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「・・・良かったぁ」
ひとつ、大きなため息をついて、緋天が抱えていたクッションをぎゅ、と抱きしめた。そこには涙と、笑顔。先程、公園で話した後、佐山に家まで送ってもらい、そこで心配して出迎えた父親と緋天に向かって、何と彼は頭を下げた。唖然とする二人に礼儀正しく謝罪したせいか、緋天は笑顔を見せ、それを見た父もまた笑みを浮かべた。
佐山が帰った後、事の顛末を緋天に話すと、彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうにしてくれる。
「ほんとに良かったね、京ちゃん。あ、おめでとう」
「ありがと。ちょっと自分でも信じられないくらい。運が良かったのかな」
「えぇ? 京ちゃんが自分で頑張った事でしょ?」
「どうだろ。ただ喚いてただけのような気もするけどね。何にせよ、今、すっごい幸せかも」
佐山が帰り際、ふわりと笑ってみせた顔や、じゃあな、と言った声が自分に向けられたものだと、実感するとたまらなく嬉しい。
「あ、ねぇ。緋天。こういうラッキーな事が立て続けに起こったり、ものすごくいい事が起こったりする時はね」
「うん」
小さい時に、祖母から聞いた言葉。
「今、まさに、あたしのこの状況もそうだけど」
「うん」
確かあれは、商店街の福引で一等を当てた時に教えてもらった。
「・・・神様の通り道に迷い込んだ、って言うんだよ」
「え、神様の通り道?」
不思議そうな顔をした緋天が、首を傾げて先を促す。
「うん、なんかね、神様が歩く道は特別なんだけど。そこにたまたま人間が迷い込むと、奇跡が起こる、とか。そういうものの例えで、いい事があると、あなたは今、神様の通り道にいる、って言うの」
「へぇ~。なんかすごい。うん、でもそんな感じかも、すごく幸せな時」
「でしょ? いい事聞いた?」
「うん。いい事聞いた」
にっこり笑う緋天と目が合って、ふき出して。あまりに楽しいこの時間も、きっと神様の通り道に迷い込んだ名残なのだ、とそう思った。
「市村、これ五部ずつコピー。クリップで留めて持ってきて。あとこの資料、日付変えてフォーマットもうちょい見やすくして、俺のフォルダの中に入れといて」
「・・・はい。分かりました」
確か自分は告白して振られた男に、後からそれを謝罪され、告白されて。
両思いになったはずだ。
先週の土曜日の夕方、それが起こって。そして日、月、火、と三日間、日をおいて、バイトに来てみれば。事情を聞いたと思われる、真里や沙紀に目を輝かせてからかわれ。御用聞きに設計事務所へと無理やり押し出される形でやって来た。
一体どういう事だろう。
多分、恋人となった目の前の男は。
あれは夢の話だ、とあっさり信じられる位に、以前と変わらぬ態度で仕事を頼んできた。しかもパソコンからちらりと目を上げただけで、すぐその目線を元に戻し、表情も変えず、市村、と前と同じ様に呼びつけて。
反射的に自分も、従順なバイトの態度でそれに応じてしまった。確かに仕事場だから、そうするのは仕方ないと良く判る。けれども少しぐらい笑いかけてくれてもいいのではないかと、小さな不満が上がった。
「何あれ!!」
様子を覗きに来ていた沙紀と真里が、廊下の奥で憤慨しているのが見える。部屋の隅で大人しくコピーを取っていると、聡と幸成が近付いてきてびっくりした顔で、自分と佐山を交互に見た。
「京ちゃん・・・オレの記憶が確かなら、佐山と、」
「言わないで下さい。ちょっと今、淡い期待を抱いた自分が憎いです」
「うっ、京ちゃん・・・やっぱおれの所に永久就職しなよ」
「そうですね。考えときます」
黙々と仕事をこなし、七時を過ぎた所で帰り支度をする。
服を着替え、ロッカーを閉め、沙紀も真里ももう帰ったので一人で廊下に出て。今日の宿題、何かあったっけ、などとどうでもいい事に思考を集中し、裏口から外に出た。涼しい風が頬をなでた。
「お疲れ」
自転車を置いてある方へ歩こうとして、そんな声に呼び止められた。
「・・・ああ、佐山さん、お疲れ様です」
かなり驚いたのだけれど、それを必死で隠してさらりと挨拶を口にした。そのまま頭を下げて、横を向いた体を元に戻して、彼に背を向け自転車を目指す。
「こらこら。どこ行く」
苦笑した彼が背後から腕をつかんで、横に並んだ。その勢いのまま、進行方向に立たれ、足を止めなければいけなかった。
「・・・家に帰るんですけど」
「ふーん。それで? 京子は何を怒ってるんだ?」
「・・・っ」
卑怯だ。
この場で名前を口にして、それでこっちが動けなくなるのが分かっていてわざと、京子、と呼んだ。仕事用の、市村、ではなく。
「だって、シカトした・・・」
「してないって。ただ、あの場で何か言ったら、絶対他の奴らにからかわれんだろ? 仕事どころじゃなくなるって」
「それは分かってるよ。私だってこのバイト辞めたくないから、ちゃんと仕事の時は、前どおりにしなきゃと思ってたよ」
街灯と、店舗の灯り。それに照らされた彼は、頷いて微笑んでいる。
「だけど、ちょっとくらい、笑ってくれたっていいじゃん。なんか騙されてるのかと思った」
「・・・お前な。俺がどれだけ我慢してたと思うんだよ。俺が笑ったらお前も笑うだろ? そしたら、歯止めがきかなくなるっての」
少し、横を向いて。
照れたような笑みを浮かべたその顔を目に入れてしまえば。何を不満に思っていたのか、全てがきれいに消えて行く。
「機嫌直った?」
知らず知らず、笑顔になってしまったので。佐山もそれに気付いて、あえてそう問う。
「お前、携帯番号教えろ。そしたらちょっとは話せるだろ」
ここでは自由に話せない。
バイトが終われば、まっすぐ家に帰る。大人なら、何も気にせず、夜には彼と過ごせるのだろう。それができない自分に、彼は面倒がらずにちゃんと向き合おうとしてくれていた。
「・・・持ってない」
「はぁ? マジで? 今時の女子高生だろ・・・」
「だって必要なかったんだもん。クラスでもまだ半分位だよ」
「・・・あー、そりゃ意外だな。ま、いいや。お前、次に休むのいつ?」
「来週の月曜と火曜」
「俺も月曜休みだから。携帯買いに行くぞ。学校まで迎え行ってやる」
有無を言わせないその口調に少々たじろぐ。嬉しいが、先約があるのだ。
「や、実は月、火って文化祭の代休なんだけど。それでバイトの休みも合わせたんだよ。緋天と月曜、買い物に行くからダメ」
「俺は月曜しか休み取ってないんだよ。買い物は火曜にしてもらえ」
「えー!? 先に緋天と約束したのに?」
「友情より、愛情を優先しろ」
「・・・なんか偉そう」
堂々と言い放つ彼に半ば呆れて。それでも嬉しさは募る。
「じゃあ、緋天に聞いてからね」
「ああ。・・・送ってってやろうか?」
「いいよ。自転車ないと明日困る」
そろそろ潮時だ、と自然に道を塞いでいた佐山が動いた。駐車場の隅に置いていた自転車まで二人で歩く。鍵を出して、ロックを解除して。
「じゃあ帰るね」
カバンをかごに入れる。ストッパーを上げて、押し出した。黙ってそれを見ていた彼が、にやりと笑う。
「待て待て。お前、なんか忘れてるぞ」
「何を?」
何となく、分かってはいたが。あまりに恥ずかしかったので、そのまま判らない振りをした。
「京子」
横からかかった声に、全身は硬直する。
本当に、彼は卑怯だ。
名前を呼べば、拘束できると分かってやっている。
「はい、よくできました。気をつけろよ」
軽く触れた唇が離れて目を開けると、子供にするように髪をくしゃりと撫でて。手を振って彼は自分の車へと歩き出す。
「・・・遊ばれてるかも」
からかわれたのだろう、と少し悔しくなったけれど。
いつかと同じ様に、また冗談を言い合い、こうして笑顔で別れる事ができるようになって、ほっとした。しかも、その似たような状況の時と明らかに違うのは、自分達が恋人同士になったという事実。
先の事は分からないけれど、ずっと続けていけますように、と願う。
付き合い始めた今、これだけ、幸せな気分になっているのだから、と。




