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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第13話 3つの王冠

樹海を抜ける風が、次第に湿り気を帯びたものへと変わっていった。私たちは、不気味な伝説が渦巻くアルバ峠を目指し、一歩一歩確実に歩みを進めていた。


けれど、足元には巨大なシダ植物が蔓延り、視界は鬱蒼とした巨木に遮られている。これでは正確な方角を保つのも一苦労だ。


「ちょっと見てくるわね。この子の高さなら、迷いの森もただの庭同然よ」


ベルが身軽に飛竜の背に飛び乗った。人間でいえば5歳児とはいえ、その力強い羽ばたきは頼もしい。飛竜は「キュイッ!」と短く鳴くと、ベルを乗せて垂直に空へと舞い上がった。


しばらくして、上空から戻ってきたベルは、飛竜から降りるなり神妙な面持ちで口を開いた。


「……アリア、エリー。この先に大きな難所があるわ。アルバ峠の麓へ辿り着く前に、この樹海を分断するような『大河』を渡らなきゃならないみたい」


ベルの話によれば、その川は流れこそ穏やかだが、かなりの川幅と深さがあるという。

「……流れが遅い大河、ですわね」

エリーが丸眼鏡を押し上げ、分厚い魔導書を胸に抱えて眉をひそめた。

「そういう場所には、ワニの魔物や凶暴なピラニアが潜んでいるのが定石ですわ。不用意に泳いで渡るなんて自殺行為ですわね」


私たちは川岸まで進んでみたが、状況はベルの言う通り……いや、それ以上に厄介だった。

「……船どころか、船を造るための木材になりそうな木が、この辺りには一本も生えていないわね」

私は周囲を見渡して溜息をついた。あるのは腰の高さまである湿地帯特有の草ばかり。大剣で薙ぎ払うには造作もないが、筏を組むには心もとない。


「あー、こらアカンな。お姉ちゃん、川底を見てみぃ。あの濁った水の中に、吾輩の勘やと腹を空かせたトカゲ共が手ぐすね引いて待っとるで」

私の肩に乗ったケットシーが、独特の訛りで鼻を鳴らした。


「歩いて渡るのも、泳ぐのも、急造の筏で渡るのも危険すぎる。……となると、答えは一つね」


私は隣で大人しく待機している飛竜に視線を向けた。飛竜は首を傾げ、可愛らしい鳴き声を上げた。

「この子に運んでもらいましょう。一度に二人までなら、安全に、しかも最速で対岸へ渡れるわ」


「賛成ですわ。水の中に引きずり込まれて、このタイツがボロボロになるのは御免ですもの」

エリーが少しだけ顔を赤らめながら、自分の脚を保護するように新衣装の黒タイツを撫でた。


「よし、決まりね。私がまず先に渡って、向こう岸の安全を確保するわ。その後にベルとエリーを運んでもらいましょう」


私は飛竜の首筋を優しく叩いて「お願いね」と声をかけた。飛竜は力強く頷き、大きな翼を広げた。樹海最大の難関である大河を前に、私たちは空という最短ルートを選び、アルバ峠への最後の一歩を踏み出す準備を整えた。



大河を渡る準備を整えていたその時、不意にベルが「……あ、見て!」と声を上げ、樹海のさらに奥を指差した。


鬱蒼とした緑の深淵。その一角から、まるで星を砕いて散りばめたような、眩い白銀の光が漏れ出していた。この禍々しい樹海には不釣り合いなほど、清浄で美しい輝きだ。


「……何かしら、あの光。宝物庫でもあるのかしら?」

「気になるわね。行ってみましょう」


私たちは飛竜を待機させ、抜き足差し足で光の源へと近づいた。ケットシーも私の肩の上で、気配を殺して金色の瞳を凝らしている。

巨大なシダの葉をそっと掻き分けた瞬間、私たちの目に飛び込んできたのは、御伽話の世界を切り取ったような光景だった。


「……っ、あれは……エルフ?」


私が思わず息を呑んで呟いた。

光の渦の中を、透き通った羽を持つ小型のエルフたちが、楽しげに笑い声を上げながら飛び回っていた。私の知識では、エルフという種族は極端に警戒心が強く、人里離れた秘境に隠れ住むもの。人前に、それもこんな無防備な姿を現すなんて滅多にないはずだ。


「驚いたなぁ……。吾輩、この樹海で長く暮らしとるけど、エルフの連中がこんなに浮かれとるのを見るんは初めてやで」

ケットシーも独特の訛りを忘れるほど、呆然と口を開けていた。


だが、私たちの僅かな気配を察知したのか、一匹のエルフがピタリと動きを止めた。尖った耳を震わせ、こちらを振り返った瞬間、その表情が恐怖に染まる。

「――ッ!」

声にならない悲鳴を上げたかと思うと、エルフたちは弾ける光の粒子となって、一目散に森の奥へと逃げ去ってしまった。


後に残されたのは、先ほどまで彼女たちが舞っていた場所を照らす、淡い残光だけ。


「行っちゃったわね。……あら? 何か落ちているわ」

ベルが地面に歩み寄り、木の根元にあった小さな物体を拾い上げた。それは、掌に収まるほどの精巧な細工が施された「器」のようなものだった。


私たちは恐る恐るその器を取り囲み、顔を寄せた。

「……ただの器ではありませんわね」

エリーが丸眼鏡の位置を直し、魔導書をめくりながら鋭い視線を向けた。

「アリア、見てくださいまし。この樹海は強力な魔獣が跋扈する地獄。そんな場所で、あんなに小さなエルフたちが楽しげに過ごせていた理由……。それは、この器が放つ強力な聖域の魔力が、外敵を退けていたからですわ」


「それじゃあ、これって……」

私の言葉を継ぐように、エリーが力強く頷いた。

「ええ。十中八九、これが伝説に名高い『ドライクローネ(三つの王冠)』の一つに間違いありませんわ!」


思わぬ形で見つかった三つ目の秘宝の正体。だが、それが本当に私たちが探し求めているものなのか、あるいは別の魔力を持った遺物なのか。


「このままアルバ峠に進むのも手ですが、もしこれが偽物や呪いの品だった場合、八岐大蛇を前にして手遅れになりますわ。……アリア、一度ティフェの街へ戻りましょう。あそこには、わたくしの知り合いに腕利きの鑑定士がいますの」


「ティフェに戻るのね。……わかったわ。急がば回れ、ね」


私は「ドライクローネ」と思われる器を、汚れひとつない白いマントの裏に大切に包んで隠した。

せっかくここまで来たけれど、万全の確信を持って戦いに挑みたい。私たちは飛竜に合図を送り、鑑定士の待つ始まりの街、ティフェへと引き返す決意を固めた。



空を切り裂くような飛竜の滑空は、樹海の蒸し暑さを一気に忘れさせてくれた。眼下に広がる緑が次第に薄れ、懐かしいティフェの街を囲む広大な草原が見えてきた頃、私たちは街の喧騒から少し離れた郊外に降り立った。


「よし、ここからは二手に分かれましょう」


ベルが飛竜の背をポンと叩きながら、私に視線を送った。彼女の瞳には、かつての「置いてけぼり」への不安ではなく、相棒としての強い決意が宿っていた。


「私はこの子とケットシーを連れて、ゴダイの集落へ向かうわ。あそこのユニコーンの餌皿……もう一つの『ドライクローネ』を回収してくる。あんな国宝級のものを、いつまでも馬の餌入れにしておくわけにはいかないものね」


「頼んだわよ、ベル。お酒の誘惑に負けて道草食わないでね」

「失礼ね、これでも仕事に関しては一流なんだから!」


ベルは不敵に笑うと、私の肩から飛び移ったケットシーと一緒に飛竜の背に跨った。

「お姉ちゃん、こっちは任せとき。お宝揃えて、後でドヤ顔したるさかいな!」

ケットシーの独特な訛りが風に乗り、飛竜は再び大空へと舞い上がった。私は二人の無事を祈りながら、その影が小さくなるまで見送った。


「さて、わたくしたちも行きましょうか、アリア」


エリーが丸眼鏡をくいと押し上げた。私たちはティフェの堅牢な城門をくぐり、懐かしい石畳の街並みを歩き出した。

「鑑定士の知り合いって、どんな人なの?」

「魔法学校時代の友人ですわ。……まあ、少し変わった方ですけれど、知識に関してはわたくしも一目置いていますのよ」


エリーに連れられて辿り着いたのは、街の静かな一角にある、蔦の絡まった歴史を感じさせる古びたレンガ造りの建物だった。そこはティフェ大学の附属研究所の一室だという。


エリーが緊張した面持ちで扉を三回叩くと、中からバタバタと本が崩れるような音と、「はいはい、今開けます!」という少し慌てたような女性の声が響いた。


現れたのは、度の強い眼鏡をかけた、どこか浮世離れした雰囲気を持つ女性だった。


「エリー! 久しぶりじゃない!」

「イリス! 突然押しかけてごめんなさい」


彼女の名前はイリス。エリーの説明によれば、魔法学校時代は実技が壊滅的で「落ちこぼれ」の代名詞だったが、こと歴史学と考古学に関しては教授さえも論破するほどの天才だったらしい。現在はその知識を活かし、若くして大学の考古学者として研究に没頭しているそうだ。


「まあまあ、立ち話も何だし中に入って……って、ちょっと待って」


イリスの視線が、エリーの姿に釘付けになった。

大きな三角帽子に、デザイン性の高い青のレオタード、そしてしなやかな曲線を描く黒タイツ。かつての控えめだった学友の変貌ぶりに、イリスは口元をニヤつかせた。


「エリー、あなた……ずいぶん攻めた格好をするようになったのね? 魔法学校の頃はあんなに清楚なローブを好んでいたのに、今はそんなに、自分の魅力を世の男性にアピールしたい時期なのかしら?」


「なっ、ななな……っ!? ち、違いますわ! これは、その、機能性を重視した結果であって……決して破廉恥な意図などは……!」


からかわれたエリーは、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。しどろもどろになりながら、必死に三角帽子を深く被り直して顔を隠そうとするが、露出した太ももやレオタードの質感は隠しようがない。


「ふふ、セクシーな一流魔導士様は大変ね」

私が横から追撃を入れると、エリーは「アリアまで言わないでくださいましー!」と涙目で叫んだ。


ひとしきり再会の(主にエリーにとっての)試練が終わると、イリスはいたずらっぽく笑うのをやめ、考古学者としての真剣な眼差しに戻った。


「それで? そんな恰好をしてまで見せたい『特別なモノ』があるんでしょ?」


私は頷き、白いマントの内側に隠していたあの銀色の「器」を、静かに机の上に置いた。イリスの眼鏡の奥の瞳が、その瞬間、見たこともないほどの熱を帯びて輝き始めた。



イリスの机の上に置かれた銀色の器は、窓から差し込む夕日に照らされ、静かな、けれど圧倒的な威厳を放っていた。


先ほどまでエリーの格好をからかっていたイリスの表情から、一気に余裕が消え去った。彼女は震える手でルーペを取り出すと、鼻先が器に触れんばかりの距離まで顔を近づけた。


「……アリア、エリー。これを見つけた時の状況を、一言一句漏らさずに教えて。周囲の植生、魔力の残滓、エルフたちの反応、器が置かれていた土の深さ……すべてよ!」


そこからは、まさに「質問攻め」の嵐だった。

イリスは考古学者の魂に火がついたのか、恐ろしいほどの熱量で私たちを追い詰めてきた。見つけた場所の正確な座標、エルフがどのような軌道で飛び回っていたか、器の周りに結界のような抵抗はなかったか。


私は記憶を必死に掘り起こし、エリーも魔導書に記録していた魔力波形を提示しながら、一つ一つの質問に答えていった。小一時間は続いたであろう詰問がようやく一段落した時、イリスは椅子に深く背もたれを預け、眼鏡を外して目元を指で押さえた。


「……間違いないわ」


彼女の声は、地底から響くような重みを持っていた。


「これは、伝説に語られる三つの王冠――『ドライクローネ』の一つよ。これほどの純度を持った古代魔導具が、現代にこれほど完璧な状態で残っていたなんて……歴史が、書き換わるわね」


イリスの断定に、私とエリーは顔を見合わせた。

これで、私たちが追い求めてきたパズルがすべて繋がったのだ。


「……ゴダイの集落にあるユニコーンの餌皿、そしてティフェの修練場に今も飾られているあの古びた器。そして、この森で見つかった銀の器。これで三つすべてが揃うことになるわね」


私が呟くと、エリーも武者震いをするように肩を揺らした。

「ええ。修練場のものは、わたくしが明日の朝一番で許可を取って借り受けてきますわ。ゴダイの集落の方は、ベルたちが無事に持ち帰ってくれれば……」


しかし、イリスの表情は晴れやかではなかった。彼女は再び器を見つめ、独り言のように続けた。


「……ただ、わからないことがあるの。古文書の記述も、ここで途切れている。ドライクローネが三つ揃った時、一体何が起こるのか。それは、世界を救う救済の光なのか、それとも……眠れる厄災を呼び覚ます鍵なのか」


部屋の中に、重苦しい沈黙が流れた。

八岐大蛇が潜むとされるアルバ峠、そしてこの器。すべてが揃ったとき、何かが決定的に変わってしまう予感がした。


「……考えても仕方がありませんわ。イリス、明日はよろしく頼みますわよ」

「ええ。大学の研究室を貸し切りにしておくわ。警備も厳重にね。明日、三つの王冠が一箇所に集まった時、真実の片鱗が見えるはずよ」


イリスの研究所を後にした私とエリーは、夕闇に包まれ始めたティフェの街を歩いた。

石畳を鳴らす自分の足音が、妙に大きく響く。


「……アリア。わたくし、なんだか不思議な気分ですわ」

エリーが、マントをきゅっと握りしめて言った。

「恐ろしくて逃げ出したいような不安と、これから誰も見たことがない歴史の瞬間に立ち会えるという……得体の知れない高揚感が、胸の中でぐちゃぐちゃになっていますの」


「奇遇ね、エリー。私も同じよ」


私は背中にある大剣の重みを感じながら、遠くアルバ峠があるはずの北の空を見上げた。

期待と不安。そのどちらもが、私たちの鼓動を速くさせていた。明日の鑑定で、運命の歯車が大きく回り出すことを、私たちは本能的に感じ取っていた。



朝日がティフェの街を黄金色に染める頃、私は待ち合わせ場所である中央広間の大きな噴水の前で、仲間の到着を待っていた。


「アリア、お待たせ! 無事に回収してきたわよ」


人混みをかき分けてやってきたベルが、革袋の中から鈍い光を放つ一つ目のドライクローネを取り出した。かつてゴダイの集落でユニコーンの餌皿として使われていた、あの器だ。


「お疲れ様、ベル。……あら、ケットシー? その頭、どうしたの?」


ベルの隣に座り込むケットシーの頭には、見事な、そしてまだ新しいたんこぶが一つ、ぽっこりと盛り上がっていた。


「……痛い目に遭うたわ。お姉ちゃん、聞いてや。吾輩はただ、器の底に残っとったユニコーンの餌の残り香を、ちょっと確認しとっただけなんや」

「嘘おっしゃい! この猫、器の中に顔を突っ込んで、底が見えるまでペロペロ舐め続けてたのよ。神聖なドライクローネをヨダレまみれにするなんて、行儀が悪いにも程があるわ!」


ベルが呆れたように拳を握りしめる。

「やって、ユニコーンの餌は最高に美味いんやもん……。あんな高級品、なかなかお目にかかれへんで」

「それがげんこつの理由ね……」


相変わらずのやり取りに少し毒気を抜かれていると、向こうから全力で走ってくるエリーの姿が見えた。けれど、彼女の様子が明らかにおかしい。


「……う、うわぁぁぁん! アリアーーーッ!」


エリーは私の姿を捉えるなり、猛烈な勢いで飛び込んできて、私の腰に抱きついたまま声を上げて泣き出した。


「エリー!? どうしたの、一体何があったのよ」

「聞いてくださいまし、アリア……っ! 修練場に二つ目のドライクローネを借りに行きましたら……ひぐっ……あの、見張りの兵士が……!」


エリーが震える手で差し出したのは、修練場に飾られていた器だった。しかし、彼女の屈辱と恐怖は相当なものだったらしい。


「わたくしが器を回収しようとしたら、その兵士が『お嬢ちゃん、その装備はなんだい? 魔法学校の最新モデルか?』とか言いながら、いきなり身体を……っ! このレオタード越しに、あちこち触ってきたんですの! 高機能な素材でできているから感触を確かめたいんだとか抜かして、わたくしが嫌がっても、何度も、何度も……!」


エリーは顔を真っ赤にして、大量の涙をボロボロとこぼした。

「器を受け取って逃げようとしたのに、あいつ、廊下の突き当たりまでしつこく追いかけてきて……『お嬢ちゃん、そのタイツの伸縮性も見せてくれよ』なんて……もう、もう我慢の限界ですわーーーッ!」


エリーの号泣を聞きながら、私の脳裏にある一人の男の顔が浮かんだ。

(……間違いないわ、あの男ね)


かつて私がティフェで地獄の修行をしていた頃、「装備の着脱に不備がないか点検してやる」と称して、私の身体をレオタード越しにベタベタと触りまくった、あのエロ兵士だ。あの時は修行に必死で受け流していたけれど、まさか純粋なエリーにまで同じ手口でセクハラを働くなんて。


「……大丈夫よ、エリー。よく耐えたわね」

私は泣きじゃくるエリーの頭を優しく撫でながら、心の奥底で静かに、けれど激しい怒りの炎を燃やした。

(あのクソ兵士……。次に見かけたら、大剣の峰打ちじゃ済ませないわ。粉々に叩き殺して、二度と女子のレオタードを触れないようにしてやる……!)


「アリア、顔が怖いわよ……。でも、私も賛成だわ。そんな奴は二刀流で細切れにしてやるから」

ベルも冷ややかな目で相槌を打つ。


「さて、これで三つ揃ったわね。……行きましょう。イリスが待っている大学へ」


私はエリーの肩を抱き寄せ、マントで彼女の身体を守るようにしながら歩き出した。

手元には、樹海で見つけた三つ目の器、ベルが持ってきた餌皿の器、そしてエリーが命懸け(?)で守り抜いた修練場の器。


ついに三つの王冠ドライクローネが一箇所に集まろうとしている。背後ではケットシーがたんこぶをさすりながら「女の恨みは怖いのぉ……」と小さく呟き、私たちの後を追ってきた。イリスの研究室へ向かう石畳の道は、これから始まる「真実」への予感で満ちていた。



ティフェ大学の奥まった場所にある研究室。壁一面を埋め尽くす古文書と、奇妙な薬品の匂いが漂うその部屋で、考古学者のイリスは大きな机の前に座って私たちを待っていた。


「あら、ようやく揃った……って、ちょっとエリー? その顔はどうしたのよ」


扉を開けるなり、イリスは目を丸くした。まだ赤く腫れた目で私のマントにしがみついているエリーを見て、彼女は椅子から身を乗り出した。私は溜息をつきながら、エリーが修練場で二つ目の器を回収した際に遭った「災難」をかいつまんで説明した。


「……なるほどね。またあいつの仕業か」


イリスは深くため息をつき、こめかみを押さえて頭を抱えた。

「あのエロ兵士、この街じゃ有名人なのよ。装備の点検だの、魔力伝導の確認だの、もっともらしい理由をつけては女の子にセクハラを繰り返して……。軍隊には独自の規律があるし、あいつは上層部に取り入るのが上手いから、今の法律じゃ誰も表立って裁けないのよね」


「法律で裁けないなら、物理的に裁くしかないわね」

私が低く呟くと、イリスは苦笑いしながら頷いた。

「安心しなさい。ちょっとした入れ知恵を使って『お灸』を据えてやるから。……さて、今はそれどころじゃないわね」


イリスが姿勢を正すと、部屋の空気が一変した。

私は意を決して、机の上に三つのドライクローネを並べた。

一つは樹海の奥、エルフの森で見つけた銀の器。

一つはベルがゴダイの集落から持ち帰った、元・餌皿の器。

そして、エリーが屈辱に耐えて修練場から借りてきた器。


「これまでの道中、何か異変はあった?」

「いいえ、特に何も。ただ重い器を運んでいるという感覚しかなかったわ」


私が答えると、イリスは「ふむ……」と呟き、鑑定を始めた。特殊な魔力レンズを覗き込み、古文書と照らし合わせ、時には微弱な魔力波を当てて反応を見る。時間は刻一刻と過ぎ、ベルとケットシーも固唾を飲んでその様子を見守っていた。


しかし、一時間以上が経過しても、三つの器は静まり返ったままだった。共鳴することも、光り輝くこともなく、ただの古びた骨董品のように机の上に鎮座している。


「……おかしいわね。何の反応も示さない。三つ揃えば『王冠』に形を変えるとか、強大な力が溢れ出すといった伝説があるはずなんだけれど」


イリスは困惑したように腕を組み、私に視線を向けた。

「アリア、一つ聞かせて。あなたたちはどうしてアルバ峠へ向かっているの?」


「……私たちは、アルバ峠に眠るとされる『水晶玉』を見るために冒険を続けているわ。ドライクローネはその過程で手に入れたものだけれど、これがないと峠の奥へは辿り着けない気がして」


私の答えを聞いて、イリスは目を見開いた。彼女は再び三つの器を、今度は別の角度から見つめ直した。


「水晶玉……。なるほど、そう繋がるのね。単体で何かを起こすための道具ではなく、もっと大きな『何か』を抑え込むためのもの……。推測だけれど、この三つのドライクローネは、水晶玉が放つあまりに強大な魔力を封じるための『封印の鍵』か、あるいはその力を制御するための『調整器』の役割を果たしている可能性があるわ」


「封印の……鍵?」


「ええ。もし水晶玉が強大なエネルギー源だとしたら、不用意に近づくのは危険すぎる。三つが揃ってここで『反応しない』のは、ここがまだその場所(アルバ峠)ではないからよ。おそらく、水晶玉の近くに持っていくことで初めて真の機能を発揮するはずだわ」


イリスの推論を聞きながら、私は自分の背筋がわずかに震えるのを感じた。

私たちが手にしたこの三つの器は、単なるお宝ではない。それは、世界の真理に触れるための、唯一にして危険な通行証なのだ。


「……ワクワクしてきたわね」

ベルが不敵に笑い、二刀の柄を弄んだ。

「不安じゃないと言えば嘘になるけれど、そこまで言われたら、その水晶玉ってのを拝まないわけにはいかないわ」


隣でようやく泣き止んだエリーも、眼鏡を拭きながら力強く頷いた。

「そうですわね。わたくしたちの冒険が、歴史の核心に触れようとしている。……行かなければなりませんわ」



イリスの研究室の空気は、彼女の鋭い推察によっていっそう濃密なものへと変わっていた。静寂を破ったのは、ベルの肩に身を乗り出したケットシーだった。


「……なぁ、お姉ちゃん。吾輩、ずっと気になっとることがあるんや。あの『フジ』っていう東洋の巫女さんのことや」


ケットシーは、これまでの道中で私たちが語った彼女の話を反芻するように、金色の瞳を細めた。

「あの娘、一人で大丈夫なんかなぁ? 腕が立つんはわかっとるけど、相手が悪いわ」


私はイリスに向き直り、これまで彼女には伏せていた情報をすべて打ち明けることにした。フジという巫女もまた水晶玉を目指していること、そして、その目的地であるアルバ峠に、複数の頭を持つ伝説の怪物「八岐大蛇」らしき影が蠢いていることを。


「……八岐大蛇ですって!?」


イリスが弾かれたように立ち上がった。その拍子に机の上の古文書が数冊床に落ちたが、彼女はそれに見向きもしなかった。


「ちょっと待って、ありえないわ。アルバ峠は元々、ドラゴン一匹すら生息していない平穏な山脈だったはずよ。それはあなたたちも知っているわね?」


「ええ、知っているわ。ドラゴンが集まるようになったのは、水晶玉がそこに封印されてからのことでしょう?」


私が答えると、イリスは激しく首を振った。

「そうなのよ! 問題はそこなの。なぜ知能の高いドラゴンたちが、わざわざ封印された水晶玉の魔力に惹かれるのか、その理由は未だに解明されていないわ。でも……もし惹かれているのがドラゴンではなく、もっと異質な、東洋の伝承にあるような『魔物』だとしたら、話は別よ」


イリスは震える指先で眼鏡を押し上げた。

「もしその怪物が実在して、水晶玉の魔力を喰らおうとしているのだとしたら……そのフジという巫女は、一刻も早くそれを阻止し、退治するために峠へ向かっているのではないかしら。……アリア、もし私の推測が正しければ、彼女は今頃、峠の麓で魔物たちの群れに囲まれて孤軍奮闘しているはずよ!」


「なんですって……!?」

「そんな、フジさん一人で……!」


エリーが悲鳴のような声を上げた。

仲間のピンチを想像し、私の胸に焦燥感が走る。あの凛とした巫女が、血の気が引くような戦いの中に身を置いているかもしれない。


「行きましょう、みんな! フジを一人にするわけにはいかないわ!」


私が大剣を背負い直し、部屋を飛び出そうとしたその時だった。


「待ちなさい、アリア! 丸腰でそんな怪物に挑む気!?」


イリスが鋭い声で私たちを制した。彼女は部屋の奥にある、厳重に施錠された棚を荒々しく開けると、中から一本の、琥珀色の液体で満たされた瓶を取り出した。


「これを持っていきなさい。……これは『ヤシオリ』と呼ばれる、東洋に伝わる特別なお酒よ」


「お酒?」

ベルが「酒」という言葉に一瞬目を輝かせたが、イリスの真剣な表情にすぐさま表情を引き締めた。


「ただの酒じゃないわ。古文書によれば、八岐大蛇はこのヤシオリが大好物で、たった一滴舐めただけで、どんな巨体でも深い眠りに落ち、酔いつぶれると言われているの。万が一、あなたたちの手に負えない事態になったら、これを使って隙を作りなさい」


イリスは私の手に、ひんやりとした瓶を押し付けた。

「いい? 考古学者として言うわ。歴史を目の当たりにするのはいいけれど、死んだら元も子もないわよ。……必ず、みんなで、その巫女さんも連れて戻ってきなさい!」


「……ありがとう、イリス。助かるわ」


私は瓶をマントの内側にしっかりと固定した。

東洋の秘薬、そして三つの王冠。すべての準備は整った。


「ベル、エリー、行くわよ! 飛竜を呼んで。一気にアルバ峠へ飛ぶわ!」


私たちはイリスに背を向け、研究室を駆け出した。外はもう夕暮れ時。茜色に染まる空の向こう、禍々しい雲が渦巻くアルバ峠が、私たちの到着を冷たく待ち構えていた。



ティフェの郊外に広がる草原で、私たちは出発を前に頭を悩ませていた。


「どう考えても、難しいですわ……」


エリーが困り果てた顔で飛竜を見つめる。飛竜は一度に二人までしか運べない。ベルとエリー、それにケットシーが乗れば、もう定員オーバーだ。かといって、あのおぞましい魔物が跋扈する樹海を、私一人が徒歩で抜けるには時間がかかりすぎる。


その時だった。

パカッ、パカッ、パカッ――!!

背後から、力強く大地を叩く蹄鉄の音が響いてきた。


「よう、アリア。随分と深刻な顔をしてるじゃないか」


振り向くと、そこには黒髪のリーゼントを風になびかせたケンタウロスの戦士、ガロが立っていた。上半身の甲冑を陽光に輝かせ、不敵な笑みを浮かべている。


「ガロ! 足の怪我はもういいの?」

「ああ、ロットの町で受けた手当てが効いたぜ。この通りピンピンしてる。……話は聞いてたぜ。あんたをアルバ峠の麓まで運ぶ役、この俺が引き受けよう」


「でも、まだ無理しちゃ……」

「ガタガタ言うな。俺はこれでも町の警備を任されてる男だ。この程度の距離、なんてことねえよ」


ガロは強がって胸を叩いた。その男気に甘えることにし、ベルとエリー、それにケットシーは飛竜に跨って空へと舞い上がった。


「それじゃあ、アリアを頼んだわよ! 麓で会いましょう!」


ベルたちの声が遠ざかる。私はガロの逞しい背中に跨り、両手持ちの大剣をしっかりと握りしめた。


「行くぜ、振り落とされるなよ!」


ガロが地を蹴った。その速度は凄まじく、景色が後ろへと飛んでいく。樹海の入り口に差し掛かると、飢えた魔物たちが次々と姿を現したが、私は背中から身を乗り出し、大剣を一閃させた。

ギィィィィンッ!

疾走する馬上の勢いが剣に乗る。襲いかかる魔物を次々と一撃でなぎ払う感覚は、まるで伝説の騎馬戦士になったようで、言葉にできないほど爽快だった。


やがて私たちは、光の届かない深い樹海の中へと突き進んでいった。周囲が静まり返り、ガロの荒い息遣いと蹄の音だけが響く中、彼は不意に声を落とした。


「……なぁ、アリア」

「何? ガロ」

「俺はよ……あんたのことが、好きなんだ」


「えっ……!?」

唐突な告白に、私は思わず大剣を取り落としそうになった。頬が一気に熱くなるのがわかる。

「な、何を急に……」

「わかってるさ。俺はケンタウロスという魔物だ。人間と結ばれることなんて、この世界の掟が許しちゃいねえ。……でもよ、だからこそ、せめて今はあんたの足になりたいんだ。あんたが命を懸けて戦うなら、俺は命を懸けてあんたを運ぶ。それが俺の精一杯の愛の形なんだよ」


ガロの声は震えていた。真っ直ぐで、あまりにも不器用な想い。私は返す言葉が見つからず、視線を泳がせた後、消え入るような声で短く呟いた。


「……バカ」


恥ずかしさを隠すように、私は彼の背中に顔を伏せた。不器用なのは、私の方も同じだった。


やがて前方に、轟々と音を立てるあの大河が見えてきた。しかし、ガロは速度を緩めるどころか、さらに加速していく。

「ガロ!? 止まって、この深さは無理よ!」

「止まらねえ! 飛ぶぜ、アリア! しっかり掴まってろ!!」


ガロが吠えた。岸壁の縁で力強く踏み切り、私たちの体は宙に浮いた。

「きゃあああああッ!」

眼下に広がる濁流。一瞬の浮遊感。心臓が止まるかと思ったその直後、凄まじい衝撃と共に私たちは対岸の土を捉えた。


「……ふぅ、肝が冷えたわ」

私がようやく息を吐き出すと、そこには先に到着していたベルたちが驚いた顔で待っていた。


ガロは私を背中から降ろすと、少し寂しそうに、けれど満足そうに笑った。

「俺の役目はここまでだ。……アリア、死ぬんじゃねえぞ」

「ガロもね。送ってくれて……ありがとう」


ガロの勇姿を見送り、私たちは再び一つになった。目の前には、天を突くようなアルバ峠の険しい岩壁がそびえ立っている。

「行きましょう。ドライクローネと、ヤシオリを持って」


私は大剣を強く握り直し、未知の恐怖と水晶玉が待つ峠の奥地へと、一歩を踏み出した。

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