シーン2:【相場操縦と兵糧攻め】飢餓の進軍と、星と薔薇の移動店舗
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!
帝国の西方国境から数十キロ離れた、荒涼とした平原。
十万という途方もない数の教国聖騎士団が、白銀の甲冑を鳴らしながら、土煙を上げて進軍していた。
空には、太陽を模した教国の巨大な軍旗が翻っている。
彼らの士気は、出陣の時点では最高潮に達していた。神の教えに背く異端の魔女を討伐し、帝都の富を接収するという「正義」と「欲望」に満ち溢れていたからだ。
だが、進軍開始から五日目。
彼らの行軍の足取りは、目に見えて重く、そして絶望的に鈍り始めていた。
『……どういうことだ。なぜ、この街にもパン一つ残っていないのだ!』
ドーム型倉庫のコントロールルーム。
空中に投影された映像水晶(前線に放った斥候鳥の視覚共有魔道具)から、教国軍の先陣を率いる将軍の、裏返ったような怒号が響き渡った。
「キュプッ、ムシャムシャ……」
俺の膝の上では、ウニが優雅にドライフルーツを齧りながら、その映像をポップコーンでも食べるような気楽さで眺めている。
俺は淹れたてのハーブティーのカップを傾け、冷酷な笑みを浮かべた。
映像に映っているのは、教国軍が補給のために立ち寄ったはずの、中立地帯の巨大な交易都市の市場だ。
普段なら、十万の軍勢を潤すだけの莫大な小麦や干し肉、馬の飼葉が山積みになっているはずの場所。
しかし今、市場の荷車はどれもこれも、見事なまでにスッカラカンだった。
『申し訳ねぇ、教国のお偉いさん。……あんたらに売る食い物は、麦の穂一粒、干し肉の欠片一つ残っちゃいねえんだ』
現地の恰幅の良い商人が、揉み手すら忘れて呆れたように答えている。
『ふざけるな! ここは西大陸有数の穀倉地帯の中継地点だろうが! 隠しているなら力尽くで――』
『力尽くで奪うってんなら、勝手に倉庫でもどこでも漁ってくれ。本当に何にもねえんだよ。……二日前に、帝都の【セシリア商会】ってとこから、相場の三倍の価格で「街の全在庫を即金で買い取る」って通信が入ってな。俺たち商人にとって、神様より金貨(セシリア様)の方が大事なんでね。全部売っちまったよ』
『なっ……!?』
将軍の顔から、一瞬にして血の気が引くのが映像越しにもはっきりと分かった。
「……ふふっ。素晴らしい現場の報告ですね」
俺は映像水晶に向かって、クスクスと肩を揺らして笑う。
「兵站の基本は、現地調達です。十万の軍勢が一日に消費する食料と水は、馬車何百台分にも上る。それをすべて本国から運んでいては、進軍速度が落ちてお話にならない。だから彼らは、道中の街で金貨を払って補給する計算だった」
俺はコントロールルームの壁に映し出された『O.D.O.O』の全体マップを指差す。
教国軍の進路上の都市が、すべて「在庫ゼロ(赤色)」に染まっている。
「ですが、私の全方位受注統括網は、彼らが到着する前に『相場の三倍』という暴力的な価格で、ルート上の全物資を吸い上げました。……これで五つ目の街ですね。教国軍の兵糧は、完全に底を突きましたよ」
「……エグい。あまりにもエグすぎる」
背後で映像を見ていたガラン隊長が、歴戦の騎士らしからぬ青ざめた顔でドン引きしている。
「武力を使わず、十万の軍勢を荒野のど真ん中で干上がらせるとは。……剣を交える前に、彼らは餓えと喉の渇きで自壊しますぞ」
実際、映像の中の教国軍の悲惨さは筆舌に尽くしがたいものになっていた。
水筒は空になり、馬は飼葉を求めていななき、兵士たちは重たい甲冑のせいで異常な発汗と疲労に襲われている。
「異端を討つ」という高揚感などとうの昔に消え失せ、今彼らの頭の中にあるのは「水」と「パン」への極限の渇望だけだ。
『将軍! もう限界です! 兵士たちが次々と熱中症で倒れています!』
『馬も半分以上が動けません! このままでは、帝都に着く前に全滅――』
『ええい、黙れ! 神の加護がある我々が、ただの商人の小細工などに屈するわけがないだろうが!』
将軍が虚勢を張って怒鳴り散らすが、その声には明らかな絶望と焦りが混じっていた。
「……そろそろですね」
俺はハーブティーのカップを置き、ミッドナイトブルーのドレスの袖を整えて立ち上がった。
相手を極限まで飢えさせ、精神を折る。そこまではただの「下準備」だ。
悪役令嬢の真骨頂は、ここから始まる。
「ガラン隊長。待機させていた【特別移動店舗部隊】に、出撃の合図を」
「はっ! ……しかしセシリア様、よろしいのですか? 餓えた十万の軍勢の前に食料を出せば、金を払う前に略奪される危険が――」
「略奪? できるものなら、やらせてみなさい」
俺の唇が、凶悪な三日月の形に歪む。
「私の商品は、神の加護より重いんですよ」
◇◇◇
……教国軍の先頭集団が、乾ききった荒野でついに足を止め、バタバタと倒れ込み始めたその時。
『――なんだ、あれは!?』
兵士の一人が、陽炎の向こうを指差してかすれた声を上げた。
地平線の彼方から、土煙を上げて近づいてくる巨大な車列。
それは教国の援軍でも、帝国の迎撃部隊でもなかった。
先頭を走る巨大な漆黒の装甲馬車の側面には、まばゆいばかりの『星と薔薇』の紋章が燦然と輝いている。
セシリア商会・特別移動店舗部隊。
『な、なんだ!? 敵襲か!?』
将軍が慌てて剣を抜こうとするが、渇ききった腕に力は入らない。
装甲馬車は、教国軍の陣地の目の前でピタリと停車した。
そして、馬車の側面がガコンッ!と音を立てて開き、中から信じられない光景が姿を現した。
キンキンに冷えた、樽いっぱいの清水。
焼き立ての芳醇な匂いを漂わせる、山のような柔らかい白パン。
そして、塩分と糖分を完璧に補給できる、極上のドライフルーツや干し肉の数々。
『あ、ああ……っ! 水だ! パンだ!!』
『神よ、奇跡だ! 砂漠にオアシスが現れたぞ!!』
狂乱。
極限の飢餓状態にあった教国軍の兵士たちは、もはや将軍の制止など聞く耳を持たず、武器を放り捨ててその移動店舗へと群がり始めた。
水だ。水が飲める。パンが食える。
彼らの頭の中は、その生存本能だけで完全に埋め尽くされていた。
『ま、待て貴様ら! それは敵の――異端の魔女の商会の馬車だぞ! 罠かもしれない! 食べるな!!』
将軍が絶叫するが、誰も立ち止まらない。
だが、群がった兵士たちが水樽に手を伸ばそうとした瞬間――。
バチィィィィィィンッッ!!!
『ぎゃああああっ!?』
馬車の周囲に張り巡らされていた不可視の『高出力・防護魔力結界』が弾け、先頭の兵士たちが黒焦げになって吹き飛ばされた。
『……っ!?』
水を求めて殺到していた数千の兵士たちの足が、恐怖でピタリと止まる。
装甲馬車の奥から、魔力拡声器を通した、氷のように冷たく、そしてどこまでも優雅な女の声が、荒野全体に響き渡った。
『――ごきげんよう、教国の聖騎士の皆様。随分と行儀が悪いですね』
コントロールルームから遠隔で通信を繋いだ、俺の声だ。
『泥棒のように商品に手を伸ばすのは、教国の教えですか? ここはセシリア商会の正規の店舗です。……欲しいものがあるなら、きちんとお代(金貨)を支払っていただきませんと』
『き、貴様が……魔女セシリア・アルフェンか!!』
将軍が、吹き飛ばされた兵士たちを踏み越えて前に進み出る。
『我々を兵糧攻めにした挙句、こんなところで商売を始めるつもりか! ふざけるな! 貴様のその馬車ごと、力尽くで制圧してやる!!』
『あら、怖い。でも、無駄ですよ』
俺は映像越しに、冷ややかに鼻を鳴らす。
『その馬車の結界は、主水晶『O.D.O.O』の全魔力を回して張った絶対防壁。……餓えと渇きでフラフラのあなたたちの剣や魔法で、破れるはずがありません』
将軍がギリッと奥歯を噛む。彼自身も分かっているのだ。今の部下たちに、まともな戦闘能力など残されていないことを。
『それに、制圧なんて野蛮なことをしなくても、金貨を払えばすぐにその冷たいお水を飲ませてあげますよ? ……そうですね、特別価格です。コップ一杯の清水につき、金貨一枚。白パン一つにつき、金貨二枚でいかがでしょう?』
『なっ……!? き、金貨一枚だと!? 水一杯に!?』
将軍の目が、文字通り飛び出さんばかりに見開かれた。
『相場の何十倍だと思っている! 足元を見るのも大概にしろ、この強欲な悪魔め!!』
『需要と供給のバランスですよ、将軍閣下。今のあなたたちにとって、その水は金貨百枚の価値すらあるはずです』
俺はコントロールルームの革椅子に深く腰掛け、扇子で口元を隠しながら最高に邪悪に微笑んだ。
『さあ、どうしますか? ここで意地を張って、十万の兵を干からびさせて全滅させますか? それとも、国庫の金を私に支払い、彼らの命を買い戻しますか?』
『ぐっ……!! くそぉぉぉぉぉっ!!』
将軍が、血の涙を流さんばかりの形相で、荒野の土を強く叩きつけた。
背後からは、兵士たちの『水……水をくれ……金ならいくらでも払う……』という、亡者のような呻き声が聞こえてくる。
もはや、選択の余地など存在しなかった。
『……は、払う! 払ってやる!! 全軍に水を配れ!!』
将軍が屈辱に塗れた声で叫び、軍資金を積んだ荷馬車から、次々と金貨の袋が引きずり出されていく。
セシリア商会の従業員たちが、結界の内側から安全に金貨を回収し、代わりに水とパンを無慈悲なまでの「超高額」で売り渡していく。
チャリン、チャリン、ジャララララッ……。
俺のコントロールルームの決済ゲートから、敵の軍資金が滝のように流れ込んでくる。
聖戦。
神の御名の下に帝都を焼き払うはずだった彼らの圧倒的な暴力は、たった一人の悪役令嬢が仕掛けた『兵糧攻め』と『相場操縦』の前に、完全に屈服したのだ。
「……ふはっ、見事だ。戦争で血を流さず、敵の軍資金を合法的にすべてむしり取るとはな」
レオンハルト皇帝が、水晶に映る教国軍の無様な姿を見て、呆れと感嘆の混じったため息をついた。
「これで彼らは、前進する体力(水)を得た代わりに、進軍を維持するための資金(金貨)を完全に失いました。……もう、帝都に辿り着く前に撤退するしかありませんよ」
俺は紅茶の残りを飲み干し、勝利を確信して立ち上がった。
だが――。
『――愚かな。たかが水とパンごときで、神の軍勢が歩みを止めるとでも思ったか、異端の魔女よ』
突如、通信機の向こう側。
荒野の彼方から、すべてを凍りつかせるような、圧倒的で、そして不気味なほどの『静謐な魔力』が膨れ上がった。
映像の奥。
十万の飢えた兵士たちの群れを割って、一台の異様な『黄金の輿』が進み出てきたのだ。
その輿の上に座っているのは、純白の法衣を纏い、顔の上半分を黄金の仮面で覆った男。
「……教皇、みずから前線に出てきたというのか!?」
ガラン隊長が、その存在の放つ異常なプレッシャーに息を呑む。
黄金の仮面の男――大教皇が、ゆっくりと輿から立ち上がり、天に向かってその両腕を広げた。
『我が神よ。迷える子羊たちに、無尽蔵の恵みを与えたまえ! ――【奇跡・五つのパンと二匹の魚】!!』
カァァァァァァァンッッ!!!
天が割れるような光が降り注ぎ、大教皇の足元から、信じられない現象が巻き起こった。
無から有を生み出す、最高位の神聖魔法。
枯れ果てた荒野の土から、清らかな水が泉のように湧き出し、光の粒子が固まって、次々と温かいパンや果実へと姿を変えていく。
『おおおおっ!! 教皇猊下!』
『神の奇跡だ! 水が、食料が無限に湧き出してくる!!』
絶望していた教国軍の兵士たちが、歓喜の叫びを上げてその「奇跡の食料」に群がり始めた。
セシリア商会の高額な水など、もう誰も見向きもしない。
『……』
俺はコントロールルームの水晶を睨みつけ、扇子をパチンと閉じた。
「……なるほど。盤外戦術にはチートで対抗してきた、というわけね」
魔法という不確定要素が存在するこの世界で、まさか最高権力者みずからが「無限の兵站チート(神の奇跡)」を発動してくるとは。
これで、俺の仕掛けた完全無欠のショート・スクイーズ(兵糧攻め)は、強引に突破されてしまった。
『見たか、セシリア・アルフェン。これが神の力だ。……貴様の浅ましい帳簿の計算など、奇跡の前には無意味。このまま帝都を蹂躙し、貴様のそのシステムごと灰燼に帰してくれる』
大教皇の黄金の仮面が、映像越しに俺を冷酷に見据える。
再び士気を取り戻し、狂信的な光を宿した十万の軍勢が、地響きを立てて帝都への進軍を再開した。
「……厄介なことになったな、セシリア。あの『奇跡』が続く限り、彼らの進軍速度は落ちない。数日後には帝都の城壁に到達するぞ」
レオンハルトが、腰の剣に手をかけて鋭い視線を向ける。
だが。
俺の顔に、焦りは一ミリもなかった。
「奇跡、ですか。……随分と大盤振る舞いですね」
俺は主水晶『O.D.O.O』のコンソールに再び向き直り、指先でカタカタと新たなコマンドを入力し始めた。
「陛下。神の奇跡だろうが何だろうが、この世のすべての現象には『対価』が存在します。無から有を生み出す魔法なんて、絶対にあり得ない」
俺の目が、冷酷なアナリストの光を放つ。
「十万人の胃袋を、魔法の力だけで満たし続ける。……それがどれほど異常で、どれほど致命的な『魔力消費』を大教皇の身体に強いるか。……計算してみましょうか」
剣と魔法の奇跡に対する、究極の経済学での反撃。
聖戦の最終局面は、泥沼の消耗戦へとその姿を変えようとしていた。




