第4話 『スイカと縁側』
暖かい日差しと、時々ふっと通り抜けていく風が気持ちいい。
じりじりと、蝉の声が降っている。この縁側から部屋の中へ吹き込む風が、僕は昔から大好きだった。
(ここは……爺ちゃんの、家?)
夏休みになると、毎年遊びに来ていた祖父の家だ。地方の山あいに古民家を買って、一人でのんびり暮らしていた。畳と、線香と、青い草の匂い。縁側から見える庭には、爺ちゃんが世話をしている朝顔が涼しげに揺れている。
おじいちゃん子だった僕は、爺ちゃんが「田舎で暮らす」と言って家を出ていくとき、泣いて引き留めたっけ。毎年ここで一緒にスイカを食べる、という約束で、しぶしぶ折れたのを、よく覚えている。
「お〜い、優馬や。このスイカ運ぶの、手伝っちょくれ」
「え? あ、うん」
爺ちゃんの家の近くには、綺麗な湧水が出ていた。そこで冷やしたスイカは、他のどこで食べるものより、ずっと甘くて、ずっと冷たい。
包丁を入れると、ぱきっ、と小気味いい音がして、真っ赤な果肉が顔を出す。
「うまいか?」
「うん。うまいよ、爺ちゃん」
「そうじゃろう、そうじゃろう。爺ちゃんが切ったスイカは、うまいんじゃ」
しわくちゃの顔で、爺ちゃんが、くしゃりと笑う。
その笑い方が、記憶の中の爺ちゃんと、寸分違わなくて。
ああ、これは夢なんだと、心のどこかでわかっているのに。それでも僕は、この夢から、覚めたくなかった。
「……また来年も、ここで食べような、優馬」
「……うん。ありがとう」
どうしてだろう。胸の奥が、じんと熱くなって、気づけば頬を、涙が伝っていた。
この時間が、ずっと続けばいいのに。そう思うほどに、なぜか——もう二度と戻れない場所に、僕はいる。そんな寂しさが、胸を、締めつけて——。
「——爺ちゃん……」
*
自分の呟きと、頬を伝う涙の感触で、意識が、浮かび上がった。
夢、か。
九年も前に、いなくなってしまった爺ちゃんが、どうして今ごろ、あんなにはっきりと、夢に出てきたんだろう。まるで、会いに来てくれたみたいに。まるで——お別れを、言いに来たみたいに。
そこまで考えて、僕は、ぶるりと、身を震わせた。縁起でもない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
メトロノームみたいに規則正しい電子音が、どこかで鳴っている。
じわじわと像を結んでいく視界に、クリーム色の天井が映った。仰向けに寝ているらしい。首だけ動かすと、点滴のスタンドや、見たこともない機械が並んでいるのが見える。
(病院……?)
そこまで考えて、記憶が一気に逆流した。
止まった街。金髪の男。腹を貫いた、他人の手。そして、あの青い光——。
「——っ!」
反射的に、腹へ手をやる。恐る恐る、シャツを、めくった。
そこには、真っ白な包帯が丁寧に巻かれているだけだった。血も出ていない。おそるおそる押してみても、鈍い違和感があるくらいで、あの死ぬほどの痛みは、嘘みたいに消えている。
(治って、る……? じゃあ、あれは、夢……いや、違う。あの痛みは、確かに、本物だった)
だとしたら。あの、黒髪の人が——助けてくれたのか。
考えかけて、ぶんと、頭を振る。とにかく、状況を確かめないと。僕は点滴のスタンドを杖代わりにして、ふらつく足で立ち上がった。
部屋にひとつだけある扉に近づくと、それは音もなく、ひとりでに開く。
とりあえず、外に出よう。そう思って、一歩、踏み出したとき。
「おい、お前。まだ歩き回るんじゃねぇ」
低い、けれど、どこか幼さの残る声がした。
え、と、辺りを見回す。左右に伸びる、廊下。でも、声の主が、どこにも、見当たらない。
「……お前、失礼な奴だな。下だ、下」
言われて、目線を、落とす。
そこには、小学生くらいの女の子が、腕を組んで、仁王立ちしていた。
「えっと……小学生?」
その瞬間、女の子の顔が、かっと、赤くなった。
「——なるほどな。もう一回死にかけないとわからねぇって言うなら、そうしてやろうか。てめぇの腹にあいた穴、誰が塞いでやったと思ってんだ。そういう礼儀のなってねぇ奴には、こう——だっ!」
「ちょっ、シルビィ、やめてあげなよ」
伸びてきた小さな手を、横から入ってきた誰かが、やんわり、押さえた。
長身の、男の人だった。優しげな一重の目もとで、柔らかく、微笑んでいる。全身から爽やかさが滲み出ているような、絵に描いたみたいな、好青年だ。
「だってこいつ、僕のこと、小学生って言うんだ!」
「まぁまぁ。シルビィの凄さは、俺たちが、いちばんよく知ってるからさ。な?」
自然な手つきで、彼が、女の子——シルビィ、というらしい——の頭を、撫でる。そのイケメンっぷりに、僕が気圧されている一方で、シルビィは顔を真っ赤にしたまま、涙目で、こちらを睨んできた。
……やっぱり、小学生では?
いや、やめておこう。命の恩人を、これ以上怒らせるのは、得策じゃない。何より、もう一回死にかけるのだけは、まっぴらごめんだ。
「ごめんね、起きたばっかりで、騒がしくて。俺は、シュン。この子は、シルビィ」
「あ、はい……。えっと、助けて、いただいたみたいで……」
「うん。というか、君の傷を治したのは、このシルビィなんだ。見た目は……まぁ、アレだけど、腕は、本物でね。この子がいなかったら、正直、危なかったよ」
“見た目”のところで、シルビィの眉が、ぴくりと吊り上がったのを、僕は見逃さなかった。
「そう、だったんですか。……本当に、ありがとうございます」
素直に頭を下げると、シルビィは「ふんっ」と、そっぽを向いた。それでも、耳の先が、ほんのり赤い。まだ、小学生呼ばわりを、根に持っているらしい。
「治すのに、タイランめちゃくちゃ使ったんだからな。感謝しろよ。……まぁ、せっかく助けてやっても、別のとこで勝手に死なれたら、意味ないけどな」
にっ、と、いたずらっ子みたいに笑って、シルビィは、どこかへ駆けていってしまった。
タイラン。
また、その言葉だ。あの金髪の男も口にしていた。知らない言葉のはずなのに、聞くたび、胸の奥が、ざわつく。まるで、ずっと昔から、その響きを知っていたみたいに。
一人、残された格好になって、僕は、じわじわと、実感していく。
(僕……本当に、死にかけたんだ)
腹の包帯を、そっと、撫でる。こうして今、息をしていることのほうが、なんだか嘘みたいだった。あの冷たさも、痛みも、まだ体のどこかに生々しく残っている。
ふと、あの黒髪の人のことが頭をよぎった。倒れる間際に見た、青い光。
僕を抱え上げてくれた、あの、かすかな体温。あの人が、ここまで運んでくれたんだろうか。せめて、お礼が言いたい。……あの人は、いったい、誰だったんだろう。
訊いてみようか、と口を開きかけて——やめた。まだ、頭の中が、ぐちゃぐちゃで、うまく、言葉にならない。
「さ。混乱してるよね」
シュンさんが、ベッドのほうへ、僕を促す。
「立ちっぱなしも、きついだろ。座って。……君が、ここに来るまでのこと。何が起きたのか、ちゃんと、説明するよ。ちょっと長い話になるけどね」
僕は、素直に、ベッドの端に、腰かけた。
シュンさんの声は、不思議と落ち着く。このわけのわからない状況で、たった一つ、すがれる細い糸みたいだった。
聞きたいことも、確かめたいことも、山ほどある。でも、いざとなると、何から尋ねればいいのかわからない。
そんな僕の様子を見てシュンさんは、ゆっくりと切り出した。
「——まずは。リミトロフについて、かな」




