第十八話 焦がれる香り
ベッドの上で、レイの片手が神崎の指を絡め取った。
「今度は何だ」
「俺が、こうしたくなったので」
神崎が怪訝そうに眉根を寄せても、レイは気にも留めずにそう言った。
レイの鼻先が神崎の首元へと寄る。
神崎は深く息を吐いて、勝手に強張る身体から力を抜いた。
「……人間には、ペットセラピーというものがあるらしいですね」
「は?」
襲うはずの痛みに備えていた神崎の口から、間の抜けた声が漏れる。
レイは瞼を伏せ、神崎の首元に顔を埋めて静かな呼吸を繰り返した。
「良い匂いがして、安心する。多分、ペットに癒される時って、こういう感じです」
「もう一発殴られたいのか?」
早速持ち上げようとした神崎の腕を、レイの手が静かに押し戻した。
以前の吸血による傷が無くなった首筋へとレイが唇を押し当てると、神崎の肩が小さく揺れる。
「……お前、この前もそれしただろ」
「そういえば、そうですね」
「それも吸血鬼の習性か? どういう意味だ」
神崎がそう問うと、暗闇の中でレイがごく小さく笑った気配がした。
「これは、人間と変わりませんよ」
神崎の頬に、レイの冷たい指が触れた。
「あなたを求めているという意味です」
レイは、今度は何か言いかけた神崎の唇へと口付けた。
一瞬触れ合うだけのそれをすぐに終えた後、レイは僅かに首を傾ける。
「今、何か言おうとしました?」
「……お前、どんな顔で言ってんだ、そんな台詞を」
「電気を付けましょうか?」
「そういう意味じゃない」
重ね気味に制止を掛ける。
他人と触れ合うのは、決して初めてのことでもない。
レイに対してでさえ、以前血を分け与えた時にも理由さえ曖昧なまま、同じように触れたはずだった。
それなのに、今は心臓の音がやけに耳元で響いている。
吸血鬼の目や耳には全て拾われているかもしれないとはいえ、わざわざ電気の下にそれを晒したくはなかった。
神崎は眉根を寄せて、真上のレイを睨む。
「いいから、さっさとやれよ」
「嫌でしたか?」
そう問われ、神崎の表情が更に険しくなる。
いっそ血を求めるだけの間柄として扱われれば、まだ楽だったかもしれない。
だがレイの言葉や指先は、それ以上の何かをありありと伝えてくる。
そして、神崎はそれに応える言葉を持ち合わせていなかった。
ごく自然に繋がれた指を振り解くことはしない。それが今の神崎にとっての精一杯だった。
「嫌だったら止めてください。また銃を向けて——」
再び唇が重なり掛けた瞬間、ふとレイが動きを止める。
レイの片手が何かを確認するように、神崎の腰へと滑った。
「あれ。銃、忘れてますね」
「……何?」
「吸血鬼の前では、武器くらいいつも持っていてください」
絡んでいた指は簡単に解かれ、レイが両腕に力を込める。
身体を離し、リビングまで銃を取りに行こうとしているのだと、すぐに分かった。
咄嗟に神崎の片手がレイの襟を掴み、引き戻す。
「さっさとやれって言ったのが、聞こえなかったのか」
力任せにレイの身体を引き寄せ、額同士を合わせる。
真っ暗な部屋の中でも、この距離であれば目を凝らせば表情が見えそうな気がしたが、自ら瞼を伏せ、レイの唇を噛んだ。
すぐに、吐き出しかけた呼吸まで奪われるように、唇が深く重なった。
レイの冷たい指が再び神崎の指を捕らえる。
少しでも拒めばいつでも離れられる程度の、逃げる余地を残した触れ方。
それが妙に腹立たしく感じた。
咎めるようにレイの手の甲へと爪を立て、自ら触れた舌を追い、深く口付ける。
暗闇の中で、レイが小さく息を詰めたのが分かった。
その反応に胸の奥が騒ぎ、襟を掴む方の手に力が籠る。
呼吸の仕方さえ分からなくなるほど長く唇を重ね、苦しさに耐えきれず神崎が顔を逸らす。
そうして晒された首筋に、レイの湿った吐息が触れた。
「待っ——」
制止より早く、鋭い牙が皮膚を破った感覚があった。
熱く痺れるような痛みが駆け抜け、まだ整っていない息に混ざって僅かな声が漏れる。
握られた手に爪を立て、もう片手は宙を掻いた後、縋るようにレイの背中へと回った。
全身の血がそこに集まったかのように、傷口が熱を持って脈打つ。
この場に武器はない。
もしレイが本能的な衝動を抑えられなければ、止める手立てもない。
けれど、今度は不思議と恐怖もなかった。
徐々に遠くなる痛みと、焼けるように熱い痺れだけがそこにあった。
「唇を噛まないで」
牙を立てたまま、レイがくぐもった声でそう告げた。
冷たい指を口に差し込まれ、自分の唇を噛んでいたと初めて気付く。
「傷になります」
「……っ」
一際深く牙が刺さり、暗闇の中で視界が揺れた。
最後に小さく喉を鳴らして、牙が抜かれる感覚に膝が震える。
神崎を見下ろす瞳はもう元の色に戻り、暗闇に紛れていた。
浅い呼吸を整える中で、幼子を褒めるようにレイの手が神崎の髪を滑った。
「……ガキ扱いするな」
「していませんよ。労わっているだけです」
「必要ない」
即座に突っぱねる。すぐ傍で、血の匂いがした。
レイの指が神崎の手首を掴み、持ち上げる。
力の抜けた手のひらに、血を啜ったばかりのレイの唇が触れた。
それは情を伝えようとする人間の行動にも、自らの縄張りに匂いを残そうとする獣の習性にも見えた。
「なら、もう少し触れていてもいいですか?」
触れるだけの口付けが、甘えるように指の先へと滑る。
「あなたが許してくれるなら」
血を吸われたせいか、軽い眩暈と共に怠い痺れが身体を這う。
何度か息を整え、伸ばした手でレイの髪を掴み、引く。
「……勝手にしろ」
掠れた声でそれだけ告げた。
目が慣れ始めた暗闇の中、小さく頷いたレイの影が見えた。
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