シーン1:【静寂の終焉】巨大物流網(ハブ)の完成と、忍び寄る毒蛇の影
ヒヒィーンッ! ブルルルルッ。
馬のいななきと、蹄が大理石の床を蹴る硬質な音が、ドーム型倉庫に増設された『第二区画』の空間に反響する。
帝都の太陽は完全に沈み、外は深い藍色の夜に包まれているというのに、俺の城(セシリア商会)に休息の時間は存在しない。
鼻腔を満たすのは、馬の汗と真新しい干し草の匂い。そして、忙しなく行き交う従業員たちの熱気だ。
「第三便、西区の貴族街へ出発! 荷崩れしないよう幌をしっかり固定しろ!」
「第四便の馬車、空きがあります! 日用品の追加積載を回して!」
怒号にも似た指示が飛び交う中、俺はドームの中央に設置された司令塔から、眼下の光景を満足げに見下ろす。
今朝、帝都商人ギルドから金貨五万枚で強引に買い叩いた、数百台の荷馬車と経験豊富な御者たち。
彼らは今、俺の商会のミッドナイトブルーの制服を身に纏い、完全に俺のシステム(手足)の一部として機能している。
「……信じられません。あれほど強情だったギルドの御者たちが、まるで別人のように生き生きと働いている」
俺の背後で、分厚い羊皮紙の束(配送ルート表)を抱えた近衛騎士ガラン隊長が、感嘆の息を漏らす。
甲冑の擦れる音が、彼の驚きを代弁するようにガチャリと鳴った。
「当然ですよ。ギルド時代、彼らは理不尽な中抜きと過酷な労働で使い潰されていましたからね。……私は彼らに『正確な配達件数に応じた歩合制ボーナス』と『明確な休憩時間』を与えただけです」
俺は手元の羽ペンを回しながら、眼下で次々と荷馬車が出発していく巨大な搬出口を指差す。
「これこそが、私の商会の完全体。魔力転送陣による『超高速・高単価配送』と、荷馬車網による『大容量・低単価配送』を組み合わせた、ハイブリッド型物流網です」
ガラン隊長が小首を傾げる。
「はぶ、あんど、すぽーく……?」
「ええ。この巨大倉庫を拠点として、車輪の軸のように帝都全域へ馬車を走らせる。日用品の石鹸や、かさばる詰め替え用の香水は、転送陣の魔力を消費せず、馬車で一気に各エリアの集積所へ運ぶんです。……これにより、利益率はさらに跳ね上がります」
俺が完璧なロジックを語り終えると、ガラン隊長は「もはや、帝国軍の兵站部隊すら凌駕する効率だ」と、呆れたようにため息をついた。
「キュ、キュイイッ!」
その時、足元に積まれていた、鏡の梱包用の緩衝材(木くず)の山の中から、ポンッ! と勢いよく丸い毛玉が飛び出してきた。
赤いリボンを首に巻いたウニだ。
体中に木くずをくっつけ、まるでハリネズミならぬ『蓑虫』のような不格好な姿になっている。
短い前足で一生懸命に顔の周りの木くずを払いのけようとしているが、背中の針に絡まってなかなか取れないらしい。
「あははっ。ウニ、お前それは遊びすぎだ。ほら、こっちへ来い」
俺がしゃがみ込んで手を差し出すと、ウニは「キュプッ」と短くくしゃみをして、俺の手のひらにトコトコとよじ登ってくる。
俺は指先で器用に木くずをつまんで取り除きながら、ウニの柔らかいお腹を撫でる。
ドクン、ドクンと、小さな心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。
平穏だ。
アルフェン王国の腐ったしがらみから抜け出し、すべてが俺の計算通り、いや計算以上の速度で拡大し続けている。
帝都の富は完全に俺の掌の上にあり、毎夜の通信(配信)のたびに、黄金の雨が降り注ぐ。
誰も俺を脅かすことはできない。
――そう、確信していた。
その『異変』が起きる、数秒前までは。
パチンッ。
ドーム型倉庫の最も奥、先ほどまで煌々と照らされていた『第五区画(予備在庫置き場)』の魔力照明が、一つ、不自然な音を立てて弾け飛んだ。
「ん?」
俺は木くずを取る手を止め、視線を奥へと向ける。
パチンッ、パンッ。
連鎖するように、第五区画の照明が次々と黒く沈んでいく。
光が物理的に『喰われている』ような、異常な消え方だ。
周囲で作業をしていた従業員たちが「おい、魔力切れか?」「誰か予備の魔石を持ってこい!」と声を上げる。
だが、俺の背筋を駆け抜けたのは、照明の故障などという生易しい予測ではない。
氷の刃で背骨を直接撫で上げられたような、強烈な悪寒。
今朝、ギルド本部から帰る馬車の中で感じた、あの『黒い陽炎』の記憶が脳裏をフラッシュバックする。
「……ガラン隊長」
俺の声が、自分でも驚くほど低く、冷たく響く。
ガラン隊長もすでに異変に気づき、腰の剣の柄に手をかけ、いつでも抜刀できる体勢に入っている。
彼の表情から、平時の温厚な顔が消え去り、純粋な『帝国騎士』の殺気が全身から立ち昇る。
「従業員たちを、直ちに第一区画の転送陣周辺へ避難させろ。……『何か』が、結界を破って侵入している」
俺の指示と同時。
フワリ、と。
夜の冷風に乗って、第五区画の暗闇の奥から、あり得ない匂いが漂ってきた。
鉄の錆びたような、生温かい匂い。
(……血だ)
それだけじゃない。その血の匂いの奥に、ひどく安っぽく、鼻を突くような『毒花』の香油の匂いが混ざっている。
アルフェン王国の王城の裏口で、宰相バルディスが裏仕事の密偵たちと密会する際、彼らの体臭を誤魔化すために使わせていた、あの忌まわしい香油の匂いだ。
「ひっ……!?」
「だ、誰か倒れてるぞ!!」
暗闇の境界線近くにいた従業員の一人が、床を指差して悲鳴を上げた。
照明の光が届くギリギリのライン。大理石の床の上に、倉庫の外周を警備していたはずの傭兵が一人、音もなくうつ伏せに倒れ伏している。
首筋から、どす黒い液体がゆっくりと床に広がっているのが見えた。
「総員、武器を取れ!! 侵入者だ!!」
ガラン隊長が、腹の底から絞り出すような大音声で怒号を飛ばす。
シャキンッ!!
彼が白銀の長剣を抜き放ち、俺の前に立ちはだかる。
「キュ、キュアアァァッ!!」
俺の腕の中で、ウニが全身の針を限界まで逆立て、青白い魔力の火花をバチバチと散らして暗闇に向かって威嚇する。
「……やはり、生きていたか。あの毒蛇め」
俺はドレスの胸元にウニを滑り込ませ、唇を強く噛み締める。
馬車ごと炎上したという報告は、やはり偽装。
彼はアルフェン王国の国庫の金をすべて持ち逃げし、その莫大な資金を、俺への『復讐(暗殺)』のためだけに全振りしたのだ。
ズズッ……。
ズズズズズッ……。
暗闇に沈んだ第五区画の天井、そして巨大な木箱の影から。
まるで泥の塊が這い出すように、音もなく、十を超える『黒い影』が滲み出てきた。
全身を黒装束で包み、顔には一切の感情を読み取らせないのっぺりとした鉄の仮面を被っている。
手には、光を反射しないように黒く煤塗りにされた、歪な形状の短剣。
アルフェン王国が裏社会で飼い慣らしていた、王族専用の暗殺部隊『影蜘蛛』。
「目標、セシリア・アルフェン」
仮面の奥から、機械のように無機質な、擦れた声が響いた。
彼らの視線が、ガラン隊長を通り越し、俺の心臓を正確にロックオンするのが分かる。
「祖国の崩壊を招いた大罪人。……宰相閣下の命により、ここでその命を摘み取る」
ギリッ、と。
暗殺者たちが一斉に短剣を構え、重心を極限まで低く落とす。
空間の温度が、一気に数度は下がったかのように錯覚するほどの、濃密で実体を持った『殺意』。
普通の令嬢なら、この視線を浴びただけで泡を吹いて気絶しているだろう。
だが。
俺は、逃げない。悲鳴も上げない。
むしろ、ミッドナイトブルーのドレスの裾を優雅に翻し、ガラン隊長の背中から半歩だけ前に進み出た。
「……ごきげんよう、バルディスの飼い犬ども。ずいぶんと陰気なご挨拶ですね」
俺は完璧な令嬢の微笑みを浮かべ、挑発的に小首を傾げてみせる。
「祖国の崩壊を招いた? 勘違いしないでください。私はただ、無能な船から一番に降りただけ。……それを、逆恨みで暗殺とは。宰相閣下の器の小ささには、心底反吐が出ますわ」
「戯れ言を。……殺せ」
リーダー格の暗殺者が低く命じた瞬間。
十の黒い影が、物理法則を無視したような異常な跳躍力で、四方八方から同時に俺の首と心臓を狙って宙を舞った。
音のない、死の舞踏。
「セシリア様、下がって!!」
ガラン隊長が血を吐くような叫びを上げ、白銀の剣を大上段に振りかぶる。
帝国の最強の盾と、王国の最凶の暗殺刃が、俺の眼の真ん前で激突しようとした――まさにその刹那。
俺の唇に、三日月のような不敵な笑みが刻まれた。




