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第十七話 感謝と拳


 吸血鬼の聴覚は、人間のそれの比ではない。

 神崎が扉の前に立った足音も、聞こえていたのだろう。

 

 招くように開かれた扉の先は暗闇だった。

 部屋の電気は消されたままで、分厚いカーテンが月明りさえ遮っている。

 そんな中で、レイは迷いもせずに自分のベッドに戻り、腰を下ろした。


「お前の目には、この暗闇でも全て見えているんだろうな」


「……ああ、そういえば人間には見えないんでしたね」


 思い出したように呟いて、レイが下ろしたばかりの腰を上げようとする音が聞こえた。

 だが、神崎はそれを手で制止した。


「いい。電気をつけろと言ったわけじゃない」


 電気を付けるスイッチなら、神崎のすぐ側の壁にある。

 意図的に付けていないだけだった。

 レイの目には見えているとしても、自分の目には何も見えていない方が、今はありがたかった。

 暗闇の中、レイが少しばかり不思議そうな顔をしたのが気配で分かった。


「……? どうしたんです?」


 想像通りの声が聞こえた。

 暗闇の中、神崎はレイの座るベッドに向けて足を踏み出す。


「あ、そこは——」


 声が聞こえると同時に、ベッド横に置かれていたサイドテーブルに膝をぶつけた。

 勢いはついていないため痛みはない。が、すぐに過保護な腕が暗闇の中で伸び、導くように神崎の手を引いた。


「こっちですよ」


「分かってる」


 今度は何にもぶつからずにベッドの脇に立つ。

 レイが神崎の座るスペースを開けた気配があったが、そこに座る気にはなれなかった。

 声と気配を頼りに、レイがいるであろう場所へと視線を落とす。

 その先で、闇の中に僅かに赤色が浮かび上がった。


「お前、気付いてるか?」


「何にですか」


 とぼけているのか、本当に無自覚なのか分からないその赤色へと手を伸ばす。

 指先がレイの額へと触れた。そのまま、顔を上げさせるように力を込める。


「鏡くらい見ろ。あの日からずっと、お前の目が赤くなってる」


 小さく息を詰める音が聞こえた。


「言いたいことがあるなら言え」


 自分の言葉が足りていないのを棚に上げた台詞だった。

 それを咎める言葉もないまま、沈黙が落ちた。

 やがて、静かに息を吸い、そしてそれを吐いた音がした。


「……人間に、何を伝えろと言うんです?」


 諦念めいた、小さな声だった。


「人間は弱くて、脆い。吸血鬼が触れただけで、すぐに死にます」


 唐突な言葉に神崎は反射的に眉根を寄せた。


「加えて短命で、同族同士でも殺し合う。死なないで欲しいと願ったところで、叶いもしない」


 暗闇の中、浮かび上がる赤色が鮮やかさを増す。

 レイの視線が、一瞬神崎の首元へと落ちた。

 

「他の吸血鬼のように、誰にも奪われない内に自分が壊してしまえばいいのか」


 その赤色が消えた。レイが瞼を閉ざしたのだと分かった。


「でも、俺はあなたといる時間が気に入っているんです。それを失いたくはない」


 レイの顔を上げさせていた手を離した。

 赤い瞳が、また暗闇の中で浮かぶ。


「だから、分からないんです」


 帰り道を見失った子供のような、細い声だった。

 神崎は一つ溜息を吐いた。


「お前はずっと俺の傍で、俺を殺すかどうか迷ってたってことか?」


「……すみません」


 聞きたかった否定は返らなかった。

 今度は先程よりも深い溜息が、神崎の口から漏れた。


「俺はこの前、お前に助けられた」


 ぽつりと、独り言のように呟く。

 赤い瞳が神崎へと向いた。


「お前の言う通り、お前が来なければ、どうなっていたかは分からない」


 片手を伸ばす。何かを確かめるように、指先がレイの頬へと触れた。


「……感謝する」


 そう告げれば、赤い瞳が大きく開かれたのが見えた。

 神崎の指先はレイの頬を僅かに撫でた後、握った拳へと変わった。


「それはそれとして、一度殴らせろ」


「え?」


 返答を待たず、神崎の拳がレイの頭を殴った。

 暗闇に重い音が一発響いた。


「お前に子猫みたいな扱いを受けるほど、俺は弱いつもりはない。馬鹿にするのも大概にしろ」


「……痛かったんですけど」


「当たり前だ。結構本気で殴った」


 神崎の拳にも痛みの名残が響く。

 何度か指を握り直してその痛みを逃がしつつ、見上げてくる赤い瞳を睨む。


「少なくとも、お前の吸血程度で死ぬつもりもない。他の吸血鬼は人間が死ぬまで止まらないんだろうが、お前は違うだろう」


「次こそは分かりませんよ」


「一々ビビるな。さっさと慣れろ」


 吸血鬼としての本能を抑え続けている瞳が、僅かに動揺したように暗闇へ向く。

 神崎はベッドに片膝を乗せた。

 一人分の重さで、マットレスが軋んだ音がした。


「さっさと強請(ねだ)らないから、いつまでもそんな目をすることになるんだ」


「このまま、俺に殺される可能性もあるんですよ」


「一生血を飲まねえわけにもいかないだろ」


 手探りでレイのシャツの襟を引く。

 重心の揺らいだレイの手が支えを求めて、神崎の腰に置かれた。


「……人間は、自覚がないでしょう」


「何の話だ」


「人間は、すごく良い匂いがします。甘くて、美味しそうな」


「今言うな」


 神崎の腰に添えられた手に力が籠る。

 不安定なベッドの上で身体が傾き、背中がマットレスに沈んだ。

 すぐ真上にレイの気配が移動する。


「……おい、寝かせる必要はないだろ」


「貧血になって、倒れられると困りますから」


 見上げれば、輝くような赤色が神崎を見下ろしていた。

 

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