第12話『守られて』
翌朝、まだ空が赤黒く沈んでいる時間に、僕たちは基地を発った。
見送りに来たシルビィが、ぶっきらぼうに言った。
「……無事に帰ってこいよ。せっかく治した体なんだからな」
相変わらずの憎まれ口。でも、その目が少しだけ不安げに揺れていたのを、僕は見逃さなかった。
重い鉄の扉が、鈍い音を立てて開く。一歩、外へ踏み出して――僕は、思わず足を止めた。
初めて、自分の足で立つ、リミトの“外”。永遠の夕暮れみたいな赤黒い空の下に、崩れた街並みがどこまでも広がっている。星も、月もない。乾いた風が、埃と錆の匂いを運んでくる。世界から音だけが、そっと抜き取られてしまったみたいに、静かだった。
時折、遠くの物陰を、影のような人影がよぎっては、目が合う前にすっと消える。ここで息を潜めて生きている、誰か。荒れ果てた、それでも人のいる世界だった。
思わず、振り返る。
――大きい。
いま出てきた基地は、見上げてもてっぺんが霞むほどの、白亜の建物だった。窓は驚くほど少なく、表面は陶器みたいにつるりとしている。崩れ落ちた世界の中で、そこだけ時間が止まっているように、清潔で、無傷で、堂々と聳えていた。壁の高いところには、炎を纏った獅子の紅い紋章。……これが“炎獅子”の名の由来なのか。
こんな途方もないものの中で、僕は守られて眠っていたのか。あらためて、その実感が胸に染みた。
「ぼさっとすんな、坊主。行くぞ」
メルドさんの声に、僕は慌てて隊列へ戻った。
*
お嬢の段取りは、恐ろしいほど綿密だった。
進むルートは三本用意され、当日の朝にどれを使うかが決まる。休憩の位置も、僕を囲む立ち位置まで、すべて彼女の頭の中にある。前をメルドさん、後方をシュンさん、先行するのが探知に長けたツグミさん。その中心に、荷物みたいに、僕。
「これだけ人がいりゃ、そうそうヘマはないさ」ツグミさんが気だるげに言う。「気楽にしてな、無能くん」
からかうような、でもどこか気を軽くしてくれる口ぶり。少しだけ、肩の力が抜けた。
隣を歩くシュンさんも、穏やかに声をかけてくれる。
「無理はしないで。手がかりだけ掴んだら、すぐ戻ればいい。君を無事に連れ帰る。それが今回の、いちばんの目的なんだから」
その優しい言葉に、僕はしっかりと頷いた。
*
食材が運ばれてくる道を、僕たちは逆から辿っていった。
向かう先は、新人狩りが横行する区画とはまるで反対側。荒れた街を抜けるにつれ、崩れたビル群が減り、古い倉庫や錆びた線路のような設備が点々と現れはじめる。
「このあたりが、食料の集積所さ」メルドさんが説明してくれる。「食える場所はリミトじゃ貴重でな。この経路にはどの組織も手を出さねぇ。潰し合ったら共倒れだからよ」
道の脇には、痩せた土に緑を育てる小さな畑もあった。荒廃の底にも、生きるための営みが静かに息づいている。その光景に、僕はなぜだか、少し勇気づけられた。
途中、一度だけ短い休憩を挟んだ。団員たちが携行食をかじる中、少し離れた岩陰で、お嬢は一人、地図を睨んでいた。休む素振りもなく、ただ黙々と、この先の段取りを組み替えている。
「あの人、いつもああなんですか」
小声で尋ねると、メルドさんは肩をすくめた。
「気を抜くってことを、知らねぇのさ。……誰も、こぼしたくねぇんだろうよ。自分がしんどくなるほど、な」
その横顔が、僕にはどこか、痛々しく見えた。
今日の僕は、一人じゃない。あの日、金髪の男に襲われた時とは違う。これだけの人に守られている。もう、大丈夫だ。……そう、信じきっていた。
*
目当ての集積所に着いたのは、昼過ぎだった。
閑散としている。応対した初老の管理者は、炎獅子の名を出すと一瞬だけ顔を強張らせ、それでも記録はあっさりと見せてくれた。妙に、話が早い。すれ違う作業員も、なぜか目を合わせず、そそくさと奥へ消えていく。
その小さな違和感を、僕は深く考えずに流してしまった。……後から思えば、それが最初の兆しだったのに。
お嬢はツグミさんを周囲の偵察に出し、自分は僕たちのそばを離れなかった。伏兵の有無、逃げ道、退路――あらゆる可能性を、彼女は一人で読み続ける。この場の安全はまるごと、彼女ひとりの頭の中にあった。
*
埃をかぶった台帳を、一枚ずつめくっていく。シュンさんが判読を手伝ってくれ、メルドさんはあたりを警戒している。
どれくらい、めくっただろうか。ふと、妙な引っかかりを覚えた。
「……あれ。この日の分だけ、経由してる中継所が、いつもと違う」
毒が混入したと思しき日の荷だけ、普段は通らない中継所を経由していた。僕の指した箇所を、お嬢が覗き込む。その切れ長の目が、すっと細くなった。
「……気づいたのは、悪くない」
素っ気ない。でも、あのお嬢が、口先だけとはいえ僕を認めた。無能で、G2で、能力もない僕でも、こうして役に立てる瞬間があるんだ。じわりと、報われた気持ちになる。
「その中継所の場所は」お嬢が問うと、管理者は震える指で地図の一点を示した。ここから、そう遠くない。
「行くわ。メルド、隊列を組み直して」
手がかりを掴んだ。この糸を辿れば、毒の出所に――。
そう思った、その時だった。
*
ぐらり、と足元が揺れた。
いや、揺れたんじゃない。何かが、下から突き上げてきたのだ。轟音。悲鳴。視界が白く飛ぶ。
「ユウマ――ッ!!」
メルドさんの腕が伸びてくる。でも、届かない。僕とみんなの間に、崩れ落ちた天井が、瓦礫の壁になってのしかかった。
囲みの、外。たった一人、放り出される。
粉塵の向こうに、一瞬だけ、誰かが見えた。静かに、こちらを見ている。逃げ惑う僕を眺めるその眼差しには、焦りも興奮もない。ただ、予定を淡々と確認するような、酷薄な静けさだけが、そこにあった。
――え。
その顔を認識するより早く、首筋に、何かが触れた。
冷たい、と思った。
それだけ、だった。
痛みは、なかった。恐怖すら、間に合わなかった。
体から、すとんと力が抜ける。膝が折れ、頬が地面につく。世界が、やけに静かだ。指の先から、じわじわと熱が引いていく。
……あれ。
なに、これ。
なんで、僕、倒れてるんだろう。立たなきゃ。みんなのところに、戻らなきゃ。そう思うのに、体が、まるで言うことを聞かない。まぶたが、勝手に落ちてくる。
これって、もしかして。死ぬ、の……?
こんな、あっけなく。こんな、なんの実感もないまま。まだ何も、わかっていないのに――。
考えは、最後まで、まとまらなかった。
意識が、するりと、こぼれ落ちた。
*
「――おい、しっかりしろ!誰か、シルビィを呼べ!」
耳をつんざく怒号に、僕は弾かれたように顔を上げた。
心臓が、痛いくらいに脈打っている。全身に、べっとりと汗。荒い息が、うまく整えられない。
……ここは。
見慣れた、基地の廊下。いつものように、訓練へ向かう途中の。その、あちこちで――団員がばたばたと倒れていく。白目を剥き、脂汗を浮かべて。まるで、糸の切れた人形みたいに。
(え……?)
足が、動かない。頭の中が、真っ白になる。
この光景を、僕は知っている。ついさっき――いや、ずっと前に、確かに見た。倒れる仲間たち。飛び交う怒号。この、毒の朝を。
でも、そんなはずはない。だって僕は、つい今しがたまで、あの集積所にいた。爆発に巻き込まれて、首筋に冷たいものが触れて。……死んだ、はずだった。確かに、僕は。
なのに、どうして。どうして僕は今、“すべてが始まった、あの朝”に、立っているんだ。
震える手で、首筋に触れる。傷は、ない。腹にも、どこにも。汗で濡れているだけの、いつもの体だ。
「……なんだ、よ。これ」
理解が、まるで追いつかない。悪い夢を見ているのか。頭が、おかしくなったのか。それとも――。
その先を考えるのが怖くて、僕は、ぎゅっと目を閉じた。
まだ、この時の僕は。自分の身に何が起きたのか、まるでわかっていなかった。ただ、倒れていく仲間たちの光景と、“もう一度、ここに戻ってきてしまった”という名前のつかない怖気だけが、じっとりと胸の底にこびりついて、離れてくれなかった。




