第11話『倒れる者たち』
異変は、朝から起きていた。
いつものように訓練へ向かおうとした僕の耳に、慌ただしい足音と怒号が飛び込んでくる。
「おい、しっかりしろ! 誰か、シルビィを呼べ!」
廊下のあちこちで、団員がばたばたと倒れていた。白目を剥き、脂汗を浮かべ、揺すっても頬を叩いても反応がない。まるで、糸の切れた人形みたいに。
昨日、食堂で「残すなよ」と笑いかけてくれたあの団員も、廊下の隅でぐったりと倒れている。ほんの数時間前まで、あんなに元気だったのに。
ぞわり、と得体の知れない恐怖が背筋を這い上がった。
何が起きているのか、誰にもわからない。わからないまま、人が倒れていく。その不気味さが、恐怖をいっそう煽った。
*
医務室は、まるで野戦病院みたいになっていた。
「——退けっ。そこ、通して!」
白衣のシルビィが、いつもの憎まれ口も忘れて、次々に運ばれる患者の間を必死に駆け回っている。その小さな背中が、今日ばかりはやけに頼もしく見えた。
僕も、運ばれてきた一人を寝台へ横たえるのを手伝った。ぐったりと重いその体は、それでも、かすかに息をしている。まだ生きている。今はそれだけが、救いだった。
「シルビィ。原因は」
追ってきた僕に、シルビィは鋭く答えた。
「……まだわからない。でも、一つだけ。倒れてるのは全員、F・Gランクの低ランク帯だ」
その言葉に、僕はどきりとする。F・G――この基地でいちばん弱い者たち。そしてG2の僕も、まぎれもなくその一人だ。
「高ランクの奴は、一人も倒れてない。この差は明らかにおかしい」
シルビィの白衣の袖が、ぎゅっと握りしめられた。
「……何かに“やられてる”。それも、低ランクだけを狙って」
低ランクだけ。その言葉が重くのしかかる。もしこれが“誰かの仕業”なら、狙われているのは、ほかでもない、僕たちみたいな弱い者たちなんだ。
*
険しい顔のシュンさんが来た。
「シルビィ。倒れた人と無事な人、何か共通点は」
「今それを洗ってる。手伝え」
僕も加わった。倒れた人と無事な人の名簿を突き合わせ、その日の行動を一つずつ洗い出していく。ランク、担当、起床の時間。最初は共通点なんて見つからないかと思った。倒れた人の属性は、見事にバラバラだったから。
でも、シルビィは諦めなかった。一つ一つ可能性を潰していく、その執念みたいな集中力。やがて、たった一つだけ、くっきりと差が浮かび上がった。
「……今朝、食堂で朝ごはんを食べたかどうか、だ」
倒れた人は全員、今朝、食堂の朝食を口にしていた。無事な人は、食べていない。
「食堂の飯……?」シュンさんの顔が強張る。「まさか」
シルビィが弾かれたように厨房へ走った。残った食材を片っ端から検分し――そして、ぴたりとその手が止まる。
「……毒だ」
絞り出すような声だった。
「食材に毒が混ぜられてる。ごく微量だから、高ランクの頑丈な体ならなんともない。でも、低ランクの免疫の低い体は――これに負ける」
しん、と医務室が静まり返る。
毒。この安全なはずの砦の、あのあたたかい食堂の飯に。僕が“居場所”だと感じたばかりのあの場所に、悪意がそっと混じっていた。胃の奥が、ぎゅっと冷たくなる。
「今は対症療法で抑えてる。命に別状は……たぶん、ない。でも」シルビィが唇を噛んだ。「毒が体の外から入り続けたら、もたない。根っこを断たなきゃ意味がないんだ」
体の外から入り続けたら、もたない。つまり、倒れたあの人たちを本当に助けるには、毒を盛った“元”を止めるしかないということだ。
*
「……ユウマ。お前、平気なのか」
シュンさんが、ふと気づいたように僕を見た。そうだ。G2の僕が、どうして平気なのか。
「あ……僕、今朝は朝ごはん食べてなくて」
寝坊して、訓練に遅れそうで、ばたばたと飛び出してきたから。いつものだらしなさが、今日ばかりは僕を救っていた。
皮肉なものだ。何ひとつ取り柄のない僕が、ただ朝食を抜いた、それだけの理由でこうして立っている。
*
その日の夜、僕は団長室に呼ばれた。部屋にはすでに、メルドさんとシュンさん、それに見慣れない一人がいた。軽装を着崩した、気だるげな目つきの女の人。……誰だろう。
「――状況は、シュンから聞いた」
いつもの豪快さを潜めた低い声で、ボスが言う。
「毒は“食材そのもの”に仕込まれていた。基地の貯蔵庫に入ってからじゃない。もっと手前――食材がこの基地に届くまでの、どこかだ。輸送の経路か、あるいは生産地か。そのどこかで毒は盛られた」
「敵は砦の壁を越えずに、俺たちの“胃袋”を突いてきた。この基地はもう、中にいれば安全とは言えん」
武力じゃない。策で、内側から崩しにきた。相手はただの荒くれ者じゃない――ボスの静かな声の底に、隠しきれない警戒の色が滲んでいた。
「メルド、シュン、それにツグミ。お前たち三人で、食材の輸送経路と生産地を辿り、毒の出所を洗ってこい。倒れた連中の命が、かかってる」
「あいよ」「わかりました」
気だるげな女の人――ツグミさん、というらしい――が、面倒くさそうに、それでも小さく頷いた。
「そして――ユウマ」
ボスの目が、僕を捉える。
「お前も、ついて行け」
「え……ぼ、僕もですか?」
毒の調査なんて、G2の新人の僕に務まるはずがない。戸惑う僕に、ボスは静かに続けた。
「勘違いするな。お前に、毒を解決しろとは言わん。……今この砦は、低ランクを狙われて破られたばかりだ。お前をここに置いておくほうが、よほど危ない。三人の目の届くところで、預かってもらう。それだけだ」
なるほど。僕は“戦力”じゃなく、“守るべき荷物”として、連れて行かれるんだ。情けないけれど、それが今の僕の、正しい立ち位置だった。
「へえ。この子が、噂の“無能”くん」
ツグミさんが、気だるげな目で、僕を上から下まで眺めた。
「まあ、足手まといにならなきゃ、それでいいよ。あたし、荷物運びは嫌いじゃないし」
からかっているのか、慰めているのか。掴みどころのない人だ。でも、その軽い口ぶりが、張り詰めた部屋の空気を、少しだけ緩めてくれた。
「おい、ツグミ。新入りを、あんまりからかってやるな」メルドさんが呆れたように言う。「……こいつは俺が仕込んでる。筋は、悪くねぇんだ」
ぶっきらぼうな、その庇い方が、なんだかくすぐったかった。
「新人を、外に、か」メルドさんが渋い顔で唸る。「……まあいい。俺が目を離さなきゃいい話だ」
「護衛の段取りは、私が組むわ」
ドアの脇の影から、凛とした声がした。
――お嬢だった。
「こういう時に、新人をこぼすのが、いちばん嫌い。ルートも隊列も、すべて私が組む。文句はないわね」
その揺るぎない声に、強張っていた肩の力が、少しだけ抜ける。相変わらず取りつく島もない。でも、その“こぼしたくない”が、今の僕には何より心強かった。
どんな些細なリスクも潰す。ルートも、時間も、人員も、何もかもを彼女がたった一人で緻密に組み上げていく。その完璧すぎる段取りに、僕はただ身を委ねるしかなかった。
その夜、僕はほとんど眠れなかった。倒れて動かない仲間のこと。初めて足を踏み入れる“外”のこと。そして、荷物として運ばれるだけの、無力な自分のこと。天井を見上げたまま、何度も寝返りを打つ。……それでも、と思う。役に立てなくてもいい。せめて、足手まといにだけは、なるまい、と。
こうして、僕の初めての“基地の外”は、この上なく厳重な護衛と、綿密に練られた段取りに守られて始まった。重要な荷物のような扱いで。




