第9話『無能』
翌日から、僕の訓練が、始まった。
慣れないことをしたせいで、体の節々が、悲鳴を上げている。それでも、寝ている暇なんて、ない。何しろ僕には——あと二年ぶんしか、時間が、ないのだから。
「いいか、坊主。まずは、基本からだ」
トレーニングルームの隅で、メルドさんが、腕を組んで、仁王立ちしている。
師匠、というには、あまりに、圧が、強い。
「この世界での強さは、単純だ。“基礎体力”に、“タイランのランク”を、掛け算したもの。それが、お前の、身体能力になる」
「基礎体力、かける、ランク……」
「そうだ。同じ体でも、ランクが上がりゃ、動きも力も、跳ね上がる。たとえば——」
メルドさんが、無造作に、指を、一本、立てた。そのまま、軽く、床を、小突く。
——どんっ、と。太鼓でも叩いたみたいな音がして、コンクリートの床に、蜘蛛の巣状の罅が、走った。
「ひっ……」
「これが、ランクの差だ。俺のはBランク。お前とは、掛け算のもとが、まるで違う。逆に、言やあ——」
メルドさんが、僕を、じろりと、見た。
「G2のお前は、今、“ほぼ生身”ってことだな」
ぐさりと、来た。事実だから、言い返せない。
「まあ、いい。とりあえず、打ち込んでみろ。俺は、避けるだけだ。当てられたら、大したもんだ」
言われるまま、拳を、握る。生まれて初めて、人を、殴るために。おっかなびっくり、メルドさんの、大きな体へ、飛びかかった。
結果は——語るまでも、なかった。
拳は、掠りもしない。ひらり、ひらりと、巨体に似合わぬ身のこなしで、いなされる。それどころか、自分の勢いだけで、足がもつれ、僕は、みっともなく、床に、転がった。
何度、やっても、同じだ。息が、上がる。汗が、噴き出す。ほんの数分で、僕の体は、もう、限界だった。
「……はぁ、はぁ。すみません……全然、届かなくて」
「気にすんな。最初は、みんな、そんなもんだ」
それでも、僕は、食らいついた。倒れては、立ち上がり。
また、飛びかかっては、いなされ。せめて、一発でも。その一心で、無様に、腕を、振り回す。
……けれど、その拳は、最後まで、メルドさんの、影すら、捉えられなかった。
「あの……鍛錬って。どれくらいで、ランク、上がるんですか」
「……そうさな。真面目にやって、修羅場潜った奴でも、1クラス上げるのに、数ヶ月ってとこか」
数ヶ月で、一つ。
さらりと言われた、その数字に。背筋が、冷たくなる。二年で、僕の寿命は、尽きる。なのに、地道に上げても、その間に、稼げるのは、ほんの数クラス。……これは、思っていた以上に、詰んでいる。
焦りが、じわりと、胸を、焼く。でも、焦ったところで、体力が、増えるわけでも、ない。今は、目の前のことを、一つずつ。そう、自分に、言い聞かせた。
そんな僕の焦りを、知ってか、知らずか。
「よし。じゃあ、次だ。——お前の“能力”、見せてみろ」
「え……能力?」
「ああ。リミトロフなら、一人に、ひとつ。固有の能力がある。能力の確認方法は、タイランを出す時と、同じだ。手を握って、今度は“能力”って、念じてみろ。頭で直感的に理解できるはずだ。」
言われた通り、拳を、握る。ひょっとしたら。何の取り柄もない僕にも、これだけは。そんな、淡い期待を、込めて。
(……能力)
念じる。
……何も、起きない。
「あれ?」
もう一度。今度は、もっと、強く。
(能力、能力——!)
……やっぱり、何も、起きない。手のひらは、ただ、じっとりと、汗ばんでいるだけ。光も、熱も、風も。何ひとつ、出せそうにない。
三度、四度と、繰り返す。念じ方が、悪いのかもしれない。そう思って、目を、きつく、瞑って。全身の力を、手のひらの、一点に、集めるように。……それでも、僕の手は、ただ、みっともなく、震えているだけだった。
「……おい。まさか」
メルドさんの、眉が、寄る。
その、ただならぬ空気に。近くで訓練していた団員たちも、手を止めて、ざわつき始めた。
「え、嘘だろ。能力、発現しないのか?」
「うわ……マジかよ。能力なしって、初めて見た」
「あーあ。……可哀想に。あれじゃ、長くは、もたねぇな」
「おい、お嬢も、罪なことするよなァ。こんなの、拾ってきてさ。手間かけて助けたって、どうせ——」
「——うるせえぞ」
メルドさんの、低い一喝が、飛んだ。空気が、びりっと、震える。軽口を叩いていた団員は、ばつが悪そうに、口を、つぐんだ。
ひそひそと。けれど、はっきり聞こえる声で、交わされた、憐れみと、侮り。その先を、誰も、口には、しなかった。でも、言わなくても、わかる。
能力なし。
それは、この弱肉強食の世界に、丸腰で、放り出されるってことだ。ただでさえ、底辺のG2で。おまけに、みんなが持っている、たった一つの武器すら。僕には、ない。
(……そう、か)
妙に、静かな気持ちで、僕は、思った。
現世でも、僕は、何者にも、なれなかった。勉強も、運動も、人並み以下。取り柄も、才能も、何ひとつ。……それは、死んで、二度目の人生を、始めても。結局、何も、変わらないんだ。
むしろ、もっと、残酷になって、突きつけられただけ。
膝の上で、握った拳が。かたかたと、震えている。悔しいのか、情けないのか。
自分でも、よく、わからない。ただ、みんなが当たり前に持っているものを、僕だけが、持っていない。
その事実が。ぽっかりと、胸に、穴を、開けていた。
「無能、か」
ぽつりと、こぼれた、自分の声が。やけに、乾いて、聞こえた。
「——おい。誰が、無能だって?」
低い声が、被さる。メルドさんだった。いつのまにか、すぐ隣に、しゃがみ込んでいる。
「能力がなくても、鍛錬で、ランクは、上げられる。地道だが、確実にな。それに——」
ごつ、と。大きな手が、僕の頭に、乱暴に、乗った。
「お前が、どうかは。お前が、これから、決めることだ。他人が、勝手に、決めることじゃ、ねぇ」
その言葉に。どうしてか、ボスの、あの声が、重なった。“全て、自分で決断し、行動すること”。
そして——お嬢の、あの、突き放すような声も。『助けた命を、あなた自身が、次で、あっさり手放すなら』。
……そうだ。ここで、うずくまってたら。あの人の言った通りに、なってしまう。
顔を、上げる。
メルドさんの、ぶっきらぼうな顔が、そこに、あった。呆れているようで。でも、その目は、少しも、僕を、見捨ててなんか、いなかった。
「……はい」
滲んだ汗と。たぶん、少しの、悔し涙を。ぐいと、腕で、拭って。
僕は、もう一度、立ち上がった。
「もう一回。……お願い、します」
「おう。何度でも、来い」
「——ふん。往生際が悪いのは、嫌いじゃない」
いつのまに来たのか、シルビィが、少し離れたところで、腕を組んで、そっぽを向いていた。
「言っとくけど。せっかく、僕が治した体だからな。無駄にしたら、承知しないから」
……たぶん、あれは。あの子なりの、応援なんだと、思う。素直じゃないところが、なんだか、可笑しくて。強張っていた頬が、少しだけ、緩んだ。
震える足に、力を、込める。
能力なんて、なくたって、いい。強く、なると、決めたんだ。あの人みたいに。誰かを、こぼさない、側に。だから、今は、ただ、前に、進むしかない。たとえ、それが。どれだけ、遠い、道のりでも。
——そして、この時の僕は、まだ、知らなかった。
“無能”と蔑まれる、この空っぽの手のひらに。
本当は、どんな力が、眠っているのか。……それが、いつか。この理不尽な世界を、丸ごと、ひっくり返してしまうことを。




