴な父親から自分を命がけで守った母親のことを思い出したのだろう。母親を失い、一人で生き抜くために剣を取った幼い日の自分。その時、彼女がどんな思いで夜空を見上げていたのか……。
ベルは吸い寄せられるように歩き出すと、まだ震えている飛竜の大きな首に、そっと自らの細い腕を回して抱きかかえた。
「大丈夫よ……。独りじゃないわ、今は私たちがいるわ」
ベルの声は、震えていたけれど、どこまでも慈愛に満ちていた。硬い鱗に頬を寄せ、言葉の通じない飛竜に自らの温もりを伝えようとする彼女の姿は、傷ついた幼子をなだめる母親のようでもあり、同じ孤独を知る姉のようでもあった。
ベルの細い指先が飛竜の首筋を優しく撫でるたびに、飛竜の激しい呼吸がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
「……ほんま、かなわんなぁ。吾輩まで、目頭が熱うなってきてもうたわ」
ケットシーもまた、独特な訛りで鼻をすすりながら、短い前足で自分の目をゴシゴシと拭った。彼は飛竜の鼻先まで歩み寄ると、小さな肉球で、飛竜の頬を伝い落ちようとしていた一滴の涙を、丁寧に、そして不器用なほど優しく拭い去った。
「泣くな、ボウズ。男なら……いや、竜ならシャキッとしぃ。お姉ちゃんらも吾輩も、お前の母親を見つけるまで、絶対に放り出したりせえへん。約束や」
樹海を抜ける風が、私たちの間を穏やかに吹き抜けていった。
死神ジュザとの死闘、オークの村での奇妙な休息、そしてこの幼い命との出会い。この樹海で起きる全ての出来事が、バラバラだった私たちの心を一つの大きな目的へと束ねていく。
「さあ、出発しましょう。お母さんのところへ、この子を送り届けるために」
私は大剣の重みを肩に感じながら、決意を込めて告げた。
エリーもまた、分厚い魔導書をしっかりと抱き直し、眼鏡の奥の瞳を鋭く輝かせた。私たちは、青空を見上げる飛竜と、その背で気炎を吐く黒猫と共に、再び深く、険しい未知の領域へと足を踏み出した。
翌朝、樹海の朝靄を突き抜けるようにして、飛竜の力強い咆哮が響き渡った。
傷ついていたのが嘘のように、その巨体には野性的なエネルギーが溢れている。
「よし、翼の具合を最終確認するわね」
私は飛竜の巨大な背にひょいと飛び乗り、再生したばかりの皮膜の弾力や、関節の動きを確かめようとした。だがその瞬間、飛竜は「クルルッ!」と弾んだ声を上げると、地面を力強く蹴り上げた。
「ちょ、ちょっと!? まだ飛ぶとは言ってな――ッ!」
急激な重力が全身にかかり、私は思わず飛竜の首にしがみついた。飛竜は大きな翼を一度、二度と羽ばたかせ、あっという間に樹海の梢を眼下に置き去りにして、空高くへと舞い上がった。
地上では、小さくなったベルとエリーが驚いたようにこちらを見上げている。
「ふぅ……。空の旅は、やっぱりこれに限るなぁ」
不意に、私の白いマントの首元から、ひょこっと黒い頭が突き出した。いつの間にか潜り込んでいたケットシーだ。彼は風にヒゲをなびかせながら、細めた目で前方を見据えた。
「お姉ちゃん、前を見てみぃ。あのボウズ、迷わずあっちへ向かっとるやろ?」
飛竜がその長い首を向けている先――。そこには、険しく切り立った連峰の合間に、巨大な裂け目のような道が見えていた。
「……アルバ峠」
私はその名前を口にし、深い感慨に打たれた。三つ目の王冠を手に入れるための旅路。その目的地が、今、ほぼ目の前にまで迫っている。
「吾輩の見立てやと、あのボウズのお母ちゃん、あっちの方へ飛び去ったきり帰ってこんのや。母親が消えた方角を、この子はちゃんと覚えとったんやな」
ケットシーの言葉を聞きながら、私は前方に見える不気味な雲海を見つめた。
三つ目の王冠、そして峠の「水晶玉」。
もし、飛竜の母親がその強力な魔力に引き寄せられ、囚われているのだとしたら。そして、もし死神や竜族がその力を狙っているのだとしたら……。
あと一歩というところまで来て、私の胸の中に冷たい不安の影が広がっていく。
「……お姉ちゃん、そんなに怖い顔せんといてや。もし峠でどえらいことになっても、このボウズは見た目によらず温厚でええ子や。何かあったら、こいつの背中に乗って一気に街の近くまで高飛びすればええ。な?」
私の不安を察したのか、ケットシーが独特な訛りで励ましてくれた。
すると、飛竜も私の心境に応えるように「キュイッ」と短く、どこか愛らしい鳴き声を発した。そして、大きな頭を後ろにひねり、私を安心させるように優しく瞬きをして、深く頷いてみせた。
「……ふふ、そうね。あなたがいてくれれば、心強いわ」
あんなに猛々しい巨体を持ちながら、中身は本当にお母さん思いの優しい「5歳児」なのだ。私は愛おしさが込み上げ、その硬いけれど温かい首筋を優しく撫で、抱きしめた。
「いい子ね。絶対に、お母さんに会わせてあげるから」
飛竜は満足げに喉を鳴らすと、地上の仲間たちが待つ場所へと、ゆっくりと旋回しながら降りていった。
降りていく視界の先、アルバ峠の頂は、刻一刻とその険しさを増しているように見えた。けれど、私の背中を守る仲間たちと、この空の友がいれば、どんな運命が待ち受けていようと突き進める。
私はマントを翻し、地に足をつけた瞬間、次の戦いへの覚悟を静かに固めた。
飛竜の背から飛び降り、草を踏みしめた瞬間のことだった。
「アリア! 戻ったのね、大変よ!」
ベルが今までに見たこともないような青ざめた顔で、私の元へと駆け寄ってきた。いつも冷静な彼女が、血相を変えて私の肩を掴んで揺さぶる。
「……エリーが、エリーが石になってしまったの!」
「なんですって!?」
私はベルの指し示す方向へ視線を走らせ、息を呑んだ。
そこには、呪文を唱えようとした姿勢のまま、冷たく硬い灰色の石像と化したエリーが立ち尽くしていた。新調したばかりの青いレオタードも、丸眼鏡も、その怯えた瞳さえも、すべてが無機質な石に変わっている。
エリーの足元には、死臭を漂わせる異形な怪物の遺体が転がっていた。それは牛のような巨体に、あまりにも重すぎる頭を支えきれず地面に擦り付けて歩くという、伝説の魔獣「カトブレパス」だった。
「茂みから突然現れて、私たちを睨みつけたの……。私はとっさにダリアさんから預かっていた例の眼鏡をかけていたから防げたけれど、エリーは、あの子はまともに直視してしまって……!」
ベルの指先には、かつてメドゥーサ退治の際に用いられたという、石化の魔眼を無効化する特殊な偏光眼鏡が握られていた。
それを見て、私は激しい後悔に襲われた。
(私だって、同じ予備の眼鏡を持っていたのに……!)
樹海という魔境に足を踏み入れる際、なぜあらかじめエリーに渡しておかなかったのか。私の慢心が、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
「ベル、落ち着いて。まだ手はあるわ」
私は自分に言い聞かせるように、震える声を整えた。
「ロットの街まで戻れば、教会に石化直しの秘薬があるはずよ。でも、ここから徒歩で戻れば数日はかかる。石化した状態のエリーをそんなに長く放置すれば、身体の深部まで完全に石化が定着して、二度と元に戻らなくなる恐れがあるわ」
私は隣で翼を休めている飛竜を見上げた。
「この子に運んでもらいましょう。空を飛べば、ロットの郊外まで一刻もかからないはずよ」
私の提案を聞いたベルの顔に、複雑な表情が浮かんだ。彼女はかつて、エリーが急病で倒れた際、私一人を先に行かせて自分が残った時のことを思い出したのだろう。
「……また、私を置いていくつもり?」
不満げに唇を噛むベル。彼女にとって、仲間と離れ離れになることは何よりの苦痛なのだ。
その時だった。
ざわり、と背後の茂みが不自然に揺れた。
「……ベル、わがままを言っている時間はないわ」
私は大剣を引き抜き、茂みに向かって切っ先を向けた。
「今度は、私が残る。あなたはエリーを支えて飛竜に乗って。あなたの方が小柄だから、石化したエリーと一緒に乗っても飛竜の負担が少なくて済むわ。ロットの街で秘薬を手に入れたら、すぐに戻ってきて」
「アリア、でも……!」
「行きなさい! これはリーダーとしての命令よ!」
エリーから私への「命令権」はあるけれど、パーティーの命運を分ける決断を下すのは私の役目だ。
ベルは悔しそうに一度だけ私を睨んだが、やがて力強く頷くと、石像となったエリーを抱きかかえ、飛竜の広い背中へと登っていった。
「お姉ちゃん、心配せんといてや。この吾輩が、アリアと一緒に残って護衛したるさかいな」
私の足元で、ケットシーが独特の訛りでそう告げた。彼は鋭い爪をシャキリと出し、不敵な笑みを浮かべて茂みを睨みつけている。その金色の瞳には、ただの猫ではない妖精族としての矜持が宿っていた。
「……頼りにしているわよ、ケットシー」
「グルルッ!」
飛竜は私との別れを惜しむように短く鳴くと、ベルとエリーを乗せて力強く大地を蹴った。大きな翼が巻き起こす突風が私の髪を乱し、彼らは瞬く間に空の彼方、ロットの街がある方向へと消えていった。
静まり返った樹海に、私と一匹の黒猫だけが取り残される。
目の前の茂みが再び揺れ、複数の赤い眼光が闇の中からこちらを覗き込んでいた。
「さて……ロットからベルが戻るまで、退屈はしなさそうね」
私は白いマントを脱ぎ捨て、右腕を大きく回して大剣を構え直した。レオタード越しに伝わる森の冷気が、かえって私の集中力を研ぎ澄ませていく。
仲間の命と、三つ目の秘宝。その両方を守り抜くための、孤独な防衛戦が始まろうとしていた。
飛竜の羽ばたきが遠ざかり、静寂が戻ったはずの樹海。だが、その静寂は不自然なほどに重く、ねっとりとした死の気配を孕んでいた。
「ククク……。逃がしはせん。まずは貴様から、その心臓を抉り出してやろう」
背後の闇から響いたその声に、私は全身の毛穴が逆立つような悪寒を覚えた。振り返ると、そこには霧の中から染み出すように現れた、あの最悪の死神――ジュザが立っていた。
「ジュザ……! まだ生きていたなんて……!」
フジの神霊術とあの凄まじい竜巻に巻き込まれ、確実に昇天したはずだった。だが、目の前の男はボロボロになった黒衣を翻し、怨念に満ちた単眼で私を射抜いている。生きているというよりは、この世への執着だけで繋ぎ止められた怨霊のような、おぞましい圧迫感だ。
ジュザは無造作に大鎌を振り上げた。一瞬、空気が凍り付く。
キィィィィンッ!
私は反射的に大剣を盾にするように構え、上段から振り下ろされた大鎌の一撃を真っ向から受け止めた。火花が散り、強烈な衝撃が腕を伝って全身の骨を震わせる。
「フンッ!」
私は渾身の力で弾き返し、間合いを取った。相手は格上。一歩間違えれば、今度こそ魂を刈り取られる。冷や汗が頬を伝う。
その時、足元で身を低くしていたケットシーが、素早い動きで私の肩まで駆け上がってきた。
「お姉ちゃん、焦ったらあかんで。落ち着いて吾輩の言うことを聞きぃ」
ケットシーは私の耳元で、独特の訛りを潜めた低い声で囁いた。
「……ええか、あの死神が持っとる大鎌。あれには『致命的な弱点』があるんや……」
ケットシーが告げたその内容は、私にとって予想だにしない、けれど確かな勝機を感じさせるものだった。
「……なるほど。そういうことね」
私は唇の端を吊り上げ、得意げな表情を作って見せた。先ほどまでの恐怖は消え、代わりに冷徹な闘志が脳内を満たしていく。大剣を正眼に構え直し、私はあえてジュザを挑発するように一歩踏み出した。
「どうしたの、死神? さっきまでの威勢はどうしたのかしら。あなたのその『なまくら』じゃ、私の髪の毛一本すら斬れやしないわよ」
「……小娘が。その減らず口ごと、細切れにしてくれるわッ!」
ジュザの周囲の地面が、どす黒い殺気の膨張によってひび割れる。奴は地を蹴り、残像を残すほどの速さで私へと肉薄した。
「はぁぁぁぁぁッ!」
私は大剣を大きく横に薙ぎ払い、ジュザの接近を阻む。大鎌と大剣が交差するたびに、樹海の巨木たちが衝撃波で震え、枯葉が舞い散る。
私は止まらない。一撃、二撃。両手持ちの重さを利用し、力任せにジュザの防御を崩しにかかる。
「死ねッ!」
ジュザが鎌の石突で私の腹部を狙う。私はわずかに体を捻り、レオタードの生地をかすめるほどの距離でそれを回避すると、そのまま大剣を逆手に持ち替え、ジュザの懐へと潜り込んだ。
「これならどう!?」
大剣の腹で奴の胸元を強打する。だがジュザもさるもの、即座に大鎌を盾にして衝撃を殺すと、そのまま旋回して鎌の刃を私の首筋へと滑らせてきた。
激しく飛び散る火花。切り裂かれる大気。
真っ向からの力比べでは私に分があるが、ジュザの変幻自在な鎌の軌道と、死神特有の不浄な呪力が、私の体力を確実に削っていく。
一進一退の攻防。
けれど、私は笑っていた。
ケットシーから聞いた「弱点」を突くための、決定的な瞬間。
私は大剣を構え直し、激しくぶつかり合う金属音の中に、その一瞬の「隙」が生まれるのをじっと待ち続けた。
「クハハハッ! 終わりだ、小娘!」
ジュザの放った渾身の横薙ぎが、私の大剣を激しく弾き飛ばした。金属が擦れる嫌な音と共に、愛用の大剣が数メートル先の地面へと突き刺さる。武器を失った私を見て、死神の単眼が狂喜に歪んだ。
「その首、貰い受けるッ!」
巨大な鎌の刃が、私の首筋を目掛けて死の旋律を奏でながら迫る。
(……今よ!)
私は地面を強く蹴り、後方へ向かって鮮やかなバク転を繰り出した。
ザシュッ!!
空中で私の足首に鎌の刃が食い込む感触があった。だが、不思議なことに痛みは全くない。それどころか、血の一滴すら流れていないのだ。
「なっ……!? なぜ斬れぬ、なぜ死なぬのだ!」
ジュザが狼狽の声を上げた。奴は納得がいかない様子で、さらに地を這うような低空の薙ぎ払いを繰り出してくる。私は着地と同時に、今度はバク宙、そして再びバク転と、アクロバティックな動きでジュザの攻撃を翻弄し続けた。
これこそが、ケットシーが教えてくれた弱点。
この死神の鎌は、上半身に対しては絶対的な死をもたらすが、下半身に対しては一切の殺傷能力を持たないという、あまりにも極端な呪いの産物だったのだ。
「お姉ちゃん、今や! 奴がうろたえとる間に決めたらなッ!」
肩の上でケットシーが叫ぶ。私はバク転の勢いを利用して地面に刺さっていた大剣の柄を掴み取り、一気に引き抜いた。
「これで……最後よ!」
私の全身から、これまでにないほど濃密な、そして鋭い闘気が溢れ出した。呼応するように、大剣の刃が美しい青白い炎に包まれていく。
これは、かつてティフェの街で行った地獄のような特訓の中で編み出した、私だけの極意。
「喰らいなさい……! 『蒼炎断魔斬』!!」
私は一歩、大地を粉砕するほどの踏み込みを見せると、青い炎を纏った大剣を一閃させた。
空間そのものを焼き切るような蒼い軌跡が、ジュザの細い体を真っ向から捉える。
「馬鹿な……この私が、人間に……ぎゃあああああああッ!!」
断魔の炎は死神の不浄な存在を許さない。ジュザの体は一刀両断にされ、その傷口から蒼い炎が噴き出し、瞬く間に灰へと変えていった。
かつて私たちを恐怖のどん底に突き落とした死神の姿は、霧散する煙となって樹海の闇へ消えた。
「……ふぅ。終わったわね」
大剣を鞘に納め、私はふと、静かになった周囲を見渡した。
一人でやり遂げた達成感はあったけれど、心には少しだけ寂しさが混じっていた。
(この必殺技……ベルとエリーにも見せてあげたかったな。きっと驚いて、文句を言いながらも褒めてくれたはずなのに)
「お姉ちゃん、ええ顔しぃ。あんた一人でこれだけのモン仕留めたんや。吾輩がちゃんと証人になったるさかい、後で二人に自慢したったらええねん」
ケットシーが私の肩に飛び乗り、ふさふさの尻尾で私の頬を撫でて慰めてくれた。その独特な訛りが、今はとても心地よく聞こえた。
その時、どんよりとした樹海の上空に、雲を切り裂くような大きな影が現れた。
「……! あの声は!」
「キュイイィィィィッ!」
聞き覚えのある、少し高めの甘えたような鳴き声。空から降りてくるのは、見覚えのある大きな翼。
「アリアーーー! 無事なの!?」
「今戻りましたわよ、アリアーー!」
飛竜の背中から、ベルとエリーが身を乗り出して大きく手を振っているのが見えた。どうやら無事にロットの街で秘薬を手に入れ、エリーの石化も解けたらしい。
「ベル! エリー!」
私は寂しさを吹き飛ばし、満面の笑みで両手を大きく振り回した。
死神を打ち倒し、仲間が戻り、そして空には私たちの新しい友がいる。
これから向かうアルバ峠には、さらなる困難が待ち受けているかもしれない。けれど、この最高のチームなら、どんな秘宝だって掴み取れるはずだ。私は彼女たちを迎えるため、力強く大地を駆け出した。
空から舞い降りた飛竜の風圧が収まると同時に、ベルとエリーが背中から飛び出してきた。二人の無事な姿、特にエリーが元の柔らかな肌を取り戻しているのを見て、私は心底安堵した。しかし、感動の再会に浸る間もなく、二人はロットの街での騒動を堰を切ったように喋り始めた。
「アリア、聞いてくださいまし! あの街の牧師、とんでもない不届き者ですわ!」
エリーが丸眼鏡を真っ赤な顔で押し上げながら憤慨している。ベルの話によれば、石化したエリーを教会に運び込んだ際、件の牧師はあろうことか「なんと神々しい魔導士の石像だ。これほど精巧なものは他にない」と感嘆し、彼女を礼拝堂の広間にある聖人の台座にそのまま据え置こうとしたらしい。
「もう少しで、わたくしは永遠に『無言の聖女像』として観光名所にされるところでしたわ! 意識だけは微かにあったから、もう屈辱で、生きた心地がしませんでしたの!」
さらに追い打ちをかけたのが、回復した瞬間の出来事だった。秘薬で石化が解け、エリーがようやく瞼を開けたとき、目の前で献身的に看病していた修道女の顔が、あろうことか彼女が最も恐れる実姉・ダリア様に瓜二つだったというのだ。
「あの時のエリーの顔、アリアにも見せてあげたかったわ。腰を抜かして『お姉様、破廉恥な格好をして申し訳ございません!』って絶叫しながら、滝のような冷や汗を流して平伏したんだから。実際はただの他人の空似だったんだけど、彼女、しばらく震えが止まらなかったのよ」
ベルが二刀を揺らしながらケラケラと笑う横で、エリーは新調した青いレオタードの裾を必死に引っ張りながら、恥ずかしさに身を悶えさせていた。
しかし、話は笑い事だけでは済まなかった。ベルが苦い顔をして、重くなった革袋を差し出してきた。
「……悪いけど、アリア。ロットを出る時、あまりの恐怖に備えなきゃって思って、石化直しだけじゃなく、毒消しに麻痺直し、ついでに万能薬まで『大人買い』しちゃったの。おかげで軍資金が目に見えて減っちゃったわ」
私は思わず遠い目になったが、カトブレパスや死神との遭遇を考えれば、背に腹は代えられない。私たちは気を取り直し、本来の目的であるアルバ峠、そして三つ目の秘宝「水晶玉」についての相談を始めた。
「……あの死神ジュザを退けたとはいえ、この先には何が待っているか分からないわ。特に、あの巫女のフジが何を追っているのか……」
私が真剣な面持ちでフジの名を口にしたその時、私の肩で毛繕いをしていたケットシーが、ピクリと耳を動かして口を挟んできた。
「……ほう、東洋の巫女か。お姉ちゃん、もしそいつがアルバ峠に向かっとるんやとしたら、話はもっと厄介なことになっとるかもしれへんで」
ケットシーは金色の瞳を細め、前方にそびえる不気味な峠を見つめた。
「吾輩らケットシーの間では、あのアルバ峠には『おかしなもん』が出るって持ちきりなんや。時折な、山肌を割るようにして、東洋に伝わる『龍』の頭が姿を現すことがある。それも、以前は一つやったんやが、最近じゃあ二つ、三つ……酷いときにはもっとたくさんの頭が、蠢きながら峠を飲み込もうとしとるんや」
その言葉に、私たちは凍りついた。
東洋から来た謎の巫女フジ。彼女が追っているとされる、複数の頭を持つ強大な存在。
「……八岐大蛇。まさか、伝説の怪物が本当にあの峠に潜んでいるというの?」
エリーが抱えた魔導書を強く握りしめる。
三つ目の秘宝「水晶玉」は、強大な魔力を引き寄せる触媒だ。もし、その力が意図せずあの怪物を呼び寄せ、あるいは復活させようとしているのだとしたら――。
「飛竜の母親が帰ってこないのも、その怪物に何か関係があるのかもしれないわね……」
ベルが呟き、飛竜が悲しげに「グルゥ」と喉を鳴らした。
私たちは今、伝説の怪物の胃袋へと向かおうとしているのかもしれない。だが、死闘を乗り越えた今の私たちの絆は、以前よりもずっと強固になっていた。私は大剣の柄を握り直し、青白い炎が宿る刃の感触を思い出した。
「行きましょう。何が潜んでいようと、私たちの目的はあの峠にあるんだから」
私たちはケットシーと飛竜を伴い、ついに禁忌の地、アルバ峠の険しい山道へと足を踏み出した。




