シーン2:【資本の暴力と絶対防壁】時代遅れの暗殺術、完全論破
視界のすべてが、極限まで引き伸ばされたスローモーションのように感じられる。
鼓膜を打つのは、十の黒い影が宙を蹴る、衣擦れの微かな音だけ。
彼らの手にある煤塗りの短剣が、ドーム型倉庫の僅かな光源すらも吸い込みながら、俺の急所――頸動脈、心臓、そして眼球――に向かって、無慈悲な軌道を描いて迫ってくる。
刃の先端には、微かに紫がかった粘液が塗布されているのが見える。
アルフェン王国の裏社会で『三歩死』と呼ばれる、かすり傷一つで全身の血液を凝固させる猛毒だ。
「……セシリア様、動かないで!!」
俺の鼓膜を物理的に震わせるほどの、ガラン隊長の腹の底からの裂帛の気合い。
次の瞬間、俺の目の前の空間が『爆発』した。
ガァァァァンッッ!!!
火薬庫に火を放ったのかと錯覚するほどの、凄まじい轟音と衝撃波。
俺の半歩前に立ちはだかったガラン隊長が、白銀の長剣を横薙ぎに一閃したのだ。
ただの剣の振りではない。帝国近衛騎士の極意、闘気を刃に纏わせた絶対的な『質量兵器』の暴威。
空気を引き裂く白銀の軌跡が、俺に迫っていた三人の暗殺者を、彼らの構えていた短剣ごと物理的に粉砕し、後方の木箱の山へとボロ屑のように吹き飛ばす。
「ガハッ……!?」
「ば、馬鹿な……っ、この重圧……!」
吹き飛ばされた暗殺者たちが、木箱を叩き割って床に転がり、ゴボリと血を吐き出す。
煤塗りの短剣は、ガラン隊長の剣に触れた瞬間に飴細工のようにへし折れていた。
残る七人の暗殺者たちが、空中で空気を蹴るような異常な体術を見せ、ガラン隊長の間合いから蜘蛛の子を散らすように距離を取る。
彼らの鉄仮面の奥の瞳が、驚愕に見開かれているのが気配で分かる。
「貴様ら、相手を間違えたな」
ガラン隊長が、白銀の剣をスッと正眼に構え直す。
その巨躯から立ち昇る闘気は、もはや目に見えるほどの陽炎となって、周囲の冷たい空気をチリチリと焦がしている。
アルフェン王国では決して見ることのできない、軍事国家ヴァルツ帝国の最高戦力。
「ここは皇帝陛下よりお預かりした、セシリア商会の聖域である。……一歩でも踏み入るなら、その薄汚い四肢をこの場で斬り刻むぞ」
ガラン隊長の殺気に当てられ、暗殺者たちの動きが一瞬、完全に硬直する。
俺はその後ろから、ミッドナイトブルーのドレスの裾を優雅に翻し、彼らの様子を冷ややかな観察眼で舐め回す。
(……なるほど。これがアルフェン王国の誇る『影蜘蛛』か。ずいぶんと……いや、涙が出るほど貧相な装備だな)
俺の口角が、自然と嘲笑の形に歪む。
彼らの黒装束は、一見すると闇に溶け込む機能的な作りに見える。
だが、布地は何度も洗濯を繰り返したせいで白く毛羽立ち、足元の革靴の底は擦り減って補修の跡が痛々しい。
何より、彼らが構え直した予備の短剣は、どれも粗悪な鉄くずを無理やり研ぎ直しただけの『なまくら』だ。
(宰相バルディスも、よほど資金繰りに困っていると見える。国の物流が止まり、国庫の金も底を突きかけている状況で、この暗殺部隊に回す予算すらケチったわけか)
命を懸ける裏稼業の人間にとって、装備の質の低下は致命的だ。
俺は肩をすくめ、わざとらしく、倉庫全体に響くような大きなため息をついてみせる。
「ねえ、あなたたち。……宰相閣下から、一体いくらでその仕事を引き受けたの?」
俺の唐突な、そして場違いな質問に、暗殺者たちがピクリと肩を揺らす。
彼らは答えない。だが、俺には彼らの台所事情など手に取るように分かる。
「金貨十枚? それとも二十枚? ……まさか、銀貨数枚の端金で、このヴァルツ帝国のど真ん中に突っ込んできたわけじゃないわよね」
「……黙れ、標的。我々は王国の影。金のために動いているのではない」
リーダー格の男が、感情を押し殺した擦れ声で答える。
「あら、ご立派な忠誠心ですね。でも、その忠誠心を捧げている相手は、あなたたちに新しい靴すら買ってくれないのね。……私の商会の従業員でさえ、あなたたちより何倍も良い靴を履いて、温かいスープを毎日飲んでいますよ」
俺の放った『資本の違い』という名の冷酷な事実が、彼らの心をわずかに、だが確実に揺さぶる。
暗殺者にとって、迷いは死に直結する。
リーダー格の男が舌打ちをし、手信号で残りの部下たちに指示を出す。
瞬間。
シュルルルルッ!!
彼らの手から、無数の黒い球体が俺とガラン隊長に向かって放たれた。
床に激突した瞬間、ポンッ! という破裂音とともに、視界を完全に奪う濃密な『黒煙』がドーム型倉庫の第五区画を覆い尽くす。
「セシリア様! 息を止めてください、毒煙の可能性があります!」
ガラン隊長が俺を庇うようにマントを広げる。
視界が完全にゼロになる。煙幕と、それに混じった催涙性の刺激臭。
暗殺者たちの得意技、視覚と嗅覚を封じてからの奇襲攻撃だ。
「死ねッ!!」
煙の向こう側から、足音すら殺した暗殺者たちが、四方八方から同時に斬りかかってくる気配がする。
ガラン隊長が剣を振るうが、煙で距離感が掴めず、刃が空を切る鋭い音が響く。
このままでは、いくら最強の盾でも防ぎきれない。
だが。俺は煙の中で、一切のパニックを起こさずに静かに微笑む。
(……私の城で、小賢しい真似を)
俺は胸元のポケットに手を入れる。
そこに隠れていたウニが、俺の指先の合図に呼応して「キュルルッ!」と短く鳴いた。
「この倉庫はね、ただ荷物を置くためだけの場所じゃないの。……数万本の『香水』を安全に充填するために、どんな設備が必要か、あなたたちのような素人には分からないでしょうね」
俺は足元に這わせてある、魔力制御用のペダルをヒールで力強く踏み込んだ。
ゴオォォォォォォォッッ!!!
ドーム型倉庫の天井付近から、突如として台風のような凄まじい突風が吹き下ろした。
俺が巨額の資金を投じて設置した、超大型の『魔力式・強制排気システム(換気扇)』だ。
香水の充填作業中、揮発したアルコールや香料が空間に充満して引火するのを防ぐための、現代の工場には必須の安全設備。
それが今、暗殺者たちの放った黒煙を、わずか数秒で天井の巨大なダクトへと根こそぎ吸い上げていく。
「なっ……!? 煙が、一瞬で……っ!」
煙幕が晴れ、暗殺者たちの間抜けな姿が完全に白日の下に晒される。
彼らは完全に姿を隠したつもりで、ガラン隊長の死角から忍び寄ろうとしていた中途半端な姿勢のまま、呆然と天井を見上げている。
「お見事です、セシリア様!!」
ガラン隊長が歓喜の声を上げ、隙だらけになった暗殺者たちに向かって再び白銀の剣を振るう。
ガァァァンッ!! という金属の激突音。
さらに二人の暗殺者が、為す術もなく壁際まで吹き飛ばされ、沈黙する。
「チィッ……! 第一陣、撤退しろ! 陣形を立て直す!」
リーダー格の男が焦りの声を上げ、残った四人の暗殺者たちと共に、倉庫のさらに奥、複雑に積まれた木箱の迷路の中へと逃げ込もうとする。
ガラン隊長が追撃しようと一歩踏み出すが、俺はスッと手を上げて彼を制止した。
「お待ちください、ガラン隊長。深追いは無用です」
「しかし、セシリア様! このまま逃がせば、また闇討ちの機会を狙われますぞ!」
「逃がす? 誰がそんなことを言いましたか」
俺はクスクスと笑いながら、ミッドナイトブルーのドレスの袖から、一枚の羊皮紙を取り出す。
それは、この倉庫のすべての『物質転送陣』の配置と、制御用の魔力波長が記されたマスターキーだ。
「彼らが逃げ込んだあのエリア……たしか、今日の夕方に新設した『第六区画』ですね。……ふふっ、本当に運の悪いネズミたちだこと」
俺の視線の先。
暗殺者たちが身を隠した巨大な木箱の影の床には、帝都全域への一斉配送を可能にするための、超大型の『物質転送陣』が敷き詰められている。
彼らは自分たちが今、どんな恐ろしい『ギミック』の上に立っているのか、全く理解していない。
「ガラン隊長。少し、耳を塞いでいてくださいね。……ウニ、出番よ」
俺が胸元からウニを取り出し、手のひらの上に乗せる。
「キュイッ!」
ウニは俺の意図を完全に理解し、背中の針を限界まで逆立てて、チリチリと青白い火花を散らし始める。
魔力の充填。
俺は羊皮紙のマスターキーに魔力を流し込み、第六区画の転送陣の『座標』を、ある場所へと設定する。
「さあ、お別れの時間です。哀れな王国の影ども。……せいぜい、帝都の冷たい水底で、自分たちの雇い主のケチさを呪いなさい」
俺は指先でパチン、と優雅に指を鳴らした。
それと同時。
手のひらの上のウニが、「キュアアァァッ!!」という甲高い鳴き声と共に、蓄積した魔力を強烈な『閃光』として全方位に放った。
パァァァァァンッッ!!!
「ぐあぁぁっ!?」
「目、目が……っ!?」
木箱の陰に隠れていた暗殺者たちの悲鳴が上がる。
完全な暗闇に慣れきっていた彼らの網膜に、ウニの放つ純白のフラッシュバン(閃光弾)が容赦なく突き刺さったのだ。
彼らが目を押さえて悶絶し、完全に足が止まったその瞬間。
「――転送」
俺の冷酷な声が、倉庫に響き渡る。
第六区画の床一面に描かれた超大型の物質転送陣が、暴走したかのような凄まじい青白い光を放ち始める。
ブォォォォォンッ!!!
空間が歪む、圧倒的な魔力の駆動音。
暗殺者たちが立っていた床そのものが、まるで底なし沼のように彼らの体を飲み込んでいく。
「な、なんだこれは!? 体が、沈む……っ!」
「馬鹿な、魔力陣だと!? いつの間にこんな罠を……っ、引きずり込まれる!!」
彼らが必死に足掻こうとするが、もはや手遅れだ。
物質転送陣は、上に乗っているすべての質量を、問答無用で設定された座標へと強制転送する。
それは荷物であろうが、人間であろうが関係ない。
「どこへ送る気だ、悪魔め!!」
リーダー格の男が、下半身を光に飲み込まれながら、血走った目で俺を睨みつけて叫ぶ。
「あら、教えてあげましょうか」
俺は彼に向かって、最高に優雅なカーテシーを決めてみせる。
「座標は、帝都の外れにある『底なしのヘドロ沼』のど真ん中、上空十メートルの位置です。……重たい鉄仮面と、水を吸う黒装束。泳ぐのはさぞかし骨が折れるでしょうね。どうぞ、そのまま祖国まで泳いで帰ってくださいな」
「き、貴様ぁぁぁっ――!!」
シュンッ!!
男の絶叫が、空間の歪みと共に完全に消滅した。
光が収まると、そこには木箱の山と、ひんやりとした大理石の床だけが残されている。
十人の暗殺部隊は、たったの数分で、俺の指先一つ触れられることなく、この倉庫から完全に排除されたのだ。
「……」
ガラン隊長が、剣を構えたまま完全に硬直している。
彼の目は、先ほどまで暗殺者たちがいた何もない空間と、俺の顔を交互に往復している。
「……終わりましたよ、ガラン隊長。剣を収めてください」
俺が声をかけると、彼はビクッと肩を揺らし、恐る恐る剣を鞘に収めた。
カチャン、という金属音が、静まり返った倉庫にやけに大きく響く。
「セシリア様。……あなたは、本当に、人間ですか?」
ガラン隊長の口から、冗談ではなく、心底からの畏怖を込めた問いが漏れる。
「失礼ですね。か弱く、そして愛らしい、ただの商会の会頭ですよ」
俺はウニの頭を指先で撫でながら、クスクスと笑う。
ウニも「キュプッ」と得意げに鼻を鳴らしている。
「暗殺なんて、非効率で時代遅れの極みです。暴力で解決しようとするから、こうして『資本』と『システム』の前に無様に敗北する。……宰相バルディスは、経済だけでなく、殺しのセンスすら三流に成り下がったようですね」
俺は床に落ちていた、暗殺者が使っていた粗悪な短剣をヒールの先で軽く蹴り飛ばす。
カラン、と虚しい音を立てて刃が転がる。
「ですが、これで確信に変わりました。バルディスは生きている。そして、確実に国庫の金を持って帝国のどこかに潜伏しているはずです。でなければ、これだけの数の『影蜘蛛』を動かせるわけがない」
俺の言葉に、ガラン隊長の顔が再び引き締まる。
「直ちに皇帝陛下に報告し、帝都中の検問を強化します。あの毒蛇を、このまま野放しにはしておけません」
「ええ、お願いします。……ですが、彼が次に動くとしたら、もう物理的な暗殺ではないはずです。もっと陰湿で、私の商会そのものを社会的に抹殺するための『盤外戦術』を仕掛けてくるでしょう」
俺は腕を組み、冷たい思考の海へと深く潜っていく。
商品への毒の混入。根も葉もない悪評の流布。あるいは、帝国の貴族たちを裏で操っての不買運動。
どれも、現代のECサイトが最も恐れる『炎上リスク』と『レピュテーション(信用)ダメージ』だ。
「さあ、バルディス。次はお前がどう動くのか、見せてもらうわよ」
俺の唇に、三日月のような好戦的な笑みが刻まれる。
相手がどんな卑劣な罠を張ろうとも、俺はこの圧倒的なシステムと資金力で、正面からすべてを粉砕してやる。
婚約破棄された悪役令嬢による、異世界を呑み込む経済戦争。
その最終決戦の火蓋が、今夜、静かに切って落とされたのだ。




