番外編 吸血鬼の理性
ビルの屋上に、一人の男が立っていた。
スーツに身を包み、短い髪を夜風に揺らしている。
その瞳は、眼下の街を歩く人間の中から誰かを探し出そうとするように、忙しなく動いていた。
「あの」
そう声を掛けながら、レイの靴が小さく音を立てる。
男は勢いよく振り返り、そしてすぐ安堵の息を漏らした。
「なんだ、同族か。突然声を掛けるなよ。吸血鬼狩りかと思っただろ」
そう言って肩を竦め、笑う。
「お前も今日、人間を食らうのか?」
雑談でもするような緊張のない声色でレイに語り掛けながら、男は再び街を見下ろす。
しかし、すぐに何かに気が付いたように、レイを振り返った。
「ん? お前、この匂い——」
言葉が終わらない内に、銃声が響いた。
男は咄嗟に地面を蹴るものの、脚に銃弾が食い込み、均衡を崩したままにビルの屋上の床を転がった。
赤い血が周囲に散る。
階下へと続く扉の裏から、銀の銃を手にした神崎が歩み寄る。
男は瞳を禍々しい赤色に染め、威嚇するように鋭い牙を覗かせながらレイを睨み上げた。
「この野郎、半血か……! 人間と手を組んで、俺を騙しやがったな!」
「俺はまだ何も言っていませんよ。騙してはいません」
「人間に吸血鬼を売ったのか! この混ざり物が!」
「確かに、売りはしたかもしれません」
もう一度銃声が響く。
銀の銃弾は男の額を貫き、その瞬間に男の身体は灰となって崩れた。
「……なんでお前は毎回、無駄話をするんだ」
神崎は呆れた顔をしながら銃をホルスターに収める。
レイは表情を変えずに神崎を振り返った。
「話し掛けられたので」
「話って言わねえんだよ、ああいうのは」
溜息を吐き、神崎は踵を返す。
「帰るぞ」
「はい」
レイもすぐに神崎の背を追った。
*
「父は、なぜ母を殺さなかったんでしょう」
家に帰り、ソファに腰掛けたレイは前触れもなくそう呟いた。
隣に座り珈琲を啜っていた神崎は、目を丸くしながらカップを小さなサイドテーブルに置く。
「何だ、突然」
「父は純血の吸血鬼だったはずです。俺のように、吸血衝動を抑えるのは難しかったはず」
顎に手を添え、考え込むようにレイは言った。
神崎も眉根を寄せつつ、スマホを置いて天井を見上げる。
「両親の記憶はないのか?」
「父の記憶はありません。ただ母が、父はいなくなってしまったのだと語っていたことは、何となく覚えています」
レイは遠い昔を思い出すように、瞼を伏せた。
「父を恋しがって、泣いていたことも」
「少なくとも、お前の母を強引に手込めにしたわけではないんだな」
吸血鬼が起こす事件は殺人行為ばかりだ。
逆に言えば、吸血行動以外で人間を襲うことはほとんどない。
稀に死にきれず、病院に運ばれて一命を取り留める被害者こそいるが、吸血鬼は基本的に人間が死ぬまで血を啜る。
それに、レイが生まれたのは少なくとも百年は昔の話だという。今のような高度な医療も存在しない。
だが、事実レイの母は子供を身籠った状態で生き延びていた。
もし死に瀕していたのなら、間違いなく子供は失っていたことだろう。
「お前のように、自制の利く吸血鬼だった可能性があるということか」
「考えにくいことですが、そうですね」
レイは脚を組み、ソファの背凭れに体重を預けながら答えた。
「それに母は、俺が吸血鬼の血を引いていることを知っていました。母が自ら腕を切り、その血を飲んだことを覚えています」
「お前はなぜ母と離れた?」
「いつか、俺が死なせてしまうと思ったからです」
焦がれることも、一方で後悔もない声に聞こえた。
ただ事実だけを語る声は淡々としていた。
「父も、そう思ったから母を置いて、消えたのかもしれませんね」
神崎は口を閉ざし、視線を一度床へと落とした。
「お前は、もしそう思ったとしたらどうする?」
その視線をレイへ向けると、同じように向けられた黒い瞳とぶつかった。
「俺があなたを殺してしまうかもしれないと思ったら?」
「そうだ。何も言わず、勝手に消えるのか」
答えはすぐに返ってこなかった。
少なくともその選択肢がレイの中にあることは、沈黙が認めていた。
神崎は小さく舌打ちを漏らす。
「お前と最初に交わした契約を覚えているか」
「…………」
「お前が必要無くなったら、殺さずに一度解放すること」
「そういえば、そう言いましたね」
「その後、お前を捕らえられたなら殺してもいいと」
「はい」
神崎は、苛立ちを隠した手で珈琲のカップを引き寄せる。
「その契約を無効にした覚えはない」
少し冷めてしまった珈琲を一口、口に含んで飲み込む。
「俺の許可なく、消えることはまだ許可していない」
普段より苦味を強く感じた。
残りも飲み干し、空になったカップを再び置く。
「もし逃げたとしても、追いかける。もう一度捕らえればいいだけの話だ」
「……俺の自由が少ないですね」
いつかと同じ台詞で、レイが僅かに笑った。
「当然だ」
神崎も、その時と同じ言葉で答えた。
空のカップを持ち、立ち上がる。
キッチンへと戻ろうとすると、背後からレイの声が聞こえた。
「俺をもう一度捕らえられたのなら、その時は殺しても構いませんと……俺は言いました」
神崎の足が止まる。
「その時は、殺しますか?」
僅かな沈黙の後、神崎は深く溜息を吐いた。
「捕らえると言ったはずだ。真面目に話を聞け」
「……そうですか」
また小さな笑みを含んだ声が、背後から返った。
きっと、互いに言えていない言葉がある。
不自然な均衡のまま、その沈黙に隠すように、また一つ夜は更けていった。
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