第二十一話 全部妖精の粉のせい
意味があるのか考える時間もない。
俺は咄嗟に自分の鼻と口を手で覆った。
身体の中に、ざわざわとした、腰から這い上がるような熱が生まれる。知らない感覚だった。荒くなる息を無理やり飲み込んで、神官に向かって叫ぶ。
〈魔物を呼ぶ粉だ!門を閉めるように言ってくれ!〉
光の王国には結界がある。けれどそれは、魔除け封じで何とかなるレベルのものだ。
確かに下級の魔物には効果があるのかもしれない。だが、これほどに強い香りだ。誘われてやってくる理性をなくした者たちの中に、結界を抜けられる者がいたとしたら。
「御使い様、いったい何の話です?」
散らばる粉を見た神官が、慌てて集めながら言う。彼の手が動くたびに、粉がさらに舞う。あの粉を、もっと吸い込みたい。嗅ぎたい。そんな気持ちが湧いてきて、止まらなくなる。
今だけでいい。正気に戻れ、シルヴェウス。百六十年も生きてきただろ。今更、謎の粉を嗅いだくらいで興奮するな!
〈……、神官殿。あなたが持っていた袋の中身は、魔物を封じる聖粉ではありません。その逆、……魔物を呼び寄せる妖精の粉です〉
「えっ?」
神官はまさに、きょとん、といった顔をした。ほとんど散ってしまったが、わずかに石畳の上に残っていた分を袋に詰めて、口を縛り直している。
「何だ、幽霊がなにか言ってるのか?」
「せ、聖粉が、魔物を呼び寄せる妖精の粉だと……」
「は?んなわけ——」
ギルド長の言葉が、途中で止まった。
「ま、魔物だッ!!」
正門前で警備をしていた門兵たちが、手に松明を持ち、外を見ながら叫んでいた。反射的に、門へと走る。
「御使い様!?」
神官が後をついてくる。
〈俺は、同じ現象を知っている。あの粉の量でどれくらいの数をおびき寄せられるのかはわからないが、理性を失った魔物たちが押し寄せてくるぞ〉
「そんな……!そんなはずは!」
「うわぁぁぁ!!」
壁の外にいた者たちが血相を変えて門の内側に逃げ込んでくる。宿に泊まる費用がなく、外での野宿を選んだ旅人や低ランクの冒険者たちだ。
門兵たちが集まり、外に向かって火矢を放つ。
その明かりの下。
無数の魔物が、薄い膜のような結界のすぐそばまで迫っている様子が、視認できた。
「ヒィッ!」
逃げてきた旅人が尻餅をつく。それを支えた神官が、恐怖を顔に貼り付けながらも声を上げた。
「だ、大丈夫です!我々には、聖女様の結界が……!」
ズン、と地面が大きく揺れた。
闇の中に、赤い光が二つ浮かび上がる。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ……!」
引き攣った笑みで、ギルド長が剣を抜いた。
それは巨大なサソリに似た、魔物だった。魔族領にもいる、毒持ちのやつだ。雑魚氷時代の俺では狩れず、人型になってから狩れるようになった、強さとしては下の上くらいの魔物だった。
「難易度Aランクの魔物じゃねぇか!なんで王国の近くにいるんだ!」
どうやら人間領では、かなり上澄みらしい。
巨大サソリの尾が、振り上げられる。バキリと音がして、岩をも溶かす毒液を垂らした尾の先が、結界に突き刺さった。
結界が破られる!と誰かが悲鳴を上げた。
「おい、オマエら!ギルドに行って応援呼んで来い!!」
「ヒッ!じ、冗談じゃねぇッ!」
例の素行の悪い冒険者に向かって、ギルド長が叫ぶ。だが指示を受けた冒険者たちは、よりによって背を向けてそのまま逃げ出した。
舌打ちをしたギルド長が、門兵たちよりも前に出る。この中で一番強いのが、彼なのだろう。
俺は、自分が何もできない、ただ意識体であることを痛感していた。氷結のシルヴェウスなら、あのサソリ程度なら指先一つで凍らせてしまえるのに。
「も、もう駄目だ!結界が……!」
「誰か!非常用の鐘を鳴らせ!」
「無理だ!」
門兵が叫び、戦えない旅人たちが転がるように逃げていった。
結界の罅が拡がっていく。
誰もが結界が砕け散る未来を想像し。
次の瞬間、鋭い斬撃によって斬り飛ばされるサソリの尾を見た。
「オーサマー!シルリーン、イター!」
「えっ?どこどこ!?」
「アソコー!」
「……どこ?」
呑気な会話が聞こえた。
巨大なサソリが真っ二つに割れ、地面に倒れ込む。その直後、結界の向こう側の世界が真っ赤に燃え上がった。
「陛下、あっつい」
「あ、ごめん」
そしてすぐに鎮火する。
燃えたのはほんの一瞬だったが、その場にいた魔物たちは、跡形もなく灰になっていた。
周囲の者たちがポカンとする中、アグニラードたちが、袋の中から聞こえてくる千里くんの声に従って、俺の前までやってくる。
「この辺?」
「イイカンジー」
アグニラードが、すぐ目の前にいる。鍛えられた腕が、俺を優しく包み込むような仕草をした。
「急にいなくなるから、探したよ〜」
グスグスと鼻を啜りながら、涙目になっている。
「宿、溶けるかと思ったし」
「出かける時は言ってもらっていいですか?」
ベンゼルはともかく、クエイクが正論すぎて言葉に詰まる。いや、言えなかった理由があってだな。
その辺の話をしないといけないんだが……。
〈……、…………っ〉
正直、かなり限界が来ていた。
アグニラードの顔を見て安心したというのもあるんだろう。燻っていた身体の奥の熱が、再燃したのである。
というか。
アグニラードから、めちゃくちゃ良い匂いがする。あの粉よりもずっと、甘くて、強い香りが。
頭がクラクラする。
駄目だ、本当に駄目だ。
「御使い様?」
人間側の通訳の神官が、俺の様子に気付く。頑張れ、俺の正気。あと少しだけ、頑張ってくれ。
〈……神官殿。その袋の成分は、今見た通りだ。詳しい話を、したい。後で行くから、ギルド長に伝えて、先に冒険者ギルドで待っていてもらえないだろうか……〉
「わ、わかりました……」
〈千里くん。陛下以外の二人に、ギルド長と神官殿と連携して、他に魔物がいないか確認するように伝えてくれ〉
「カシコマリリウム!」
「今の声、どこからですか!?」
神官が千里くんの声に驚いているが、説明している余裕は今の俺にはない。
千里くんから、ベンゼルとクエイクに伝えてもらう。二人とも「人間と協力とか……」とちょっと嫌そうな顔をしていたが、神官を連れてギルド長のところに話をしに行ってくれた。
これで、神官に俺と千里くんの会話を聞かれる心配もない。
〈……アグニラードに伝えてくれ。妖精の粉を、かなり吸ってしまった。しばらく正気じゃなくなるから、……宿の部屋に連れて行って欲しい、と〉
「シルヴェウス、大丈夫なの……!?」
〈あんまり大丈夫じゃ、ない……。今は、ただもう……〉
俺はアグニラードに近づいた。触れないのに、匂いはわかるなんて、どういう原理なんだ。
あぁ、でも、それさえどうでもいい。
〈お前の匂いを、嗅ぎたくて、たまらない〉
「——……はい?」
ぼん、と燃え上がる炎のように、アグニラードの顔が真っ赤に染まるのが見えた。
人目のないところでワームちゃんを呼んで、爆速で宿へと戻った。
主寝室へと入り、アグニラードにベッドの上で座るように言う。
息が荒い。身体が熱い。
「シ、シルヴェウス……、あの……」
〈……妖精の粉の効果は、魔物の本能を刺激して理性を奪う。おそらく……、お前の力が強すぎて、粉の効果で感覚がバグってる俺に、似たような作用をもたらしてるんだ……〉
「そ、そうなんだ」
〈……俺がお前の匂いを満足するまで嗅いでる間、適当に過ごしててくれ〉
言いながら、すでにベッド上に胡座をかいているアグニラードの膝の上に乗り上げて、首に顔を埋めて匂いを嗅ぎまくっている。良い匂いすぎる。
俺は匂いフェチだったのか。いや、違う。これはあの粉の作用だ。
思考にもやがかかっていく。甘い痺れが、全身に走る。どうせアグニラードからは見えてない。好きなようにさせてもらおう。
深呼吸をして、耳の後ろの匂いを嗅ぐ。それから頬を擦り寄せ、身体を密着させるようにして、くっつけた。
「……、シル、ヴェウス……」
呆然とした様子で、アグニラードが俺の名を呼ぶ。思考が香りに支配されて、何も考えられない。触れないのは百も承知で、アグニラードの唇を舐める。こんなに甘くて良い匂いなんだから、ここも甘いと思ったんだが。残念ながら、何の感触もなかった。
「……シルヴェウス、かわいい」
何がだ?見えてないだろう?
千里くんも、さっきから黙ったまま実況していない。そんなことより、俺は嗅ぐのに忙しい。
ふわふわした思考の中で、ふと見えてないし触れないのに、アグニラードの手がやけに的確に俺の身体を這っていることに気が付いた。
不思議だな〜と、思いながら、顔を上げる。アグニラードは、部屋の隅にある姿見を凝視していた。何だ?と俺も視線を向ける。
アグニラードと、……俺が映っていた。
アホみたいな顔してるな、とは思ったが、止められない。
再び匂いを嗅ぐ作業に戻る。
一生こうしていたい、なんて気持ちも、数時間もすれば消えてくれるのだろうか。
それさえ、よくわからなかった。
次回第二十二話は11月6日17時更新です。




