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峠の水晶玉  作者: アガッタ
峠の水晶玉

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第14話 峠の水晶玉

ガロと別れ、アルバ峠の険しい山道を登り始めてからどれくらい経っただろうか。空気は希薄になり、混じる魔力の濃度は、これまでの樹海とは比べものにならないほど濃くなっていた。


「……ッ、来ますわ!」


エリーの警告と同時に、岩陰から巨大な影が躍り出た。獅子の頭に山羊の胴体、そして尾が毒蛇となった――大型のキマイラだ。


「まずは私が削るわ! はぁッ!」


ベルが二本の細剣を閃かせ、キマイラの懐に飛び込む。目にも止まらぬ連撃で注意を逸らすと、エリーが分厚い魔導書を掲げた。


「凍てつきなさい! 『クリスタル・バインド』!」


エリーの放った氷結魔法がキマイラの足を止め、動きを鈍らせる。私はその隙を逃さず、大剣を両手で構え直した。


「これで……終わりよ!」


一閃。青白い闘気を纏った一撃がキマイラの巨体を両断する。倒れ伏す魔物を見下ろしながら、私は肩で息をついた。

……手強すぎる。道中に現れる雑魚の一匹一匹が、これまで戦ってきたボスクラスの強さを持っている。


「ドラゴンもそうだけど、魔物の狂暴さが尋常じゃないわね。……あ、あれは?」


足元に、不自然に白く輝く紙片が落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、それは見慣れない紋様が描かれた――霊符だった。


「フジさんの霊符ですわ。やっぱり、彼女もここを通ったんですのね」


エリーの言葉に、私の胸は焦燥感で締め付けられた。私たち三人でもこれほど苦戦する道を、彼女はたった一人で進んでいる。いくら腕が立つとはいえ、危険すぎる。


その時だった。


ドォォォォォォンッ!!


大地が底から突き上げられるような激しい振動が私たちを襲った。あまりの揺れに膝をつきそうになりながら空を見上げると、そこは地獄のような光景が広がっていた。


「な……何よ、あの数……!」


ベルが絶句する。上空では数え切れないほどのドラゴンが乱舞していた。紅蓮の炎を吐き散らす火竜、大気を引き裂く突風を巻き起こす嵐竜。それらすべてが、一点に狙いを定めて猛攻を仕掛けている。


ドラゴンの包囲網の先にいたのは、山肌から突き出した三つの巨大な頭――東洋の伝承にある「龍」の姿をした、おぞましき魔物だった。


「……八岐大蛇。本当に、いたのね……」


私たちは反射的に巨大な岩陰に身を隠した。まだ頭は三つしか見えないが、その一頭だけでもドラゴンの数倍はあろうかという巨躯。

ドラゴンたちが一斉に急降下し、牙と爪でその肉体に襲いかかる。しかし、その怪物は動じなかった。


三つの頭が同時に鎌首をもたげると、中心の首が大きく口を開いた。


「キサマ……ラ……。ジャマ……ダ……」


言葉にならない咆哮と共に、口内から凝縮された青白い光線が放たれた。


――ビィィィィィィィィッ!!


空が白く染まった。光線を真正面から浴びたドラゴンは、叫ぶ間もなく黒焦げになり、ゴミのように彼方の谷底へと墜落していく。

その圧倒的な破壊力を目の当たりにした他のドラゴンたちも、本能的な恐怖に支配されたのか、蜘蛛の子を散らすように距離を取り始めた。


「……嘘でしょ。ドラゴンたちが、あんなにあっさりと……」


ベルの腕が震えている。私だって同じだ。今まで見てきたどんな魔物とも次元が違う。これが「神」とも「災厄」とも呼ばれる存在の力なのか。


(だめよ、こんな場所で足踏みしている暇はない!)


「フジはこの先にいる……この化物の標的にされているかもしれないのよ!」


私の叱咤に、エリーとベルがハッとしたように顔を上げた。この底知れない恐怖に呑み込まれたら終わりだ。


「急ぎましょう。八岐大蛇がドラゴンたちに気を取られている間に、フジを見つけ出すのよ!」


イリスから預かった「ヤシオリ」の瓶をマント越しに確かめる。

私たちは恐怖を無理やり心の隅へ追いやり、フジの残した霊符を道標に、死の予感が漂う麓の道を再び駆け出した。



一歩進むごとに道は険しさを増し、足元の岩肌は牙のように鋭く尖っていった。空は八岐大蛇が吐き出した青白い残光に焼かれ、不気味な紫色の雲が渦巻いている。


「……ッ、休みなしですわね!」


絶え間なく襲いかかる魔物たちに、私たちの体力は確実に削られていた。不意に、頭上の岩棚から巨大な怪鳥が音もなく滑空してきた。その狙いは、最後尾で魔法を整えていたエリーだ。鋼鉄よりも鋭いくちばしが、彼女の背中を貫こうと迫る。


「エリー、伏せて!」


叫びざま、私は大剣を斜め上へと振り抜いた。

ガギィィィンッ!

火花が散り、手応えが掌に伝わる。絶妙なタイミングで放たれた一撃は、怪鳥の巨大なくちばしを根元から叩き折った。獲物を仕留め損ね、自慢の武器を失った怪鳥は、苦悶の叫びを上げながら一目散に彼方へと飛び去っていった。


「助かりましたわ、アリア……。心臓が止まるかと思いましたわ」

「礼はいいわ。今は一刻も早く、安全な場所へ移動しましょう」


私の肩で周囲を警戒していたケットシーが、ヒゲをピクリと動かして前方を指差した。

「お姉ちゃん、この崖を回り込んだ先に広い茂みがあるはずや。あそこなら身を隠せるで。急ごう!」


私たちは魔物たちの急襲を大剣と細剣で退けながら、這うような思いでその場所へ辿り着いた。そこは切り立った岩壁に囲まれた、小さな盆地のような茂みだった。


「……あそこに誰か倒れていますわ!」


エリーの声に視線を向けると、岩陰の草むらに、見覚えのある巫女装束が横たわっていた。

「フジ……!」


私たちは駆け寄った。東洋から来たあの誇り高き巫女が、今は装束を血に染め、泥にまみれて横たわっている。肩を露わにした衣装は裂け、痛々しい傷跡がいくつも刻まれていた。


「フジ! しっかりして!」

呼びかけに、彼女は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。虚ろだった瞳に、次第に私たちの姿が映り込む。

「……お、主ら……か……」


「喋らなくていいですわ。今すぐ治しますから!」

エリーが分厚い魔導書を広げ、回復魔法を唱え始めた。柔らかな光がフジの全身を包み込み、深い傷が塞がっていく。


その光景を見つめながら、私はふと、かつて自分もこうしてエリーに癒された時のことを思い出していた。

同時に、フジと初めて出会った時の圧倒的な恐怖も。あの時、私たちは彼女の神霊術の前に手も足も出ず、力の差をこれでもかと見せつけられたのだ。


(あんなに強かったフジが、これほどまでに……)


空を見上げれば、先ほどの八岐大蛇の咆哮がいまだに山々に反響している。

最強の巫女ですら一歩手前まで追い詰められる地獄。そこに、ただの騎士でしかない私たちが挑もうとしている。

果たして、私たちはあの怪物に勝てるのだろうか。生きて、あの輝く水晶玉を拝むことができるのだろうか。


気づけば、私の頬を熱いものが伝っていた。一度溢れ出した不安は、止めようもなかった。


「……泣くんじゃないわよ、アリア」


不意に、ベルが私の肩を強く叩いた。

「ほら、見てみなさいよ。私たち、結局ここまで来ちゃったじゃない。死神ジュザを倒して、石化の呪いも解いて、あんな大河も飛び越えて……。あんたも自覚ないかもしれないけど、私たち、相当しぶとくなってるわよ」


「ベルの言う通りですわ。不安がないと言えば嘘になりますけれど、わたくしたちは確実に成長していますの。そうでなければ、とっくに脱落していますわ」

エリーが慈しむような微笑みを浮かべ、治療を終えた手を私の甲に重ねた。


自分たちが強くなっているという実感。それは、あやふやで、形のないものだったけれど。でも、確かにこの三人で今日を生き延びてきたという事実が、私の震える心を繋ぎ止めてくれた。


「……そうね。ありがとう、二人とも」

私は涙を乱暴に拭い、立ち上がった。


「よし! 今日はここで野宿にしましょう。ケットシーの言う通り、ここは死角になってるし、比較的安全だわ」

ベルの提案に、私たちは異論なく頷いた。


焚き火を熾すことはできないが、私たちは身を寄せ合い、ひと時の休息に身を委ねた。深い闇に包まれたアルバ峠。けれど、眠りに落ちるフジの穏やかな寝顔と、隣にいる仲間の温もりを感じながら、私は明日へ向かうための勇気を少しずつ、胸の奥に溜めていくのだった。



朝靄が立ち込めるアルバ峠の冷気で目が覚めたとき、私は隣に温もりがないことに気づき、跳ねるように体を起こした。


「……フジ!?」


昨日、あれほど深手を負っていたはずの彼女の姿が、どこにもない。彼女が横たわっていた場所には、ただ一枚、古びた紙の人形代ひとかたしろが、冷たい風に吹かれてカサリと音を立てているだけだった。


「あのバカ、あんな体で……!」


あまりにもフジらしい、不器用で身勝手な気遣い。けれど、この先の惨状を知っている身としては、見捨ててはおけない。私はまだ眠りの中にいたベルとエリーを力いっぱい叩き起こした。


「起きて! フジがいなくなったわ!」

「えぇっ!? あの怪我でどこへ……!」

「吾輩も鼻を効かせるさかい、急ごう!」


ベルとエリーも即座に状況を察し、私たちは荷物をひっ掴んで彼女が向かったであろう山道へと駆け出した。岩場に残された僅かな血痕と、ケットシーの嗅覚を頼りに険しい道を急ぐこと数分。切り立った崖の先で、ついに彼女の背中を見つけた。


だが、フジの目の前には、これまでの魔物とは明らかに異質な威圧感を放つ怪物が立ちはだかっていた。


「……牛鬼うしおに……ッ」


エリーが震える声でその名を漏らす。彼女の知識によれば、それは東国に伝わる魔物。鬼の頭に牛の巨躯を持ち、その一撃は山をも砕くという。

私たちは岩陰に身を潜め、固唾を呑んで戦いを見守った。


「ハァ……ハァ……」

フジは肩で息をしていた。エリーの魔法で傷は塞がったものの、失った体力までは戻っていない。牛鬼が咆哮を上げ、猛然と突進する。フジは紙一重でそれをかわしたが、かつての流麗な身のこなしには程遠く、着地の際にわずかに膝を折った。


ドォォォン! と山肌に激突した牛鬼が、鼻息荒く振り返る。その濁った眼球が、偶然にも岩陰にいた私たちを捉えた。


「気付かれた……! 来るわよ!」


牛鬼は標的を私たちに変え、大地を揺らしながら突撃してきた。


「させませんわ! 重く、沈みなさい! 『グラビティ・バインド』!」


エリーが魔導書をかざし、牛鬼の足元に高重力の結界を展開する。巨獣の動きが目に見えて鈍った。さらに彼女は「プロテクション・ウォール!」と叫び、私たちの前に光り輝く魔法の障壁を張り巡らせる。


ドォォォン!!

鈍化したとはいえ、牛鬼の質量による突進は凄まじい衝撃となってエリーのバリアを叩いた。

「くっ……アリア、今ですわ!」


「ええ! はぁぁぁぁッ!」

私は大剣を正眼に構え、全力の横一閃を放つ。剣圧が衝撃波となって牛鬼を直撃したが、奴の強靭な皮膚はわずかに弾けるだけで、巨体は数メートル後退したに過ぎない。


「硬いわね……なら、手数で沈めるまでよ!」


ベルが前に出た。彼女が二本の細剣を交差させた瞬間、周囲に十数人ものベルの姿――残像が現れ、円陣を組んで牛鬼を包囲した。


「逃がさないわよ……! 必殺――『ダイヤモンドピアス』!!」


一斉に、無数のベルが閃光となって中心へ突き抜けた。

シュババババッ! と空気を切り裂く音が連続し、次の瞬間、牛鬼の体の至る所から噴水のように鮮血が噴き出した。断末魔の叫びを上げる間もなく、巨獣はその場に力なく沈み、動かなくなった。


静寂が戻った戦場に、ベルの荒い呼吸だけが響く。私はすぐに視線を先ほどの場所へ戻した。


「フジ!」


私たちは、岩壁に背を預けて今にも崩れ落ちそうな、満身創痍のフジの元へ全力で駆け寄った。独りで背負おうとした彼女の意地と、それを許さない私たちの絆が、アルバ峠の冷たい風の中で激しく交錯していた。



牛鬼の巨躯が沈み、静寂が戻った荒野で、私は駆け寄ったフジの体を支えた。彼女は相変わらず凛とした表情を崩さず、背筋を伸ばそうとしていたけれど、肩を貸した私の手には、その足が激しくふらついているのが痛いほど伝わってきた。


「フジ、もういいわ。無理よ……」

「……お主ら、なぜ。私は一人で……」


「一人でなんて言わせないわよ!」

私は彼女の言葉を遮り、強引に肩を担ぐと、比較的安全そうな大きな岩陰へと彼女を運んだ。

これが騎士としての任務なのか、それともただのお節介なのかは自分でもわからない。けれど、一人の人間として、そして共に死線を潜った仲間として、彼女が泥を啜るような最期を迎えるのを見過ごすことなんて、私にはできなかった。


しかし、安堵の時間は一瞬だった。

不気味なほど急速に、辺りが闇に包まれ始めたのだ。太陽が隠れたわけではない。上空から降りてきた「何か」が、光を遮っているのだ。


「……ッ! 来る……っ!」

フジの声が、これまでにないほど震えていた。

その直後、私たちは言葉を失った。


頭上に広がる空を、巨大な影が埋め尽くしていた。

昨日見た三つの頭ではない。うねり、重なり合い、空間を圧迫する――計八つの邪悪な頭。

その瞳はすべてが血のように赤く、冷酷な光を宿して私たちを見下ろしている。

真実の「八岐大蛇」が、ついにその完全な姿を現したのだ。


その圧倒的な威圧感の前に、ベルもエリーも、そして私も、足がすくんで動けなくなった。本能が「死」を叫んでいる。逃げ場などどこにもない。この怪物は、一欠片の慈悲もなく、私たちをここで塵に変えるつもりなのだ。


「……まだだ。まだ、終わらせはせぬ」

震える足取りで、フジが立ち上がった。

「フジ!? やめて、死ぬわよ!」

叫ぶ私を、彼女は振り返らずに制した。その細い背中が、今は絶望的なまでに大きく見える。


「アリア、よく聞け。この道の先……あの崖の向こうに『封印の地』がある。そこには、お主らが求めていた水晶玉が眠っているはずだ」


フジは霊符を構え、その全身から最後と言わんばかりの神霊力を絞り出した。

「ここはお門違いの私が食い止める。お主らは走れ! 水晶玉を、あの地を……守れるのは、三つの王冠ドライクローネを持つお主らだけだ!」


「そんなの……そんなの、行けるわけないでしょ! あなたを見捨ててなんて!」

エリーが泣き叫び、ベルも二刀を握りしめたまま歯を食いしばっている。私の胸も、引き裂かれるような痛みと絶望で溢れそうだった。


だが、フジは一度だけ、わずかに口角を上げて笑った気がした。

「……行け。信じているぞ」


その瞬間、八岐大蛇の一つが咆哮を上げ、山をも砕く一撃を繰り出そうとした。フジがその巨体に向かって、紅蓮の炎を纏った霊符を投げつける。


「……走りなさいッ!!」

私は自分でも驚くほどの怒声で、ベルとエリーの腕を掴んだ。

ここで躊躇えば、彼女の覚悟が、命が、すべて無駄になる。


視界が涙で歪み、胸の奥が張り裂けそうだった。それでも、私たちは背後の爆炎と咆哮を振り切るように、フジが指し示した「封印の地」へと向かって、狂ったように走り出した。



背後から、鼓膜を突き破るような轟音と、大地を震わせる凄まじい衝撃波が押し寄せた。振り返りたい衝動を必死に抑え、私はただ前だけを見つめて走り続けた。頬を伝う涙が風に煽られて飛んでいく。


「フジ……お願い、無事でいて……っ!」


エリーの嗚咽が風に混じる。私たちは、フジが命を賭して作ってくれた数分、数秒という時間を一滴も無駄にはできなかった。

険しい岩場を息を切らして駆け抜けた先、突如として視界が開けた。そこには、アルバ峠の荒々しい景観とは切り離されたような、静謐で古びた小さな神殿が佇んでいた。


白磁に近い石材で作られたその一角は、周囲を拒絶するように清浄な空気を纏っている。

「あそこね……! あそこが『封印の地』だわ!」


私が叫び、神殿の石段に足をかけようとした、その時だった。


「――おっと。そこから先は、選ばれた者のみが通る聖域だ。レディたちが土足で踏み込んでいい場所じゃないよ」


背筋が凍りつくような、粘り気のある声が響いた。

同時に、私の首筋を鋭い殺気がかすめる。反射的に大剣を抜き放ち、横に飛び退いた。先ほどまで私がいた地面には、紫色の禍々しい雷撃が突き刺さり、岩を真っ黒に焦がしていた。


ゆっくりと立ち塞がったのは、漆黒の法衣を纏い、先端に髑髏が刻まれた奇妙な形の杖を持つ男だった。


「誰よ……!」

「私の名はダツラ。冥府より来たりし死神の一人、と言えば理解が早いかな?」


男――ダツラは、不気味な笑みを浮かべて杖を弄んだ。

「この山がこれほどまでに騒がしい理由を知りたいかい? 私が八岐大蛇と契約を結び、その強大な力を持ってこのアルバ峠の全権を掌握したからだ。あの大蛇はね、私に水晶玉を献上するための、ただの掃除屋に過ぎないのさ」


ダツラは恍惚とした表情で、神殿の奥を見つめた。

「伝説は本当だったよ。この封印の地に隠された水晶玉は、どんな無理難題な願いでも叶える万能の鍵だ。私はこれを手に入れ、この退屈な世界を、永遠に静まり返った『死の王国』へと変えようと思っている」


「……そんなこと、させるわけないでしょ!」

ベルが二刀を構え、鋭い視線でダツラを射抜く。

「フジも、ガロも、イリスも……みんなが繋いでくれたこの道を、あんたみたいなイカれた死神に汚されてたまるもんですか!」


「そうですわ! 誰かの不幸を願うような力なんて、あってはなりませんわ!」

エリーも魔導書を強く握りしめ、魔力を高めていく。


「ふむ、言葉で通じないのは死神の特権か。いいだろう。水晶玉を手に入れる前の、ちょっとした前座だ」


ダツラが杖を掲げると、神殿の周囲にどす黒い霧が立ち込め始めた。

フジが命懸けで守ってくれたこの場所を、あんな狂った野望のために渡すわけにはいかない。


「行くわよ、二人とも! ここが私たちの、本当の決戦の地よ!」


私は大剣を正眼に構え、フジから託された希望を、そしてイリスから預かった「ヤシオリ」の瓶を胸に、死神ダツラへと向かって真っ向から踏み込んだ。



「……ぐっ、は……っ!」


衝撃が全身の骨を軋ませた。ダツラが杖を一振りしただけで放たれた紫黒の衝撃波は、抗う術もないほどの質量を持って私たちの身体を撥ね飛ばした。背中が硬い岩肌に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に押し出される。視界が火花を散らし、目の前が真っ暗になった。


「あ……が、エリー! ベル……!」


仲間の名を呼ぼうとしても、喉が焼けたように熱くて声にならない。這いつくばったまま顔を上げると、ダツラが冷酷な笑みを浮かべて杖を天に掲げていた。


「無駄な足掻きだよ。死神の領域に踏み込んだ報いを受けなさい。――『ドレイン・ソウル』」


杖の先から放たれた澱んだ光の鎖が、私たちの身体にまとわりついた。それは直接的な傷を与えるものではなかった。けれど、魂の根源から活力を削ぎ落としていくような、悍ましい感覚。指先から力が抜け、膝をつく気力さえもが、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。


「……あ、あぁ……」


エリーが力なく地面に伏し、ベルの二刀がカランと乾いた音を立てて岩場に転がった。抗う心が、深い絶望の沼に沈められていく。そんな私たちの無様な姿を見下ろしながら、ダツラは教壇に立つ教師のように、静かに、そして傲慢に語り始めた。


「なぜ、我ら死神が水晶玉を欲するか……その本当の理由を教えてあげよう。私はね、この美しい死の王国を築くことで、人間という種から『夢』と『目標』という名の毒を奪い去りたいのだよ」


ダツラは一歩、また一歩と神殿の階段を登りながら、吐き捨てるように続けた。


「人間という生き物は、底なしの強欲でできている。もっと豊かになりたい、もっと高くへ行きたい……。その醜い欲求が『夢』などという甘い言葉に形を変え、分不相応な目標を生み出す。そしてその欲が、この世界を争いと混沌で満たしてきた。ならば、その根源を絶てばいい。人間に一切の希望を与えず、ただ死を待つだけの絶望の中に閉じ込める。それが、この歪んだ世界に対する唯一の救済なのさ」


その言葉が、私の耳の奥で激しく反発した。

「……ふざけ、ないで……」


指先が動いた。岩を掴む爪が剥がれそうになっても、私は力を込めた。

強欲。確かに人間は欲深い。もっと美味しいものが食べたい、もっと広い世界を見てみたい。それは確かに「欲」かもしれない。でも、その欲が、この旅を支えてきたんじゃないの?


「……あんたに……何がわかるって言うのよ……!」


膝がガクガクと震える。視界はまだ霞んでいる。それでも、私はよろけながら、折れた誇りを拾い集めるようにして再び立ち上がった。


「強欲の何が悪いのよ……! 美味しいお酒を飲みたいとか、好きな人と一緒にいたいとか、もっと強くなりたいとか……そんな『どうでもいい強欲』があるから、私たちは今日を必死に生きてるんじゃない! その欲があるから、苦しい時だって笑って、平和な明日を夢見ることができるのよ!」


そうだ。ガロが命懸けで私を運んでくれたのも、フジがボロボロになりながら八岐大蛇に立ち向かったのも、みんな自分の中にある「守りたい」という強い欲があったからだ。それを『夢』と呼び、『希望』と呼んで、私たちはここまで繋いできたんだ。


「絶望だけを味わわせるのが救済ですって? 笑わせないで。そんな、人間から心を奪い去るような死の王国なんて……死神ごときに、勝手に作らせてたまるもんですか!」


私は背中に回した大剣の柄を、血の滲む拳で握りしめた。

魂を削る光の鎖が、私の怒りの熱で焼き切れるような音がした。

一歩。確かな足取りで、私は死神を見据えた。

この手にあるのは、ただの鉄塊じゃない。みんなの夢と、私の強欲が詰まった、希望の剣だ。


「ダツラ……あんたの理屈、まとめて叩き斬ってあげるわ!!」



「はぁぁぁああっ!!」


私は肺が潰れるほどの咆哮を上げ、大剣を振りかざした。だが、魂を削られた反動は重く、腕は鉛のように震える。大剣を包むはずの青い輝きは霧のように頼りなく、必殺の『蒼炎断魔斬そうえんだんまざん』を放つための魔力が、どうしても底から湧いてこない。


「……くっ、まだ、足りない……!」


膝が折れそうになったその瞬間、左右から温かく力強い感触が私の身体を支えた。


「一人で背負いすぎよ、アリア!」

「わたくしたちが、あなたの背中を支えますわ!」


ベルとエリーだ。二人はボロボロになりながらも立ち上がり、私にその残された魔力と気力を分け与えるように肩を貸してくれた。


「無駄なことを。足し算すらできないゴミ屑がいくら集まろうと、死神の力には――」


ダツラが嘲笑いながら杖を掲げた。魔法を無効化し、私たちを塵に帰す呪言を唱えようとした……その時だ。ダツラの顔から余裕が消え、驚愕に目が見開かれた。


「な……魔法が、発動しないだと……!? なぜだ、私の魔力が……ない!?」


「お気づきになりましたか?」

エリーが青白い顔で、不敵な笑みを浮かべた。

「長丁場になることは分かっていましたわ。ですから、先ほどの衝撃波を受けた瞬間、わたくしの魔力の残滓を霧状にして、あなたの周囲に『魔力枯渇マナ・ドレイン』の種を撒いておいたのです。あなたが雄弁に理想を語っている間に、その種はあなたの魔力をすべて食い尽くしましたわ!」


「おのれ、小賢しい真似をォッ!」


魔力を失い、ただの狂人と化したダツラが、杖を槍のように構えてエリーに突きかかった。

「危ない!」

叫ぶ間もなく、ベルが風のように動いた。


「遅いわよ、死神さん!」


ベルはダツラの死角に滑り込み、鋭い牽制の刃で奴の体勢を崩した。深手こそ負わせられないが、今のダツラにはその僅かな衝撃が致命的な隙となる。


「今よ、アリア! ぶちかましなさい!」

「とどめを! 人間の、わたくしたちの意志を見せてやりましょう!」


二人が私の背中を突き飛ばす。その瞬間、私の体内で何かが弾けた。

ベルとエリーの信頼、フジの覚悟、そして私の「生きたい」という強欲――すべてが混ざり合い、純度の高い闘気となって溢れ出した。


「おおおおおおおっ!!」


大剣から、天を衝くほどの青白い炎が舞い上がった。それは凍てつくほどに冷たく、そしてすべてを焼き尽くすほどに熱い、魂の炎。


「これが人間の……私たちの夢の重さよ!! 『蒼炎断魔斬』ッ!!」


閃光。

一閃された蒼い炎の刃が、絶望の闇を真っ二つに切り裂いた。ダツラの持つ髑髏の杖が砕け散り、続いてその身体が、頭の先から股下まで完璧な正中線で分断された。


「……が、はっ……あ、あははは……っ!!」


身体を二つに割られ、地面に転がりながらも、ダツラは血泡を吹いて不気味に笑った。その瞳には、死に際にあってもなお、邪悪な確信が宿っている。


「……見事だ……だが、遅かったな……。もうじき、あの巫女を血祭りにあげた八岐大蛇が……ここへ来る。お前たちの夢も、希望も……あの絶望のあぎとが、すべて食らい尽くしてくれるわ……っ!」


狂った笑い声を最後に、ダツラの身体は黒い塵となって風に消えた。


静寂が戻った神殿の前に、私たちは立ち尽くした。勝利の余韻などなかった。ダツラの最期の言葉が、呪いのように胸に突き刺さる。


「フジが……血祭りに……?」

エリーが震える声で呟いた。


私は唇を噛み締め、神殿の奥、そしてそのさらに向こうから漂ってくる圧倒的な、地の底から湧き上がるような殺気を感じ取っていた。八岐大蛇が来る。フジを飲み込み、すべてを終わらせるために。


「……泣かないで、エリー。まだ終わってないわ」


私は震える手で大剣を鞘に収め、イリスから預かった『ヤシオリ』の小瓶を強く握りしめた。

友を救うため、そしてこの狂った連鎖を断ち切るため。私たちは最後の戦場へと足を踏み出す決意を固めた。



ダツラの消滅と共に、周囲を覆っていた禍々しい霧がわずかに晴れた。だが、彼が最期に残した言葉は、冷たい楔のように私たちの心に打ち込まれたままだった。


「フジ……。いえ、今は信じるしかありませんわ。わたくしたちがここで水晶玉を手にすることが、彼女の戦いに報いる唯一の道ですもの」


エリーが涙を拭い、毅然とした表情で前を向いた。私たちは重い足取りで、ついに封印の地の中心、あの小さな神殿の正面へと辿り着いた。


そこには、長い年月を経てなお気品を失わない、古風な木製の扉が鎮座していた。複雑な紋章が刻まれ、どれほどの強力な封印が施されているのかと身構えたが、私が恐る恐る手をかけると、扉は「ギィ……」と静かな音を立て、あっけないほど簡単に内側へと開かれた。


だが、その瞬間だった。


「グオォォォォォォォォンッ!!」


鼓膜を震わせる、あの地獄の底から響くような咆哮。

神殿の屋根を、そして周囲の山々を覆い尽くすほどの巨大な影が、空から一気に舞い降りてきた。


「……っ! 八岐大蛇……!!」


ベルが悲鳴に近い声を上げた。

八つの首が、鎌首をもたげて神殿を取り囲む。その瞳には、フジとの戦いを経てなお衰えない、圧倒的な殺意と飢餓感が宿っていた。


戦う力は、もう私たちには残されていない。蒼炎断魔斬を放った私の腕は感覚を失い、ベルの剣はこぼれ、エリーの魔力は底をついている。今、あの顎が振り下ろされれば、私たちは一溜まりもなく噛み砕かれるだろう。


「……これを使うしかないわね!」


私は震える手で、マントの内に隠し持っていた瓶を取り出した。イリスから託された東洋の秘薬、「ヤシオリ」。

八つの頭が一斉にこちらへ向けられ、巨大な口が青白い光を溜め始めた。その刹那、私は渾身の力を振り絞り、瓶の栓を弾き飛ばして、中の琥珀色の液体を先頭の首へと向かって浴びせた。


「食らいなさい! 特製の酒よ!」


霧状になって飛散したヤシオリの滴が、八岐大蛇の鼻腔を突き、開かれた口内へと吸い込まれていく。


その直後、異変が起きた。

青白い光線を放とうとしていた大蛇の動きが、ピタリと止まったのだ。


「……ウ、グ……ルゥ……?」


八つの首が、まるで操り糸を切られた人形のように、あちこちへふらふらと揺れ始めた。あれほど鋭かった紅い瞳はとろんと濁り、焦点が合わなくなっている。

「効いてる……! イリスの言った通りだわ!」


巨体は目に見えてバランスを崩し、やがてドォォォォォン……! という、大地を揺るがす凄まじい音と共に、八岐大蛇はその場に崩れ落ちた。八つの首は地面に投げ出され、まるで深い泥の中に沈み込むように、重々しいいびきをかきながら深い眠りについてしまった。


「……信じられませんわ。あの怪物を、たった一瓶で……」

エリーが呆然と呟く。


「感心してる暇はないわよ。いつ目が覚めるかわからないわ。……今のうちに!」


私たちは、眠れる厄災の横をすり抜け、開かれた扉の奥へと飛び込んだ。

外の喧騒が嘘のように静まり返った神殿の中。その中央で、柔らかな光を放ちながら宙に浮いている「それ」を、私たちはついに視界に捉えた。


アルバ峠の頂、封印の地の深淵で、何千年も待ち続けていたであろう輝き。

あらゆる願いを叶えるという伝説の水晶玉が、静かに私たちを迎え入れていた。



神殿の扉をくぐり、私たちが目にしたのは、あまりにも殺風景な光景だった。


そこには煌びやかな装飾も、秘められた財宝も、そして目指していたはずの水晶玉もなかった。ただ、古びた石造りの四角い部屋が一つ、そこにあるだけ。天井の隙間から細い光が差し込み、埃が静かに舞っている様子は、ここが世界の命運を握る「封印の地」だとは到底思えなかった。


「……嘘でしょう?」


私はその場にへたり込みそうになった。

フジをあんな過酷な戦場に残し、ガロの想いを背負い、死神ダツラを命懸けで討ち果たした。すべてはこの神殿に眠る奇跡のためだったのに。


「何もない……何もないじゃないの……っ!」


私の声が虚しく壁に反響する。エリーも絶望に顔を伏せ、肩を震わせていた。死に物狂いで山を登り、八岐大蛇の顎から逃げ延びて辿り着いた結末が「空っぽの部屋」だなんて、あまりにも残酷すぎる。


だが、静寂の中で、ベルだけが部屋の奥へと歩みを進めていた。


「……ねえ、これを見て」


ベルの声に顔を上げると、彼女は神殿の最も奥、祭壇のような場所を指差していた。そこには、石を削り出して作られた三つの小さな台座が、等間隔に並んでいた。


「これって……もしかして」


私はハッとして、マントの内側に隠し持っていた「ドライクローネ」を取り出した。樹海で見つけた銀の器。ベルが持ってきたユニコーンの餌皿。そして、エリーが屈辱に耐えて持ち帰った修練場の器。


私たちは顔を見合わせ、無言のまま頷いた。震える手で、それぞれの台座に、一つずつ器を置いていく。


カチリ、と石が噛み合う音が響いた。


その瞬間、何の変化もなかった三つの器が、地鳴りのような重低音と共に激しく震え出した。

「光ってる……!」


器から溢れ出した白銀の輝きが、部屋の隅々までを真っ白に塗り潰していく。イリスが「ここがその場所ではないから反応しない」と言っていた言葉が脳裏をよぎった。ここはアルバ峠の頂、封印の核。器たちが「真の姿」を取り戻すための聖域だったのだ。


三つの器から放たれた光の筋は、部屋の中央、空中の静止した一点へと収束していった。

光が渦を巻き、凝縮され、やがて視界を焼くほどの純白の閃光が弾ける。


光が収まったとき、そこには――。


「……綺麗……」


誰ともなく、溜息のような言葉が漏れた。

中空に浮かんでいたのは、透き通るような透明感を持ちながら、内側に銀河を封じ込めたかのように七色に煌めく、完璧な球体。


それこそが、私たちが追い求め、伝説に謳われ、死神さえもが欲した「水晶玉」だった。


その光はあまりに神々しく、眺めているだけで魂が洗われるようだった。恐怖も、疲労も、絶望も、その輝きの前ではすべてが些細なことに思えてくる。水晶玉が放つ柔らかな波動が、私たちの傷ついた身体と心を優しく包み込んでいった。


「本当に、あったのね……」


エリーが水晶玉に手を伸ばしかけ、その美しさを壊すのを恐れるように手を止めた。ベルもまた、いつもの軽口を忘れたように、ただ黙ってその輝きを瞳に焼き付けていた。


外界ではまだ八岐大蛇が眠り、フジが傷つき、世界は混乱の中にあるのかもしれない。けれど、この神殿の中に流れる時間だけは、永遠の静寂と慈しみに満ちていた。


私たちは、自分たちが成し遂げたことの重みと、目の前にある奇跡の美しさに心を震わせながら、時が経つのも忘れて、ただその光を仰ぎ続けていた。



神殿の中に満ちていた聖なる静寂は、地響きのような唸り声によって無惨に切り裂かれた。


「お姉ちゃん! 大変や、大変なことになっとるで!」


ケットシーが毛を逆立て、転がるように神殿の中に駆け込んできた。

「あの化け物、もう目を覚ましそうなんや! ヤシオリの効果が切れかかっとる。完全に起き上がったら、今度こそこの神殿ごと握りつぶされるで!」


心臓が跳ね上がった。外からは、八岐大蛇が苦しみ、あるいは怒り狂っているような、地を這う咆哮が聞こえ始めていた。

目の前には、万能の奇跡を秘めた水晶玉。だが、ケットシーの言う通り、この輝きが叶えてくれる願いは、おそらくたった一つだけだ。


私の脳裏に、数々の光景が駆け巡る。

まだ生死もわからない、血を流して倒れていたフジ。

死神ダツラが広めた、絶望が支配する不浄な空気。

そして、今まさに目覚めようとしている、世界を滅ぼしかねない八岐大蛇の脅威。


どれか一つを選べば、他を捨てなければならないのか。フジを助けてと願えば、八岐大蛇が世界を焼き尽くすかもしれない。大蛇を消してと願えば、ダツラの呪いは解けないかもしれない。


私はベルとエリーを振り返った。二人は、すべてを察したように私を見つめ、静かに頷いた。


「アリア、あんたが決めて。あんたが信じる願いなら、私たちは文句なんて言わないわ」

「ええ、アリア。あなたの心に浮かんだ言葉が、きっと正解ですわ」


二人の信頼が、迷っていた私の背中を押してくれた。私は震える一歩を踏み出し、光り輝く水晶玉の前に立った。内側に渦巻く銀河のような光が、私の瞳を映し出す。


私は目を閉じ、この冒険で出会ったすべての人たちの顔を思い浮かべた。ガロ、イリス、フジ、そして隣にいる仲間たち。私たちが望んでいたのは、誰かの犠牲の上に成り立つ奇跡ではない。


私は水晶玉にそっと手を触れ、魂の底から、たった一つの願いを紡ぎ出した。


「……水晶玉。どうか、このアルバ峠を、元通りの平和な山に戻して」


それは、特定の人を救う願いでも、敵を滅ぼす願いでもなかった。けれど、この地が本来の姿を取り戻すことこそが、すべての歪みを正す唯一の道だと信じたのだ。


その瞬間、水晶玉が爆発的な光を放った。

視界が白銀に染まり、温かな風が神殿の中を吹き抜けていく。それは凍てついた心を溶かすような、慈愛に満ちた輝きだった。


外から聞こえていた八岐大蛇の狂乱の叫びが、次第に穏やかな溜息のような音へと変わっていく。

私たちは誘われるように神殿の外へと飛び出した。


「見て……あんなに大きかった八岐大蛇が……」


エリーが息を呑んだ。

山肌を覆い尽くしていた八岐大蛇の巨躯が、端からサラサラと白い灰になって崩れ落ちていた。それは朽ちていくのではなく、まるで積もった雪が春の日差しに溶けていくような、美しい浄化の光景だった。呪いの象徴だった八つの首は、霧となって空へと溶けて消えていく。


見上げれば、空を覆っていた禍々しい雲も晴れ、雲間から黄金色の陽光が差し込んでいた。

上空で荒れ狂っていたドラゴンたちも、主である八岐大蛇が消え去ったのを確認すると、戦う理由を失ったかのように静かに翼を広げ、はるか遠くの山嶺へと飛び去っていった。


肌を刺すような魔力の重圧は消え、代わりに、かつてここがそうであったという、澄み渡った穏やかな空気が満ち溢れていく。


願いは届いたのだ。

死神が支配し、怪物が咆哮を上げた地獄は終わりを告げた。

鳥のさえずりと風の音だけが響く、静かな、平和なアルバ峠が、今私たちの目の前に戻ってきた。


私は腰の大剣から力を抜き、崩れるように膝をついた。安堵と疲労、そして何より、自分たちの旅が間違いではなかったという確信が、涙となって溢れ出していた。



浄化の光に包まれたアルバ峠は、先ほどまでの地獄が嘘のように静まり返っていた。私たちは、八岐大蛇が灰となって消えた山肌を、祈るような思いで駆け下りた。


「フジ……! お願い、生きていて……!」


険しい岩陰に辿り着いたとき、私たちの目に飛び込んできたのは、無惨に裂けた巫女装束を纏い、血の気が引いた顔で横たわるフジの姿だった。エリーが悲鳴を上げながら駆け寄り、震える手で彼女の首筋に触れる。


「……生きていますわ。微かですけれど、脈があります!」


その言葉に、私は全身の力が抜けるのを感じた。だが、安心している暇はない。フジの容態は極めて重篤だ。魔法で傷を塞いでも、失われた気力と体力は限界を超えている。一刻も早く、設備の整ったロットの町まで彼女を運ばなければならない。しかし、この険しい山道を、満身創痍の私たちが彼女を担いで下りるのは不可能に近かった。


「どうすればいいの……ここから町までは、あまりにも遠すぎるわ」


私が絶望に暮れたその時、空から巨大な影が二つ、風を切る音と共に舞い降りてきた。


砂塵を巻き上げて降り立ったのは、私たちが樹海で助けたあの若い飛竜。そして、その隣には、彼を一回り以上も上回る巨躯を持ち、黄金の鱗を夕陽に輝かせる、気高くも恐ろしい威圧感を放つ母親の飛竜がいた。


「お姉ちゃん、心配せんでええよ!」

ケットシーが飛竜たちの前に歩み寄り、彼らの鳴き声に耳を傾けた。

「このお母さん飛竜、自分の子供を助けてくれたお礼に、あんたたちを町まで一気に運んでくれるって言うとる。背中は広いさかい、フジさんも一緒に乗れるで!」


これこそ、あの時私たちが紡いだ「善意」が繋いだ奇跡だった。私はベルと協力して、折れそうなほど細くなったフジの身体を優しく抱え上げ、母親飛竜の強靭な背中へと慎重に乗せた。


飛竜たちが力強く羽ばたき、大地が遠ざかっていく。

私は、自分の腕の中で意識を失っているフジの冷たい手を握り、彼女を庇うようにして、遠ざかるアルバ峠をじっと眺めていた。


高度が上がるにつれ、荒々しかった峠の全貌が眼下に広がる。そこにはもう、死神の呪いも、怪物の咆哮もない。ただ、黄金色の夕陽を浴びて穏やかに眠る、美しい山脈があるだけだった。


「終わったのね……本当に」


不意に、これまでの冒険の記憶が、走馬灯のように胸の内を駆け巡った。


始まりは、名もなき街道でベルと出会ったことだった。生意気で、けれど誰よりも頼れる相棒。

ブロの町では、危うく石像にされかかったこともあった。

エリーとは、お互いの譲れない誇りを賭けて、本気で剣を交えた。あの決闘がなければ、私たちはこうして背中を預け合える仲間にはなれなかっただろう。


ロットの町でガロと出会い、彼の不器用な優しさに触れたこと。

ティフェでの、あの吐くような地獄の特訓。

ベルの底なしの酒付き合いに苦笑し、樹海で傷ついた飛竜を見捨てずに助けたこと。


どの景色にも、痛みがあり、笑いがあり、そして確かな「生」の震えがあった。


(……寂しいな)


ふと、胸の奥に小さく、けれど鋭い痛みが走った。

命を懸けた戦いが終わり、目的地に辿り着き、あとは帰るだけ。そう思うと、この泥にまみれた日々が、何物にも代えがたい宝石のように思えてならなかった。この旅が終わってしまうことが、まるで自分の一部を失うようで、無性に寂しかったのだ。


けれど、それ以上に。


「……楽しかった」


私は、誰に聞かせるでもなく独り言を漏らした。

辛くて、死にそうで、絶望ばかりの旅路だったはずなのに、思い出すのは仲間と笑い合った焚き火の温もりばかりだ。もし、もう一度チャンスがあるなら。この身体が癒えたあと、また新しい靴を履いて、まだ見ぬ世界の果てまで冒険に出かけたい。次はどんな出会いが待っているのか、それを想像するだけで、心臓がトクンと高鳴った。


「アリア、何泣いてるのよ。柄じゃないわね」

隣で飛竜に跨っていたベルが、茶化すように笑った。

「泣いてないわよ。風が目に沁みただけ」

「そうですわね。わたくしも、少し風が強いせいで、涙が止まりませんわ」

エリーも、赤い目で微笑みながら頷いた。


空は深い茜色から、紫紺へと移り変わろうとしていた。

やがて、遠くにロットの町の灯りが見えてくる。

懐かしい石造りの街並み、ガロが守っているであろうあの城壁。


私たちは、黄金の翼に乗って、戦士たちの帰還を告げる風と共に、夕闇に沈みゆくロットの町へとゆっくりと舞い降りていった。

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