第十九話 夕暮れの終わり
目が覚めた時、いつもより寝過ごしたとすぐに気付いた。
普段は空が赤くなる頃には起きるはずだが、空はもう暗くなり、間もなく夜を迎えようとしている。
神崎がリビングで珈琲を飲んでいると、眠そうな目を力なく瞬かせながらレイも起きてきた。
「おはようございます」
「ああ」
神崎はレイを一瞥しただけで、視線をすぐにスマホへと戻した。
ニュースを見ると、真っ先にどこで吸血鬼に襲われた人間が出たかを知らせる記事が飛び込んでくる。
寝起きに見るには不快なニュースではあるが、目に入れておかないわけにはいかない。
「吸血鬼は自分に近い者を殺すと言ったな」
そう前置きもなく問うと、レイは緩慢に神崎を振り返った後で頷いた。
「そうです。例えば親友、恋人、親しい同僚……。もちろん適当な人間で、ただ空腹を満たすためだけの時もありますが」
「特定の人間を狙うのは、自分の手で壊したいからという理由だけか?」
「それもありますが、吸血鬼は自分が好いている者の血を、本能的に美味しいと感じるそうです」
神崎はスマホから顔を上げた。
視線だけで続きを催促すると、レイもソファの端に腰掛けながら口を開いた。
「そんな美味しいものを、他の吸血鬼に奪われるなんて許しがたいでしょう。事故で亡くすのも、惜しいです」
「だから自分が先に——か。情なのか食い意地なのか分からないな」
「どちらもです」
ただの無差別な虐殺だと思っていたものが、吸血鬼なりに理由のある行動だと知った。
だからといって、人間を守る立場として、それを許容するわけにはいかない。
神崎は僅かに眉根を寄せる。
「あなたの血も、とても美味しいですよ」
突然レイがそう付け足し、神崎が持ち上げかけていたカップが不自然に音を立てる。
揺れた珈琲が僅かにテーブルを汚した。
「……お前、この流れでそういうことを言うな」
「前にあなたが気にしていたので」
「今は聞いてないだろ」
零れた分をティッシュで拭き、ゴミ箱に投げる。
もう一度カップを手に取り、まだ熱い珈琲に口をつけた。
視界の端で、レイが神崎へと顔を向けたのが見えた。
「あの公園にいた女の吸血鬼は、殺すんですか?」
「当然だ」
神崎は以前の家と同じように、壁に貼り付けた写真へと視線を向ける。
それを見る度に、自分のするべきことを忘れずにいられた。
新しい相棒となる存在を手に入れた今も、目的は変わらない。
「その吸血鬼を殺し終えたら……」
レイが僅かに、言葉を選ぶような間を作った。
「奴を殺しても、狩りは続ける。当然、お前もだ」
妙な間を意図して埋めるように言葉を重ねながら、熱いカップをテーブルに置く。
顔を上げれば、レイと真っ直ぐに視線がぶつかった。
「……良いんですか?」
「寝床がないと、お前はまたその顔で女を引っ掛けながら、街をフラフラ歩き回るだろ」
「まあ、そうですね」
神崎は言葉を続けかけ、一度それを飲み込んだ。
スマホも置いて、再び口を開く。
「そもそも、お前はなぜ俺についてきた?」
そう問うと、レイは少し視線を逸らした。
「確かに、俺はお前に寝床を与えた。だが、それだけだっただろ。ここまで付き合うほどのメリットではなかったはずだ」
レイはまた視線を迷わせた後に、ソファの上で片膝を立てて抱いた。
そしてほんの少し、言いにくそうな間を置いた後で口を開く。
「……最初に会った時から、良い匂いがしていたので」
「何が」
「あなたが」
神崎の表情が怪訝そうに歪んだ。
「美味しそうな匂いのする人だなと、思いました」
「……まさか、銃を向けてもすぐ逃げなかった理由はそれか?」
「そうです」
何度か疑問に思ったことはあった。
吸血鬼の足であれば、単身のハンターなどどうとでも撒けたはずだった。
それでも会話が成立していた理由を今になって知り、思わず溜息が漏れる。
「根から食い意地の張った生き物だな」
「否定は出来ません」
そう認めながら、レイが腰を上げリビングを横切る。
自分の前を通りかかった時、目が合った先でレイがほんの僅か目元を緩めたのが見えた。
ふと、昨晩の暗い部屋で聞いた声を思い出す。
「待て」
その一言で、キッチンへ向かっていたレイの足はすぐに立ち止まる。
神崎も椅子から立ち上がり、伸ばした手でレイの顎を掴み、自分へと向けさせた。
そこには、相変わらず何を考えているのか分からない無表情があった。
「何ですか?」
「お前、昨夜笑っただろう」
そう言うと、レイの双眸が一度だけ瞬く。
「そうでしたか?」
「誤魔化すな」
「俺は、わりと普段から笑っているつもりですが」
「真顔で嘘をつくのもやめろ」
顎から手を引いても、レイの顔は神崎へと向いたままだった。
昨日までは赤色が滲んでいた瞳も、今は静かに凪いだ黒を湛えている。
レイは少しの間を置いた後、諦めたように小さく息を吐いた。
「あれは、あなたが可愛らしかったので」
「は?」
瞼を伏せ、そう言うレイに神崎は眉根を寄せた。
「こんなに小さい生き物が、俺の言葉を求めようとしているのが愛らしくて」
「馬鹿にしてんのか? 身長はほとんど変わらないだろ」
「そういう意味ではありません」
レイは静かに距離を詰め、片手を神崎の首へと添えた。
警戒に似た緊張に僅かに肩が強張るものの、神崎はその場を動こうとはしなかった。
「吸血鬼がその気になれば、人間の首など簡単に折ってしまえるのに、今も逃げようともしない。噛まれても痛みを受け入れ、血を飲まれても健気に耐えている」
顔がよく見える照明の下で、レイが穏やかに笑った。
それはほんの僅かな変化だったが、神崎の目はすぐにその変化を捉えた。
「それを可愛いと思う気持ちを人間に理解してもらうのは、少し難しいかもしれませんね」
そう言ってレイは腕を引き、踵を返して何事もなかったかのように廊下へと消えた。
残された神崎は自分の首筋に新たに残された噛み傷の跡を指でなぞりながら、難題に直面したように眉間に皺を寄せていた。
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