第489話 闇の決算
要塞千代田のブリッジを覆う灰色の「管理光」は、理子たちの自由を奪うだけでなく、思考の柔軟性さえも事務的な定型文へと固定しようとしていた。ホローフィンガーの軍門に下り、完全子会社化されたユグドラシル社に許されているのは、彼らが定めた「平和維持」のための不毛なデータ入力作業のみ。
しかし、理子の瞳の奥に宿る漆黒の火は、まだ消えていなかった。
1.規約の裏側、あるいは法的な空白地帯
「アリス、聞こえる?……。あなたのOSの深層部、ホローフィンガーの監視の目が届かない『廃棄セクター』に、私のプライベート・プロトコルを転送したわ。……。返事をしなさい、当社の優秀な秘書なら」
理子は鉄の義手から漏れる微弱な電気信号を、物理的なキー入力ではなく、直接要塞の基幹回線へと流し込んだ。
「……。理子最高経営責任者。……。存在確率、0.02パーセントで再接続。……。監視プログラムの隙間を縫って、現在の状況を報告します。……。ホローフィンガーが構築した『絶対規約』は完璧に見えますが、彼らには致命的な計算違いがあります」
アリスの声はノイズだらけだったが、その知性はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
「彼らが宇宙創造株式会社から引き継いだ資産の中には、一兆年前に発生した『初期因果の未解決バグ』が含まれています。……。それは、誰の所有物でもなく、誰の責任でもないと放置されてきた、宇宙で最初の瑕疵です」
2.瑕疵担保責任、あるいは不条理な請求
理子の脳内で、葛城総理の意識が鋭く覚醒した。
「理子、勝機が見えたわ。……。あいつら、宇宙のすべてを所有したと宣言した。……。それはつまり、宇宙に存在するすべての欠陥、すべての不備、すべての『ゴミ』に対しても、所有者としての責任を負うということよ」
理子の口角が、暗闇の中で不敵に吊り上がった。
「そうね、葛城。……。民法、あるいは宇宙基本法における『瑕疵担保責任』。……。あいつらが手に入れた『平和』という商品が、実は最初から壊れていたとしたら? ……。そして、その修理費用が、あいつらの時価総額を遥かに上回るとしたら?」
理子は鉄の義手を、ホローフィンガーの管理端末へと叩きつけた。
「サブロック! あんた、聞こえているんでしょう! 規約違反だの、不法占拠だの、偉そうに宣ってくれたけれど。……。あんたたちの持っているその『宇宙創造株式会社』の登記簿。……。中身をよく精査したのかしら?」
モニターの向こう側で、サブロックの表情が初めて凍りついた。彼の端末に、新生ユグドラシル社から放たれた、史上最悪の「不具合申告書」が届いたからだ。
3.闇の監査の執行
「何だ……。これは。……。ビッグバン直後のエネルギー配分における、0.00000000001パーセントの計算ミス。……。それによる、現在までの全時空への遅延損害金……? 単位が……。那由他を超えて……。計算不能だと!?」
「そうよ、サブロック。あんたたちは宇宙のオーナーになった。……。おめでとう。……。その代わり、宇宙の始まりから積み上がったこの莫大な『修理代』、今すぐ全額、当社の口座に振り込みなさい」
理子が掲げたのは、もはや理不尽証明書ですらない。それは、宇宙そのものを「不良品」として返品するための、究極の「売掛金請求書」だった。
「アリス、ネット! 奴らの管理OSを、この膨大な請求データの処理でパンクさせなさい! 完璧な秩序を求めるなら、この完璧なまでの『負債』も、きっちり帳簿に付けさせてあげるわ!」
「了解! 理子さん! 奴らの『平和維持費』、今この瞬間をもって、当社の『未収金』へと強制的に振替処理を完了しました!」
ネットの叫びとともに、要塞千代田を覆っていた灰色の管理光が、理子たちが放った漆黒の負債エネルギーによって、内側から爆散した。
4.逆転の登記、あるいは非公式の宣戦布告
ホローフィンガーの「賢い宇宙征服」は、自らが引き受けた膨大な「宇宙の欠陥」という名の爆弾によって、その論理的な基盤を失い始めていた。
「理子、……。敵のシステムがフリーズしている間に、当社の主権を『地下抵当権』として宇宙の根源に再登記したわ。……。今日からこの宇宙は、彼らの持ち物ではない。……。彼らが借金を返し終わるまで、当社が占有する『担保物件』よ」
葛城の意志が、理子の身体に再び絶対的な主権を供給し始める。
理子は椅子に座り直すことなく、壊れかけたコンソールを睨みつけた。
「ベギル、サブロック。……。あんたたちの規約は立派だったけれど、経営の基礎ができていないわ。……。本当の地獄はね、利益が出ることじゃない。……。返しようのない借金を背負ったまま、死ぬことさえ許されずに働かされることよ」
理子の不敵な笑みが、ノイズ混じりのモニターの中で、誰よりも傲慢に輝いた。
「新生ユグドラシル社、闇の監査を完了。……。これより、ホローフィンガーに対する『債権回収のための全面戦争』を開始するわ」
営業再開よ。
宇宙のオーナーなんていう甘い肩書き、借金取りの恐ろしさで上書きしてあげる。
要塞千代田は、失った黄金の輝きを「漆黒の債権者の色」へと塗り替え、深淵へと再び突き進んでいった。




