21
もう終わる。
あと少しだけ、我慢すればいい。全てを吐露してしまえば、そして気の済むだけ涙を流し、緋天の優しい声を聞けば。きっと少しは楽になれる。募金を集めている途中で彼に会い、自分から不安定な床を壊してしまった。気を遣い、あの場から連れ出してくれた浅野が浮かべた、何ともいえない表情と、自分の様子を見にやってきた緋天の心配そうな顔を見て。ああ、もう自分の役目は終わる、楽になれる、と確信を抱いた。
そして募金の集計を行う、はしゃいだクラスメートを残し、まだ客も残る校内を早々に後にした。
それなのに。
一体、何のいたずらだろうか。
ロータリーには司月の車が見える。けれど、今自分の目の前には、佐山の姿があった。真里達の姿は見えない。
「・・・市村、」
「・・・すみません、今は何も話したくない。来週のバイトの時に」
失礼でも、何でもいい。
本当に限界だったので、口を開きかけた彼の言葉を遮った。横に立つ、緋天も何も言わず、会釈だけして佐山の横をすり抜ける。きっと、彼女は悟ったのだろう、彼が自分をおかしくする原因なのだと。それでも今は話をさせようとせず、黙って自分の気持ちを尊重してくれた。この場を逃げ出したいという気持ちを。
「・・・っ。待て、ってば」
「お兄ちゃん!!」
速足で司月の車へと向かうと、彼が後を追ってきて腕をつかんだ。緋天がその行動に驚いて、運転席に座っていた司月を呼んだ。その切羽詰まった声に、彼は当然素早く外に出る。
「・・・緋天!?」
近付いて来た彼は、瞬時に状況を判断した。妹の友人が望まない相手に腕を取られているとそう思ってくれた。
「無理やりに見えますが・・・騒ぎにして欲しくなければ、その子の腕から手を外した方が無難だと思いますよ」
いきなり言い放った言葉は、佐山を躊躇わせ、言葉通りにする事に成功した。司月がほっとした顔を見せ、自分と緋天を引き寄せる。
「京ちゃん、大丈夫?」
呆然とする佐山から離れ、司月の手が背中を押して車の中へと導いた。そして気遣わしげに声をかける。きっと司月にも、自分の様子がおかしいと分かったのだろう。隣に緋天も乗ったのを確認して、彼も素早く運転席へと戻った。
「・・・じゃあ、まず家に寄るよ?」
「うん」
緋天が家に泊まりに来る事になって。緋天の家でその着替えを取ってから、自分の家へと司月が送ってくれるように。彼女は迎えにくる司月に電話でそう頼んでいた。何かあったのだろう、とそう察した彼は。無理やりにそれを聞きだす事なく、緋天と同じ様に黙っていてくれる。
優しい兄妹に感謝して、カーラジオの音に、耳を傾けた。
「・・・くそっ」
沙紀と真里に、口々に何があったかと問われ。聡と幸成には同情混じりの、けれども京子に何かしたのか、といぶかしむ視線をつきつけられ。正直に言うつもりでいたら、ゴウが明日になったら話すから、と彼らの戸惑いと怒りを逸らしてくれた。
彼女の家に行く前に、帰りをつかまえられるかもしれない、と言うゴウの助言に従い、門の傍で待っていたら、まだ外は明るく客もいるのに、彼女の姿が見えた。引き止めると、冷たい声であしらわれ。そして京子の友人の兄が現れ、彼は腹の立つことに正義の味方気取りで、馴れ馴れしく彼女の背に手を置いた。触るなと叫びたかったが、自分の方が確かに危うい状況で、彼らを見送る事しかできなかったのだ。
佐山さん、と笑顔で近付いてくる彼女を。
自分から遠ざけた。馬鹿げた事をしてしまった。
彼女を取り戻したいと思うのは、もう遅いのだろうか。
「・・・何の御用ですか?」
少し時間をつぶしてから、京子の家を訪問すると。中から出てきたのは、これで顔を見るのが三度目の、彼女の友人。中庭で初めて見た時のように、目を潤ませ、けれども静かな怒りをたたえた声でそう問われた。
「市村と話をさせて欲しい。呼んでくれないかな」
「何でですか? 何の話ですか? 京ちゃんは今は話したくないって言ったじゃないですか。ちゃんと待ってあげて下さい」
夕暮れがせまる。ショートカットの彼女は、大人しそうな顔で強気な言葉を口にした。
「でも今すぐ話したい。これ以上こじらせたくないんだ」
「・・・佐山さんは、あんな酷い事言っておいて、今になって何の話があるんですか? もう京ちゃんを傷つけないで!」
京子から話を聞いているのだろう。自分の名前を口にして非難する彼女の目に、厄介な事に涙が浮かび上がった。
「・・・緋天ちゃん? ど、どうしたの!? 誰それ?」
彼女の上げた声に、通りを歩いてきた少年が驚きの声を上げた。
「う~、匠君・・・」
「お前、誰だよ!? 何で緋天ちゃん泣かしてんだよ! ぶっ殺すぞ!!」
彼女の涙を目にして、彼の顔が怒りに変わる。彼女より低い背丈の彼は、家の門の前に立つ自分を睨んで、穏やかならぬ声を上げた。その声が聞こえたのだろうか、家の中から慌しい足音が聞こえてきた。友人を心配した京子かと思い、玄関を見ると、大柄な中年の男性が険しい顔で立っていた。
「匠、緋天ちゃん!? 何だ今のは?」
グレイのスラックスに、青い柄の解禁シャツ、そして色のついた眼鏡。この家から出てきたのだから、京子の父親なのだろう。そしてこの少年は弟。そう思うのに、彼のあまりに険しい顔に、一瞬身がすくんだ。
「父ちゃん、こいつが緋天ちゃん泣かしてたんだよ!!」
「何だと!?」
ぎろりと目線を向けられ、背筋が凍った。それでも何とか声を絞り出す。
「・・・はじめまして。佐山と申します」
「あ、こりゃどうも」
名刺を取り出し、彼に渡すと。条件反射なのか意外にも腰を低くし頭を下げられた。
「何、頭下げてんだよ。緋天ちゃん、泣かされてんだぞ!?」
「おう、佐山さんよ、一体何のご用件だ?」
少年の声に我に返ったのか、彼はまた険しい顔で口を開いた。
「いえ、あの。京子さんにお話したい事がありまして」
「・・・うちにはキョーコなんて娘、いやしねぇよ」
「は?」
言葉を返すと、父親の顔が不快そうに歪められた。そしてまた返された言葉に耳を疑う。
「・・・京ちゃんのほんとの名前も知らないのに、よくここまで来られましたね。そうやって何にも見えてないから、京ちゃんに避けられるんですよ・・・」
まだ目に涙をためたまま、静かに緋天が声を出した。
「あんた、姉ちゃんに用事あんの? それで、名前も知らなかった訳? 馬鹿じゃねーの。しかもついでに緋天ちゃん泣かすなんて何様だよ!?」
「匠。失礼だぞ」
冷たい口調でそう吐き捨てた彼に、父親が短く言う。
沈黙が、流れた。
「・・・・・・あのなぁ、うちの娘に用があるのは別にいいけどな。こいつの言う通り、正しい名前も知らないんじゃ、門前払いしたくなるよ、俺も。娘の友達、泣かされてたら、なおさらな」
怒りを抑えた声で。そう告げられて。目の前が暗くなる。また馬鹿な事をしでかしてしまった。彼女の家族、友人を怒らせて。
「・・・佐山さん」
どうしたものか、と逡巡していると。小さな声が玄関から発せられた。
「お父さん、緋天、匠。いいよ、中入ってて。ちょっと外、出てくる」
うつむいた彼女が。足早に近付いてきて。
「佐山さん、外、行こう」
横をすり抜けて、通りに出た。
「京ちゃん、いいの?」
「うん。緋天、お父さん達の相手しててくれる? 悪いけど」
「・・・うん」
早口に言葉を交わし、緋天が頷いたのを見た親子は何も言わず、京子の言葉に従った。家の中に消えた三人を見て、京子はさらに通りを進む。
「市村。・・・ごめん、馬鹿な事した」
「・・・ほんとですよ。うちの家族、緋天のこと大好きなんだから」
前を行く彼女の背中に声を掛けると、普通に声が返ってくる。
「・・・どこまで行くんだ?」
「すぐそこ」
短く答えた彼女の後について角を曲がると、公園が見えた。すたすたとその中に入り、隅に置かれたベンチに座る。並んで腰を下ろした所で、彼女は下を向いてうつむいた。
「市村。・・・市村、ごめん」
ふ、と乾いた笑い声が聞こえる。
「何で謝ってるんですか。もういいですよ」
相変わらず、下を向いたまま。もういい、というのは何に対してだろう。
「・・・なぁ、顔上げて」
「嫌です」
肩に触れると、びくりと反応して。彼女は即答する。
「ちゃんと、目、見て言いたい」
「・・・何の嫌がらせですか?」
それでも下を向いたままの彼女が。あまりに小さく見えた。
傷つけたのは自分だ。髪に隠れた頬に右手をやって、ゆっくり上を向かせた。親指に、濡れた感触。泣かせたのも、自分。瞳が揺れていた。
「・・・ごめん。傷つけた」
新しい涙が生まれて。心臓が締め付けられる。
「子供だと思って、侮ってた」
「私はっ・・・本気だった、佐山さんが勝手に決め付けた・・・っ」
次々と流れ落ちるそれは、罪悪感と後悔を深めていく。
「俺は・・・市村を気に入ってたけど、それが恋愛感情になるわけがないと思ってた。だから、お前がそう言ってきた時に、ルール違反だと思ったんだ。せっかく楽しく仕事をしてるのに、そこにそういう感情を持ってくるのは、卑怯だと思った。後で気まずくなるから」
「・・・っ、そんなので、振られたの?」
まばたきをして、息をのんだ彼女から、また涙がこぼれ落ちる。
「ちゃんとお前自身を見てなかった・・・だけど、今日」
親指で、頬の涙を拭う。
「ただのバイトの高校生じゃないって気付いた。お前が、あの劇で好きでもない奴にキスして。イラついた」
「・・・何それ、勝手だよ」
ほんの少し、笑みを漏らして。それでもまた新しく涙がこぼれる。
「ああ、勝手だな。ゴウさんが・・・下世話な方法でそれを分からせてくれたんだ。腹が立つけど・・・でも気付けて良かった」
何それ、ともう一度呟く彼女を、しっかりこちらに向かせる。
「お前の本当の名前、何? 俺、ずっとキョーコだと思ってた」
彼女の友人も、仕事場の人間も。キョウちゃん、と口にして。京子という字は知っていたし、そう読む事に何の疑問も持っていなかった。
「・・・それはあだ名。知らない人はそう読んじゃうんだよ。実際、みんな、そう呼ぶから、余計に」
「うん。だから教えろ」
本当の名前を知ってからでなければ、言いたい事も口に出せない。きっとそれは嘘に聞こえてしまう。
「・・・みやこ」
「ああ・・・」
だから。だから、劇中でミヤ、という名だったのだ。劇の中の名前なのに、あの男が口にするたび、やたら優しげな響きがこめられていた。
「京子」
本当の発音で口に出した。彼女の目が泳ぐ。
「ちゃんとこっち見て」
顔は自分の手が押さえているので、泳いだ目は戸惑いがちに戻された。
「京子」
「・・・うん」
「傷つけてごめん」
もう一度、謝る。またひとつ、涙のつぶが生まれた。
「京子」
「・・・何!?」
少し苛立たしげな声が返ってくる。思わず笑みがこぼれた。
「好きだ」
ぱちり、と。
ゆっくりまばたきをした彼女の目から、最後の涙がこぼれる。
「今、何て言った・・・?」
目を見開いて、驚きの表情で自分を見返す彼女の涙は、完全に止まった。
「好きだ」
彼女が満足するまで、何回でも言ってやる、と。そう思う。
「・・・うそつき」
「嘘じゃない」
呆然とした彼女の言葉にすかさず答える。
「本気か、そうじゃないかは俺が決める。違うか?」
京子の言葉を借りて言うと、彼女はゆっくり首を振った。
「・・・いつから? いつ気付いたの?」
必死な顔にまた笑みがこぼれた。こんなにも愛しい。
「お前、今の俺の話、聞いてたか? お前が劇でキスして苛立って、それでゴウさんに気付かされた。いつからかは分からない」
黙っている京子に、もう一度口を開く。
「俺は泣いてる女が苦手だけど、それがお前なら自分で泣き止ませたいと思うよ。あの劇みたいに。それで笑顔を見たい。お前は? もう愛想もつきたか? 嫌になった?」
少し恐れていた事を聞くと、くすり、と彼女は笑みを浮かべる。
「・・・ならないよ。まだ好き」
「何だそれは。まだ、ってところが微妙だな」
「じゃあ、好き」
「じゃあ、も微妙」
「っもう!!・・・好きだよ!! これで満足!?」
逆切れ状態で声を荒げて、そう言う彼女は笑顔になっている。
「上出来」
体を屈めて、左の目に残っていた涙をなめ取る。右の頬に置いたままの手はもうすでに右側のそれを拭い取っていた。少し顔を離して、彼女の目を覗き込んだ。戸惑いを見せる彼女に口を開く。
「あれは何回目のキスだ?」
「え?」
「今日のあれだよ。初めてじゃないだろ? 前に付き合ってた男は何人?」
「・・・二人」
「じゃあ、今日のあいつ入れて、俺で四人目か」
「佐山さん、なんか怖いんだけど」
「・・・消毒してやろう」
「んっ」
苦笑を浮かべる彼女に口付ける。
最後まで引っかかっていた何かが、きれいに溶けていく。
間に合って良かった、と。
女神を取り戻せた安堵感に、ようやく自分自身も解放された気がした。




