第488話 策謀の終着点
勝利の美酒、あるいは最高に苦い一杯を楽しんでいた司令室の空気は、不自然なほどの静寂によって塗りつぶされた。理子が黄金のハンドルを右に切り、あの不条理な概念を右へ追いやったはずの空間から、歓喜の余韻が急速に剥ぎ取られていく。
「理子最高経営責任者、……警告です。先ほどのインド人を右に、という操作は、当社の主権による正当な操舵ではありません。……。それは、ホローフィンガーが事前に仕掛けていた『包括的資産譲渡契約書』の最終執行キーとして機能しました」
アリスの声が、かつてないほどに乾き、震えていた。メインモニターに映し出されたのは、勝利の星空ではなく、要塞千代田の全機能が次々と「赤字」に染まり、外部資本へと強制的に紐付けられていく無残な台帳の羅列だった。
「な……。何を言っているの? 私たちはあいつを右にやった。……。排除したはずよ!」
理子が立ち上がろうとした瞬間、彼女の鉄の義手から火花が散り、その重みが数倍に増した。要塞全体が激しい震動に見舞われ、外壁を構成していた運命鋼が、まるで溶け落ちる蝋のように崩れ始める。
「理子、危ないわ……。私たちの連結強度が……。、急速に奪われている。これは攻撃じゃない。……。法的な、解体よ」
脳内の葛城総理が呻く。彼女の主権を司る感覚が、見えない鎖によって千切られ、どこか別の場所に「接収」されていく感覚。
その時、虚空から再び、あのサブロックが姿を現した。しかし、そこには掠奪者の猛々しさは微塵もなかった。彼は整然とした漆黒のスーツに身を包み、手には「宇宙創造株式会社」の刻印が入った黄金のバッジを光らせていた。
「勘違いさせて申し訳ありません、理子社長。俺は宇宙盗賊になんて、一度もなったつもりはありませんよ」
サブロックの瞳には、かつての卑屈さはなく、冷徹な法務官の光が宿っていた。
「ホローフィンガーは、単なる略奪集団ではない。彼らは宇宙創造株式会社が破産した際、その『債権回収業務』を合法的に委託された、正当な管財人グループです。……。あんたたちがさっき『右にやった』操作。あれは、あんたたち自身が、この第13管理宙域の全資産をホローフィンガーへ無償譲渡することに同意した、という電子署名だったんですよ」
「……っ、ハメたわね、ベギル!」
理子が叫ぶが、正面のモニターに映るベギルは、もはや嘲笑すらしていなかった。彼は静かに、一枚の「宇宙征服規約」を読み上げ始めていた。
「神崎理子。貴様は不条理を武器にしすぎた。……。俺たちは賢い手段を選んだ。物理的な破壊ではなく、この宇宙の全住民が『同意』せざるを得ない、完璧な秩序を構築すること。……。平和という名の檻は、内側からは決して壊せない。貴様が平和を望んだ瞬間に、俺たちの管理する『絶対的な平和管理コスト』への支払いに同意したことになるのだ」
要塞千代田の内部では、壊滅的な被害が発生していた。アーサーの聖剣は、不当な武器使用を禁じる法的制約によって石塊へと退行し、ランスロットの槍は「公共物破壊の容疑」によって自身の影に縛り付けられた。ネットのデバッグ能力は、宇宙創造株式会社の「特許侵害」として強制停止され、彼は自身の神経を逆流する情報の渦の中で血を吐いた。
「アリス! 強制排除よ! 当社の全資本を、今すぐ……!」
「不可能です、理子CEO。……。現在、当社の全資産、および構成員の魂は、ホローフィンガーの完全子会社として登録されました。……。私たちは今、彼らが管理する『平和という名の負債』を永遠に払い続けるだけの、無価値な労働力として再定義されています」
アリスのホログラムが砂嵐に消えていく。
理子の目の前で、ライオネルの咆哮が悲鳴へと変わった。要塞の心臓部が、ホローフィンガーの用意した「標準化プログラム」によって、無個性な動力源へと書き換えられていく。
「あ……。あああ……!」
理子は鉄の義手で自身の胸を掴んだが、そこにあるはずの「理不尽証明書」は、ただの白紙の紙切れに変わっていた。
不条理さえも、ホローフィンガーの「賢い征服」の前では、ただの計算ミスとして処理されていく。理子たちが築き上げてきた黒字の城は、今や宇宙で最も巨大な「債務超過の牢獄」へと変貌を遂げていた。
「……。さあ、残業を始めましょうか、理子社長。今度は、俺たちのための、終わりのない、無意味な作業をね」
サブロックが冷たく告げた。
要塞千代田は、その黄金の輝きを失い、冷たい灰色の闇に沈んでいく。
理子の不敵な笑みは消え、そこには、自身の甘さと傲慢さが招いた、真の地獄が広がっていた。
物語は終わらない。
だが、そこにあるのは、もはや希望でも情熱でもない。
絶対的な規約と、冷徹な管理。
要塞千代田のブリッジを支配していた黄金の輝きは、今や無機質な事務センターのような灰色に塗りつぶされていた。視界の端で踊っていた「黒字」の文字は、一瞬にして膨大な「整理対象資産」という冷徹なラベルに書き換えられていく。
「理子最高経営責任者、……全身の認証キーが拒絶されています。私の意識の一部が、ホローフィンガーの『標準管理OS』に強制置換され……。理子様、逃げて……これ以上の接続は、あなたの存在そのものを『無効なログ』として消去してしまいます」
アリスの声が電子的な悲鳴を上げ、ホログラムの輪郭がドロドロと溶け落ちる。ライオネルの鼓動も弱まり、要塞のエンジン音は、まるで巨大なシュレッダーが紙を裁断するような不快な摩擦音へと変わっていた。
「……っ、ふざけないで。私の許可なく、勝手に当社の登記を弄らないでよ!」
理子は鉄の義手から噴き出す過負荷の火花に顔を焼きながら、コンソールに指を突き立てた。だが、そこにあるのはかつての直感的なインターフェースではない。数万ページの「利用規約」と「免責事項」が、物理的な圧力となって彼女の指を押し戻す。
1.法的な処刑、あるいは冷徹な管理
「無駄ですよ、社長。今のあなたは、法的根拠のない『不法占拠者』に過ぎない」
サブロックが歩み寄る。その足音は、かつての卑屈な引きずり音ではなく、高級な革靴が冷たい床を叩く、勝者のリズムだった。彼は虚空にホログラムの印鑑を浮かび上がらせ、要塞のメインクロックを停止させた。
「ホローフィンガーが目指すのは、掠奪による混沌ではありません。完全なる『市場の統一』です。宇宙創造株式会社が遺した膨大な不良債権を、我々は『平和維持費』として再定義し、全次元の住民に課金する。文句を言う者は、規約違反としてその存在の更新を停止する。これこそが、賢い者が行き着く究極の統治形態、宇宙征服の完成形です」
サブロックが指を鳴らすと、要塞の外壁に張り付いていた掠奪兵たちが、一斉に「執行官」の腕章を巻き、事務的な手際でアーサーの聖剣を回収し、ランスロットの槍に封印シールを貼り付けていく。
「理子、……ダメよ。あいつら、私たちの『情熱』や『不条理』を、単なる『計算ミス』として処理しているわ。私の裏国家の主権さえも、彼らの巨大な規約の中では、一つの小さな注釈に過ぎない……」
脳内にある葛城総理の意識が、かつてないほど細く、弱まっていく。彼女たちが誇っていた連結主権は、ホローフィンガーが展開する「絶対規約」という名の檻によって、バラバラに解体されようとしていた。
2.絶望の帳簿、あるいは逆転の糸口
理子は床に膝をつき、急速に感覚を失っていく自身の右腕を見つめた。生身の肌を刺すような寒さは、要塞の生命維持装置が「コスト削減」のために出力を制限し始めた証拠だった。
「……アリス、まだ聞こえる? ネット、生きてる?」
「理子さん、……クソっ、僕の脳のパーセンテージが、勝手に『共有フォルダ』に割り当てられてる……。でも、奴らの規約の……第4万8200条に、……一箇所だけ、おかしな記述がある……」
ネットが鼻から血を流しながら、強制終了間際のモニターを理子に見せた。そこには、ホローフィンガーが宇宙創造株式会社を合併した際に引き継いだ、「未処理の訴訟リスク」という項目が、極小の文字で記されていた。
「これよ、理子。……。あいつら、欲張って宇宙のすべてを買い叩いたせいで、……宇宙創造株式会社がかつて犯した『最大の理不尽』まで、自社の債務として引き受けちゃったのよ」
葛城の声に、微かな、しかし鋭い殺意が戻る。
「……宇宙の始まりの時の、一円の誤差。……あいつらが完璧な管理を謳えば謳うほど、その小さな『誤差』は、彼らの規約全体を崩壊させる致命的なバグになるわ」
3.地下経営の開始、あるいは闇の監査
理子は唇を噛み切り、鉄の義手を無理やり自身の胸部、かつて「理不尽証明書」があった場所に叩き込んだ。
「サブロック、……。あんたは言ったわね。私は不法占拠者だって。……上等よ。新生ユグドラシル社は今日から、この宇宙の『地下組織』として再出発してあげる」
理子の瞳の中に、絶望を燃料にした漆黒の経営哲学が再点火される。
「あんたたちが表の法律を支配するなら、私はあんたたちの規約の裏側に広がる『法的空白地帯』を、すべて買い占めてやる。あんたたちが平和を売るなら、私はあんたたちが無視した『不満』と『誤差』を資本にして、あんたたちの時価総額を内側から腐らせてあげるわ」
サブロックの眉が、一瞬だけぴくりと動いた。彼は冷徹な表情を崩さなかったが、その手に持つ管理端末に、微細なノイズが走ったのを理子は見逃さなかった。
ホローフィンガーによる賢い宇宙征服。
それは、完璧な秩序という名の、最も脆い砂上の楼閣。
「アリス、ネット、ライオネル! 私たちの倒産は、次なる『敵対的買収』のための偽装工作よ! これより、ホローフィンガーの全システムに対する、史上最悪の『裏監査』を開始しなさい!」
理子の叫びとともに、灰色の闇に沈んでいた要塞千代田の深部で、封印されていた「不当な熱量」が再び脈動を始めた。
新生ユグドラシル社、破産からの逆襲。
本当の地獄のような経営は、ここからが本番だった。




