第10話『居場所』
それから、数日。
僕の毎日は単純だった。
朝から晩まで、ひたすら体をいじめ抜く。走って、打ち込んで、転がされて。また、走る。
「腰が、たけぇ。もっと、落とせ。……そうだ。その姿勢なら、次の一歩が、速くなる」
メルドさんの指導は、見た目に反して思ったより、ずっと細かかった。
豪快なわりに、一つ一つ、丁寧に。たぶん、この人は教えるのも、面倒を見るのも。根っから性に合っているんだと思う。
正直、地味だ。派手な能力もない僕に、できることといえば。この愚直な繰り返しだけ。
それでも——ほんの少しずつ、息が上がるまでの時間が延びている、気がする。
(……ランクは、どうだろう)
ふと期待して。拳を握り、念じてみる。手の甲に、浮かんだ文字は。
——〈G2〉。
変わっていない。数日、あれだけ、体を苛め抜いても。ランクは、びくともしない。“数ヶ月で、一つ”。あの言葉の重さを、あらためて思い知る。
それでも落ち込んでいる暇はない。気のせいでもいい。少しでも前に進んでいる。その心もとない実感に、僕はしがみついた。
「……ふん。今日は、避けるのに、ちっと、手間取ったぞ」
不意に、メルドさんが、そうこぼした。
「え?」
「お前の、打ち込みだよ。初日よりは、マシになってる。……ま、あくまで、初日よりは、だがな」
突き放すような、その言い方。でも、僕にはわかった。これは、この人なりの不器用な励ましだ。じわりと、胸があたたかくなる。
「よし、今日は、ここまで。……お前、しつこさだけは、一人前だな」
メルドさんの言葉が。呆れ半分でも、僕には勲章みたいに聞こえた。
「腹、減ったろ。飯、行くぞ」
*
炎獅子の基地には、食堂があった。
長いテーブルが、いくつも並んで。スーツ姿の団員たちが、思い思いに、飯を食っている。奥のカウンターには、湯気を立てる料理が並んでいた。
「ここじゃ、飯も、ちゃんと出る。……まぁ、“味”までは、現世と同じってわけには、いかねぇけどな」
メルドさんが、山盛りのトレイを、どかっと、テーブルに置く。僕も、見よう見まねで、皿を、受け取った。
一口、頬張る。……あたたかい。味は、たしかに、少しぼやけている。でも、へとへとの体に、そのあたたかさが、じんわりと染み込んでいった。
「お、ユウマくん。もう、飯まで、たどり着けたんだ」
通りかかったシュンさんが、にこやかに、隣へ、腰を下ろす。
「メルドのしごき、きつかったろ? この人、ああ見えて、教え魔だから」
「うるせえ。手ぇ抜いて、こいつが早死にしたら、寝覚めが悪ぃだろが」
ぶっきらぼうな、その言い方に。僕は、思わず、笑ってしまった。
「——ちゃんと、食べてるんだろうな」
トレイを持ったシルビィが、じろりと、僕の皿を、覗き込んできた。
「治した体を、ちゃんと動かすには、食うのも訓練のうちだからな。残すなよ」
「シルビィは、ほんと、世話焼きだねえ」
「うるさい、シュン。……べ、別に、こいつの心配なんて、してないっての」
顔を赤くして、そっぽを向くシルビィに。テーブルに小さな笑いが起きる。
食べながら、僕は、ふと、訊いてみた。
「炎獅子って……普段は、どんなことを、してるんですか」
「新人の保護に、見回り。選民派と、やり合うことも、ある」シュンさんが、答える。
「……要は。この世界で、“こぼれそうな命”を、拾って回ってるのさ」
こぼれそうな、命を。拾って、回る。
その言葉に、僕は自分が拾われた時のことを思い出した。
あの青い光が、なかったら。今ごろ僕はここにいない。このあたたかい席にも座れていなかった。
……もらった、命だ。無駄には、できない。
死んで、リミトに落ちて。ずっと張り詰めていた。でもこうして、あたたかい飯を、誰かと囲んでいると。ほんの少しだけ、肩の力が抜けていく。
現世にいた頃は、いつも一人だった。
コンビニの飯を、部屋で一人かき込む。それが当たり前で、寂しいとすら思わなくなっていた。なのに、今は、うるさいくらいの喧騒の真ん中に僕の席がある。
(……変なの)
たった数日で。この、騒がしくて、あたたかい場所が。僕は、少しだけ、好きになり始めていた。
*
けれど、その、和やかな空気は。ふと、耳に入ってきた、団員たちの話し声で。少しだけ翳った。
「なあ、聞いたか。……また、一人、消えたらしいぞ」
「ああ。今月に入って、もう、三人目だ。……全員、入ったばかりの、新人だってよ」
「選民派の、仕業だよなぁ。最近、やけに、狙いが、露骨だ」
新人ばかりが、消えている。
その言葉に、どきりと、する。
……新人。それは、つい先日、この世界に落ちてきた僕みたいな存在のことだ。
「弱くて、狩りやすいからな。連中にとっちゃ恰好の獲物だ。基地の外に、ふらっと出たとこを狙われるのさ」
「おまけに、消えたって騒ぎに、なりにくい。元々、身寄りもない奴がほとんどだ。……嫌なやり口だよ」
「捜索はしてるんだろ?」
「してるさ。だが、リミトは広い。消えた場所すら、わからねぇ。……見つかる頃には、たいてい、手遅れだ」
誰かの、その諦めの滲んだ声が。この世界の残酷さを何より雄弁に、物語っていた。
誰も悪くない。ただ、"弱い"ということが、そのまま、罪になる。……ここは、そういう、世界なのだ。
背筋が冷たくなる。あの金髪の男に襲われた時の、恐怖がまざまざと蘇ってきた。
「……気にすんな」
僕の顔色に気づいたのか、メルドさんが、ぼそりと、言った。
「うちにいる限り、そう簡単には手出しはさせねぇ。……だが、油断はするなよ。この世界は、いつだって、そういう場所だ」
こくり、と頷く。
さっきまでの、あたたかさ。それと背中合わせにある、冷たい現実。この二つが、この場所にはいつも同居しているんだ。
*
食堂を出た廊下で。
ちょうど、任務から戻ってきたらしい、お嬢とすれ違った。
そのスーツの袖口が。うっすらと、赤黒く、汚れているのが、見えた。
返り血だろうか。それでも、その足取りは少しも乱れていない。
ただ、いつもより、ほんの少しだけ。その横顔が疲れて見えた気がした。
「あ、あの……お疲れ、さまです」
思わず、声をかける。
お嬢は、ちらりと僕を見て。何も言わずに、通り過ぎていった。
……やっぱり、遠い。
でも、すれ違いざま、ほんの一瞬。
彼女の纏う空気が、ひどく静かで。まるで、たった一人で、何か重たいものを背負っているみたいに見えた。
「あいつ、ずっと新人狩りを追ってんだよ」
隣で、メルドさんが、ぽつりと、言った。
「一人でも、こぼさないように、ってな。……本当に、不器用な女さ」
その遠ざかっていく背中を見送りながら。
僕は思う。あの人は、たった今も。顔も、名前も知らない、どこかの新人を守るために、その身に血を浴びてきたんだ。
だったら、僕も——。
心の中で、そっと誓う。
早く強くなろう。あの人に守られるだけの新人じゃなくて。
いつか——あの背中の隣に立てるように。
守られるばかりの自分が悔しい。でも、その悔しさこそが今の僕を、前へ押し出す燃料だった。
それが、今の僕にはとって、どれだけ無謀な願いだとしても。




