子爵令嬢の真実~回顧
その夜、公爵家は絶望に包まれていた
泣きわめく赤ん坊の声、愛する妻の名前を叫びつづけるガブリエルの声、侍女達の嘆きに産婆の叱咤の声
セバスティアンはいち早く自分を取り戻すとコモンノルド公爵夫人に縋り付く主に声をかけた
「旦那様、お嬢様の出生届の為にお名前を付けねばなりません。どうか、お名前を」
「アンジェリカッ!アンジェリカ、目を開けてくれ!アンジェリカ!」
「旦那様!」
「うるさい!そんな事はどうでも良い!それよりも、アンジェリカだ!先生!アンジェリカを!アンジェリカを助けてくれ」
ガブリエルの怒鳴り声に赤ん坊の泣き声がますます大きくなる
「うるさい!アニエット、ソレを離れに連れて行け!」
「旦那様!!」
「先生以外は皆、ここから出ていけ!」
「公爵様、奥様から離れてください。処置ができません、公爵様」
「アンジェリカ!お願いだ、置いていかないでくれ!」
「公爵様!」
ガブリエルに部屋から追い出された公爵家の家臣達は皆、扉から漏れ聴こえる主の声に胸を痛めながら祈るしかできなかった
侍女長のアニエットは、主の命令通り離れに赤ん坊を連れていくと用意されていたゆりかごの中にその赤ん坊を寝かせた
「大丈夫…大丈夫ですよ。落ち着いたらお父様がお嬢様に素敵な名前を付けてくださいますよ」
泣きつかれて眠ってしまった公爵家のお姫様をぽんぽんと宥めながらアニエットは泣きながら優しい声で話しかけた
夜が明け、朝焼けで空が白む頃、公爵家の女主人は息を引き取った
ガブリエルの嘆きは怱々たるもので、誰も声をかける事ができず、ガブリエルは妻アンジェリカの遺体から離れようとはしなかった
主の余りの嘆き振りに、セバスティアンは魔術師を屋敷に呼び、アンジェリカに腐敗処理魔法をかけさせた
食事も睡眠も仕事も放棄し、妻の亡きがらにずっと寄りそう主人にセバスティアンは何度も生まれた娘の事を話そうとしたが、その度、ガブリエルが
「あの娘の話はしないでくれ!聞きたくない!」
と取り乱して叫ぶので口をつぐまざるを得なかった
そうして、公爵家の家臣達は主人が立ち直るのをそっと静かに待つしかできなくなってしまったのである
出産の邪魔にならない様にとアンジェリカの実家に預けられていたサミュエルに母親が亡くなった事を伝える事も、生まれたばかりのお嬢様に名前をつけることも、家臣が勝手に行える事ではなく、ただただ時が流れていくのをもどかしく思いながら自分達の仕事を熟していくしかなかった。
公爵家の主人が何とか落ち着いたのは、妻アンジェリカが亡くなって約1年が経った頃だった。
少し冷静さを取り戻したガブリエルはアンジェリカの実家に、アンジェリカが亡くなった事を伝える為に手紙を書いた
それをセバスティアンに託す
受け取ったセバスティアンがお嬢様の事を伝え様とすると、ガブリエルは再び不安定になり両手で耳を塞いで「あの子の事は話さないでくれ!」と泣き叫ぶので、結局、何も伝える事ができなかった
預けられていたサミュエルを連れてアンジェリカの父母が葬儀に訪れ、しばらく滞在したがガブリエルの憔悴しきった姿を見て、自分達が長居をしたら負担が大きいだろうと数日後には自分達の国に帰って行った
そうして、不安定なままこれまでと同じ日常をこなしていくガブリエルと幼いながらに父の姿を見て負担をかけまいと一歩距離を置いたサミュエルが最愛の人との別れに慣れ、元の生活を取り戻すのに4年の月日を有した
分家から、『男児が1人では何か起きたときに心許ないので、そろそろ再婚してはどうか?』と釣書を押し付けられた時、ようやくガブリエルはアンジェリカが亡くなった時に生まれ落ちた娘のことを思い出した
侍従長のセバスティアンを呼ぶ
セバスティアンは執務室にやってくると、机の前に立ち、釣書を冷めた目で見つめている主人を見下ろした
「お呼びでしょうか、旦那様」
「セバスティアン、引退したいと聞いたが、本当か?」
「はい、私ももう年ですし、息子のエスモンドも私の後継ぎとして育ってきておりますので、そろそろ隠居させて頂きたく存じます」
「そうか、長い間ご苦労だった。餞別に欲しいものを贈るから何が欲しいか考えておいてくれ」
釣書を閉じ、積んである書類の山の上に置くと、ガブリエルはセバスティアンを見上げて微笑んだ
「ところで、アレは元気か?」
「アレでございますか?」
「あ、ああ、アレ…名前は何だったか?あの娘だよ、あの…」
「もしや、お嬢様の事でございますか?」
「ああ、そうだ、あの娘だ」
「お元気と言えばお元気でいらっしゃいますが、お言葉をお話にならないのでお気持ちはどうなのかははっきりとは…」
セバスティアンの難しい顔にガブリエルが少し驚いた顔をする
「言葉を話せない?それは病気か何かか?」
「いえ、ご病気ではなく余り人とお話なさらない為、言葉をキチンと覚えていらっしゃらないのだと」
「乳母は何をしている?」
「乳母はおりません、旦那様」
セバスティアンの言葉にガブリエルが眉をひそめる
「乳母がいない?…辞めたのか?」
「いいえ、乳母は初めからおりません」
「最初からいなかっただと?」
「乳母はおろか、お嬢様には戸籍もお名前もございません」
「な、なにを言っている?」
「ですので、お嬢様には乳母もお名前も戸籍もございませんと申しております」
ガブリエルの顔から血の気が引いていく
青ざめていく主人の顔を見下ろしながらセバスティアンは淡々と言葉を紡いだ
「私が何度も旦那様に出生届の為にお嬢様にお名前を。と申し上げても旦那様はその度、あの子の話はやめろと仰るばかりで…ただの一家臣の身で勝手はできず、必要最低限のお世話を私と侍女長とランドリーメイドのビビアンが行っておりました」
ガブリエルが微かな声で「そんな…」と呟く
「指示がなかったにもかかわらず、勝手をしてしまい申し訳ありません」
「いや、謝るのは私のほうだ。あの娘の命をつないでくれてありがとう、セバスティアン。アニエットとビビアンにもお礼を言いたい。後で執務室に来るよう伝えてくれないか?」
「承知いたしました」
真っ青な主人を見下ろしながらセバスティアンが言葉を続ける
「年数が経ちすぎて今更お嬢様の出生届は出せない上、このことが世間に広まると公爵家の瑕疵となります。ですので、旦那様、餞別にこちらを求めます」
「餞別?」
「お嬢様を我がフィール子爵家の養女にください。子爵家でしたら、戸籍のない子供を養子として迎える事が可能です。旦那様が長期休暇に元家臣の御機嫌伺いにフィール子爵領を訪れればお嬢様と逢うこともできます」
「セバスティアン…」
「奥様に負けない程の素敵な淑女にお育て致します」
「すまない…」
それから半月後、侍従長と侍女長だった、セバスティアン・フィール、アニエット・フィール夫妻はコモンノルド公爵家を辞し、次男が統治するフィール領へと移り住んだのだった。
少し言葉を覚えた美しい幼子と共に




