第7話 『凛と、立つ人』
ボスの部屋を出て、シュンさんの案内で基地を回ることになった。
まず、驚いたのは、移動の方法だった。人ひとりが、ちょうど入れるくらいの透明なチューブが、基地のあちこちを、縦横に繋いでいる。
「これに乗って、階層を移動するんだ」
言われるまま、チューブの中に、足を踏み入れる。と、ふわりと体が浮き上がって——次の瞬間、僕は、ものすごい速さで、上の階へと、運ばれていった。
「うわわっ!?」
透明な管の中を、景色が、飛ぶように、流れていく。何本ものチューブが、透明な血管みたいに、建物じゅうを、走っていた。その中を、スーツ姿の人影が、あちこちで、すいすいと、行き交っている。
生と死の狭間に、これだけの人が、これだけの“暮らし”を、築いている。その事実が、じわじわと、僕の実感に、追いついてきた。
「あはは。空気圧で、動かしてるんだ。……まぁ、正確な仕組みは、僕も、よくわかってないんだけどね」
わからないのかよ。心の中で、そっと、ツッコミを入れる。でも、この非現実だらけの世界で、そんな気の抜けたやりとりが、なんだか、少しだけ、可笑しかった。
基地は、全部で五階層あるらしい。歩いていると、すれ違う人たちが、次々と僕に声をかけてくる。
「お、新人くん?」
「君、どんな能力使うのー?」
シュンさんに声をかけてきた団員からも同様のことを聞かれて、少し自己紹介をすると
「野良トロフは、厳しいからねぇ。」
どんな能力を使うのか、なんて訊かれても困る。
僕には、何もない。
ランクだって最底辺のG2。たぶん、ここにいる誰よりも弱い。そう思うと、値踏みするような視線が、いっそう痛かった。
その団員が、僕の肩を、ぽんと叩いて言った。
「新人くん、災難だったな。まぁ、うちにいりゃ、あそこまで無茶苦茶なことには、そうそうならないさ。安心しな」
その軽い口調の気遣いが、張り詰めていた心を、ほんの少しだけほぐしてくれる。
……悪い人たちでは、ないのかもしれない。
現世でもこんなふうに誰かに気安く声をかけられた記憶は、あまりなかった。皮肉な話だ。
「……あの。さっきの方が言ってた、"野良トロフ"って?」
「ああ」
シュンさんが、少し苦笑する。
「団員うちわの、俗な呼び方でね。どこの組織にも属さず、一人で生きてる、リミトロフのこと。……はっきり言うと、リミトは、一人で生き抜けるほど、甘くないんだ」
一人。
あの、金髪の男に襲われた時のことを思い出す。
もし、お嬢が来てくれなかったら。
もし、この人たちが、いなかったら。
今ごろ、僕は——きっと、あの街で、静かに、消えていた。
「リミトロフの選択肢は、大きく三つ。うちみたいな組織に入るか。野良で生きるか。……あるいは、選民派に、加わるか」
選民派。僕を、殺しかけた、連中。
「まぁ、君が選民派に行くとは思ってないけどね」
シュンさんが、優しく、笑った。
「……はい。それだけは、絶対に、ないです」
「うちはね、」
シュンさんが、歩きながら、続ける。
「強さで、序列を決めてるわけじゃないんだ。もちろん強い人は、頼りにされるけど。……いちばん大事にしてるのは、“仲間を、一人も、こぼさないこと”。だから、こうして拾われた君のことも、みんな気にかけてる」
仲間を、こぼさない。
その言葉が、なぜか胸の一番柔らかいところに触れた。初めて聞いたはずなのに、まるで自分がずっとそうありたいと願ってきた——そんな気がして。
「あの……シュンさん。ひとつ、いいですか」
「ん?」
「僕を助けてくれた……お嬢ってどんな人なんですか」
シュンさんは、少しだけ目を細めて。それから、困ったように笑った。
「うーん。……それは、自分の目で確かめたほうがいいかもね。言葉で説明するには、ちょっと“特別”すぎる人だから」
特別。含みのあるその言い方が、妙に耳に残った。
「お、ちょうどいい。ここがトレーニングルームだよ」
シュンさんが足を止めたのは、上から見下ろせる大きな空間だった。学校の校庭くらいはあるだろうか。
見下ろすと、床のあちこちが、抉れ、凹んでいる。まるで爆撃でも受けたみたいに。
ちょうど今も離れた一角で、二人組が激しく打ち合っていた。拳が振るわれるたび、どぐん、と空気が震え、床に新しい罅が走る。
……人間業じゃない。あれがランクアップした身体能力なのか。僕とは、まるで、別の生き物みたいだ。
打撃音が腹の底にまで響いてくる。悲鳴どころか笑い声すら、混じっているのが、いっそう怖い。ここでは、死にかけることが日常なんだ。
「ここでは四六時中、団員同士が模擬戦をやってるんだ。みんな生き残るために必死だからね」
その言葉の重み。ここにいる全員が、一度、死んでいる。そして二度目の死から、逃れるために今もこうして戦い続けている。
「あ。ちょうど今——お嬢とメルドの模擬戦が終わったところだね」
「え? お嬢って——」
その名前に、心臓が跳ねた。
見下ろしたトレーニングルームの床。そこに獣みたいな見た目の大柄な男が、どっかりと座り込んでいた。狼を思わせる耳と尻尾。ワイルドな風貌の彼は、白衣の人に手当てを受けている。ずいぶん派手にやられたらしい。
あの大きな男を、こうまで負かすなんて。……お嬢って人は、いったい、どれだけ強いんだろう。
そして——その、向かいに。
長い黒髪の人が、凛と、立っていた。
背筋の、すっと伸びた、綺麗な立ち姿。あれだけ床を抉る戦いの後だというのに、乱れた息ひとつ見せていない。その美しい後ろ姿に
——僕は、気づけば、目を、奪われていた。
特別、か。
……さっきのシュンさんの言葉の意味が、ほんの少しだけ、わかった気がした。ただ、そこに立っているだけなのに。その一点だけ、空気が、ぴんと、張り詰めている。
間違いない。
あの時の人だ。倒れた僕を壊れ物みたいに、抱え上げてくれた。名前も知らない僕に、必死に呼びかけてくれた。あの——。
胸の奥が、ぎゅっと、熱くなる。ずっとお礼が言いたかった。もう一度会いたいと思っていた。その人が、今、すぐ目の下にいる。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
何を言えばいいんだろう。ありがとうございます、の一言じゃ、とても足りない。頭の中で必死に言葉を探しているうちに——
「お嬢! メルドー!」
シュンさんが下に向かって朗らかに声をかけた。
「あん? 誰だ、その坊主」
獣人の男——メルドと呼ばれた彼が座ったまま、気だるげに、こちらを見上げる。ぎろりとした眼光に、一瞬、身がすくむ。でも、その声には、不思議と、棘がなかった。
むしろ、そのぶっきらぼうな響きの奥に、新入りを値踏みするのとは違う——どこか、気にかけるような、そんな色が、混じっていた気がした。
そして、黒髪の彼女が、ゆっくりと振り返る。
初めて正面から見た、その顔は息を呑むほど、整っていて、それでいて静かで、どこか近寄りがたい、涼やかさを纏っていた。
黒髪の彼女と、初めて、まともに、目が合う。
——けれど。
その、切れ長の瞳に浮かんでいたのは、僕が勝手に思い描いていたような、再会の色なんかじゃなかった。
彼女は、僕をほんの一瞬、静かに見て。
それから、ふい、と視線を逸らした。まるで道端の石ころでも見たみたいに。
「……新入り、ね」
ぽつりと、こぼれた、その声は。名前を尋ねるでも、労うでもなく。ただ、事実だけを確かめるみたいに平坦で冷たかった。
命の恩人に、もう一度会えた。その胸をいっぱいにしていた高鳴りが行き場を失って、すっと萎んでいく。
……そうだ。あの人にとって僕は命がけで助けるほどの、特別な誰かなんかじゃない。
たまたま道端で拾った頼りない新人の一人でしか、ないんだ。
それでも——せめて、お礼くらいは言わせてほしい。
僕は、震えそうな足に、ぐっと力を込めて。その場に踏みとどまった。




