第8話『礼と、決意』
シュンさんに続いて、僕も階段を降りて、トレーニングルームの床に立った。
さっきまで、上から眺めていた戦いの跡が、今はすぐ足元にある。コンクリートが飴みたいに、ひしゃげていた。ここで、本気の殺し合い同然のことが、毎日行われているんだ。そう思うと、足の裏から、ぞくりと、寒気が這い上がってくる。
「メルド、大丈夫か?派手にやられてたけど」
「けっ。大丈夫に決まってんだろ。ちょっと、油断しただけだ」
獣人のような——メルドさんが、白衣の人の手当てを受けながら、ばつが悪そうに、鼻を鳴らした。ワイルドな見た目のわりに、その拗ねたような口ぶりが、なんだか、可笑しい。
「おう、そこの坊主。お前が、お嬢の拾ってきた新入りか」
「あ、はい。ユウマ、です」
「ユウマな。俺は、メルドだ。……よろしくな」
ぶっきらぼうに差し出された、その手は僕の手がすっぽり隠れてしまうくらい大きかった。おそるおそる握り返すと、豪快に、ぶんぶん、振られる。乱暴だけど、悪い人じゃない。そのことが、握った手の温かさから、伝わってきた。
「しかし、災難だったなァ。落ちて早々、あの手の外道どもに、目ぇつけられるとはよ」
メルドさんが、がしがしと、頭を掻く。
「ま、もう心配すんな。うちにいりゃ、そうそう、無茶なことにはならねぇ。俺みたいなのも、ごろごろ、いるからな」
どん、と、自分の胸を、叩いてみせる。……たった今、その"俺みたいなの"が、お嬢に、こてんぱんにされていた気がするけど。そこは、触れないでおくのが優しさだろう。
でも、その飾らない気安さが。ずっと張り詰めていた僕の肩の力を少しだけ抜いてくれた。この人には、なんというか——身構えなくていい。そんな安心感があった。
そして、僕は——その、隣へ。
改めて、目を向けた。
黒髪の彼女は、僕たちのやりとりになんて、まるで関心がないというふうに。ただ、静かに、そこに、立っていた。
(……言わなきゃ)
震える足を、叱りつける。
頭の中で、何度か練習した。
ありがとうございます、って。たった、それだけの言葉なのに。彼女の纏う、静かで、張り詰めた空気を前にすると。喉が、からからに、渇いていく。
「あ、あの……っ」
声が、上ずる。彼女の、切れ長の瞳が、ちらりと、僕を捉えた。それだけで心臓が縮み上がる。
「助けて、くれて……ありがとう、ございました。あの、街で。僕、あなたがいなかったら、今ごろ……」
ぺこりと、深く、頭を、下げる。
言えた。ずっと、言いたかった言葉を、やっと。
でも——返ってきたのは。
「……別に。礼を言われる、筋合いは、ない」
ぞくり、とするほど冷たい声だった。
「勘違いしないで。あなたを助けたのは、あなたが特別だからじゃない。無抵抗の新入りが狩られかけていた。だから、止めた。……それだけ」
「……」
「私は目の前で仲間になるかもしれない子が、こぼれ落ちるのを見過ごせない。ただ、それだけのこと。相手が誰であっても、同じ」
胸の奥で勝手に膨らませていた期待みたいなものが。ぱちん、と音を立てて萎んでいく。
そうだ。この人にとって僕は、あの日たまたま拾った名もない新人の、一人。それ以上でも、以下でも、ない。
その言葉が、優しさなのか、拒絶なのか。僕にはうまく判別がつかない。ただ、ひどく、遠かった。手を伸ばしても届かない場所に、この人は立っている。そんな気がした。
それでも僕はこの人に助けられた。その事実だけは、どんなに突き放されても変わらない。
「お、おい、お嬢。もうちょい、言い方ってもんが……」
見かねたようにメルドさんが口を挟む。でも、彼女はそれを、視線ひとつで制した。
「ユウマ、と言ったわね」
「……は、はい」
「その礼が、本当なら。……気持ちは、次に、活かしなさい」
彼女の瞳が、まっすぐに僕を射抜く。
「感謝も、後悔も。死んでしまえば、そこで終わり。私が助けた命を、あなた自身が、次で、あっさり手放すなら。……あの時の私の手間はぜんぶ無駄になる」
厳しい言葉だった。
でも、その奥にほんの少しだけ、僕は——気づいてしまった。この人は、たぶん、今までに沢山の、"手放された命"を見送ってきたんだ。
厳しいのは、きっともう見送りたくないからだ。助けた命が、また、こぼれていくのを。
……そう思うと、さっきまで、遠くて冷たいだけに思えた言葉が急に、痛いくらいの熱を帯びて聞こえた。
「……はい」
気づけば、僕は頷いていた。
「だから、あなたも早く決めることね。ここで、どう生きるのか。……立ち止まっている暇は無いのだから」
そう言い残して、彼女は背を向け、歩き去っていく。長い黒髪が、ふわり、と揺れた。
その凛とした後ろ姿を、見送りながら。僕の中で——ずっと、宙ぶらりんだった何かが静かに固まっていくのを感じた。
「……悪いな、坊主。あいつ、口は悪ぃが。根は、いい奴なんだ」
メルドさんが頭を掻きながら、苦笑する。
「昔な。あいつが、まだ今ほど強くなかった頃。目の前で仲間を何人も、こぼしちまったことがあってよ。……詳しいことは、俺の口からは言えねぇが。あいつが強さに拘るのも、新入りに厳しいのも。ぜんぶ、そこから来てんのさ」
だから、あんなに誰かがこぼれ落ちることに、あの人は——人一倍、敏くて。そして、たぶん誰よりも脆いのかもしれない。
僕は彼女が消えていった扉のほうを見つめた。もうその姿はない。それでも、あの、まっすぐな瞳と、突き放すような言葉が不思議と胸に残っている。冷たいのにどうしてか、嫌な感じはしなかった。
「シュンさん、メルドさん」
僕は二人を、まっすぐ見た。
ずっと一人だった。
現世でも、あの止まった街でも。
一人は、気楽だと、思っていた。
誰にも期待しない代わりに、誰にも、期待されない。
そういう生き方が、僕には、お似合いなんだと。
でも。
こぼれ落ちそうだった僕をこの人たちは拾ってくれた。
名前も知らない、なんの取り柄もない、僕を。
だったら今度は僕が。
誰かがこぼれ落ちないように、手を伸ばせる側に、なりたい。
そのために——強く、なりたい。
弱いままでいいわけがない。もう二度と、誰かに抱えられるだけの自分で終わりたくない。
初めてそんなふうに思えた。
怖くない、と言えば、嘘になる。強くなるなんて、僕には、いちばん、縁のなかった話だ。
それでも——このまま、ただ怯えて、流されて、消えていくのだけはもう、まっぴらだった。
あの人みたいに、強く。あの人みたいに、誰も、こぼさずに、済むように。
「僕。……決めました。この《炎獅子の反逆者》に、入れてください」
シュンさんが、少しだけ、目を見開いて。それから、いつもの優しい笑顔で頷いた。
「うん。——ようこそ、ユウマくん」
その、たった一言がじんわりと胸に沁みた。
“ようこそ”。誰かに、居場所を、認めてもらえた。そんな感覚は、いつぶりだろう。鼻の奥が、つんと熱くなる。
泣くもんかと、ぐっと堪えた。だって、これは始まりの涙なんだから。
弱くて、取り柄もなくて、何ひとつ持っていない僕の、二度目の人生。
その本当の一歩目は、きっとこの瞬間から始まったんだと思う。




